実質短編なので近日中に完結します。
イチャラブハッピーエンドになりますのでよろしくお願いします。
口蓋まで満ちる幸福の味。鼻腔を抜ける恍惚の香り。
人間というのは数十余年の人生の中で、真っ当なそれを歩んでいたものでさえ、多かれ少なかれ何かしらの秘密を抱えるものであり、漏洩に怯えながら、沈黙の選択を余儀なくされるのが必然的である。
しかし、そんな普遍的な事柄の中で、創作や冗句などでとりわけ取沙汰されるのが、乙女の秘密というものである。また、類するものとして、女は秘密を抱えて美しくなるなどという表現のされ方をすることもあり、女性の秘密というものを美点として語る草がある種の定番、定型化されている光景を珍しくも無く見聞きすることができるだろう。
世間的な目で見ると、天音ちえはごく一般的な高校二年生であり、穏やかな日々には要らない後ろめたい過去や不穏な影の無い、未来を担う若者だった。そんな月並みに未来ある学生のちえは、心中をなかなかに穏やかなものにしていた。
前日の夜、ちょっとした好奇心からネットでの調べものに夢中になっていたが故に、ほんの少しばかり夜更かしをしてしまったちえは、その代価を朝の支度の余裕で払っていた。
昨晩の自分の愚かしさたるやどうしてくれようかなどと考えながら、新品の鏡の前で奇怪な彫像と化していた髪を元に戻し、自身の通う高校の制服に袖を通すという、器用ともはしたないとも言える芸当で何とか人前に立てるまでに身だしなみを整えると、鞄を指に絡め、自室のドアと教科書や体操着など幾個かの忘れ物の間を往復するというコメディじみた動きを見せた。
「おはよう、お父さん、お母さん」
朝の七時過ぎ、せわしなく身支度を終えたちえがリビングに顔を見せると、三人家族である天音家には少し広々とし過ぎた空間で、母親がコーヒーを淹れてのんびりと新聞を読んでいた。
「今日は遅起きね、空君はさっき出てったわよ」
ちえがそのまま歳を重ねたような、茶目っ気のある表情で娘を急かすと、急かされた側は「なんで今空のやつの話が出てくるのさ」と忌憚なく溜め息をつき、一瞬体の前で手を合わせた後、栗皮色に表面を焦がしたトーストを頬張った。
「お父さんはもう仕事してるの?」
リビングに隣接した、灰色の壁紙にパソコンのライトが反射する、心を休める居場所とは趣を異にして厳とした匂いさえ漂う、俗に言う仕事部屋にいるだろう父親の方を一瞥しながら牛乳を流し込む。
「最近ちょっと忙しくなってきたみたいでね……在宅ワークのお仕事を選んでほんと良かったわ。ただ、近いうちにどうしてもちょっと外に出ないといけなくなるかもしれなくて、それだけが気がかりね」
「へー……それは確かに心配だ、それじゃ行ってきます!」
ちえにしてみれば父親が殆ど家にいて、日中仕事をしているというのは子供の時から変わらない環境だ。この働き方が世に浸透どころか世間に知られていなかった時のこと等知る由も無く、コメントを残すような事由でもなかったため、朝食を食べ終わるとすぐに流れるような動作で歯を磨き、学校用具一式を引っ掴んで外に飛び出した。
肩口まで伸ばした鴉色の髪を人差し指で弄りながら、三か月前に買い替えたばかりのスマートフォンで流行りの音楽を聴き、代わり映えしない退屈な通学路をほぼ無心で、ほんの少しばかりの期待を残しながら駆け足で進んでいくも、自身と同じ制服の女子生徒は散見されたが、残念ながら彼女の望む姿は見つからずにいた。
やはり十数分前に出発した男子に追いつこうと思うのが間違いだったか、とちえが悔やみ歩調を落とそうとしたところ、通り道にある数少ないコンビニエンスストアの駐車場に、見慣れた、を通り越して見飽きてしまいそうな、その実数年おきに新しい発見をさせてくれる、よく知った立ち姿を目視することができた。
スティックパンを頬張りながらスマホを横向きに持ち、何やらゲームをやっているようだったが、通学という行為の中にそのような贅沢を挟める余裕を見せつけられたような心地になり、理不尽な怒りが湧いてきてしまう。
