Ⅰ
4月4日。青道高校野球部に入部する新入生にとって練習初日となるこの日。
まだ陽も登りきらない時刻にA グラウンドの中央に集められた新入生は二列に並ばされ、監督と上級生を前にして自己紹介を行っていた。
名前、出身、希望ポジション、意気込み。
一人三十秒ほどの短い時間の中で、新入生達は緊張に顔を強張らせながらも精一杯声を張り上げる。
「宮川シニア出身。大島広! 守備には自信があります!! 頑張りますのでよろしくお願いします!」
前列から聞こえて来るそんな活力に満ちた声を聴きながら、同じ新入生である山城空は後列の端で一人溢れそうになる欠伸をかみ殺していた。
……ねむ。
もともと余り朝が強くない空にとって、朝七時前からの練習など苦痛以外の何物でもなかった。もしも同室の先輩達が起こしてくれなければ、今でも空は自室のベッドで夢の中にいただろう。
……もしかしてこれから毎日この時間から?
だとしたらまさしく拷問。
待ち構えているであろう苦痛の日々にうげっと顔を顰めていると、前列の自己紹介が終わった。
「よし、では後列。前列と同じく右端から」
強面の監督が低い声でそういうと、上級生の視線が空へと集まった。
あぁきたかと空が口を開きかけたその時だった。
「あ~!! 練習に遅刻したのに列に紛れ込もうとしているやつがいるぞ!!」
グラウンドの端から大きな声が響き、空も含めた全員の視線が声の聞こえてきた用具倉庫へと向く。用具倉庫から新入生が並ぶグラウンド中央までの丁度中間付近。
数多の視線を浴びて妙な体勢で固まる少年の姿がそこにはあった。
……何だあれ?
どうやらその少年は空達と同じ一年らしく、ぎぎぎと擬音が付きそうなほど固い動作で少年の顔が監督へと向けられる。
ぴくりと監督の額に青筋が浮かび上がるのが空には見えた。
「……練習初日から遅刻の上、ばれない様に忍び込もうとするとはいい度胸だな小僧。練習が終わるまで走っとれぇい!」
「ひぃぃいい! 全てが裏目に!」
「それからこいつと同室の上級生二人! そしてどさくさに紛れて上級生の列に並んでいる大バカ者! お前らもだ」
上級生の中から悲鳴が飛ぶ。
先輩、後輩合わせた計四人がぶつくさと言いあいながら走っていくのを誰もが唖然とて見送っていると、パンと監督が手を叩き視線を集めた。
「馬鹿共は放っておいて続けるぞ……後列右端から」
その一言で新入生は再度前を向いて列を正し、それに向かい合う上級生は視線を後列の端へと向けた。
Take2と内心で空は呟き、今度こそ口を開いた。
「東京都丸亀シニア出身。山城空。希望ポジションはピッチャー。クリス先輩を甲子園に連れて行くために青道に来ました」
よろしくお願いしますと軽く頭を下げると、ざわりと空気が震えた。
『山城……あいつが噂の中学NO1投手か』
『あぁ、魔球を投げるっていう中学生だろ? 少し前に雑誌で特集組まれていたのを見たことあるぜ』
『クリス先輩って……あのクリス先輩か?』
『いくらシニアで活躍したからって高校でも通用するのか?』
『丸亀シニアって確かクリスと同じシニアチームだったよな?』
『甲子園に連れて行くか……随分と大きく出たな』
『哲、そのオーラしまえ!!』
ざわざわと様々な声が上級生を中心にして飛び交い、新入生も言葉にこそしないものの気になっていますと言わんばかりにちらちらと横目で空を伺う。
数多の視線が全身に突き刺さるが、空は言うことは言ったとばかりに澄まし顔。
そして予期せぬ形で名前を出されたクリスは、上級生の列の後方で静かに溜息を吐いた。
まぁ、そんなこんなで、空の青道高校での野球人生が幕を開けた。
Ⅱ
新入生が加わり総勢百人近いメンバーで新たなスタートを切った青道高校野球部。
多少のイレギュラーこそあったものの初日の練習が概ねつつがなく終わり、午後から行われた春の都大会三回戦も順当に勝ち上がったその日の夜。
青心寮二階に設けられたスタッフルームには、野球部の首脳陣二人の姿があった。
「これが本日行った新入生の能力テストの結果です」
スーツ越しでもわかるグラマラスな肢体に飾り気のない切れ長の眼鏡。
凛とした端正な顔立ちと合わさって、仕事ができるキャリアウーマンにも見える女性―――青道高校野球部副部長―――高島礼は、机の上におよそ三〇枚程からなる紙束を置いた。ああと片岡はその紙束を手に取ると、ぱらぱらと上から順に目を通していく。
