Ⅰ
……行ったか。
遠ざかっていく後輩の後ろ姿を見送り、クリスはミットを外した左手に目を落とす。
未だ手の平に残る熱い熱。
それを逃がさないとばかりに、ぎゅっと拳を握りしめた。
……成長したな、山城。
最後に空のボールを受けたのは一年前、本格的に受けたとなるとクリスが未だシニアに在籍していた頃にまで遡る。
クリスがシニアに在籍していた頃とは比べ物にならないほど安定し、完成されたフォーム。そしてそこから生み出される球の球威と伸び、制球力が二年という時の流れを実感させた。
……俺が教えられることも余り多くないかもしれんな。
かつての雛鳥はこの二年間で大きく成長し、既に自分の力で大空に飛び立とうとしている。クリスにとってはそれが嬉しくもあり、またどこか寂しくもある。
大空を自由に飛び回るのもそう遠くない。
そのことを確信しつつも、だがせめてそれまではとクリスもまた歩き出す。
ただし向かう先は寮ではなく、バックネット裏。
そこに設置された簡素なプレハブ小屋の取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を開く。
入った室内は薄暗く、天井に設置された三本の蛍光灯はその役目を果たしていなかった。沈みかけた夕日の紅い光だけが室内に差しこむ中に、その人はいた。
「……あれが山城空か」
暗い室内の中でもサングラスを付けた強面の男性―――青道高校野球部監督―――片岡鉄心がプレハブ小屋の窓から見えるマウンドを見つめながら、声だけをクリスに投げかけた。はいとクリスは返事を返し、鉄心と同じく先程まで空のいたマウンドへと視線を注いだ。
「あいつが俺の“希望”です」
「希望……か。ボールを受けてどう思った?」
「球速、コントロール、球威……それら全てが投手として非常に高いレベルで纏まっています。克服するべき課題はありますが、それでもボールの特異性を考えればあいつを打てる打者は全国でもそうはいないかと」
「お前がそれほどの評価を下すか……」
「はい。少なくとも一度や二度の打席で攻略できるような球ではありません」
確信を持ったクリスの言葉に鉄心は何も言わなかった。
二分ほどの沈黙。
そしてクリスがプレハブに入ってから初めて、鉄心はマウンドから視線を外しクリスへと向き直った。気配でそれを察し、クリスもまた鉄心へと体を向けた。
「……それはつまり、夏の大会で使えるということか?」
サングラスの奥に潜む鋭い眼光がきらりと光った。
堅気とは思えない、普通ならばまず萎縮してしまうであろう圧力を受けてもクリスの顔色には小揺らぎほどの変化もなかった。
「はい。間違いなく」
「そうか……ご苦労だったなクリス。もう戻っていい」
そう言って、ぐるりと片岡が再びマウンドへと椅子の方向を戻す。
それは「もう戻っていい」ということのサインであったが、いつまで経ってもクリスは動かなかった。
「どうした? 何かあるのか?」
「……一つ聞いてもいいでしょうか?」
「何だ?」
「どうしてあいつを投げさせたんですか?」
そう。今回、本来使用禁止になっている筈のAグラウンドを開放し、整備されたマウンドで投げさせるよう指示を出したのは誰でもない、片岡鉄心その人だった。
Ⅱ
およそ一時間半ほど前。
日が段々と落ち始め空が薄らと暗がりを帯び始めたころ。
二階へと続く階段の傍で、自販機で買ったコーヒー片手にクリスは一人静かに物思いにふけっていた。
頭に浮かぶのは自身の肩の状態。
去年の夏前、無理が祟って右肩を壊してから十か月余り。
一時期は選手生命すらも危ぶまれた大怪我は順調な回復を見せ、今や完治まで後一歩という所にまで迫っていた。
……完治まで後三週間弱。四月の終わりには治る。問題はその後か……。
肩を壊していた間もトレーニングを続けていたとはいえ、それはあくまでも怪我の再発を防ぐ筋力トレーニングが中心。インナーマッスルと体幹を鍛え、強靭な筋肉の鎧を身に纏うことで怪我のしにくい肉体を構築する。
父親の指導の下行われたそれは見事実を結び、クリスは結果として一年前よりも強靭な肉体を手に入れることができた。
しかしその一方で、クリスはこの十か月ボールを用いた本格的な練習は殆どしてこなかった。勿論そのことが怪我の早期回復に繋がっているのだから、その判断は決して間違いではない。
だがやはり、どうしても不安という悪魔が少年の心に付きまとう。
……怪我が治ってから夏の大会まではおよそ二か月。
例年通りであれば、夏大会に参加する(背番号を貰う)二十人が正式に決定するのは大会の一月ほど前。
つまりは怪我が治ってから一月の間にブランクを取り戻して結果を出し、監督に認められなければ高校生活最後となる夏の大会に出ることは叶わないということになる。
クリスの中にあるキャッチャーとしての合理的な思考が不可能だと囁く。
そう普通ならば不可能。
実際、これまで何度も諦めかけた時はあった。
けれど。
――――「先輩は俺の憧れなんです」
