ジャイロボールに夢見て   作:神田瑞樹

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28話

         Ⅰ

 第89回全日本高校野球選手権西東京大会。

 全国でも屈指の激戦区の一つとして目されていたトーナメントを勝ち抜き、来る決勝にまで駒を進めたのは二つの野球名門校だった。一つは、百戦錬磨の経験と実績を誇る職業監督、国友広重が率いる昨年の覇者稲城実業。もう一つは、かつて甲子園を沸かせた『鉄心』片岡鉄心が率いる青道高校。

 西東京トップ3と言われる名門同士のぶつかり合い。

奇しくも昨年の準決勝と同じ組み合わせということで、決勝前からメディア各社はこぞって両校を煽るような謳い文句を並べ立てていた。

 

―――昨年の屈辱を晴らせるか青道!? 

―――宣戦布告! 成宮鳴『頂点取ります!』

―――下克上だ! 青道の黄金バッテリーが王者を狙い撃つ!

―――国友監督、スーパールーキーへの秘策あり!?

―――メジャーも動いていた! 両校エースの周囲に複数のスカウトの影!!

―――球界の盟主、禁じ手の囲い込みかっ!?

 

 一般の新聞からスポーツ紙、果てはゴシップを専門に取り扱う週刊誌まで。

 真偽問わず、玉石入り混じった記事が乱れ飛んでは読者の目を引き、試合の注目度を高めていた。そして決勝前日となる7月30日、多くのギャラリーを集めた青道高校野球部専用グラウンドでは最後の練習が行われていた。

 

―――オラァアアア!

―――行ったぞ、セカン!

―――ナイプレー!

―――バックホーム!

 

 試合直前だからと言って特別な練習は何もない。普段のメニューをこなす中で選手達は声を張り上げ、一つ一つのプレイを確認するように手と足を動かす。

 あと一勝、あと一回勝てば甲子園。

 言葉にはせずとも思いは皆同じ。

 そしてそんな青道が甲子園に行くための大きなカギを握るであろう若きエースは、監督である片岡と副部長の高島、更には無数の報道陣に見つめられながら最後の調整を行っていた。絶え間なくシャッター音の嵐がブルペンに響き渡る中、エースの右腕が振るわれミットを鳴らす。ナイスボールの声と共に投げ返されたボールを掴み、山城空はまた投球動作へと入った。

 

「どうやら山城君の状態はいいみたいですね」

「あぁ」

 

 安心したような高島の呟きに片岡が同意した。

 二人の目の前で投球練習を行う空は先程からピシャリとクリスがミットを構えた位置にボールを投げ込み、その状態の良さをアピールしている。

 

「やはり昨日の試合での休養は大きかったですね。中一日と中三日では疲労の抜け方に大きな違いがありますし」

「準決勝では沢村と川上が良く投げてくれたからな。決勝前にあの二人に経験を積ませられたのはチームとしても大きい」

「仰る通りかと。ただそれでもやはり決勝ではリリーフを使わずに勝つことが理想だとは思いますが」

 

 高島は眼鏡の奥の目をすっと細めた。

 

「相手が成宮君である以上、いくらウチの打線でもそう多くの点数は望めません。もちろんビッグイニングの期待はしていますが、昨日の投球内容を見る限りいささか現実的ではないかと。となればやはり重要なのは」

 

「……山城のできか」

「はい。あの薬師戦の後から山城君のボールは以前にも増して速く、鋭くなっています。既に高校生のレベルを大きく超えていますし、稲実打線でも山城君から点を取るのは厳しいかと。彼が最後まで投げ切ってくれるのがウチの最も勝率の高い形だと思っています」

 

 まだエースになって間もない一年生にチームの運命を託す。信頼していると言えば聞こえはいいが、裏を返せばその才能に丸投げしているともいえる。

 そのことに高島も思わないことがないわけではなかったが、現状においては山城の完投こそが青道の理想に間違いはなかった。

 