ちえは緩めた足の回転をまた早めると、イヤホンを外して無造作に鞄のポケットに押し込み、手元に夢中なせいで、まだ小突進してくるちえに気付いていない様子の目標のその隣に迫り、大きく右腕を振り上げた。
「おっはよう空君!」
「いってぇ!」
のん気にゲームをしている男子を射程に入れた彼女は、自分の目線と同じくらいの高さの肩目掛けて、天を仰ぐ掌を力いっぱい振り下ろし、彼女の幼馴染、坂倉空の情けない悲鳴を堪能することに成功したのである。
自身の肩をさすりながら、やや涙ぐんだ目で暴行を加えた犯人を睨む男子生徒、空もまた、どこにでもいる男子生徒という普遍的な個性の少年だった。二人の家は二、三件家を挟んではいるが、親同士が旧知なせいもあってか、幼少期より数多くの親交があり、その縁が義務教育を終えてからも続くという意外性も含まれながらも、特筆することがない“幼馴染”という関係性に纏まっていた。
ちえや空の両者からは半ば腐れ縁を感じられるという心の声が上がりそうなものだが、思春期の奇々怪々な心象模様は、易々とえにしを腐らせてはくれないものらしかった。
「こんな時間に悠々自適にご朝食とは良い御身分ですこと、遅刻も軽く許されるのでしょうねぇ」
「いや、なんでそんな厭味ったらしく言われなきゃいけないんだ……って思ったけどもうこんな時間か」
ゲームアプリを落して空が時間を確認すると、それもそのはず、ちえがあんなに慌てて出立しなければならなかったほどなので、ゆったりと登校するような猶予は残されているはずもなく、彼もまた鞄を肩にかけ、厄介な幼馴染から逃げるように学校へと歩を進めるのだった。
ちえも男子のやや広い歩幅に負けじとちえもその背中を追うように駆け、なんとか空の隣に陣取ることができた。
あれだけ面白みが無く、意識を飛ばすのに近いほど心を無くせる路地が、一瞬にして価値が億を超える名画のように色鮮やかに映ってしまう。ネタが無いせいで会話の数がそれほど多くなくても、気まずさを感じる余地もない。完璧にメイクされたベッドに寝そべる様に滑らかに会話ができる。
ちえの空に対する印象は、それが全て物語っていた。
通学路を急いでいることすら頭の隅に追いやられてしまいそうになりながら、まだ布団への未練を引き摺る目つきの空を後目に、ちえはここ数年、その身を徐々に蝕んでいる違和感に首を傾げる。
とても不可解なものである。特に、同年代の友人というもっと口の軽くなる存在にも共感を得られがたく、言語化というフィルターを通す作業をしても共有をし難い感覚であり、この燻りが晴らされる気配というのが全くないので、空と顔を合わせる時間は安堵を得られる希少な時間でありながら、記憶の彼方に置き去りにされた重要な試練に焦られるような、居心地のあまりよくない場面になってしまっている。
これが俗に言う恋愛感情絡みなのだろう、ということは、さすがにちえにも自覚はできつつあるのだが、“だろう”と推定の形になってしまうのはひとえに、彼女の恋愛遍歴と、その心象の移ろい具合から来るものであった。
ちえに彼氏、或いはそれに非常に近しい存在がいなかったわけではなく、数人の経験はあったわけで、その内容もまた、カップルとしての体裁は保てていたし、それは彼女を見ていた周りも保証してくれるだろう。ただ、ちえの本音だけが違っていた。
最初は、男子への気になる思いに対してこれも恋なのだろう。と自分の感覚に見当をつけ、周りに倣い恋という名前を付けていた。しかしながら、パートナーと日々を盛り上がりに欠けたまま過ごし、カップルが熱を上げるイベントを言われるがままに一通りこなした後に虚脱感に襲われ、はたまた恋に恋する乙女達の集会に参加し惚気話を暴露し合ったはいいが、どこか論点がずれたとしか言いようがない噛み合わなさに、愛想笑いと空虚な同意を示すままになってしまったところ、それも友情の一種に過ぎないのだと悲しい気付きをしてしまったちえは、その先に一つの結論、極論に辿りついてしまったのである。私には、人の持つ恋愛は分からないのだと。
