ジャイロボールに夢見て   作:神田瑞樹

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30話

       Ⅰ

 甲子園出場の切符をかけた大一番。青道と稲実による西東京予選の決勝は見ている者に息を突かせぬ投手戦となった。稲実の絶対的エースがストレートと変化球を織り交ぜた多彩なピッチングで青道の強力打線を翻弄すれば、青道の黄金ルーキーは力で稲実を捻じ伏せる。正に両者の持ち味が存分に発揮されたエース同士の投げ合い。

 未だ点数に動きのないまま試合は終盤へと差し掛かっていた。

 7回の表、この回の先頭バッターであるクリスが第一打席に続いて出塁したのを確認すると、空は応援の声を張り上げるチームメイトの間を抜けて静かにベンチ裏へと下がった。プロも使用する球場だけ神宮のベンチ裏スペースはそれまでの都営球場に比べて随分と広かったが、経費削減のためなのか設置されている冷房設備や照明設備は動いていなかった。薄暗く蒸し暑い無人の空間の中で空はユニフォームのボタンを外し、ぐっしょりと汗で濡れたアンダーシャツを脱ぎ捨て新しいものへと取り換える。

 

……あちぃ。

 

 これでアンダーシャツを取り換えたのはこの試合三度目と、いつもに比べて回数が多かった。それは単純に気温が暑いということもあったが何より、

 

……流石は去年の優勝校。楽に投げさせてくれないな。

 

 個人で見れば稲実には轟のような図抜けた打者はいない。けれどこと打線という観点から見れば、稲実打線は個人の能力差が大きかった薬師のそれよりも一段も二段も上。一番~九番までずらりと油断できない巧打者が並び、その一人一人が何とか空を攻略しようと一丸となって向かってくる。バットを短く持って打席の後方に立つのは勿論、ミートしやすいタイカップ型バットの使用や投球リズムを狂わす間の取り方、揺さぶり。例え自分が打てなくても後の打者のために少しでも球数を投げさせる。好投手を崩すための基本ではあるが、稲実ほどのタレントが揃ったチームにやられると投げている空としてはたまったものではない。

 

……でもまぁ、ここまでは悪くない。

 

 粘られているのと球審の判定が厳しいせいで空にしては珍しく四球を多く出しているが、それでも6回終了時までまだまともなヒットは一本も打たれていなかった。記録上許した二本のヒットもボテボテの内野安打と、中途半端な位置に落ちたポテンヒット。

稲実打線の特徴を把握したクリスのリードと空がいつも以上に神経を使って投げているだけあって、打順が二巡しても稲実打線は空のボールを捉えきれてはいない。特に粘る打者に対して投げた全力の四シームには今の所、稲実バッターの誰一人としてバットに掠りすらしていなかった。

 その圧倒的な精神的アドバンテージが球数の嵩む空の疲労を押し留めていた。

 

……流石にそろそろ点は欲しいよな。

 

 一点、一点あればいいと空は思った。

 最小リードさえあれば最後まで守り切って見せる。しかし相手はあの成宮、早々にチャンスが巡ってくる投手ではない。

 だからこそ、この終盤に先頭バッターのクリスが出塁している意味は大きい。ノーアウトランナー一塁、最悪ツーアウトになってもいいから得点圏にさえ回してくれれば自分が決めてやる。そんな決意を宿してベンチに戻った空が目にしたのは、バントを失敗し俯きながらベンチへと戻って来る門田の姿だった。

 思わずつきそうになる溜息を呑みこみ、空はヘルメットを被ってネクストサークルに向かった。送ることが出来なかったためアウトカウントが一つ増えて一アウトランナー一塁、打席に入るのはここまで全くタイミングの合っていない八番白洲。

 せめてゲッツーだけは避けてくれと空は祈ったが、その祈りは届かなかった。追い込まれ厳しいコースのスライダーを打たされてショートゴロ。あぁという青道側応援席からため息が漏れる中、稲実は軽やかに6‐4‐3とボールを回しダブルプレイ。

 青道はこの試合初めてのノーアウトのランナーを活かす所か、二塁にさえ進めることが出来なかった。およそ想定していた最悪の展開にベンチに戻った空は今度こそ溜息をついた。

 

……やっぱこの試合は俺とクリス先輩でどうにかしなきゃダメだな。

 

