Ⅰ
球場の空気は一変していた。
それまで球場を包みこんでいた青道ファンによる血気盛んな応援の声は鳴りを潜め、代わって稲実ファンによる大合唱が地鳴りのように鳴り響く。たった1プレイで見事なまでにくっきりと分かれた明と暗。
つくづく野球とは恐ろしいものだと、峰は改めてその怖さを思い知される気分だった。
「追い込まれてから粘りを見せ、失投を一球で仕留めた。さすがは稲実の4番だな」
「この2点は大きいですね」
峰と大和田、月間『野球王国』記者コンビが揃って見つめるのは一気に優勢が入れ替わったスコアボード。8回の裏、稲実は主砲原田によって遂にあの山城を打ち崩し、待望の得点、それも2点という逆転を果たした。峰は後輩の言葉に同意すると、扇子でを開き汗が垂れる顔を仰いだ。
「青道の残す攻撃は9回の表のみ。この終盤に来ての逆転は精神的にも青道にとってダメージが大きい。それにまだ稲実の攻撃は終わっていない」
「2アウトランナー二塁。8回までの山城君でしたら問題なく抑えてきましたが今は……」
「あぁ。厳しいだろうな」
そういって、峰は視線をグラウンドへと落とす。小高いマウンドの上ではこの回二度目となる円が作られていた。ただ先のそれと今のとでは傍から見ていても明らかに空気が違うのがわかる。その最たる証が、円の中心にいながらも顔を上げられずにいるエースだった。
「ここまで山城君もよく投げてきたがやはり限界だったな」
「これは稲実打線の粘り勝ちということでしょうか?」
「そうみて問題ないだろう。稲実は打てないながらも審判の狭いゾーンを上手く利用することで球数を稼ぎ、山城君のウィークポイントであるスタミナを的確に削っていった。この辺りは百戦錬磨の国広監督らしい作戦だな」
「耐球作戦……明川と同じですね!」
「あぁ。ただ明川と違うのは稲実にはそれをこなせるだけのタレントが揃っていたということだ。耐球作戦は好投手に対する基本戦術だが、稲実ほどの強豪校が行えばその効果は何倍にもなるからな」
また成宮という山城と互角に渡り合えるエースの存在も大きい。ロースコアな展開で進めば進むほど投手にかかるプレッシャーは大きくなるのだから。そういう意味では稲実だからこそとれた作戦だとも言える。
「山城君……やはりここで交代でしょうか?」
「おそらくな。いくらなんでもこれ以上は引っ張れないだろう」
山城を見に来た観客には残念だろうが、ここで代えなければ一気に点差が開きかねない。2‐1という現状でさえ青道には厳しいのだ。2点、3点と差が広がれば青道の勝機は限りなく小さいものとなる。
「そのことは当然青道の片岡監督もわかっているはず。得点圏にランナーを背負っているが2アウトだ。リリーフにかかるプレッシャーは大きいだろうがここは何とか踏ん張って次の攻撃に―――」
「えっ、でも峰さん。青道ベンチから伝令が出てきましたよ?」
「なに?」
後輩にならって視線をずらせば、青道ベンチから飛び出してきた選手は確かにマウンドにこそ向かっているもののグローブをはめていない。伝令を出すということはつまり続投を意味する。馬鹿なと、峰は片岡の正気を疑った。この場面、誰から見ても山城の限界は明らか。続投など冷静に考えればあり得るはずがない。
「それに伝令を託されているのは―――」
意外な人物の登場に峰は目を見開いた。
◇
「……すみません」
聞こえるか聞こえないかわからない、消えるようなか細い声で空は謝罪の言葉を述べて黙り込んだ。いや、それ以上何か話す気力すらないのかもしれない。稲実に逆転された後、マウンドに集まった青道の内野陣と共にクリスが見たのは虚ろな瞳で力なく項垂れるエースの姿。青道の中で最も付き合いの長いクリスでさえ、こうまで打ちのめされた空を見るのは初めてだった。
「山城……」