「不安があるとすればやはりスタミナ。薬師戦でも100球に近くづくにつれてコントロールと球威を乱していましたし、いかに山城君に楽な展開を序盤に作ってあげられるかが明日の試合を左右する重要なポイントの一つになるかもしれませんね」

「……今になって戦い方を変えることは出来ん。やるべきことは既にやった。後は選手達を信じるだけだ」

 

            ◇

 

 ふむ、という声が監督室に漏れた。

 とんとんと指先が肘置きを叩き、鋭い眼差しが壁際のテレビへと向けられる。

 資金が豊富な私立の名門らしく巨大な液晶モニターに映っているのはとある試合の録画映像。マウンドに立つ少年が躍動感溢れるフォームで右腕を振り、白球がバットをすり抜けてミットを揺らす。これまで幾度となく見返した映像の放映が終わると、国友は対面の席に座る部長の村田に指示を出した。

 

「4回の表、轟の打席からもう一度だ」

「はい」

 

 最早慣れきった動作とばかりに村田はリモコンを操作し、3倍速で画面の映像を巻き戻す。本日だけで既に8度目となるシーンが画面に再生されると、国友は再び険しい視線を注いだ。時刻はまもなく23時。こんな時間まで入念にビデオチェックするのは珍しいなと、村田は監督の行動をいささか意外に思った。

 

「やはり気になりますか? 山城が?」

 

 国友は答えなかった。

 ただじっと山城が映る画面を見つめ、しばらくしてから口を開いた。

 

「明日の青道との試合、分はどちらにあると見る?」

「珍しいですね。国友監督がそんなことを聞かれるとは」

 

 事実意外だった。村田が国友と関わるようになってから決して短くない時間が過ぎているが、試合前に結果の予想を尋ねられたのは初めてかもしれなかった。

 そうですなと村田は考え込み、

 

「今年のウチはタレントぞろい。原田や成宮といった投打の柱もいますし6:4でウチが有利なのでは?」

「ふむ」

「監督はどうお考えで?」

「6:4だ」

「おぉ! 監督もやはりそう思って―――」

「6:4でウチが不利だ」

「なっ!?」

 

 夜分に相応しくない驚愕の声が村田から零れた。

 いくつかのスポーツ番組や新聞を読んでも決勝の戦評予想は大方が稲実有利、もしくは5分5分というもの。にもかかわらず稲実の劣勢予想、それもそれを述べたのがチームを率いる監督であることに村田は驚きを隠せなかった。

 

「く、国友監督。それはいくらなんでも気弱すぎるのではありませんかっ!?」

「冷静に判断した結果だ。春の段階では6:4でウチが有利だったが、今はやや分が悪い」

「……そこまで山城の存在は大きいということですかな?」

「正確に言えば山城とクリスの“バッテリー”がだ」

 

 淡々とそう言って、国友は画面を見た。

 

「かねてより青道のウィークポイントは投手陣、試合を任せられるエースの不在にあった。それが山城の加入により埋まり、クリスの復帰によって守備と打線に更なる厚みが増した。ベンチの差を考えても総合力的にはウチが不利だろう」

「むぅ。となれば明日はかなりタフな試合になりますな」

「あぁ。恐らくは最後まで一点を争う展開が続くはずだ。訪れるチャンスの数もそう多くは望めまい。だが」

 

 ネガティブな発言をするにもかかわらず国友の顔に諦めの色はなかった。

 勝機が薄いなら、いかにしてその薄い勝機を引き寄せるかを考える。

それが監督の役目であり、それを成してきたからこそ国友は今この場所にいるのだ。

 

「青道にも不安要素がないわけではない。崩すべきは終盤、山城をマウンドから引きずり下ろす」

 

 

 

           Ⅱ

 星を見ようと思った。

 これまでの努力が報われるか否かの決着がつく決勝前夜。もうじき日付が変わろうかという時刻にもかかわらず、クリスは寮を離れAグラウンドの外野の向こうに広がる土手に来ていた。ふかふかの芝生に腰を下ろし、天を見上げる。かつて徳島で見た星の絨毯に比べれば随分と劣るものの、東京の夜空にも星は煌めいていた。

