Ⅰ
5月の初め。あの一年生VS上級生の練習試合からおよそ1週間の時が流れた。
まだ新年度が始まって一月しか経っていないにもかかわらず、二軍に二人、一軍に一人と例年にないほど一年の台頭が著しい今年。
しかしそんな期待のルーキー達とて基礎的なメニューは他の一年生と変わりはなく、ランニングやサーキットトレーニングを中心とした徹底した身体づくりメニューが中心。
今日も今日とてグラウンドの周りを走る一年生の集団の後方で、沢村栄純はムスッとした顔を隠しもしなかった。
「ぬぬぬ。毎日毎日走り込み走り込み走り込み……二軍に上がったのにこれじゃあこれまでと何も変わらねぇじゃねぇか!」
俺は一軍のマウンドで投げたいんだよと、二軍に昇格して早々不満をぶちまける栄純に共に昇格を果たした小湊春市は苦笑するしかなかった。
「でたね大物発言。でも一軍でベンチを温めるぐらいなら二軍で試合に出た方がまだいいと思うけどなぁ」
「試合?」
「ほら、昨日監督が言ってたじゃん。関東大会が終わったら週末にはダブルヘッダーで試合を組んでいくって」
「そういやそんなこと言ってたような……ところで、ダブルヘッダーってなに?」
「えっ、そこから? ええっと、ダブルヘッダーっていうのは同じ日に二試合行うことだよ。でも時間とか疲労とかを考えれば流石に一軍が二試合とも行うことはないだろうから、二軍の俺達にも試合に出れるチャンスは十分あると思うよ」
「おぉ! それってすげぇじゃん!」
「うん。でもまぁ、確かに栄純君の言うとおり一軍で試合に出れたらそれに勝るものはないんだけどね」
そう言って、春市は意味ありげな視線を自身の左側に滑らせた。
そのことに気付いた栄純はぬっと小さく声を上げ、春市を挟んで並走していた一年生唯一の一軍にむっつりとした顔を向けた。
「確か山城君は次の関東大会で投げるんだよね?」
「あくまでも可能性の話だけどな。先発じゃねぇから、丹波さんが好投して最後まで投げ切ったら俺の出番はないし。まぁもしも出番が来たら誰にも打たせる気はねぇけど」
うっすらと額に汗を浮かべて、空は淡々と答えた。
大して緊張も期待もしていなさそうなその口振りの中に垣間見える、己の実力に対する確固たる自負。春市は「もう一人大物がいたよ」と肩を竦めながらも、羨望の念を向けずにはいられなかった。
「でも、例え可能性だとしてもやっぱ羨ましいよ。投手は他のポジションとは違って試合に出られる確率も高いし」
「まぁ、もともと青道はあんまり投手が揃ってるとは言えないしな。逆にあの内野陣からレギュラーを奪い取るのは難しそうだけど」
「うん。だからこそ、やりがいもあるんだけどね。ところで栄純君、さっきから何ぶつぶつ言ってるの?」
「くっ。俺が一軍に上がる前にこいつはもう試合に……いっ、いや、今は敵わなくてもすぐに俺も……」
「まともにセットプレーも出来ない奴が何言ってんだか……寝言は寝て言おうな、沢村」
「なっ!? ちょっ~~~とだけ俺より上手いからって調子に乗りやがって! 見てろよ、すぐにお前よりも凄い球を投げていずれは剛速球投手として俺の名を全国に……」
「「あー。ないない」」
「そんなハルっちまで!?」
がび~んと栄純が口を大きく開けた時、グラウンドに設置されたアナウンススピーカーから独特の甲高い電子音が零れた。
――――一年沢村、山城は至急三塁ベンチ前に集合。
――――繰り返します。一年沢村と山城は至急ベンチ前へ―――
Ⅱ
ベンチ前で待っていたのは野球部副部長の高島礼、その背後には御幸一也と滝川・クリス・優がプロテクターをつけた状態で控えていた。
はて一体何だろうと頭上に?マークを浮かべた空と栄純に、礼は呼んだ理由を告げた。
「今日から二人には一年全体のメニューと並行して投手陣のメニューもこなしてもらうわ。練習量はこれまでの倍になるけど、がんばってね」
「おぉっ! ついに俺もブルペンに入る日が!」
「元気がいいわね沢村君。ただいきなりメニューをこなせって言われても難しいでしょうから、しばらく二人にはそれぞれ先輩キャッチャーと組んでメニューを消化してもらうわ。この機会に色々教えてもらってね」
「おぉっ! 何か投手っぽい」
「投手だけどな……俺もお前も。で、クリス先輩と御幸さんがいるってことは……」
「えぇ。今回あなた達と組んでもらうのはクリス君と御幸君よ」
「まじっすか!?」
栄純が驚愕と喜びの入り混じった表情で御幸を見つめている横で、空もまた栄純ほどあからさまではないが内心でガッツポーズ。
学年と所属する軍の違いからこれまで空は就寝前の僅かな時間しかクリスと一緒に練習できなかったが、これからは普段の練習でも一緒に行える。
黄金色の未来に空がわくわくしていると、
「それで組み合わせなんだけど―――山城君は来週関東大会で登板があるかもしれないから正捕手である御幸君と。沢村君はクリス君と組んでもらうわ」
「「えっ?」」
驚きの声は二つ。