 チームメイトがあてにならない以上、自分とクリスで何とかしなければならない。そうしなければ試合には勝てない。自分が頑張らなければ、クリスを甲子園に連れて行くことはできない。そう確信し、パンと頬を叩いて空が気持ち新たにマウンドへと向かおうとしたその時だった。

 

「丹波先輩?」

 

 行く手を遮るように空の前に現れたのは、青道の元エース丹波光一郎。未だ試合に出ることを許されていない最上級生はいつにも増して険しい顔で空の顔を見た。

 

「えっと……」

 

 どことなく苦手としている相手の登場に空は戸惑ったが、丹波は何も言わなかった。以後心地の悪い時間がきっかりと5秒。それからようやく、丹波は口を開いた。

 

「……しんどいか、山城?」

「えっ? いや、まだ行けますけど……」

「ならいい」

 

 それだけ言うと、丹波は自分席へと戻っていく。一体なんだったのか。

 首を捻りながら、空はマウンドへと向かった。

 

          ◇

 

「あ~。もう! なんなのあの審判!」

 

 先頭打者を出しながらも後続をキッチリと打ち取り、結果7回の青道の攻撃を三人で終わらせた成宮。ここまでランナーを出しつつも要所要所をキッチリと締めることで得点を渡さないそのピッチングは全国区の名に恥じないものであったが、どうも本人的には納得がいっていないらしかった。苛立ち気にスパイクを鳴らし、後輩が手渡してきたスポーツドリンクを一気に喉へと流し込む。

 ぶはぁと豪快に息を吐き出し、成宮は隣に座る相方の原田へと不満をぶちまけた。

 

「ねぇ雅さん! あの審判どう思う! なんか回を追うごとにストライクゾーンが小さくなっていってる気がするんだけど!?」

「騒ぐな鳴。万一聞かれたら印象が悪くなる」

「あんなヘボ審判からの印象が悪くなったって別にいいけどね! ったくさぁ! せっかくの決勝なんだからもっとまともな審判に判定してほしかったよ!」

 

 声を荒げ、「お代りっ」と多田野に空になった紙コップを突きだす成宮。元々我が儘で王様気質な成宮だが、点を取られていないのにこうまで荒れるのは中々に珍しかった。

 だが声を荒げたくなる成宮の気持ちも原田にはよくわかった。何せ一番近くで判定を聞く原田自身が、可能ならば主審に抗議を申し入れたいぐらいだったのだから。

 

「初回はまだ普通だったんだがな」

「4回からでしょ? あの審判がストライクゾーン狭くしだしたの。ったく、いくら打者が打てなそうだからって勝手に弄るなっての」

 

 試合展開によって審判がストライクゾーンを変えるというのは、実の所高校野球ではままあったりする。打者が打てていないようなら若干ゾーンを狭くして打ちやすくしたり、逆に投手が打ち込まれているならゾーンを広くして打ち取りやすくしたり。

 それは全ての選手に悔いを残さないで欲しいという審判なりの配慮なのだろうが、今日のそれはいささか度が過ぎていた。

 

「際どいとこは全部ボールで、ストライクゾーンはいつもより一回り小さいとか。俺と山城じゃなかったら今頃自滅して試合になってないよ?」

「お前らじゃなきゃあそこまでゾーンを狭くはしなかっただろうがな。しかし本当にタフな試合になってきたな。鳴、体力はまだいけるな?」

「当たり前でしょ。あんな嫌がらせには負けないっての!」

 

 べーと審判に向けて舌を出す成宮。既に球数は100球を超えているというのに元気一杯な後輩の姿に原田はやれやれと首を振り、静かに拳を振り下ろした。

 

「った!?」

「審判に喧嘩を売るな。それより見ろ」

 

 原田が促す先にいるのはここまで成宮と互角、いやそれ以上の投球を見せる青道のルーキーエース。この回も先頭の山岡を三振に仕留めてはいるが、

 

「へ~。少しボールが荒れてきたね」

「あぁ。さすがにキツクなってきたみだいだな」

 

 ボールの球威こそまだ落ちていないものの、序盤に見せた細かなコントロールは失われつつある。だがそれも当然と言えば当然。何せ山城はここまで稲実打線と狭いストライクゾーンと言う二つの敵に対峙しながら投球を続けてきたのだ。むしろ1年生にもかかわらずここまで持っていること事態が異常とさえ言えた。