 

……あと半日もすれば決勝か。

 

 そしてその3時間後には全ての結果が出ている。引退か、それとも甲子園か。

 学校からは試合に備えて早めに就寝するようにとの達しが出ていたが、あまり眠る気にはなれなかった。しばらく静かにクリスが星を眺めていると、その隣に腰を下ろす人物があった。視線を上に向けたまま、クリスはその後輩の名を呼んだ。

 

「眠れないのか、山城」

「えぇ、まぁ」

 

 そう言って、山城空はごろんと芝生に寝転んだ。

 彼の目もまた夜空へと向いていた。

 

「明日は気温が高くなる。ちゃんと寝なければ身体がもたないぞ?」

「それはクリス先輩もじゃないっすか」

「ふっ。そうだな」

 

 そこで会話が途切れた。

 そして少しの間を開け、今度は空が先に口を開いた。

 

「負けたっすね、国士舘」

「あぁ。だが大方の予想を裏切って東東京のベスト4だ。昨年までと比べれば大躍進と言って差し支えない結果だろう」

「でも財前先輩は絶対納得してないっすよね?」

「財前だからな」

「うわ。すげぇ説得力」

 

 空は小さく笑ったが、それ以上言葉を続けることはなかった。

クリスもまた、何も発さなかった。

 再び会話が途切れ、奇妙な間がポッカリと空く。明らかにいつもとは異なるギコチナイ空気。そのままどれだけの時間が経ったのか。

 どこか困ったようにクリスが空を見ると、空もまた顔をクリスへと向けていた。互いを見合う形になったバッテリーはキョトンと目を丸くし、苦笑気味に笑い合う。

 ギコチなかった空気はもう、どこかへと消えていた。

 

「こうして二人で星を見ているとあの時のことを思い出すな」

「クリス先輩もっすか? 俺もです」

 

 そうして二人は夜空を見上げた。

 一年前のあの日もまた、こうして二人は星を眺めていた。

 

       ◇

 

 1年前の7月末。その日、いつものように病院で診察を受けたクリスは、すぐには寮に戻らなかった。ぶらりぶらりとあてもなく街を彷徨いながら時間を潰し、結果行き着いた先は青道高校からほど近い小さな市民公園のベンチ。

 既に世間は夏休みに突入していたが、夜分遅い時刻ということで公園にはクリス以外の人影はなかった。ふぅと重苦しい息を吐き出し、クリスはそっと自分の右肩に触れた。

 かつて強肩、剛腕と持て囃されたその腕は今や真っ白なギブスによって固められ、ボールは愚かそこらに転がっている小石一つさえ満足に投げられやしない。こうなることを知りつつも無理を続けた自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れながら、クリスは昼間のことを思い出していた。

 

……マネージャーか。

 

 夏の準決勝で稲実に敗北し、結城をキャプテンとした新体制に移行してから1週間。同級生達が気合を入れてグラウンドで汗を流す中、冷房の効いたプレハブで監督から告げられたのはマネージャーへ転向してはどうかという提案であった。

 

……覚悟はしていたんだがな。

 

 だがいざこうして言われてみると、やはり少なからず想う所はあった。

肩甲下筋断裂および上腕回内筋断裂。

それがクリスの負った怪我の名称だった。

 

……完治まであと10か月。完治はどれだけ早くても来年の春以降か。

 

 プロ野球選手であった父親が昔から贔屓にしていた医師の診断である以上、およそ期間に間違いはないだろう。学生スポーツにおける長期間のブランクが半ば致命的であることを考えれば、監督の提案は至極真っ当であった。

 

……返事は先でいいと監督は言っていたが、チームが新体制に移行したばかりなことを思えば余り悠長にはしてられないな。

 

 例え選手としてチームに残りたいと言っても、監督はクリスの意思を尊重するだろう。しかしプレーできない人間がチームに残った所で意味はない。むしろ気を使わせる分だけマイナスと言える。また気がかりであった捕手の後任については、御幸という一年ながらに優秀な選手がいる。

