ジャイロボールに夢見て   作:神田瑞樹

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もしかしたら過去最長かも知れない。



26話

         Ⅰ

 青道の4点リードで迎えた最終回。そのマウンドにはやはり山城空が立っていた。

 この回で少なくとも4点取らなくては試合終了となってしまう薬師の攻撃は一番の福田から。プロで最終回4点差となればある種試合が決まった感があるが、高校野球だと流れさえ掴めればまだ十分に逆転できる射程圏内。それも上位打線からの攻撃となれば追いつく側の応援席は逆転を信じて、逃げ切る側のそれは波乱が起きないことを祈って共に最後の声を振り絞りながら緊張と共に試合を見守るのが普通。

 だというのにどういうわけかスタンドには弛緩した空気が流れていた。

 

―――これで終わりだな。

―――あぁ。7回も轟は山城の前に手も足も出なかったし、例えこの回に打順が回っても青道の勝ちは揺らがないだろ。

―――怪物同士の対決は終わってみれば山城の完勝で青道は順当に勝利。薬師の真田の好投は予想外だったけどまぁ概ね予想通りか。

―――市大に続く盤上狂わせはならず。やっぱ決勝は青道と稲実で決まりか。

―――だな。 

 

 まるでもう試合が終わったかのような会話。だが事実として薬師の一、二番は簡単に山城の前に倒れ、ラストバッターになるかもしれない三番の三島もまた追い込まれていた。

 9回の表、2アウト、カウント1‐2。

 くそっと口汚く言葉を吐き捨てて三島はバットを構えた。

 

……なんでこんなに上手くいかねェンだよ。

 

 三島が山城の姿を直に見るのはこれが初めてではなかった。シニア時代、練習試合という場ではあったが二人は今のように投手と打者に分かれて対戦していた。結果は三島の惨敗。ヒットどころかまともにボールを前に飛ばすことすら出来ず三島はただただ山城空という怪物の前にひれ伏すしかなかった。

 

……ほんとだったらこの試合であの時の借りを返すはずだった。

 

 あれから一体何回バットを振り込んだだろう。どれだけ身体を鍛えただろう。

 雷市の練習方法をまねて重いマスコットバットで素振りをし、その父親である雷蔵に教えを乞いてフォームの改良にも着手した。だから再びこの夏の大会で山城と戦えるとわかった時、三島は恐れなど微塵も抱いてはいなかった。あの時の自分と今の自分は違うのだと。今度は山城にあの時の屈辱を味あわせてやるのだと、そう思っていた。

 

……なのにこの様かよっ!

 

 三打席立って三振が三つ。ボールにバットが当たったことすら二度だけで、後は全て見逃しか空振り。シニアの時を上回る惨状。かつての実力差はこの数年で縮まるどころかより大きなものへと広がっていた。

 それだけでも腹に据えかねているというのに、 

 

……その明らかに手を抜いてますって感じが余計ムカつくんだよっ!

 

 轟に対する時とそれ以外の時で投げ込むボールの差。素人目で見てもはっきとわかるその差は三島の打者としてのプライドを木端微塵に打ち砕いた。

 

―――もしもこの時、三島が内から沸き起こる激情に身を任せていたなら試合は終わっていただろう。馬鹿にするなとただ力のままにバットを振っていたならこの打席で勝負は決していただろう。

 

 けれど違った。ともすれば呑まれそうになる熱をギリギリのところで抑えつけ、三島はネクストに控える最大のライバルへとちらりと視線を送る。

 

……雷市。

 

 自分のプライドを打ち砕いた第一号。いったい何度こいつがいなければ、こいつと出会わなければと思ったかわからない。大海を知らなければいつまでも井の中の蛙でいられたのにと恨んだかわからない。でも、それでも。

 

……お前の実力は認めてるんだよ、雷市。

 

 常に長打を打つことだけを考えていた自分がついつい繋げることを考えてしまう程度には。ふぅーと大きく息を吐き出し、体内に籠った熱を取る。

 幾分かクリアになった脳裏には山城と自分の実力差がはっきりと浮かんでいた。

 

……どうせまともにやっても打てねぇなら―――

 

 試合を終わりにすべく空がその両腕を振りかぶる。

 決して悟られないよういつも通りタイミングをとりながら三島は静かに時を待った。そして怪物の右手からボールが離れる瞬間、三島はバットを横へと寝かしつけた。

 

―――なっ!? 薬師がバントっ!?