「……やはり、新入生の中では山城が飛びぬけているか」
「はい。新入生で唯一の遠投110M(仮)を初めとして、持久力、守備などほぼ全ての項目において高い成績を残しています。特にピッチングテストでは新入生の歴代記録を大幅に更新し、すでに上級生の間でも噂になっています」
「ふむ」
「他にも能力テストで良好な記録を残した子が何人か……それにテストを受けられませんでしたが、面白い子も」
「……あの小僧か」
「はい、沢村君です」
沢村栄純。高島礼の強い推薦によってこの青道にやってきた新入生。
遅刻のため(またそれを誤魔化そうとしたため)に監督の怒りを買い、その後の対応の不味さから能力テストに参加させてもらえず、更には練習参加と投手生命を天秤にかけた遠投に失敗したため投手を諦めるよう監督から申し付けられた空とはまた別の意味で有名なルーキー。
「正直、まだ実力が未知数なこの時期に彼に投手を諦めさせるのは尚早かと。それに監督には黙っていたのですが、あの東君を三振にとった中学生というのは……」
高島礼がそこまで言いかけた所で、片岡はふんと鼻を鳴らした。
「……あんなクセのある球を90メートル近くまで投げることは普通できん。恐らくは誰に習ったわけでもない独自の投げ方と、強烈なスピンをボールにかけることができる指先の感覚があってのものだろう」
「えっ?」
「極めれば投手として使い物になるかもしれんが約束は約束。今はまだ練習に投手として参加させることは出来ん。しばらくは日が暮れるまでみっちりと走らせておく」
「わかりました」
……今はまだ……か。
片岡の言葉の意味を理解し、高島は小さく笑みを浮かべた。
「一年は山城も含め暫くは例年通り体力作りを中心としたメニューで行う。そして四月後半に一度一年と二軍で試合を行うつもりだ」
「四月の後半に試合ですか?」
通常、青道における新入生は夏までの間は走り込みを中心とした基礎的なトレーニングを行い、徹底的に体を鍛え上げる。これは夏に大会が迫った上級生を集中的に鍛える為コーチ陣が新入生の練習を見ることが難しいというのも理由の一つだが、もっとも大きな理由としては入部したばかりの新入生では練習についていけないというものがある。
中学よりも密度、練習量が格段に多い高校の練習に下手に新入生を混ぜれば怪我のもとにもなりかねない。そのために新入生は、余程有望だとみなされた極一部を除き夏の大会が終わるまでは試合は愚か、まともにボールに触れることさえできないのが普通。
四月の終わりという早い時期に一年が二軍とは言え上級生相手に試合を行うなど、異例極まりない。少なくとも、高島礼が副部長という役職に就いてからはなかったことだ。
そしてその異例を行う理由。
「……戦力の見極めでしょうか?」
「あぁ。結城、伊佐敷、小湊を初めとしたウチのレギュラー陣が全国でも通用するのは間違いない。だが西東京は全国でも屈指の激戦区。それだけで勝ち上がれるほど甘いものではない」
高島の脳裏に浮かんだのは、今年の選抜ベスト八の市大三高と昨年青道を破り甲子園に出場した稲城実業。両校とも毎年青道と甲子園を争う強豪校であり、今年も甲子園を目指す上において決して避けて通れない相手だ。
「甲子園に行くために必要なのはレギュラー、控えを合わせたチームとしての総合力。そのためにも学年や紙面のデータにとらわれず、実践の中でどれだけ使える者がいるかを今の内に見ておきたい」
「わかりました。スケジュールを調整しておきます」
「たのむ」
高島が頷くと、片岡は椅子の向きを背後の窓へと向けた。
日の当たりが悪い北側からでも陽の光が入るよう設計された大きなガラス窓の向こうには、爛々と夜空に輝く少し欠けた月があった。
「出来ることは何でもするつもりだ。今年こそ、俺はあいつらを甲子園に連れて行ってやりたい……」
「片岡監督……」
過去六年間甲子園に出場できなかった責任を感じているのだろう。
呟くような片岡の言葉が、静かに室内に溶けていった。
Ⅲ
四月中旬。青道高校の入学式からおよそ一週間。
新入生にとってはまだまだ分からないことだらけながらも、何とか無事に乗り切って迎えた最初の土曜日。青道高校野球部はその日大事な試合を迎えていた。