名前を呼ぶも、空はピクリとも反応しなかった。クリスは何か言おうと再度口を動かしかけたが、結局何も言うことはできなかった。
慰めも、叱責も、激励も、同情も。
今自分が何か言えばきっと山城は本当に立ち直れなくなる。それがわかってしまうからこそ、クリスは口を閉ざすしかなかった。
……俺のミスだ。
空が重圧を感じていることはわかっていた。
いや、わかっていたつもりだった。
……もっと早く気が付くべきだった。
空が一人で全てを背負いこんでしまっていることに。こうして今にも崩れ落ちそうなほど精神的に追い詰められていたことに、もっと早く気付くべきだった。
見抜くための材料なら目の前にいくらでも転がっていた。いつもよりも荒々しい投球、回を経るごとに険しくなっていく顔、一点をもぎ取ったスタンドプレイ。
この上なく明白だ。
にもかかわらず、こうしてハッキリとした形になるまでクリスは何もできなかった。捕手としての役目を果たせなかった。
ギュッと、握った拳に力を込める。
……俺は無意識の内に山城に頼りすぎていた。
焦っていたのかもしれない。甲子園をかけた決勝という初めての大舞台に。こいつなら何とかできる、山城ならきっと大丈夫。そんな信頼といえば聞こえのいい短絡的な依存がクリスの目を曇らせた。自分の不甲斐なさを呪うクリスだったが、まだ試合中である以上後悔ばかりもしていられない。奥歯を噛み締めながら投手交代を求めるためにベンチを振り返り、そして目を見開いた。ダグアウトから勢いよく飛び出してきたのは確かに青道の投手。けれどつい今しがたまでブルペンで肩を作っていた沢村でも川上でもない。
山城、沢村、川上に次ぐ青道投手陣最後の一人。かつてエースと呼ばれた男がグローブも持たずマウンドへ向かって走ってくるではないか。
「……丹波」
丹波光一郎。本来この決勝で投げる筈だった男が、伝令役としてマウンドに上がった。
Ⅱ
8回の裏という終盤に来て遂に逆転を許してしまった青道高校。この回二度目となる内野陣がマウンドに集まったことで球場にいる誰もが投手の交代を予想していたが、実際に青道ベンチが下した判断は伝令、つまりは山城の続投だった。
この意外過ぎる采配に神宮はどよめきに包まれたが、何も驚いたのは観客達だけではない。青道ベンチの一員である太田もまた伝令を送った片岡に驚きを隠せないでいた。
「か、監督。本当に山城を交代させなくてよろしいんですか?」
太田がそう不安な声を漏らすのも無理はなかった。ここまでよく頑張ってきたものの、山城が限界なのは誰の目からも明らか。いくらエースナンバーを背負っているとはいえ、これ以上引っ張る理由などどこにもない。
「川上の準備は出来ています。今からでも交代した方が……」
「いや、交代はない」
太田の進言をバッサリと切り捨てる。そう一刀両断されてしまえば、部長ではあるものの実質的な采配の権限を持っていない太田には何もできない。
とは言えやはり疑問は残る。せめて理由をと太田が尋ねるのを予期していたかのように、片岡はマウンドに視線を固定したまま重い口を開いた。
「……今日までの山城についてどう思う?」
「えっ?」
「エースとして相応しかったと思うか?」
その問いかけがこの続投と何の関係があるのか太田にはわからなかった。けれど監督にはきっと何か考えがあるのだろうと思い直し、ここ数週間の記憶を振り返ってみる。
「相応しい……と思います。その、多少独りよがりなプレイもありましたが成績は素晴らしいですし、十分エースと呼べる投球をしていたかと」
「確かに山城がここまで築いてきた成績は目を見張るものがある。試合を重ねるごとにエースとしての自覚と責任感も芽生え始め、成長を遂げてきた。もしも山城がいなければ大会をここまで勝ち抜いてくるのも容易ではなかっただろう」
だが、と片岡はそこで言葉を区切った。