―――それもセーフティー!? この状況で!?

―――失敗すればそく試合終了だぞ!?

 

 どよめく外野の中、伸びのあるアウトローへの四シームに三島がバットを合わせる。ボールは寝かされたバットの先にぶつかり緩やかな放物線を描いて宙を舞った。

 

……あれでもまだボールの下かよっ!?

 

 この9回でどんなノビしてんだと顔を歪め、三島は一塁へと走る。小フライトなった打球はサード方向へと飛んでいた。勢いを殺し切れなかったために滞空時間が長くなったバントとしては不完全な打球。けれど滞空時間が長い分、一度地面に落ちればどれだけ早く捕球して一塁に送球しようと間に合わない。つまりこの試合が終了するかどうかはボールが地面に落ちるか否かに任された。

 

「うぬううぅううああ!」

 

 予想外のセーフティーに出だしが遅れた増子だが、それでもボールは未だ地についてはいない。まだ間に合うと増子は懸命に巨体を揺らし左手のグローブを伸ばした。

 

「落ちろよコラー!」

 

 三島の願いが届いたのか。ボールは増子のグローブの先に一度引っかかったものの最後は茶色い地面へと落ちた。

 

「しゃあ!」

 

 ガッツポーズと共に三島は一塁を駆け抜けると、くるりと体を反転させた。今のがヒットになるのかそれともエラー扱いになるのかはわからない。

 理想とする形での出塁では決してなかった。

 けれどそれでもこうして塁に出れたのは紛れもない事実。

 

……後は任せたぞ雷市!

 

        ◇

 

 試合終了の土壇場で何とか首の皮一枚を残した薬師高校だが未だ窮地であることに何ら変わりはなかった。四点という点差、二アウトという一つのミスも許されないアウトカウント。いくら強打が売りの薬師であろうともこの状況から試合をひっくり返すのは余りにも厳しく、ここまで誰一人としてまともなヒットを打ててないことを鑑みれば絶望にも等しかった。

 二アウト一塁という状況で本日四度目となる打席に轟が入る。

 試合が始まるまでは誰もが期待していた若き怪物同士の対決。恐らくはこの試合最後の勝負になるであろうというのにスタンドの反応は随分と冷ややかだった。過去三打席、轟が打席に立つだけでスタンドに沸き起こっていた熱は冷めきり、バットを構えるだけで巻き起こった歓声は最早ない。観客の中には早くも顛末を悟って席を離れる者も多いなど、投と打の怪物のどちらが上だったのかを如実に示していた。

 スタンドにいる誰もが―――いや、それどころか実際にプレイする選手達の殆どさえこのまま波乱なく終わるのだと信じて疑っていないというのに、マウンドで土を慣らす空の顔は険しかった。

 

……流石にすんなりとはいかしてくれないか。

 

 出来ればさっきで終わらせたかったんだけどなと思いつつ、空は対峙する打者へと視線を投げかけた。バットを構える轟はそれまでと違って随分と静かだった。何かにつけて動いていた口は横一文字に固く閉じられ、回を重ねる毎に固くなっていた身体からは余分な力感が抜けている。

 

……トップの位置も歩幅も元に戻ってるしこれは入ったか?

 

 威圧感とでも呼べばいいのだろうか。轟から発せられる見えない何かがアンダーシャツを通り越して肌を焼き、空に警戒を促せる。これまでとは違うのだと、無力でしかなかった獲物は気を緩めれば呑たちまちみ込まれてしまう“敵”になったのだと教えてくれる。

 

……打たれるかもしれない。

 

 対戦する前からそんなことを思うのは随分と久しぶりだなと、空は大きく右腕を回す。この九回までかなり省エネのピッチングをしてきたはずだがそれでも右腕はやや重く、指先の感覚は鈍くなっていた。

 

……点差は四点。

 

 例え一本出てもまだ二点の差があるとは言え、チームの主砲に一発が飛び出せばがらりと薬師のムードが変わる恐れがある。いささかセオリーからは外れるが、純粋に勝ちだけを考えるならばここは轟を歩かせランナーを溜めてでも五番と勝負をするのが最も安全。

 

……でもまぁ。ありえねぇよな。

 