その自覚を持ってしまってから、色恋沙汰に目を向けることをちえは殆どしなくなってしまった。同級生らの話に合わせるために適当な嘘を用意し、もしくはテレビに出ているタレントを架空の好みに仕立て上げるなど、同性の輪から浮かないように取り繕ってはいるものの、最早恋愛に生きることはほぼ無いだろうとまで思う始末だった。
だからこそ、異性としてほぼ意識することがほぼなくなってしまった、空という男に対しての理性からの警告が、彼女にとっては払拭すべき大きな疑問であり、過去の感情を帳消しにする唯一の希望に等しいのだった。
という感じに悶々と意識が外に追いやられていると、生活指導の教師が、登校してくる生徒たちに威勢よく挨拶を投げかける、いつもの校門が二人を出迎えるのが見えてきたところで、ちえに先んじて空が昇降口へ走り出した。
「んじゃあな」
ちえの心中を与り知らない空は、物足りなさそうに口を半開きにした幼馴染の方を見向きもしなかった。ただ、自分の抱える問題を匂わせもせず、数年も同じ態度を取り続けた結果だというのは分かり切っていたことだったので、置き去りにされた側も責める気にはなれなかった。
朝のホームルームの予鈴に急かされながら、ぼんやりと自身の好物である肉料理のことを考え始め、少しばかりの食欲に胃がむず痒くなる感覚に、彼女はほんの少し羞恥を覚えた。
あと一年半余り、多少の変化はあれど、この平凡平穏な日常が続いていくものだと思っていたのは、決してちえだけではなかった。彼女の友人も、幼馴染も、空も、同級生も、皆等しく、有意義な青春を過ごすのだろうと、楽観していた。
「好きです、付き合ってください」
飾り気のない、何ともシンプルな言葉でありながら、それはどこまでも真っ直ぐで裏表のない心の表現だったのだろう。言われた方も、発した当人すら青臭さを鼻で感じとれてしまいそうな程の青さ加減だった。
まだ日中の鋭さを失ってはいない夕日が、授業終わりの教室を赤く浸食する中、太陽に負けず劣らず顔を赤らめながら自身を見つめる男子生徒を、冷ややかな眼差しで見返しつつ、ちえは大きな嘆息を突かずにはいられなかった。
事態は至って簡単で、その道筋もシンプルそのものだ。高校二度目の春も過去になり、新しくなった環境に慣れてきたころ、とある男子に一つの願望が芽生える。そろそろ学園祭の浮つきを感じられる頃なので、その頃には彼女の一人はキープしておきたかったに違いない。夕方何時何分に大事な話があるから教室に残っていてほしいとの頼みを受け、極端に嫌いな生徒でもなかったので教室での告白に面と向き合うことにしたのだ。ちえを選んだ理由は、告白した彼自身にもよくわかっていないようだったが、大して恋愛経験のなさそうな雰囲気を漂わせていたので、特にないのだろう、とちえは結論付けた。
ともあれ、然程接点のない異性に好意を直に寄せられたところで、困惑するほかないのが悲しい定めだ。グラウンドから響いてくる野球部の掛け声とバットの打撃音をバックに、形だけの思案をちえが見せつけると、男の方は脈があるように取ってしまったのか、瞳の輝度が増しているような様子だった。
容赦なく、切り捨てた方がこの男の為になるだろう。無理、という旨を限りなく優しく、絹に包み込むような言い方を心掛けて返答することにした。
「ごめんなさい、あなたには興味がないの」
……柔らかく包みはしたが、梱包されたものの威力を抑えることはできなかったようだ。
男子生徒が「あんまりすぎる!」などと年甲斐も無く泣き喚いて廊下に出る後姿を無関心に眺めると、数分前に来た彼の名前もすっかりと忘れ果ててしまった。仮にも同じクラスの人間だというのに手荒く扱いすぎたかと、彼女自身も思わないわけでもなかったが。
