Ⅰ
―――ストライク! バッターアウト!!
頭上から三振を告げる監督の声を聞きながら、御幸一也はマスクの下でにやける顔を抑えることが出来なかった。
……なるほど。こりゃクリス先輩と監督が入れ込むわけだわ。
御幸はちらりと自身の背後に目をやり、球審を行う監督を見た。
マスクに遮られてはっきりとはわからないが、その顔はどことなくこの結果をわかっていたようにも見えた。
「くそがっ」とマウンドを睨み付けて伊佐敷純がバッターボックスを後にすると、御幸はナイスボールという言葉と共にボールをマウンドのルーキーへと投げた。
青道の主軸相手に連続三振。
普通のルーキーなら狂喜乱舞するか逆に緊張の一つでもしそうなものであるが、ボールを受け取る山城空は特に表情を変えないまま軽く帽子のツバに手をかけただけだった。
……これぐらい大したことねぇってか?
どんなルーキーだよと、御幸はくつくつとマスクの下で笑った。
この昇格試験の始まる前、ブルペンで監督から山城のボールを受けるよう言われた御幸は山城と簡単なサインの交換を行い、実際にそのボールを受けていた。
およそ二〇球ほどの少ない球数を受けてわかったのは、シニア時代に対決した怪物はこの一年間で更なる進化を遂げていたということ。
これまでの二人との対戦において、御幸は特別なリードは一切していない、
速球投手によくあるインハイを中心に組み立てて、決め球はアウトロー。
遊び玉なくどんどんストライクゾーンに投げ込んでいくそのリードは、メジャーにも通じる部分があった。
……これだけの球なら初対決で凝ったリードは必要ない。
威力のある球とそれをコーナーに決めるだけのコントロールがあるのだ。
ならば下手にボール球を投げて情報を与えるよりも、少ない球数で仕留めた方が次の打者との対決で有利になる。
今のところは御幸の計算通りに進んでいる。
問題は―――
「よろしく頼む」
……この人だよな。
低い挨拶と共に右打席に入ったのは、青道高校の主将にして不動の四番結城哲也。
ふぅと息を吐き、鋭い眼差しでバットを構えるその姿はまるで一本の日本刀のよう。
味方なら頼もしいが、敵になるとこうも恐ろしい。
……さてどうするか。
プレイの声がかかると、御幸はまずは様子見にとサインを出す。
構えるのはインコース高目。
マウンドの空がコクリと頷き、投球フォームへと入った。
ゆったりとした大きなフォームから勢いよく右腕が振り下ろされ、その指先からボールが放たれる。140キロ中盤にもなるボールが唸りを上げ、そのままストライクゾーン一杯に構えられたミットへと突き刺さる。
ストライクのコールがグラウンドに響く中、バットを振ることなくボールを見送った哲はほぉと感嘆の声を漏らした。
「なるほど、これが噂に聞く山城のジャイロボールか」
「はい、まぁ俺も受けたのは初めてですけど」
Ⅱ
ジャイロボールという球がある。
1990年代中盤、とあるスポーツ科学者によってその存在を指摘されたボールである。
まるでライフル弾のよう螺旋回転を行うこのボールは回転軸がボールの進行方向と一致するために空気抵抗が少なく、通常のバックスピンストレートよりも初速と終速の差が少ないことがその特徴にある。
ストレートよりも“ノビ”る球として注目を集めたこのボールは、今後バックスピンストレートに取って代わる新たなストレートとして一時期注目を集めた。
とは言え、その注目もあくまで一過性のものにすぎなかった。
というのも、
……本来、ジャイロボールは落ちる軌道を描く。
そう。漫画やゲームなどにおいては、ジャイロボールはホップするストレート―――すなわち、ストレートの上位互換として捉えられることが多いが実の所それは大きな間違い。
そもそも、地球に重力が存在する以上投げたボールは必ず下へと落ちていく。
ストレートが直線の軌道を描く(ように見える)のは、ボールにかけられたバックスピンの回転が揚力(上向きの力)を生み出し重力に逆らうからである(それでもボールは落ちているが)。一方、回転軸が進行方向と同じ向きにあるジャイロボールはこの上向きの力が働かないためフォークや縦スライダーのような落ちる軌道を描く。
つまるところジャイロボールとは、落ちる軌道にもかかわらず真っ直ぐな軌道のストレートと同じかそれ以上に早くミットに到達する(初速が同じ場合)摩訶不思議なボールなのである(言い換えればそれだけ空気抵抗が少ない)。
……けど、それはあくまでも変化球。ストレートの代わりにはならない。
変化球を活かすのはストレートという格言がある様に、落ちる変化球が有効なのは直線軌道を描くストレートがあってこそ。
どれだけボールが伸びようと、落ちるのであればストレートとしては使えない。とは言え例えストレートの代わりにはならなくても、新たな変化球としてならば十分に使える可能性はある。だが実際、プロ・アマを通してこれまでたった一人の例外を除いて本当の意味でのジャイロボーラーは現れていない。
その理由は至ってシンプル。
単純に、投げられる投手がいないのである。
キャッチボール程度の球速ならば比較的簡単にジャイロ回転をかけられるのだが、試合に通用する球速でそれを行おうとするとその難易度は飛躍的に跳ね上がる(特にオーバースローでは)。
ゆえにこの二十年間、ジャイロボールは理論こそ提唱されつつもあくまでも空想の産物として扱われていた――――山城空が現れるまでは。
二球目。
空が再びゆっくりとした動作で大きく腕を振りかぶり、高く左足を上げる。
投手の数だけフォームがある中でも特に豪快なフォーム。
全身をフルに使ったそのフォームのことを御幸は知っていた。
下半身と上半身の二つの回転を用い、指先のボールに螺旋の回転を与えるダブルスピン投法。一般的なオーバースローの様にボールを投げ下ろすのではなく、“投げ上げ”られたボールがミット目がけて突き進む。
コースは初球と同じインハイ。
ある程度コースを読んでいたのか、それとも天性の勘がそうさせたのか、バッターボックスに入っていた哲はタイミングを取るために上げた左足をレフト側へと大きく開いた。
十分に空いたスペースの中からバッドが風切り音を上げ、迫りくるボールを跳ね返さんとばかりに力強く振るわれる。
しかし、結果としてバットがボールを捉えることはなかった。
打者の手元で急激に伸び“上がった”ボールはバットの上を通過し、そのままミットを鳴らした。
―――ストライク!