 守備側に圧倒的なアドバンテージのあるこの状況で勝負を避けるというのは自分が轟よりも下だと、青道が轟雷市という打者に屈したのだと認めたも同義。投手としての、そしてチームを背負うエースとしてのプライドにかけてもそんなことを認めるわけにはいかなかった。

 

……絶対に抑える。

 

 疲労の溜まった身体に鞭を打ち二速で留めていたギアを一気にトップへ。頭の中で歯車がカチリと噛み合うと右腕は軽くなり、身体は自ずと臨戦態勢へと移行する。ホームベース後方では空の気持ちを察したらしいクリスがサインを出すことなくミットを構えていた。

 預けられた絶対の信頼に胸を熱くしながらゆっくりと足を引き、両腕を振りかぶる。

 初回と同じランナーがいる状況にもかかわらずのワインドアップに驚きの声が上がる。

 

……小細工はいらない。

 

 下手にコースを狙うのは愚の骨頂。今の轟ならば少しでも球威が落ちればたちまちボールはスタンドへと叩き込むだろう。この勝負は非常に単純だ。山城空のジャイロボールが轟雷市の能力を上回れば前者が勝ち、下回れば後者が勝つ。力対力。

 全身の力を全て指先へと集め、空は右腕を振り下ろした。放たれる白球、唸る豪速球。

 空気抵抗を極限まで減らしたボールは大台である一五〇の壁を優に超え、ミットが構えられた位置へと―――空が最も力を込めることのできるど真ん中へと疾走する。

 

―――決着は一瞬だった。

 

 投じられた白き閃光、それを弾き返した金色の一振り。ハッキリとその攻防を目で追えた者はなく、抜けるような快音によって何が起きたのかをみな理解した。

 角度のついた打球が空の頭を超え、センター方向へと飛翔する。市大戦で見せた弾丸ライナーとは異なった滞空時間の長い綺麗なアーチ。やや深めに守備位置を取っていた伊佐敷が一歩、また一歩と後退する。高々と舞い上がった打球の行方に集まる視線。けれどその中には刹那の攻防を繰り広げた当人達のそれは含まれてはいなかった。

 投手は一度として背後を振り向くことなく己の全力を打ち返した新たな打の怪物を見つめ、打者は一塁へと走り出すことなくマウンドにそびえ立つ投の怪物を見つめる。彼らにはこの勝負の結末が既にわかっていた。わかるがゆえに敗者は面を伏せて涙を零し、勝者は胸元で力強く拳を握った。

 

「俺の勝ちだ。轟」

 

 フェンスに背を付けた伊佐敷のグローブが柔らかい音を鳴らす。しっかりとボールの入ったグローブが高々と掲げられると同時に試合は決した。

 

―――ゲームセット!

 

 主審から告げられた試合終了のコールに空がほっと胸を撫で下ろすと、身体が急に鉛のように重くなる。やばいと感じた時にはもう遅かった。よろよろとバランスを失い前方に倒れ込む空を救ったのは逞しい二の腕だった。 

 

「随分と疲れたようだな」

「クリス先輩……」

「俺もお前もいろいろ反省の多い試合だったが、同時に得る物もまた多かった。いいピッチングをしたな、山城」

「へへ。厄介な敵も作っちゃいましたけどね」 

 

 言うことを聞かない身体をクリスに支えてもらいながら空は首を動かした。未だバッターボックスの中、そこにはチームメイトに声をかけられながらも立ち上がることができずに泣き臥せるこれからのライバルがいた。

 

「あいつ、伸びますよ」

「あぁ。そうだな」

 

 準々決勝第一試合、青道高校4‐0薬師高校。

 青道高校、準決勝進出。

 

 

           Ⅲ

 メディアの宣伝によってにわかに注目を浴びた青道と薬師の対決。4‐0と順当に青道が勝利したことで物足りなさを感じる者も多かったが、裏を返せばそれだけ今年の青道が盤石であるということを示す試合でもあった。勝利した青道を讃える校歌斉唱が始まると徐々に席を立ち始める観客達の中には一般のファンは勿論、どこかで見たことのある様な野球関係者の姿も多かった。改めてこの試合の重要度を感じつつ、市大三高の元野球部主将である大前は数字の埋まったスコアボードに目を細めた。

 

「やはり青道が勝ったな」

「あぁ」

「だな」

 

 同意の言葉を返すのは大前と同じく四回戦の敗退を持って野球部を引退した市大の三年生達。私服に身を包んだ彼らは自分達を破った高校とライバルの試合を観戦するために球場まで足を運んでいた。