――――「絶対中学でNO1のピッチャーになって青道に入ります。そして俺がクリス先輩を甲子園に連れて行きます」
――――「だから諦めないでください。俺から憧れを奪わないでください!!」
そんな時、決まって一年前の公園での記憶が蘇る。
絶望し諦めかけていた自分を立ち直らせた、後輩との約束。
……不安がっている暇はないか。
クリスはふっと小さく口元に笑みを浮かべ、冷めたコーヒーを飲み干す。
空になった空き缶をゴミ箱に放り入れ、そろそろ自室に戻ろうかと階段の手すりに手を伸ばした時。
……あれは。
青心寮の入り口にそびえるアーチの奥。
重そうな荷物を持ったままグラウンドへと続く道を歩いていく一つの人影がクリスの目に入った。遠巻きながらも見覚えのあるシルエット。
噂をすれば影かなどと思いつつ、クリスはおよそ一年ぶりとなる後輩―――山城空の姿に目を細めた。
……荷物も置かずにグラウンドを見に行くか。相変わらずだな。
中学の時と変わらぬ行動がクリスに懐かしさの念を抱かせた。
だが懐かしがってばかりもいられない。
普段ならばともかく、今日は新たに入寮する新入生を歓迎する日。
荷物の整理や同室となる先輩達と交流を深める意味でも、出来る限り部屋にいた方が何かと都合がいい。
呼び戻しに行くかと、クリスが足を踏み出しかけた時だった。
「今グラウンドに向かうやつが見えたが、誰だ?」
「監督……」
カンカンと音を鳴らしながら、青道高校野球部監督片岡鉄心が金属の階段を下りてくる。
既に練習は終わっているため、その恰好はユニフォームではなく黒のポロシャツに灰色のパンツというラフな格好。
薄暗くなっているにもかかわらず、サングラスをかけたままの目がクリスへと向いた。
「今日は新入生歓迎のために寮にいろと2、3年には通達した筈だが?」
「……新入生です。今から連れ戻しに行こうと思っていました」
「ふん。今日来たばかりのやつが寮に入る前にグラウンドに向かうか」
「これから練習するグラウンドの様子を早く見たかったのでしょう。あいつ―――山城は昔からそうでした」
「山城? 例のお前の後輩か?」
「はい」
クリスの返事に片岡はぴくりと眉を動かし、考える様に右手を髭の生えた顎へとあてる。
これは山城を迎えに行った方がいいのかそれとも監督の言葉を待つべきなのか。
クリスが判断しかねていると、片岡の目がクリスの右肩へと向いた。
「……肩の調子はどうだ?」
「肩……ですか? 順調に回復しています。医師からももう九割方治っていると」
「……それはつまり、キャッチボールぐらいなら問題ないということか?」
「はい。遠投はともかく、近い距離であれば」
しかしなぜ今そんなことを聞くのだろう。
純粋な疑問をクリスが浮かべていると、考えが纏まったのか片岡が「よし」と呟く。
「クリス。今すぐ練習着に着替え、ミットを持って山城を追え」
「練習着にミットですか?」
「そうだ。Aグラウンドの使用を許可する。山城をマウンドに上げてボールを受けろ」
「マウンドに……」
「噂される実力を見ておきたい。頼めるな?」
監督の言葉を断れるはずもなければまた断る理由もなかった。
こくりと頷き、クリスは準備を整えるために自室へと急いだ。
一つの疑問を胸に抱きながら。
Ⅲ
「いくら中学で実績があるとはいえ、まだ正式に入部も終わっていない新入生一人のためにわざわざグラウンドを開放するとは……」
「意外か?」
「……正直に言えば」
片岡鉄心の育成方針は良くも悪くも全体主義。
部員一人一人を大事にし真摯に向き合うが、それは言い換えれば誰も特別扱いしないということ。勿論、実力のある選手に対しては学年を問わずチャンスを与え、結果を出せば当然それに見合うだけの待遇が与えられる。
だがまだ練習にも参加していない新入生に対してここまで露骨にというのをクリスは見たことがなかった。
「丹波が故障中の今、戦力なり得る投手の確認は急務だ。正式な入部がまだであろうと、使えそうならば早急に確認しておく必要がある」
確かに現在青道のエースたる丹波光一郎は肩を痛めてチームから離脱中。
幸い大きな怪我ではないために復帰は早いが、夏の本番までにどこまで調子を上げれるかは不明瞭。
また二番手候補筆頭の川上に関しても、ある程度安定こそしているもののエースとしてチームを引っ張っていけるかと言われれば正直疑問符が付く。
チームの投手事情を考えれば、中学NO1投手と称された空を片岡が早く見たいと思うのは至極妥当。
しかしそれでもどこか違和感が残るクリスに、片岡は「それにだ」と言葉を続けた。
「なによりもクリス。お前が見出した投手の球をこの目で見ておきたかった」
「っつ!」
驚きで目を見張るクリスに、片岡は口元に小さな弧を浮かべた。
「昨年。肩を壊したお前を立ち直らせた小僧の球だ。それを早く見ておきたいと思うのはおかしいか?」
「……いいえ。何もおかしくありません」
「そうか」
クリスは無言で一礼し、プレハブ小屋を後にした。
心の中の違和感は既に消えていた。