 にやりと、成宮はその口元に弧を描く。

 

「さぁて。いったいどこまでそのピッチングが続くかな」

 

 そしてそのマウンドの重みに気が付くのは一体いつになるのか。至極楽しそうな顔で成宮は年下のライバルのピッチングを見下ろした。

 

 

           Ⅱ

……暑い

 

 止まることなく額から垂れる汗を拭う。暑いのは決して嫌いではない空だが、それにしたって限度がある。いったい今何度あるんだよと内心でぼやき、ロージンを塗した指でボールを握る。セットポジションからチラリと一塁を見れば、そこにはこの試合4つめの四球で出したランナーの姿があった。データではそれなりに足の速いとされる稲実のセカンドはやや大きめにリードをとり、ぶらぶらと身体を揺らして今にも走らんとばかりにタイミングを計っている。

 

……さっきから塁上でちょろちょろと。

 

 クリスから矢のような牽制を受けたばかりだというのに一向に大人する気配がない。これならばいっそスタートを切ってくれた方が投げている空としては楽なのだが、ランナーはスタートの構えこそするものの球この三球、一度としてスタートを切っていない。

いや恐らく実際に走る気はないのだろうと空は思った。

 何せホームベースを守護するキャッチャーのクリスは強肩を通り越した鬼肩。少々空のクイックが遅くとも十分にランナーを刺せるだけの肩がある。今大会1、2の俊足を誇るカルロスならともかく、それ以外のランナーでは余程完璧にタイミングを盗まない限り二塁を陥れるのは難しいというのは誰の目から見ても明らか。

 にもかかわらず挑発的なリードをとり続けるのは、

 

……俺の投球を乱すためか。

 

 どれだけランナーが走らないとわかっていても、一塁でうろちょろするランナーがいれば投手としてはどうしても気にしてしまうもの。

本当に面倒くさい相手だと空は一旦落ち着くために今の状況を口にしてみることにした。

 

「7回の裏、1アウトランナー一塁。カウントは1‐2」

 

 そして打席に入るのは稲実のレフトを守る梵。層の厚い稲実でレギュラーを張っているだけあって良いスイングをするが、普通に投げていればまず問題ないというのはこれまでの2打席でわかっていた。むしろ問題はと、空はセットから五球目を投じる。

 終盤になっても未だ衰えない四シームジャイロが外角へと向かうが、流石に序盤とは違い狙ったコースにドンピシャというわけにはいかずやや外へと逸れた。

 しかしそれでもいつも空が脳内でイメージしているストライクゾーンをボールは通過し、クリスの茶色いミットへと納まる。いつもならばこれで見逃し三振の完成だが、

 

―――ボール

 

 本日何度聞いたかわからないその判定に空はハッキリと顔を顰めた。青道スタンドの一部から主審の判定に対する不満の声が上がったが、一度下した判定を審判が覆すわけもなく。カウントは2‐2の平行へと戻った。

 落ち着けというクリスの言葉に頷きながら、空は投げ返されたボールを受け取る。

 

……ほんと慣れねぇな。

 

 4回から急に狭くなり始めたストライクゾーン。

 これまで様々な審判に出会ってきたが、それでもこうも極端に投手に辛い審判にあたったのは初めてだった。普段は審判に対して不平を漏らさない空も、こうも己の中のストライクゾーンと食い違えばフラストレーションも溜まるというもの。

 唯一幸いなのは、この審判は空と成宮の平等に厳しいということ。もしも空だけに厳しいようならば今頃審判の顔面めがけて全力の真っ直ぐを投じていたことだろう。

 

……ここまで小さいゾーンの中でやり繰りしてきたけど、やっぱ厳しくなってきたな。

 

 徐々にではあるがコントロールが甘くなってきている。いつもならまだ問題ない程度だが、制限されたゾーンで勝負するにはやや厳しい。

 

……真ん中に投げてもあんまし打たれる気はしないけど。

 

 試合の展開が展開だ。下位打線とは言え、ある程度目が慣れたであろう三巡目。ランナーがいる状況で安易に真ん中へストライクを取りに行くのはリスクが高い。

かといってコースは狙いにくく、二シームやチェンジアップも決まらない可能性がある。ならばどうするか。

 簡単だ、絶対に掠りもしない球をど真ん中に投げ込んでやればいい。

 

「ふぅ」

 

 ギアを入れ替える。三速で留めていたギアを一気にトップへ。

やや重くなった体に鞭を打ち、全身の力を乗せた渾身の一球を空は投じた。

 元より四隅など狙えない剛速球がほぼほぼ真ん中へと疾走する。この日最速の真っ直ぐはバットの振るわれる遥か前にホームベースを通過し、乾いた音を球場に響かせた。

 

―――ットライク! バッターアウト!