「試合を勝ちあがるごとに、山城がエースとしての自覚を強めるごとに俺は山城に足りないものを感じるようになっていた」
「足りないものですか? それはいったい……」
「信頼だ」
真中が市大のエースであったように、片岡もまたかつての青道のエースという山城と同じ立場にいたからこそ気が付けた。一見チームメイトを信頼しているように振る舞ってはいても、山城が本当の意味で信を置いているのはクリスただ一人だということに。
「チームを背負うエースとしての責任感を養うにつれて無意識の内に山城はチームメイトを“共に闘う仲間”とはみなさなくなっていた。だからこそ状況が切迫すればするほど自分一人で抑えようとして投球が強引になる」
それはルーキーながらにエースを任されたことの弊害なのかもしれない。本来片岡は丹波をエースに据え、その姿を学ばせることで空にエースとしての在り方をじっくり理解させるつもりだった。けれど丹波の怪我によって状況が一変した。チームメイトとの仲間意識を育む間もなく与えられたエースナンバーは、確かに空にエースとしての器を形作ってはくれたが完成とまではいかせてくれなかった。
「いずれ壁にぶつかることは予めわかっていた」
「そ、それならどうして山城に伝えなかったんですか? 前もって伝えていればあるいは……」
「無駄だ。単に口で伝えたところで意味はない。例えクリスが言ったとしてもな」
刃物の危険性を口で説明しても実際に怪我をしなければ覚えないように、具体的な体験と結びつかなければ聞き流されるだけ。特に空のように飛びぬけた実力があれば尚更だ。
「独りよがりで打たれた山城は今自分を見失っている。本来であれば交代が最善だろう。だが見方を代えればこれはチャンスでもある」
「チャンス、ですか?」
「あぁ。山城にエースとして足りないものを本当の意味で理解させるためのな。だからこそ丹波を伝令役に選んだ。前エースである丹波にな」
「し、しかしそれは余りにも危険ではないですか? 丹波は厳しい顔をしていましたし、何よりも山城が立ち直れないまま更に追加点を奪われるようなことになれば……」
「投手を交代してもリスクはある。なら俺はここまで闘ってきた選手達の可能性を信じたい」
それにだと、片岡はこの劣勢の状況にもかかわらず少しだけ口元を緩めた。
「これまで散々山城に負担をかけてきたんだ。そろそろ上級生も意地をみせなければな」
◇
―――山城にお前の想いを伝えてこい。
そうベンチから送り出された丹波だったが、実のところ何を言うべきかは定まっていなかった。丹波が空に抱く気持ちは色々と複雑だ。純粋な私情だけでいえば憧れだったクリスの期待と信頼を独占し、エースの座を奪い取った憎い敵。しかし少し冷静になって考えれば大事な時期にチームから離脱した自分の穴をしっかりと埋めてくれた後輩でもある。
理屈で考えれば恨むのは筋違い。けれど理屈だけで割り切れるほど丹波は大人ではなく、また感情だけで一方的に逆恨みできるほど子供でもなかった。
……俺はどうすればいい。
励ましの言葉をかければいいのか、叱責すればいいのか、あるいは無様に逆転されたことを哂えばいいのか。モヤモヤとした気持ちを抱えたまま丹波は久方ぶりにマウンドの土を踏みしめ、力なく俯く後輩を目の当たりにした。
……山城。
心のどこかで丹波は山城空を自分とは違う存在だと思っていた。その図抜けた実力が明らかになればなるほど、あらゆる悩みとは無縁の突き抜けた存在だと勝手にみなすようになっていた。だからそんな超人がこうして情けない姿でいることに、かつての自分を彷彿とさせる弱い姿を晒していることに丹波は衝撃を受けた。
……そうか。こいつも……
少し考えれば当たり前なのだ。どれだけ実力があろうと山城空はまだまだ未熟なルーキー、決して完璧などではない。足りないものはいくらでもあって、弱い部分もちゃんとある。そんな至極当然のことを丹波は今になってようやく気がついた。