 クリスが選手としてチームに残る必要性は、どこにもない。

 

「ふっ」

 

 クリスは皮肉気に笑った。いくら天才だ、世代NO1捕手だと持て囃されようと所詮はこんなもの。帰ったら監督にマネージャーに転向することを伝えよう。クリスがそう決意した時だった、ギィッと甲高い自転車のブレーキ音が聞こえたのは。

 いったいなんだとクリスは顔を上げ、目を見開いた。

 公園の入り口、真っ白な街灯の光を浴びてそこにいたのは、

 

「はぁはぁ。ようやく見つけましたよ、クリス先輩!」

「山……城?」

 

 シニア時代の後輩、山城空。ここにいるはずの無い人物の登場にクリスがただただ驚き固まっていると、空は乗っていた自転車をその場に投げ捨て公園の中へと入ってくる。

 一体どれだけの時間ペダルを漕いでいたのか。空の着ていたTシャツはぐったりと濡れ、その呼吸は酷く荒々しかった。

 

「お久しぶりです、クリス先輩」

「……あ、あぁ。久しぶりだな、山城」

「隣、座ってもいいですか?」

「あぁ」

 

 失礼しますと、空はクリスと同じベンチに腰を下ろす。それからしばらく、空は何も言葉を発さなかった。クリスも聞きたいことは山ほどあったが、いざ口にしようとすると何故か躊躇われた。久方ぶりの再会だというのに、気まずい空気が二人の間に流れる。

 

「……星、綺麗っすね」

 

 ぽつりと、天を見上げて空が呟いた。

 それがこの沈黙をどうにかしようとする空なりの努力であることが、クリスにはわかった。だから後輩と同じようにクリスもまた、東京の夜空を見上げた。

 

「そうだな。お前に星を愛でる感性があるとは意外だったが」

「うわっ。ひでぇっすよクリス先輩」

「昔徳島で合宿をしたとき、星を見ないでひたすら虫捕りに精を出していたのを俺は覚えているが?」

 

 指摘すると、空は誤魔化すように笑った。

 こんなやり取りも久しぶりだなとクリスは目を細め、本題へと入った。

 

「どうしてここに来た? 偶然ではないんだろ?」

「扇監督からクリス先輩が怪我してるって聞いて。その、いてもたってもいられなくなって……」

「ふぅ。黙っておいて欲しいと言っていたんだが」

 

 だがまぁ、一か月隠し通せただけでも僥倖だったのかもしれない。諦めたようにクリスは右肩を抑え、そっと目を伏せた。

 

「お前にはあまり見せたくなかったんだがな。あれだけ体調管理について口うるさく言っていながら、俺がこの様だ」

「……治るん、ですよね?」

「あぁ。幸い選手生命が断たれるほどじゃない。キチンと治療を行えば完治する見込みだ」

「それはよかっ―――」

「だが、俺の高校野球はもう終わりだ」

 

 えっと固まる後輩に、クリスは自分の決断を言うことにした。もしかしたら聞いてほしかったのかもしれない。決意が鈍ってしまわぬように。

 

「今日の昼間、監督からマネージャーに転向しないかという話が合った。迷ったが、俺はそれを受けるつもりだ」

「なっ、何で!? クリス先輩、さっき怪我は完治するって言ってたじゃないですか!?」

「あぁ、確かに選手生命に関わる怪我ではなかった。だが完治するまでに後10か月。これでは春の選抜は勿論、最後の夏大も間に合うか怪しい。長期間のブランクを抱えた人間がすぐに活躍できるほど、高校野球は甘くないからな」

「で、でも別に選手を辞める必要なんてないじゃないですか! 怪我自体は来年の春には治るんですよね? クリス先輩ならちょっとのブランクなんて!」

「……そうだな。奇跡的に上手く事が運べばもしかしたらギリギリ最後の大会には間に合うのかもしれない」

「だったら!」

「だがな山城。俺はもう、何としてでも復帰しようとは思えないんだ」

 