 

 新たに灯る赤いランプ、湧き上がる歓声。

 再び額から流れてくる汗を拭い、ぼんやりと靄のかかる頭で空は思った。

 早くベンチに戻りたいと。

 

          ◇ 

 

 7回を終わっても尚続く投手戦。ずらりとスコアボードに並ぶ0の連なりは観ている者に緊張と興奮を、プレーする選手に圧迫と重圧を強いていた。

 8回の表、ここまで空と共に稲実打線を抑え続けているクリスはベンチに戻るなりプロテクターを外し大きく息をついた。それは先の7回をキッチリと切り抜けたことへの安堵であり、また自分の中に溜まった硬さを解すためのものでもあった。

 

……緊張、しているな。

 

 クリスは今自分が感じているモノをそう分析する。本来捕手はチームで最も冷静でなければならないのだが、いくら頭が切れると言ってもクリスはまだ学生。初めて味わう甲子園をかけての一戦、それも胃がキリキリするような接戦に緊張しないわけがなかった。

 

……ここまで山城の球数は97球。

 

 1回平均14球前後と考えれば悪くない数字だが、山城にしては随分と多い。特に未だヒット2本しか打たれていないことを思えば多すぎると言ってもいいかもしれない。

 球数が増える原因は稲実打線の粘りもそうだが、やはり最大の原因は何と言ってもあの狭いストライクゾーンにある。いつものようにゾーンを広く使えないから打者はコースを絞りやすくなり、余計な四球も増える。恐らくは成宮のボールを受ける原田も頭を悩ませているだろう。バッテリー泣かせの審判にクリスはついつい溜息をつきたくなった。

 

……80球を過ぎたあたりから徐々に細かな制球が定まらなくなってきている。幸いまだ球威は衰えていないが、一体どこまで持つか。

 

いつでも交代できるよう既に沢村と川上は投球練習を始めている。二人の実力をクリスは信頼していたが、できることなら頼りたくないというのが正直な所だった。

 

……決勝と言う大舞台、一点を争う試合の終盤、そして制限されたストライクゾーン。

 

 同じ一点を争う試合展開だった明川戦の時とは、打線の強さも条件もかかるプレッシャーもすべてが違う。リリーフとしてこの上なく難しいマウンドに経験の浅い二人を送り出して、山城が下がって勢いづく稲実打線を抑えて来いと言うのは無茶を通り越して無謀の類。どう考えても現実的ではない。

 

……青道の勝利のためには山城に何としても最後まで投げ切って貰う必要がある。

 

 この8回表の攻撃はその山城から打順が始まる。いつもならその打力に期待するところだが、状況が状況。打順がトップに戻るということもあるし、ここはアウト一つを献上してでも体力を温存し投球に備えるべき

……そのことは当然山城もわかって―――― 

 

キィイイン

 

 目が覚めるような快音にクリスは思考の海から抜け出しハッと顔を上げた。飛び込んできたのはつんざくような無数の歓声とレフトへと転がる打球、そして全力でダイヤモンドを疾走する空の姿だった。

 

……山城!

 

 

              Ⅲ

 クリスの考えることは勿論空とてわかっていた。自分の重要性も、そしてここで倒れておく必要性も。だから初めは打席に入っても打つ気はなかった。バットを構えたまま三振に終わり後の打者に託すつもりだった。けれど2ストライクと追い込まれた時、ふと空の脳裏にある疑念が浮かんだ。

 

―――本当に託していいのかと。

 

 ここで自分が倒れてはまた無得点に終わるのではないかと。空は自分の体力が残り少なくなっていることを自覚していた。延長になれば間違いなく成宮に分がある。だからこそ9回で試合を終わらせなければならない。

 

―――気が付けばバットを出していた。

 

 恐らく稲実バッテリーも打って来るとは思っていなかったのだろう。成宮にしては随分と素直にストライクを取りに来たストレートに対して空は思いっきりバットを振りぬいた。

 