片や当然憧れであるクリスに受けてもらえると思っていたから、片や知る限り最高の捕手である御幸に受けてもらえると思っていたから。
相手は違えど全く同じことを考えていた両者。
声の被った栄純と空はきょとんと顔を見合わせると、いつもならまず行わないであろう握手をがっしりとかわし、揃って高島へと顔を向けた。
「「チェンジでっ!」」
「できるわけないでしょ……」
はぁと深々と溜息を吐く副部長。
悩める才女の後ろで御幸がケタケタと笑っていると、クリスが口を開いた。
「……山城」
「はっ、はい!」
クリスの声に反応し、空は繋いでいた手を放して背筋を伸ばした。
いつもの緩い姿とは異なる、これまで見たことのない同輩の姿に栄純は驚きを隠せない様子でポカンと口を開けてその姿を眺めていた。クリスは特段語気を強めるわけでもなく、母親が我が子を諭すかのようなゆっくりとした口調で空に語りかけた。
「来週の関東大会で実際にお前の球を受ける可能性があるのは誰だ?」
「……御幸さんです」
「そうだ、俺ではなく御幸だ。ならばお前が今誰と組むべきかわかるな?」
「……はい」
愁傷に頷くと、空は御幸に向かって頭を下げた。
「これからよろしくお願いします」
「お前、本当にクリス先輩の言うこと“だけ”は素直に聞くのな」
呆れたとその顔には書いてあったが、空はとりあえず見ないことにした。
ひとまず上手く纏まったやりとりに礼は笑顔を見せた。
「山城君は納得したようね。じゃあ沢村君はどうかしら?」
「えっ?」
「やっぱりクリス君とは組みたくない?」
「お、俺は……」
「沢村。一つ言っておくが、そこにいる人は俺が知る限り最高のキャッチャーだぞ」
「はへっ?」
間抜けな声を出した栄純は一度空の顔を見つめ、そして礼の背後にいるクリスをまじまじと見つめた。
そして穴が開くほど見つめてからまたゆっくりと空の方へと戻す。
「……まじで?」
「まじだ。正直、御幸さんよりもずっと上……いっ、いててぇ!」
「ほほぉ。誰がクリス先輩よりも格下だって?」
ぐりぐりと、比較対象にあげられた御幸が空の右耳をねじりながら引っ張った。
その表情には笑みこそ張り付いているものの、笑っていない目と額にくっきりと浮かび上がった青筋がその心理状態を如実に表していた。
空は徐々に強くなる痛みに呻きながらも、その言葉を訂正することはなかった。
「じ、事実を述べただけ……」
「言うじゃねぇかルーキー。一度お前には上下関係ってものを教えてやらねぇとなって思ってたところだ」
「く、クリス先輩助けて……」
耳を引っ張る力がさらに強くなる。
このまま行けば本当に耳が引きちぎられるのではないかと、空は半分涙目で最も頼りにする先輩に救助を求めた。
「……御幸」
そして後輩からの救難要請を受けた先輩はため息と共に御幸の名を呼んだ。
やっぱり頼りになるのはクリス先輩あなただけです、どこまでも着いていきますと空は自分の想いが届いたことに目を輝かせ、
「―――とことんしごいてやってくれ。どうも山城は俺以外の上級生をどこか軽んじる傾向があるからな」
「クリス先輩~!!」
輝きは一瞬にして真っ黒に染め上る。
クリス先輩に裏切られたと、がくりと項垂れた空にはすぐ近くのはずの御幸の笑い声がどこか遠く聞こえた。
そんな一連のコント染みたやり取りに礼はクスリと笑みを見せ、
「色々な経験を積むためにも、しばらくすればまたバッテリーは入れ替えるつもりよ。だからそれまでの間、しっかりね」
「任してくれよ礼ちゃん。二週間でこいつに年上への口のきき方ってものを叩き込んでやるから」
「いや、それが必要なのは俺よりも副部長にちゃんずけのあんたの方じゃ……」
「ほら行くぞ、後輩。今からセットプレーとサインの確認して、ブルペンで投げ込み。寮に戻ったら純さんのマッサージがあるんだからな、もたもたしてる時間はねぇぞ~」
「人の話聞いてねぇし! つーか、最後のは練習と関係ないし」
「ほら。早くいくぞ」
「やっぱクリス先輩カムバ~ック!」
空の叫び声が虚しく響いた。
Ⅲ
状況は2対2で7回裏、ノーアウトランナー一塁。
打順が下位であるということと、バッターが既にバントの構えをしていることから内野はそれに備えたシフトを引いている。
カウント1―0。空は一度背後のファーストランナーを目で牽制し、セットポジションからボールを投げた。
威力を抑えた高目のストレートが寝かされたバットに当たる。
勢いの死んだ球が土の上を転がるが、その方向はピッチャー正面。
「ボールセカン!」
投球と同時に走り出していた空は半身でボールをグラブに納めると、御幸の指示に従いそのまま上半身の捻りを利用して二塁へとボールを投げた。
ランナーがベースに到達するよりも早く矢のような送球が二塁ベースに入ったショートのグラブに収まり、続いて一塁ベースのカバーに入ったセカンドへとボールは回される。
グラウンドに高々と響く二つのアウトコール。
状況は一瞬にして2アウトランナーなしへと変わった。
―――ナイスプレー、山城!