 

「総合力で言えば青道に分があるのはわかっていた。ただ薬師が―――というより轟が完全に抑え込まれるのは予想していなかったな」

「んだけ山城が凄かったってことだろ? あんまし言いたくねぇが今日のピッチングはマジで神懸かってやがった」

「三振のオンパレードだったもんな。そういや今日山城が奪った三振の数っていくつだ?」

「20。9回2安打2四球の完封勝利」

「……一年だよな?」

「多分な」

 

 肩を竦めた大前に乾いた笑いが突き刺さる。直接試合で戦った彼らには薬師打線の恐ろしさが嫌というほどわかっていた。エースが途中でマウンドを降りるという緊急事態があったとはいえ、その圧倒的な破壊力の前に市大は涙を零したのだから。

 

「本物―――か」

「まっ。そうじゃなきゃ一年でエースナンバーなんざ背負えねぇだろ。ウチの監督も色々骨を折るぐらい山城が欲しかったらしいし」

「青道に行ったから結局その苦労も無駄になったけどな。で、どこまで行くと思う?」

「それは青道がか? それとも山城がという意味か?」

「んなもん一緒だろうが。エースがこけりゃチームもこける。そして今の青道のエースはあいつだ」

「つまらないことを聞いたな……そうだな。能力で言えば山城は既に全国でも指折り―――いや、今日のピッチングだけで言えば恐らくトップだろう」

「おいおい。成宮や舘達を差し置いてかよ?」

 

 いくら何でもそれはねぇだろと呆れた声が飛んだが、大前は至って真面目だった。

 

「差し置いてだ。少なくとも日本の高校において今日の山城を超える選手はいない」

「ってことは、ヒロは青道が甲子園に行くと?」

「そこまでは言わない。ただ青道が大きなアドバンテージを持っていることに間違いはないと思う。それだけ山城という存在は大きい」

 

 一発勝負の高校野球において試合を任せることの出来る絶対的エースの重要度は極めて高い。勿論エースが全ての試合を投げ切れるわけではない以上控え投手の育成は必要不可欠だが、それでもここ一番で試合を任すことのできる投手がいるかいないかでは勝率に雲泥の差がある。

 

「もっともこれはあくまでも野手として見た俺個人の意見だ。違う視点から見ればまた違うかもしれないがな」

 

 意味ありげにそう言って大前は首を右へと回す。それに倣うように他の二人もまた同じ方向へと首を回した。三人の視線が向かう先、大きなコンクリートの柱の前ではここまで一切会話に参加していなかった市大の元エースが難しい表情で立っていた。

 

「真中、お前はどう思う? 山城と同じ立場だった人間からの意見を聞きたい」 

「……青道がどこまで行けるかは実際にやってみるまでわからない。何が起きるかわからないのが高校野球だからな」

 

 ただと、真中は言葉を置いた。

 

「山城は投手としては確かに成宮より上かも知れないが、チームのエースとしては成宮よりも下だ」

「投手としては上でエースとしては下?」

「なぞなぞかよ」

「どういうことだ真中?」

 

 首を傾げる元野手達。真中は被っていた帽子を被り直すと青道の選手達が並ぶグラウンドを見下ろした。

 

「あいつには――山城にはエースとして足りないものがある。もしも順当に決勝で青道と稲実が戦うことになればその差が勝敗を分けるかもしれない」

「足りないもの……技術的なものではなく精神的なものか?」

「あぁ。山城はエースになって日が浅いからな。とは言っても青道には光一郎――丹波がいる。あいつも気付いている筈だし時期が来れば自然と伝えるだろう」

「ふーん。まっ、俺達が気にしててもしゃあねぇか」

「そうだな。他校のエースを心配してる余裕なんてウチにはねぇし。後輩達には俺らの分まで頑張ってもらわねぇと」

「帰りに学校に寄っていくか? 偶には練習を見てやるのも悪くは―――ん?」

「どうしたんだよ?」

 

 いやと、大前は視線を右上へと向けた。つられるようにして他の三人が顔を向けたのは青道側応援席の上段。通路ゲートに向かうために多くの人間が階段を下る中、どういうわけか流れに反して上へ上へと登っていく後ろ姿に四人は見覚えがあった。

 

「ありゃあ丹波か?」

 