 学生スポーツにおける長期間のブランクの一体何が恐ろしいか。技術的、体力的なことは勿論だが、実の所モチベーションを保てないということが一番のネックになる。

 怪我を治したところで自分の居場所などないのではないか、以前のように試合で活躍などできないのではないか。活躍していた選手であればあるほど思い悩み、復帰への意欲を失い、最悪の場合には競技そのものから離れてしまう。片岡がクリスにマネージャーへの転向を打診したのも、そういった背景が少なからずあってのことだった。

 

「チームには俺の代わりとなる優秀なキャッチャーがいる。俺が無理してまで選手に復帰する理由はどこにもない。だから俺の高校野球は今日で終わりだ」

「そんな……」

「わざわざ会いに来てくれたのにすまなかったな。俺のことなど忘れて、お前は自分の野球に集中しろ」

 

 そうして、クリスは腰を上げた。空からは何も返事が返ってこなかった。

 もしかしたら失望されたのかもしれない。だがそれでいいとクリスは思った。今の自分に尊敬される価値などないのだから。かつての後輩に背を向け、出口に向かって足を踏み出そうとする―――正にその時だった。

 

「クリス先輩」

 

 己を呼ぶ声に、クリスは出しかけていた右足を止めた。振り返ってはいけないと、クリスは思った。ここで振り返れば決心が鈍ってしまう、そんな不思議な予感があった。

 けれど、

 

「クリス先輩」

 

 もう一度、クリスの名が繰り返される。

 震えた声だ。

 悲しむような声だ。

 怒っているような声だ。

 様々な感情が入り混じった声だ。

 そして、初めて聞く声だ。

 今の空がただならぬ状態にあるのはすぐにわかった。そしてそんな後輩を放っておけるほど、滝川・クリス・優という少年は冷血ではなかった。

 ゆえに振り返る。振り返ってしまった。

 

「山城っ!?」

「……一球」

「っつ!?」

 

 ぞくりとした。何に―――というより、何もかもに。

 聞いたことのないような平坦な声、無表情という名の表情が乗った顔。初めて目の当たりにする後輩の未知なる一面にクリスは息を呑んだ。

 

「山……し…ろ…」

「一球だけ、俺の球を受けてください」

 

 その願いを、クリスは断ることができなかった。

 

 

 

 一球だけの投球は、電灯に囲まれて比較的明るい公園の中央で行うことにした。メジャーがないために大よその感覚でマウンドとホームベースの位置を決め、軽く線を引く。レシニアの練習帰りであった空は投げ捨てていた自転車カゴの中に入っていたスパイクに履き替えると、肩を解しながら土の盛られていない平らな地面をならしていく。一方、ホームベース後方に立ったクリスは空から借りた予備のグローブを左手に嵌め、その感触を確かめていた。

 

……形は悪くない。

 

 とは言え自分のモノではないから違和感が先行するし、何よりもこれは幅の広く肉厚なキャッチャーミットではなく、あくまでも外野手用。レガースといった防具もない以上、キッチリとポケットで捕球しなければ怪我をする可能性があった。

 

……普通に考えれば止めるべき、なんだがな。

 

 怪我をした右肩に直接負担をかけるわけではないとはいえ、クリスは一切の練習を禁じられている重症人。空にしてもまともに肩を作っていない状態であり、その上足場は滑りやすく不安定。リスクマネジメントで考えれば、今すぐにでも中止すべきだろう。

 だがそれでもクリスは腰を下ろし、グローブを構えた。

 それに合わせて空がすっと左足を後方へと引き、身体を捻る。かつてクリスが指導したダブルスピン投法。全身をフルに使ったボールが空間を切り裂き、クリスのグローブへと飛び込んだ。

パンッと乾いた音が公園に鳴り響く。

グローブを通した衝撃が右肩を鈍く痛ませたが、そんな些細なことは頭にはなかった。目を見開き、クリスは自分の左手に収まった白球を見つめた。

 

「今のボールは……」

「……3か月です」

 