春の都大会準々決勝。
夏の本戦や春の選抜がかかる秋大会と比べて一般的に重要度が劣るとされる春の大会。
されど、本日戦うことになる青道の相手は昨年の秋大会で苦汁をのまされた市大三高。
借りは返すとばかりに気合に満ちた一軍の選手、そしていずれは自分もあの中にと一軍に憧れる部員達が揃って球場に向かい、使用者のいない青道高校野球部Bグラウンドはしばしの沈黙に包まれていた。
そしてそんな無人となったグラウンドに一人佇み、空はたらりと冷や汗を流した。
「……まずった」
どうしたもんかと、寝癖が付いたままの頭をかいてみるが妙案は浮かばない。
はぁと一度息を吐き、もう一度グラウンドを再確認。
相変わらず広がっているのは、誰もいない練習場。
……置いていかれた。
部員を乗せて球場へと向かうマイクロバスは、空が試合を見に行く前の腹ごなしにと食堂に寄っていた間に出てしまっていた。
完全なる自業自得。
とは言え一応試合の見学は義務ではなく、個人の希望によるもの。
別に見に行かなかったとて罰を受けることはない。
が、
……クリス先輩に怒られる。
同じ地区の強豪校だけにしっかりと見ておけと、昨夜釘を刺されていた。
それがこの体たらくでは一体何を言われるかわかったものではない。
今晩待ち受けているであろう小言の嵐に空が身を震わせていると、
――――はっはっは~!! 自ら投げて自ら捕~る!!
……何だ?
隣のAグラウンドから聞こえて来る叫び声。
自分の他にもまだ誰かいたのかと、空は声のする隣のグラウンドへと向かう。
……何だあれ?
グラウンドに続く扉をくぐった空の目に入ったのは、自分でボールを高く投げ上げそれをキャッチしている少年の姿。
一人キャッチボールとでも呼べばいいのだろうか?
ハハハと半ば壊れた様に笑いながらボールを空高く投げ上げる少年の顔に空は見覚えがあった。
……たしか沢村……だったよな?
練習初日に遅刻、監督にたてついて行った遠投試験ではカーブを放るなど話題に事欠かない新入生。練習中常にグラウンドを走らされていることから、同じ一年の間では『部員見習い』と揶揄されていた。
空としては変わったバカがいるな~程度にしか思っていなかったのだが、用具倉庫の前に置かれた二つのタイヤとグラウンドに何重にも刻まれたその跡を見る限り少し認識を改める必要がありそうだった。
……試合も見ずに残って練習か。単なる馬鹿かと思ってたけど……
―――おらぁ! って、遠くに投げ過ぎた!?
……やっぱり単なる馬鹿かも。
ただ、そんな馬鹿が空は嫌いじゃなかった。
口元に弧を描き、空は一人延々と一人キャッチボールを続ける沢村へと近づいた。
「なぁ。それやってて楽しいか?」
「ぬっ!?」
声をかけられて初めて空の存在に気が付いたのか、沢村は上空から落ちてきたボールをダイビングキャッチした体勢のまま顔だけを空へと向けた。
そして見られていたとわかると、顔を紅く染め上げた。
「……見てた。今の?」
「うん、まぁ」
「ぬぉおおおおおおお!!」
自分でも奇妙なことをしているという自覚はあったのだろう。
沢村は両手で頭を押さえ、ごろごろとグラウンドを転がった。
それはそれで見ている分には面白かったが、空の本題は別にある。
なぁと空は悶えながら転がる沢村へと声をかけた。
「俺、山城空っていうんだけどよかったら俺とキャッチボールしねぇ?」
Ⅳ
「ははは。やっぱ人とキャッチボールをするのは楽しいな!」
気持ちぃ~と顔いっぱいに喜色の色を浮かべ、沢村栄純はボールを投げた。
あの後、空の提案にすぐさま沢村が満面の笑みで飛び付いたため二人はグラウンドの端を使ってキャッチボールを行っていた。
沢村が投げたボールが僅かばかりの放物線を描いて空のグローブの先端に収まる。
空はふむと言葉を漏らしつつボールを投げ返す。
そして「おりゃあ!」と沢村から再び投げられたボールは、またしても捕球の正位置であるグローブポケットから少しずれた位置へと収まった。
……遠投見た時から変わってるなとは思ってたけど……なるほど。こりゃ捕り辛いわ。
沢村が投げる球はまるで変化球の様にぐにゃりと曲がり、正位置での捕球を難しくさせていた。投げた球が無意識の内にシュート回転するというのは割かしよくある話だが、沢村の場合は投げた球が不規則な方向にぐにゃぐにゃと曲がるため非常に捕り辛い。