―――今の感覚を忘れるなよっ!
―――バッター! バントするならもっといい場所に転がせよオラぁっ!? いくら勢いを殺してもピッチャー正面じゃ意味ねぇぞ!
―――よし、次川上入れっ!
活気ある声がグラウンド中を飛び交う。
一先ずの役割を終えた空は礼の言葉と共に帽子のツバに手をかけ、ベンチ前から走ってくる川上憲史と入れ替わる形でマウンドを後にした。
ふぅと息を吐きながら投手陣の待機場所であるベンチ前で水分を取る空に、宮内へと番を譲った御幸は「流石だな」と内心で賞賛の声を上げた。
……流石は丸亀シニア出身。一軍に上がってから初めての実戦形式の守備練習だってのに随分とスムーズに動けてやがる。
全国でも有数の強豪シニアに所属していただけあって、基本的なセットプレーやカバーリングの動きはしっかりとしている。
まだ一軍の空気に慣れていないために微妙な呼吸のずれこそあるものの、この分で行けば関東大会までには十分修正できる。
嬉しい誤算だと、御幸は組み上げていたスケジュールを脳内で訂正する。
……前に哲さん達を抑えたことから見ても、ボールの質そのものは問題ねぇ。セットで投げても十分試合で通用する。課題はクイックだが、これは一朝一夕で改善できるものじゃねぇな。後はいざ試合になった時にどこまで自分の力を発揮できるか……
こればかりは実際に試合をやってみないとわからない。
色々不安な部分はあるが、それを差し引いてみても期待の方が遥かに大きい。
……こっちは比較的順調。さて、あっちの二人はどうなっていることやら。
Ⅳ
ストレッチを始めてからおよそ15分。
沢村栄純はそろそろ限界に来ていた。
最早十分すぎるのではないかと思えるほどほぐした左腕を更に伸ばしながら、栄純はくるりと顔を隣で同じ様にストレッチを行うクリスへと向けた。
「あの~。ちょっといいっすか?」
「何だ? 腕が終わったら次は足だ」
「あっ、はい……じゃなくて! 俺は一体いつになったらボールを投げれるんすか?」
「不満か?」
不満だと反射的に言いそうになるのを栄純は何とか抑え込む。
栄純とクリスが組んでから今日で3日目。
その間に栄純がしたことと言えばストレッチや走り込み、内幹を鍛えるトレーニングなど地味でボールを使わない基礎的な物ばかり。まともにボールを投げたのは組んだ初日にブルペンで投げた5球ほどしかない。
……これじゃ今までの練習と変わらねぇよ!
と心の中で叫んでみるが相手は上級生。
いかんいかんと落ち着こうとするものの、やはり溜まった不満はなかなか消えない。
……俺がこんなことをしている間にもあいつは―――
ギリッと、奥歯を噛みしめ表情をこわばらせた栄純にクリスは小さく鼻を鳴らした。
「お前の考えていることをあててやろうか?」
「えっ?」
「どうして山城がブルペンで毎日ボールを投げているのに自分は基礎トレーニングばっかりなのか……そんなところだろ?」
「なっ! それがわかっているなら……」
「無駄だ。今のお前がブルペンで何百球ボールを投げこんだ所で何の意味もない。単なる時間の浪費だ」
「っつ!」
余りの言いように思わず頭に血が上る。
最早上級生だからとかの考えは栄純の中には一切なく、ただ感情の赴くまま掴みかかろうとクリスのユニフォームに左手を伸ばし――――
「……投手としての自覚があるなら利き腕を使うな」
あっさりと、その伸ばした手を掴まれる。
大きな掌で手首を掴まれた左手は栄純がどれだけ力を入れても微動だにせず、その拘束から抜け出すことができない。
……この人いったいどんな握力してんだよっ!?