「……まだ下か」
ふむとボールが通った軌道を確認し、青道最強打者はバットのグリップを握り直した。
怖気が走るほどのスイング音にこえぇこぇと内心で呟きつつも、御幸は改めて空の異常性を感じていた。
本来球速が出にくい筈のジャイロで140キロを超える豪速球を生み出す驚異の身体能力、強力な螺旋スピンをボールに加えることのできる天性の指先感覚。
ボールを投げ上げるという特異なリリースにも関わらず、きっちりとコースに決められるだけの制球力。そして何よりもおかしいのは、
……こいつのジャイロは落ちない!
空のジャイロボールは通常のバックスピンストレートよりも伸びるにもかかわらず、その軌道は並のストレートよりもストレートらしい直線を描く。
ジャイロボールは落ちる球であるという根底を覆す、落ちないジャイロボール。
それはまるで漫画に登場する魔球。
……恐らく回転軸がいくらか三塁側に傾いていることでジャイロボールの中にバックスピンの成分が生まれ、それがボールに揚力を与えている。
言葉にしてみると簡単だが、それがいかに難しいことか。
回転軸が三塁側に寄り過ぎれば(バックスピンの成分が多くなれば)、ボールの軌道は直線になりやすいがジャイロボールの最大の魅力である伸びが失われる。
かと言って逆に回転軸がボールの進行方向に寄り過ぎれば、ジャイロの回転はかけやすいが揚力を得られず真っ直ぐの軌道を描かない。
ジャイロとしての伸びを失わず、かつ直線軌道になるだけの揚力を得られる回転軸の傾き。一体どんな感覚を持っていれば、毎回そんな傾きでボールを投げることができるのか御幸には想像も出来なかった。
……多分バッターにとっては、ボール2、3個はホップしている様に見えている筈。
ジャイロ特有の伸びに限りなく直線に近い軌道、そして打者の感覚を狂わすボールを投げ上げるという特異なリリース。
捕球する御幸ですら、ボールが伸び上っている様に見えるのだ。
対峙する打者にしてみたら、ただでさえ145キロ近い速球が150キロ以上にも感じられることだろう。
三球目。
サインを出した御幸が構えたのはアウトロー。少しボール気味ながらもキャッチャーの捕り方次第ではストライクにもなるグレーゾーン。
空の右腕から三度ボールが投げられる。
球種は先の二球と同じ四シーム。
低くコントロールされた伸びのあるボールがミット目がけて驀進する。
注文通りと御幸が手応えを感じたその瞬間、鉛色の一閃が振りぬかれた。
キーンと金属バット特有の甲高い金属音と共に、力強い球が一塁ファールグラウンドへと転がった。
――――ファールボール
ふぅと振りぬいたバットを構え直す哲の姿に、御幸は内心で舌を巻いた。
……流石は哲さん。三球目でもう対応して来たか。
インハイを二球続けてからのコース一杯のアウトロー。
空のボールであれば、胸元からの外角低めという対角線にボールを決めれば例え読まれていてもまず打てないだろうという判断からのリードだったが、流石はプロが注目する打者だけあって芯で捉えてこそいなかったがしっかりと当ててきた。
とは言え、カウントは0‐2でまだまだピッチャー有利。
次に対戦するバッターがいない以上、ここはセオリー通り一球外すのも手ではある。
とは言え、
……情報を与えればそれだけ打者が有利になる。
せっかくの初対決なのだから、それを活用しない手はない。
空もまた御幸と同じことを思っていたのか、御幸の出した勝負球のサインに躊躇なく頷いた。
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