―――先輩としての役目を果たせ光一郎。それが三年の、元エースとしての責任だ
幼馴染から突き付けられた言葉が蘇る。静かに瞼を閉じ、そして開く。
胸に溜まったわだかまりはもう、消えていた。
「顔を上げろ、山城」
だが空は依然として俯いたままだった。もしかしたら聞こえていないのかもしれない。だったら無理やり聞かせるまでだと、丹波は空の両肩に手を置いて前後に揺さぶった。
「山城」
「あっ。丹波……さん」
のっそりと幽鬼のように青白い顔が上がる。今の今まで丹波が来ていたことにも気づいていなかったのか。覇気のない声には微かな驚きが含まれていた。
空は焦点の合わない瞳で丹波を見た後、すぐに視線を逸らした。
「……すみません」
「なぜ謝る?」
「だって逆転されて……俺、エースなのに。絶対点を与えちゃいけないのに……試合を壊してすみません」
ともすれば今にも泣きだしそうな声だった。どうやら根本的に思い違いをしているらしい。ふぅと丹波がため息を漏らすと、空の身体がびくりと震えた。
「山城。俺は今呆れている。なぜかわかるか?」
「それは逆転されたからで……」
「違うな。俺が呆れているのはたかが勝ち越されたぐらいでお前がもう負けたような顔をしていることにだ」
「えっ?」
「試合はまだ終わっていない。点差はたった一点、最後の攻撃もまだ残っている。なのにどうして俯く? どうして負けたと決めつける?」
そう言うと、空はポカンとした顔をした。
一体この人は何を言っているのか、そういう表情だった。
「いや、だって……相手は成宮さんで……」
「成宮がどうした。ウチの打線は同点にもできないほど弱いのか?」
「それは……」
言葉に詰まった空を見て、丹波は苦笑した。その反応だけで空がチームメイトに対して何ら期待を抱いていないことがわかってしまったのだ。ここまでの試合の展開を見ていればそう思ってしまう気持ちもわからないではないが、それではいけない。
「山城。ベンチ裏で俺は聞いたな? しんどいかと」
「……はい」
「あの時、お前はまだ行けると言った。今はどうだ? しんどいか?」
「しんどい……です」
「だろうな。何せここまでずっと試合の重みを一人、いやクリスと合わせても二人で背負ってきたんだ。しんどいと思わない筈がない」
むしろそれで8回まで持った方が驚きだ。改めて山城空という怪物のスペックの高さを丹波は認識した。
「しんどいと、疲れたと感じた時、重みを軽減する方法がある。それが何かわかるか?」
「……なんですか?」
「簡単だ。自分の重荷を他の奴らにも背負わせればいい」
「はっ?」
「何も投手一人が辛い思いをする必要はない。苦労は分担すればいい、そのために野球には9人も選手がいる」
「いや、ちょ―――」
「打たれたのは捕手の責任、負けているのは打線が不甲斐ないから。そう考えれば少しは気が楽にならないか?」
「……思えませんよ、そんなこと」
「なぜだ?」
「なぜって……」
唇を噛み締め、空は再び下を向いた。
あぁ、やっぱりわかっていないと丹波は思った。
「好き勝手に一人でやって逆転されて、それで誰かに押し付けるとかできるわけないじゃないっすか。先輩達だって納得するわけないっすよ」
「だからさっきから誰とも目を合わさないのか?」
返答は帰ってこない。けれど無言こそがその答えだった。恐らくは恨まれているに違いないとでも思いこんでいるのだろう。
今度こそ深々と、丹波は息を吐き出した。
「山城」
「……はい」
―――あまり俺達上級生を見縊るな。
そう言って、後輩の頭を軽く叩いた。突然の衝撃に伏せていた顔を上げて目を白黒とさせる空に、丹波は“彼ら”を指し示した。
この苦境の中でもいつもと変わらぬ4人の内野手を。