 はっと、クリスは顔を上げた。

 投球を終えた空がゆっくりと歩を進めながら、ぽつりぽつりと呟く。それは決して大きな声ではないというのに、不思議なくらいクリスの耳にハッキリと届いた。

 

「今バッテリーを組んでいる後輩が俺のボールを捕れるようになるまでに3カ月。全日本で組んだキャッチャーも、結局最後まで俺の全力を捕ることはできませんでした」

 

 腰を下ろしたまま固まるクリスの前で、空は膝を折った。

 涙に濡れた顔がクリスの目の前にはあった。

 

「先輩だけなんです。俺のボールをあんな簡単に捕れるキャッチャーは。俺の全力を引き出してくれるキャッチャーはあなただけなんです、クリス先輩!」

「……」

「復帰する理由がないっていうんなら俺が理由になります。俺が先輩を必要としています。それじゃだめ…ですか?」

「……やましろ」

「辞め……ないで…ください」

「や…ま……」

「クリ…ス先輩は俺の憧れ……なんです。だから諦めないでください。俺から憧れを、夢を奪わないでください!!」

 

 そうして空は崩れ落ちるように地面へと顔を伏せた。

 夜虫の声に交じって嗚咽の音が夜の公園に木霊する。クリスはもう言葉を発せなかった。

 何も言えず、ただただ固まることしかできないでいた。 

 

……俺…は…。

 

 マネージャーに転向すると決めた筈だった。

選手でいる理由がないから。チームに自分がいる必要がないから。

だが今はどうだ?

 目の前には心の底から自分を必要だと言ってくれる後輩がいる。

 こんな自分のために涙を流してくれる後輩がいる。

 そして何より、

 

……俺自身が、一番傍で山城の成長を見届けたいと思ってしまっている。

 

 まだ左手に残る熱。それがクリスの眠っていた捕手としての本能を呼び覚ましていた。

 そっと瞼を閉じ、そして開く。世界はもう変わっていた。

 

「顔を上げろ、山城」

「……はい」

 

 のっそりと空が顔を上げる。

 真っ赤に充血した目をクリスは真っ直ぐに見つめた。

 

「正直言って俺はもう選手としての自分を諦めていた。チームに必要とされていないんだと勝手に思い込み、卑屈になっていた」

「はい」

「だがお前は俺が必要なんだな? こんな俺でも必要としてくれるんだな?」

「はい。俺にはクリス先輩が必要なんです」

 

 その揺るぎない返答にクリスは覚悟を決めた。

 辛い道を進む覚悟を。

 

「わかった。なら俺は選手としての復帰を諦めない」

「クリス……先輩」

「必ず、試合でお前のボールを受けてやる」

「クリス先輩!」

 

 涙に濡れた顔のまま、空はクリスの胸元へと飛び込んだ。

 

「俺、絶対中学でNO1のピッチャーになって青道に入ります! そしてクリス先輩を甲子園に連れて行きます!! だから、だからっ!」

「あぁ。待っている」

 

 優しい微笑を浮かべて、クリスは空の背中をそっと撫でた。

 夜空には二人を見守るように無数の星々が光り輝いていた。

 

        ◇

 

「あと、一つです」

 

 気合いに満ちた空の言葉にクリスは頷いた。

 あと一つ、あと一つ勝てば甲子園。

 明日の決勝で戦う稲城実業は間違いないこれまでで最強の相手だろう。

 だが負けるわけにはいかない。

 

「あの時の約束を明日果たします。絶対、俺がクリス先輩を甲子園に連れて行ってみせます」

「あまり一人で気負いすぎるなよ山城。お前の前には俺がいる」

「はい。勝ちましょう。クリス先輩」

「あぁ。勝つぞ、山城」

 




お待たせしました。最新話です。

これで残すは決勝のみなんですけど……かなり難航しています。正直、批判覚悟でここで打ち切った方が作品としては綺麗に纏まりそうな気がしてるんですが、まぁ頑張ってみます。

次の更新がいつになるかはわかりませんが、気長にお待ちください。



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