「んなっ!?」

 

 驚愕の声と共に成宮が振り向くがもう遅い。既に打球は三塁手のグラブをすり抜けレフト線へと転がっている。空はレフトの捕球体制が悪いことを確認すると、一塁コーチャーの止まれという指示を無視してそのままセカンドへと走った。

 

『セーフ!』

 

 セカンドのタッチよりも早く空の足がベースに届いた。塁上ではぁはぁと呼吸を荒げながら、空はベンチで難しい顔をしているクリスに心の中で謝罪した。

 

……すいません、クリス先輩。

 

 尊敬する先輩の意図に背くのは心苦しかったがそれでも結果的にはノーアウトランナー2塁という終盤に沸いた絶好機。こうなればランナーが投手だろうが関係ない。多少無理をしてでも青道は点数を取りにいかなければならなくなった。

 打席に入るのはここまでヒットのないトップバッター、倉持。右打席に入った青道のリードオフマンは早々にバントの構えをとった。

 

……サインは送りバント。

 

じりじりっと空がいつもより一歩大きいリードをとるとマウンドから矢のような牽制球が飛んできた。然程上手い牽制ではなかったが帰還はギリギリ。ふぅと塁上で息を零しつつも、空はリードを狭めるつもりはなかった。

 

……成宮さんはフィールディングが上手い。

 

 おまけに三塁に投げやすい左投手。ファーストがかなり前に出てきていることを合わせればタッチプレーとは言え、余程上手いバントでなければセーフになるのは厳しい。そしてそんな上手いバントをさせるほど成宮鳴は甘くない。

 だからこそ、空は安全マージンを殆ど残さない限界ギリギリのリードをとった。塁間の距離を短くして少しでもバントの成功率を上げるために。

 

……これで多少でもピッチングに影響が出てくれればいいんだけどな。

 

 しかしそんな投手ならここまで青道打線を0で抑えられている筈もなく。空に打たれた時とはまるで異なる厳しいボールが倉持に襲い掛かる。胸元へと食い込むキレのいいスライダー。これまで苦しんできた変化球に倉持はバットを合わしきれずボールを打ち上げた。

 あぁという悲鳴は青道の応援席から。幸いにも上がった打球は捕手が掴むよりも早く地面に落下したことでアウトカウントが増えることはなかったが、今の一球はどちらに分があるのかを知るには十分すぎた。

 

……あの感じじゃコースを狙うどころか、バントをすること自体が難しいか。

 

 続く二球目と三球目は良いコースだったものの厳しいゾーンの中には入っておらずボール判定。これでカウント上では2‐1と打者有利。行くならここだと空は思った。

 セットポジションから成宮が右足を前へと踏み出し左腕を振るう。チラリと見えたボールを握る指の形を認識した瞬間、空はスタートを切った。

 

「スチール!!」

 

 ショートの白川が声をまさかと驚きの声を上げたが、空としては何も盗塁を狙っているわけではなかった。いくらリードを大きく取っていたとはいえ、空のスタートはスチールを狙うには余りにも遅い。ゆえに狙いは意表を突いた三盗などではなく、

 

……ストレートなら!

 

 ややのけぞりながらも倉持はインハイへのストレートにバットを合わせた。打球は死にきらず転がった場所もほぼほぼ投手の正面とおよそ最悪のバントだったが、成宮が捕った瞬間にはもう空は三塁に到達しようとしていた。

 

「っつ!?」

「鳴! ファースト!」

「わかってるよ!」

 

 成宮は三塁に投げることを諦め一塁へと送る。8回の表、1アウト三塁。

青道にとってはまたとないチャンス、稲実にとってはこれ以上ないピンチの場面で稲実の内野陣はマウンドへと集まった。その間空はギャンブルスタートによって手に入れた三塁ベースの上で荒くなった呼吸を戻しながら、半ば苦笑気味にベンチを仰いだ。

 

……監督、怒ってるよな。

 

 そして恐らくはクリスも。何せ一歩間違えば一気にチャンスを潰しかねなかった身勝手なプレーだ、怒らない方がおかしい。それでも空はこうしなければならなかった。

 

……説教なら後でいくらでも受けます。

 

 だから今はと守る人間のいなくなったホームベースを見つめる。

 一点。

 この勝負を決めるための一点。それがどうしても欲しかった。

          

 




後少し、9月中には完結させたいなー。

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