えっと間抜けた声を漏らすエースの姿に小さく笑い、かつてのエースはこれまで何度となく共に闘ってきた仲間達に顔を向ける。
「稲実相手にここまでたったの2失点。お前は先発としての役割を見事に果たしている。もしも今責められるべき人間がいるとしたら、それは一年に頼ってばかりで肝心な所で役に立たない上級生だな」
「げっ。丹波さん、俺らが気にしていることを!」
「へぇ~。試合に出てもいないくせに言うねピカイチロウ、これは後が楽しみだね」
「だが事実だ。俺達がもっと点数を取っていれば山城に負担を強いることもなかった」
「ウガウガっ!」
生真面目な丹波らしくない皮肉めいた軽口を皮切りに、ここまで沈黙を続けていた内野手達が次々と口を開いていく。オーバーアクションをとる倉持、ニコニコとした笑顔でさらりと毒を吐く小湊、真面目に自分達の未熟さを反省する結城、何を言っているのかわからない増子。いつもと同じ。
そう、いっそ不自然なまでに何らいつもと変わらない光景。
「なん…で…」
理解できなくてパニくる空に、青道の二遊間コンビが人の悪い笑みを浮かべる。
「ひゃハハハッ! お前の落ち込んだ顔とか初めて見たぜっ!」
「マウンドじゃ大抵すましてるか笑ってるかだったもんね。あれ、打席から見ると結構ムカツクって知ってた?」
「どうして……」
困惑する空に、青道の4番と5番が宣言する。
「安心しろ。点なら必ず俺達がとってやる。お前を負け投手にはさせない」
「うがうが!」
「いや、なんで、なんでそんな顔でいられるんすかっ!? 一人で好き勝手やった挙句に逆転されたんですよ? 恨まれて、当然なのに……」
改めて自分のやったことの愚かさを再認識したのか、後半になるにつれて空の言葉から段々と力がなくなっていく。そんないつになく弱気な後輩を先輩達は一笑した。
「ばーか。一年のミスにぐちゃぐちゃ文句言う先輩がいるかよ」
「後輩のミスをカバーするのは先輩として当然だしね」
「山城。確かにお前は独りよがりな投球をした、そのことは素直に反省すべきだ。だがそれを理由に俺達がお前を見捨てることは決してない。なぜならお前は俺達の後輩であり、そしてエースだからだ」
「ウガッ! ウガウガッ!」
空は呆然と彼らの言葉を聞いていた。
ゆっくりと、丹波が空の背に手を置く。
「山城、確かにお前は強い。つい一人で先走ってしまう気持ちもわからないでもない。だが忘れるな、お前は一人じゃない。そしてクリスとの二人だけでもない。お前にはもっと多くの仲間がいる」
「仲間……」
「チームを背負う気概を持つことはエースとして大切だ。だがそれに押し潰されるな。決して独り善がりになるな。もっとチームを、先輩を、仲間を頼れ。お前が考えているほどこいつらは弱くない」
かつてのエースが今のエースへと伝える、最初にして最後の教えだった。
ここから先はもう本人次第。
押し潰されたまま終わるのか、それとも立ち直るのか。
……まぁ、この顔を見れば答えは出ているな。
随分と血色がよくなった頬を一瞥してから、丹波はここまで一言も発していない選手へと視線を送る。真剣な眼差しで深々と頷く姿を見る限り、どうやらもう一人も立ち直ったらしかった。
……俺の役目はここまでだな。
先ほどからセカンドの塁審がチラチラと時計を確認している。自分の役目が全て終わったことを悟り、丹波は最後に柔らかくエースの背中を叩いた。
「任せたぞ、エース」
Ⅲ
―――任せたぞ、エース
そう残して丹波はマウンドを降りた。同時にマウンドに出来ていた輪も解かれ選手達が各々のポジションに散らばっていく。プレイが再開するまでのわずかな時間、ただ一人マウンドに残った空は深く息を吐きだし自分の中に埋没した。
……仲間を頼れか。
正直に言えば丹波の言ったことがすべて理解できたわけではなかった。