 視線の先では夏制服に身を包んだ学生が急ぎ早に階段を蹴っていた。あの特徴的な後頭部は間違いないと村上が頷く。

 

「大怪我したって聞いてたけど元気そうだな。ベンチに入ってなかったってことはまだ投げれる状態じゃないんだろうが」

「しかしどこに行くつもりだ? あの様子だと最上段まで行きそうだが……」

「トイレじゃねぇってことは休憩じゃねェの? 柱の裏とか影になってて結構涼しいしよ」

「このタイミングでか?」

 

 青道は未だ校歌を歌っている最中。声を張り上げる集団から離れて一人だけ休むというのは中々に勇気がいる行動だ。丹波の行動の意味を理解できずに頭を悩ましていると、依然として丹波に視線を固定したままの真中が口を開いた。

 

「……少し行ってくる。悪いが先に戻ってくれ」

 

         ◇

 

「クっ!」

 

 堪えきれぬ感情を吐き出すかのように丹波は怒気を上げ、スタンド最上段の外延部に張り巡らされた落下防止用の金網を掴んだ。一体どれほどの力を込めたのか。半ば老朽化していた金網は嫌な音を立ててその形を変え、金網が食い込んだ手の平はどうしようもないくらいの痛みを訴えていた。けれどそんな身体の危険信号を無視して丹波はより強く金網を握った。

 

「なんで、なんで俺はあそこにいないっ!?」

 

 今日の試合、本当なら丹波がマウンドにいる筈だった。夢半ばにして敗れた幼馴染の無念を晴らすのは他の誰でもない丹波光一郎の筈だった。けれど実際に青道のマウンドに上がり薬師を圧倒したのは別の人間。

 

「どうして、どうして山城なんだっ!? なんで俺じゃないっ!?」

 

 試合を見るのは苦痛以外の何物でもなかった。自分がいた筈のマウンドで後輩が投げるのも、その後輩が見事に抑えるのも、そして試合後にチームメイトから手厚く祝福されるのも。あらゆることが丹波を息苦しくさせた。もう限界だった。だから窒息する前に一人集団から離れてこんな人気のない場所に来た。ここならどれ程叫ぼうとチームにばれることはないから。

 

「俺と山城で何が違う? なぜあいつがエースナンバーをつけている? なぜあいつが先発としてマウンドに立っている? なぜあいつがクリスに選ばれたっ? なぜあいつだけがこうも恵まれているっ!?」

 

 ガシャリと金網が音を上げ、悲痛な叫びが誰もいない空間に虚しく響く。はぁはぁと息を荒げ、丹波は力なく金網から手を離した。

 

「俺がいる意味は……一体、どこにある?」

 

 エースとして活躍するために幼馴染とも別れて青道に進学しこの三年間を過ごしてきた。辛いことも苦しいことも山ほどあった。逃げ出したくなったのも数知れない。それでも諦めずにやって来れたのは絶対エースになるという明確な目標があったから。ところが最後の夏直前になって怪我をし、エースどころか投げることすら試合に出ることさえ儘ならない有様。そして自分の代わりにエースナンバーを背負いチームを牽引しているのは最も負けたくないと思っていた後輩だった。

 

「エースの座もクリスもチームの信頼も全て山城に奪われた……こんな俺に何の意味があるっていうんだ?」

 

 監督が言っていたように仮に青道が甲子園に出場し、丹波が試合に出られる様になったところでエースナンバーはもう丹波の元には戻ってこないだろう。良くて二番手。いや成長を続ける沢村や川上のことを考えれば三番手、四番手ということさえ考えられる。

 後輩のお零れで甲子園のマウンドに立つ。無様だ、この上なくみっともなく無様な光景だと丹波は吐き捨てた。

 

「もう青道は俺がいなくても回っている。山城さえいれば青道はやっていける……」

 

 それまでとは一転した小さな声で呟くと、丹波は制服の尻ポケットから白い封筒を取り出した。宛名も氏名も何もない。純白の封筒の中心にはただ『退部届』とだけ書かれていた。真剣に己の書いた文字を見つめる丹波。それゆえに近づいてくる足音に彼は気が付かなかった。

 

「光一郎」

「かっちゃん……」

 

 振り返った先にいたのはかねてより信頼を置く幼馴染だった。思いもよらぬ人物の登場に目を見開いて固まっていると、真中は柔らかな表情で久方ぶりの再会を喜んだ。

 