いわゆる癖球。
……これが投手として推薦を受けた理由か。
本来野球に置いて相手が取り辛い球というのは余り歓迎されるものではない。
もしも野手がこんなボールを投げていたら、すぐにでも矯正されるだろう。
だが投手の場合、その事情は少々異なる。
捕り辛い球というのは、言い換えれば“打ち辛い”球と同義でもあるからだ。
……不規則にボールの軌道が変わるムービングボーラー。
ストレートと言えば動く二シームを指すメジャーのピッチャーに多いが、癖のない球を良しとする日本では中々お目にかかることができない。
特にサウスポーのムービング使いとなれば、その希少性は更に上がる。
「……成長したら面白いピッチャーになるかもな」
「うん? 何か言ったか?」
「んにゃ。案外すごい奴かもなって思っただけだ」
「え、そうか?」
あまり褒められ慣れていないのか、それとも調子に乗りやすいのか。
照れるな~と頭を掻きながら、沢村はハハハと笑った。
そしてしばらく二人でキャッチボールを続けていると、段々と肩が温まって来たのか沢村が利き手となる左腕を大きく回した。
「しかしボール握ったのが久し振りだから肩が軽い軽い! 今ならあのフェンスにまで届きそうな気がするぜっ!」
「まともに真っ直ぐ投げられないのにか?」
「うっ。あの時は少し調子が悪かっただけで……今なら、そう今ならきっとできる!」
「へー」
「なっ!? その顔は信じてねぇな!」
見てろと、沢村はキャッチボールを中断しレフト方向へと体を向けた。
二人が今いる一塁側ベンチ前からレフトフェンスまではおよそ90m弱。
多少差異はあろうが、1週間前に沢村が挑戦した距離と同じ。
大して期待の籠ってない同級生の視線が見守る中、助走を取った沢村は勢いよく前方へと走り出した。
「おおおぉおらぁあああああ!!」
雄叫びと共に上空へと放たれたボールがぐんぐんと伸び上り、フェンスに向かって飛んでいく。
「今度こそいけぇ~!!」
沢村の気合に後押しされたのか、ボールは勢いそのままに突き進んでいく。
今度こそ行ったと、沢村は思った。
そして「見たか!」と後ろにいる空に振り返ろうとしたところで、突如としてボールが左方向へと曲がった。
「んなっ!?」
一週間前とは逆の方向。
フェンスから二〇mほど手前で曲がり始めたボールは徐々にそのカーブを大きくし、最後にはフェンスに届くことなくレフトライン際に突き刺さった。
バウンドを繰り返しながらボールは勢いを殺し転々とファールゾーンに転がっていく。
目を点にしながら呆然とそれを見ている沢村に、空が「そらそうだ」と肩をすくめた。
「技術的な指導を受けたわけじゃねぇんだ。ちょっと走り込みをしたぐらいで、一週間前にできなかったことが急にできるわけないだろうに」
「うぐっ!?」
空の正論過ぎる言葉が突き刺さり、がくりと膝をついて落ち込む沢村。
「やっぱ俺って真っ直ぐな球すら投げれねぇのか」と嘆いているのを耳に入れながら、空はさっきのボールの軌道を思い返していた。
……ここ最近ボールに触れてなかった筈なのに、一週間前よりもフェンスまでの距離が近かった。
恐らくは毎日走り込みを行うことで自然と下半身の使い方を覚え、投球フォームが多少なりとも安定したためだろう。もっともまだまだ不安定であることに違いはなく、これからの努力が要必須だが。
「うん?」
目の前で落ち込まれるのも何か面倒くさいのでとりあえず沢村を起こそうとした所、沢村のズボンの後ろポケットからボールが零れ落ちた。
恐らくは暴投した時などのために備えて予備を練習着に入れておいたのだろう。
空は地面に転がったボールを拾い上げると、先程沢村がボールを投げたレフト方向に視線を向けた。
「ふむ」
そして体をレフトへと向けると、その場でゆっくりと両腕を振りかぶり左足を引く。
空のモーションに気付いた沢村は、えっと疑問の声を上げた。
「ちょっ、フェンスまで投げるなら助走がなきゃ―――」
「せーの!」
無理だぞと紡ぐよりも早く、右腕が振り下ろされた。
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