何せまだ高校に入学してから4か月足らず。仲間が大事だと説かれて、はいそうですかとチームメイトに全幅の信頼を置けるほど空は先輩達のことをよく知らない。
だがそれでも、芽生えたものは確かにある。
……俺はクリス先輩を甲子園に連れて行きたいと思ってた。
かねてからの約束、夢。それ自体は今も変わっていない。
だがここに来てそこにもう一つ新たな目標が加わった。グラウンドで最も高い場所からぐるりと、空はチームメイトを見渡す。サード、レフト、ショート、センター、セカンド、ライト、ファースト、そしてキャッチャー。
クリスを除けばあまりよく知らない、そして知ろうとも思わなかった先輩達。
けれど今は、
―――この“チーム”でもっと闘ってみたい
エースとしての義務感でも何でもなく、心の底から素直にそう思えた。
止まっていたプレイが再開されると打席に入る稲実の5番山岡が一気に試合を決めようと気合十分な顔でバットを構える。タイムを取る前と何ら状況は変わらず2アウトランナー二塁。一打でれば本当に試合が決まりかねない大ピンチ。
しかしそんな圧倒的不利な場を目の前にしているにもかかわらず、空の顔は不思議と明るかった。身体は鉛のように重いというのに心は羽のようにどこまでも軽かった。
緊迫した場面にそぐわぬ笑みさえ浮かべ、空はうずうずと疼く身体を抑えながらクリスのサインを待つ。
……やべぇ、楽しい。
こんなにピンチが楽しいと、野球が楽しいと思えたのは随分と久しぶりだった。
エースに選ばれ試合の責任を背負うようになってから忘れていた感覚。懐かしくも心地よい感覚に身を委ね、空はセットポジションから左足を前方へと大きく踏み出す。
サインに従って投じたのは四シームジャイロ。
バッサバッサと三振を奪っていた序盤に比べれば格段に球威も球速も落ち、コントロールもアバウト。それまでの打席とは比べるまでもなく甘い球に山岡は初球からバットを出した。やや芯を外したものの力強い打球が空の足元を抜けていく。
打たれたことに対する驚きはない。
打ちごろとまではいかずとも、最早空振りを奪えるようなボールでないことは空自身がよく理解していた。2アウトのため打った瞬間にセカンドランナーはスタートを切っており、このままセンターに抜ければいかに強肩の伊佐敷とてホームで刺すことは難しいだろう。最悪の展開を想像した青道の応援席から立ち昇る悲鳴。
けれど対照的に後ろへと振り返る空の顔に悲観の色はない。
彼らは言ったのだ。
もっと仲間を頼れと。
後輩のミスをカバーするのは先輩として当然だと。
ならば、
「捕れるっすよね、小湊先輩!」
小刻みにバウンドを重ねた打球がセカンドベースを超えてセンターへと抜け出さんとする間際、突如として出現したグローブが打球の行方を遮った。
それは正に神業と呼ぶに相応しいプレイだった。
小さい体を目一杯セカンドベースに伸ばしながらしっかりと打球を捕球した小湊は、体が地面に着くよりも早くカバーに来ていた後輩にボールを送った。
「倉持っ!」
「うっす!」
掛け声とともにボールはセカンドのグラブからショートの右手、そしてファーストのミットへと送られる。4‐6‐3。一塁塁審が右手を上げたことで成立したスーパープレイに青道の応援団からはそれまでの悲痛な叫びから一転して歓声が巻き起こる。
3つ目のアウトがとれた空はマウンドを離れ、ベンチの前で満面の笑みを浮かべて二遊間を出迎えた。
「ナイスプレイ!」
8回の裏終了。
青道1‐2稲実。
この試合の決着がつくかどうかは次の9回の表に託された。
青道高校9回の打順は、
4番 結城
5番 増子
6番 クリス
空君復活。これで丹波さん人気が少しでも上がればいいなぁ(チラッ
あと1話か2話で完結になると思いますので、いましばらくおつきあいください。