「久しぶりだな。怪我の具合はもういいのか?」

「あ、うん。もう完治したよ」

「ならいい。お前が大怪我したって聞いた時は流石に焦ったぞ?」

「ごめん、心配かけて……」

「別に謝ることじゃないだろ。それで怪我が治ったってことはもう練習に参加しているんだろ? 次の準決勝―――は無理にしても決勝には間に合いそうか?」

「ど、どうだろ。ちょっとわからないかな」

 

 困ったように笑って丹波は言葉を濁した。怪我が完治した割には随分と消極的な返しに真中が眉を潜めると、丹波が「そういえば」と語気を強めた。

 

「ど、どうしてかっちゃんがここに?」

「ん? あぁ。青道と薬師の試合を見に来たんだが偶々お前の姿が見えてな。少し気になって追って来たんだ」

「そう……なんだ」

「ところで何でお前がこんな場所にいるんだ? チームに戻らなくていいのか?」

「それは、その……」

 

 真中からの当たり前の疑問に丹波は言葉を詰まらせた。俯き、あてもなく視線を彷徨わせる幼馴染の姿に真中が違和感を強くしていると、真中は丹波が手にしている物に気が付いた。

 

「右手に持ってるのは何だ? 封筒か?」

「っつ! これはっ!?」

 

 慌てて背中へと手を回すが遅かった。

 真中の目は封筒の中心に書かれた三文字をしっかりと捉えていた。

 

「退部……とどけ? 光一郎、お前どういうつもりだ? まさか部を辞めるつもりか?」

「その……」

「答えろよ光一郎っ!」

 

 怒声と鋭い眼差しに屈したのか、丹波はおずおずと封筒を握りしめた右手を元の位置に戻すと覇気のない顔で小さく首を縦に振った。

 

「うん。部を……辞めようと思ってるんだ」

「っつ!? 何でだ? どうして今になって」

「今だからだよ、かっちゃん」

 

 力なく丹波は笑った。

 その顔には涙こそ浮かんでいなかったがまるで泣いている様に真中には思えた。

 

「俺が青道にいる意味はもうないから」

「なにを……言ってるんだ、光一郎?」

「だから俺がいる意味はもうないんだよ、かっちゃん。青道のエースには山城がいるし、控えの沢村と川上だって成長してる。ほら。故障明けで調整も儘ならない俺が入る隙間はないんだよ」

「お前。本気で……言ってるのか?」

 

 真中は震えていた。これまでに覚えたことのない、内より湧き上がる怒りの業火に包まれて全身を震わせていた。端的に言って限界だった。

 だから、

 

「うん。本気だよ」

 

 そんなふざけた言葉を耳にした瞬間、気が付けば真中は丹波の胸倉を掴み上げその巨体を冷たい金網へと押し付けていた。

 

「かっ、かっちゃん?」

「ざけんなよ光一郎。いる意味がない? 入る隙間がない? お前、それでも三年かよ。それでもチームを背負ってきたエースかよ。それでも甲子園を目指そうっていう高校球児かよっ!?」

「こ、これは俺個人の問題だし、かっちゃんには何の関係も……」

「あぁねぇよ! けどな! 例え直接関係なくなって虫唾が走るんだよ。俺等が届かなかった夢を自分から手放しちまうような馬鹿を見るとなっ!」

 

 高校球児の夢。そんなものは決まってる。

 

「甲子園! どんだけ望んだからって行けるもんじゃねぇ。どんだけ練習したからって必ず行けるものでもねぇ。それでもそこに行くために俺らはこの三年間必死に練習して来たんだろうがっ!」

 

 そしてどれだけ努力しようとも、もう真中には夢を叶えるチャンスはない。

 市大の―――高校球児としての真中の夏は終わったのだから。

 

「最後の夏に俺らは夢を叶えられなかった。監督をもう一度あの舞台へ連れて行けなかった。今でもあの試合を夢に見んだよ。もっと俺がしっかりしてればって後悔すんだよっ! あぁそうだ。もしもやり直せるならやり直してぇよ! 過去に戻って薬師に勝てるなら二番手だろうが補欠だろうがかまわねぇ。チームが勝てるならエースの座を捨ててもいい。それぐらい俺はこの夏に賭けてたんだよっ!」

 

 矢継ぎ早に言葉を吐き出し、真中は青道側の応援席を指差した。

 