栄純が驚いて動きを止めると、クリスはその掴んでいた左腕を離した。
どこまでも冷めた目が栄純の全身を射抜く。
「この3日間、お前の投手としての能力を見てきた。片、肘、手首の柔らかな関節に長い指。なるほど投手としてはいいものを持っている」
「い、意外に高評価……」
「だがそれだけだ。お前は体の使い方……特に下半身の使い方が全くなっていない。ほとんど草野球のピッチャーと同じ手投げだな」
「そんなことは……」
「ないか? だが3日前に受けた5球はそうだったぞ。1球目と4球目は右に、残りの球は左にと一球ごとに体の軸が前後左右にぶれるためにフォームが安定せず、ボールに力が乗り切らない。今のままボールを無闇に投げ込んだところで大した進歩は見込めない」
……たった数球でそこまで見ていたのかよ。
淡々とした口調から述べられる解説に栄純は驚きを隠せなかった。
栄純の脳裏に空から言われた言葉がよぎる。
――――そこにいる人は俺が知る限り最高のキャッチャーだぞ
「今のお前に必要なのは短期的な視点からのトレーニングではなく、今後を見据えた長期的な視点からのトレーニングだ。サーキットトレーニングや走り込みを中心とした基礎的なトレーニングを積み重ねることで半年先、一年先に向けた体を作る。本格的にブルペンでボールを投げ込むのはそれからだ。理解したか?」
理論だった説明に栄純はぐぅのねも出ない。
単なる嫌がらせではなくしっかりと自分に合ったメニューを組んでくれていた以上、黙ってそのメニューに従うのが最良なのだろうということは、あまり考えるのが得意ではない栄純にもよくわかった。
わかったけれど、納得できるかどうかはまた別の話だった。
「……確かに先輩の言うことはわかるっす。このメニューが今後の俺のためだってのも……それでも」
「それでもなんだ?」
「それでも、それでも俺は半年とか一年後とかじゃなくて今すぐマウンドに立ちたい!」
栄純は真っ直ぐクリスの視線を受け止めた。
その余りにも強い意志の籠った目の裏に隠された焦燥に、クリスは眉を寄せた。
「……無理に焦った所で怪我のもとにしかならない。なぜそんなにも焦る? お前にはまだまだ時間がある。秋大会に照準を合わせてしっかりとトレーニングを続ければお前にも十分チャンスは……」
「俺はっ!」
諭そうとするクリスの言葉を栄純の叫びが遮った。
「俺はエースになるためにこの青道に来たっす。だけど、今エースの座に近いのは悔しいけど俺じゃねぇ。今の俺じゃああいつには―――山城には敵わねえ。でもだからこそ、これ以上差を広げられるわけにはいかない!」
「……だから山城がマウンドに上がるなら、自分も上がりたいと?」
こくりと頷いた栄純にクリスはこれみよがしに「はぁ」と大きなため息をついた。
「なるほど。山城が言ってた通りバカだな、お前は」
「んなっ!?」
「シニアの頃から質の高いトレーニングを積んできた山城とお前とではそもそも投手としての段階が違う。無理に追い付こうとした所で無駄だ――――といったところで、納得するわけがないよな」
ぶんぶんと壊れたおもちゃの様に首を縦に振る後輩にクリスはさっきよりも更に大きいため息をついた。
「……いいだろう。ブルペンで実際にボールを投げさせてやる。条件付きでだがな」
「まじっすか!? って、条件?」
「あぁ。今週末に関東大会が始まるのは知っているな?」
「えっ、そうなん……って、いや知ってますよ!」
「……知らなかったのか、まぁいい。うちが初戦で当たる横浜港北学園は神奈川の名門。守備力を売りにしているためさほど打線が強力なわけではないが、恐らく今の状態の丹波では最後まで投げ切ることはまず無理だろう。となれば必ずどこかで山城がマウンドに立つ機会がくる」
「あいつが……」
「そうだ。そしてその山城の投球を見てもまだエースになりたいと思っていられるなら、ブルペンでボールを投げさせてやる」
どんな無理難題が来るのだろうと構えていた栄純はクリスの言う条件を聞き、きょとんと眼を瞬かせた。
「思っていられるって……それだけでいいんすか?」
「あぁ」
「なぁ~んだ。簡単じゃないっすか」
楽勝、楽勝と気楽に笑う栄純。
クリスはそんな余裕綽綽な後輩に何かを含んだ笑みを浮かべた。
「あぁ、楽しみにしている……」
ようやっと次は関東大会。サクサク行きたいな~(できるかは別にして)。
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