「スタンドを見ろっ! 三年最後の夏、出たくとも試合に出れないやつは山ほどいる! 背番号を貰うってことはそんなヤツらの意志を引き継ぐってことだ。試合に勝ち続けるってことは負けたヤツらの意志を引き継ぐってことだ!」

 

 青道は現在ベスト四。その場所にすら辿りつけず涙した高校生は星の数ほどいる。

 

「まだ夢を叶えるチャンスが残ってるっ! なのにお前はその夢を、託された想いを自分から捨てる気か光一郎っ!?」 

「でもかっちゃん。俺に出来ることは本当にもう何も……」

「っつ! まだそんなふざけたことをっ!?」

「事実だよ。俺に任せるより山城に任せた方がチームは強い」

「仮にそうだったとしても! 投げれなくてもチームに貢献する方法はいくらでもあるだろ!」

 

 そう。丹波にはまだ大事な役目が残っている。それは例え監督でも相方の捕手でも決してできないこと。青道でエースだった丹波にしか出来ないこと。

 

「山城にエースの心得を教えるって大事な役目があるだろうがっ!」

 

 己の経験を、エースとしての心構えやあり方を後輩に伝えるということ。自分の培ってきた全てを託すということ。丹波自身そのことには気づいていたのだろう。目を逸らそうとするが真中は許さなかった。正面から目を合わせ、どこにも逃がさなかった。

 

「光一郎。お前だって山城に足りないものがあるのに気付いてんだろ?」

「それは……」

「初戦に比べれば今日の山城は確かにエースらしくなっていた。自分勝手な振る舞いもあったがチームを背負っているっていう自覚があった。一年であれはスゲェと思うよ。チームからも信頼されてんだろう。何せあの轟相手に真っ向勝負を挑んでも守備に就いていた全員が不安な顔一つしていなかったぐらいだからな」

 

 けどなと真中は声を荒げた。

 

「肝心の山城本人がチームメイトを信頼してねぇ! 同じエースっていう立場だったから試合中の視線の動きとか声のかけ方とかで何となく分かるんだよ! あいつが本当に信頼してるのは捕手のクリスだけだってな!」

 

 それは強者ゆえの弊害なのか知れない。一人で試合を支配できるからこそ他人を頼らない。山城にとってはクリスだけが頼れる唯一の仲間であり、それ以外は守るべきチームメイトの一人としか思っていないのだと真中は見抜いていた。

 

「お前しかいないんだよ光一郎! 山城にチームメイトの大切さを本当の意味で教えれるのは元エースであるお前しかっ!」

 

 後輩を教えるのは先輩の役目、義務と言っていい。それはエースだからといって変わるものではない。否、エースだからこそ教えなければならない。最後の最後でエースを育てることが出来るのは同じエースだけなのだから。真中の叫びを聞いても丹波は何も答えなかった。ただただ無言を通す幼馴染に溜息を吐き、真中は両手から力を抜いた。

 

「……お前が山城に対してどんな気持ちを抱いているのかは少しはわかるつもりだ。俺自身、似たような経験があるからな」

「かっちゃん……も?」

「あぁ。去年、山城ほどじゃねぇが俺より才能がある投手がウチに入って来た。まぁそいつは途中でいなくなっちまったからエースナンバーは俺に与えられたけどな」

 

 もしもあいつが薬師との試合の時にいたら勝敗が変わっていたかもしれないと真中は肩を竦めた。

 

「正直いって初めてそいつの球を見た時は焦ったし、妬みもした。けどいつまでもそうやって妬んだ所で現実は変わらねぇ。それにチームにとっては良いことだしな」

 

 負けたくなくて馬鹿みたいに練習して、それと同じくらい後輩に指導したと真中は言う。

 

「先輩としての役目を果たせ光一郎。それが三年の、元エースとしての責任だ」

「元エースとしての……責任」

 

 そうだと頷き、真中はくるりと体の向きを変えてその場から離れていく。

 あっと思わず丹波が声をあげると真中は足を止めた。

 

「山城はエースになってから日が浅い。口でチームメイトを頼れと言った所で理解することは難しいだろう。だがこのまま勝ち進んでいけばいずれ壁にぶち当たる。もしもそういう状況に陥ったら光一郎、お前が山城に声をかけろ」

 

 そう言葉を残し、今度こそ真中は離れていった。

 




真中さんの口調がイマイチ掴めず苦労しました。

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