男子生徒のことを擁護するのであれば、ちえの恋愛倫理観とも呼べる、年頃の男女に合っておかしくない心理の変化というのが常人のそれとは異なっていたが故の事故だった、と言えなくもない。
男子生徒が走り去った教室は、一人残されたちえを早く追い出そうとしているかのように、不安を掻き立てる場所になっていた。隣の教室はおろか、同じ階にも人はいないのだろう。生徒の和気藹々とした声が響く外と、静寂の浸透する校舎内のコントラストに追い打ちをかけられたところで、ちえは自分の鞄を肩にかけ、翌日、色のついた話に目のない級友らにどれだけ弄られるのか、その惨状を想像し背筋を凍らせながら帰途につくことにした。
途中、構内の自販機で飲み物を選びながら、後から湧き出る自責の念にちえは唇を噛んだ。
こういった事態には、慣れたはずだった。自身の異常を自覚してから、幾度となく男性の告白を断ってきた。罪悪感がないわけでなく、むしろこんな地雷女を好いてくれたことに申し訳なくなることの方が多い始末だったりする。それでも、軽率に承認し、後になってお互いに傷つくことになるのは、さらに酷い事なのだという気持ちも、経験則から常にあった。
灰色の粘着質な感情が喉の辺りを撫でる不快感に苛まれるようになると、いつも浮かぶのは幼馴染、空のそっけない横顔である、
なぜ、何故こういう時に彼の情けない顔を思い浮かべてしまうのだろうか。もうその一線を越えられるような時期は、とうの昔に過ぎてしまっているはずなのに。
どこからともなく、分厚い肉の焼ける音が耳の奥ではじけ、嗅覚を香ばしい香りが想起し、舌が、豊潤な肉汁の味を思い出してしまう。
胃袋の要求の突飛さに困らされることは多々あれど、今回のそれは以前までの物よりも遥かに意図が読めず、子供を叱るような手つきでお腹をはたいた。
空気の読めない空腹感に多少救われた気分になったちえは、帰りにコンビニで肉々しいものを買い食いしてしまおう、そう思い直して校門を通り抜ける。すると、ズボンのポケットに両手を突っ込み、虎のように鋭く目を光らせている、もうこの時間には学校にいないはずの、剣呑な雰囲気を纏った幼馴染の姿を見てしまったのだった。
「く、空がこんな時間まで残ってるって珍しいじゃん、帰宅部なのにさ……。何か用事があったの? あ、もしかして私待ちだったりする? それならそうと言ってくれればよかったのにー」
予想外の遭遇にテンポが暴走し、口から矢継ぎ早に誤魔化しがちえから飛び出す。長年顔を見てきたというクッションがあからさまな露出を抑えてくれてはいたものの、幼馴染というアドバンテージを得ていたのは空の方も変わりがないので、挙動不審演技力赤点の女子高生を数秒間観察すると、ふっと肩の力を抜いてちえに背を向けてしまった。
「あっ、待ってよ!」
慌てて空の背中を追うが、普段通りならば無意識のうちにちえの幾分か狭い歩幅に合わせて歩調を調節している彼が、あたかもちえを引き離そうとしているように、彼女との会話を拒んでいるかのように、ずいずいと前を進んでいってしまい、一向に距離は縮まらない。
ちえが彼の背中から感じ取ったのは怒気だった。それも自分に宛てられたものではなく、明確な行先の定まっていない、無理やり表現するならば、内向きに刺されている自己否定の刃のようだった。
クラスが違うこともあって、今日一日殆ど接点のなかった幼馴染が何をそんなに腹立てているのか、追求したい欲もあり、一体誰が彼をここまで追いつめてしまったのか、その犯人に対する強い敵意がちえの中に芽生え、なんとかして空の口を割らせたいと声をかけようにも、昨日より二回りも小さく見える物悲しい男の背中に、喉から出ていくものはなかった。
「あのさっ」
だが、高校に至るまで示しあったわけでも無いのに勝手に隣り合った道を歩んできた、青春の半身と言っても過言ではない存在のそんな姿を見せられて、手を伸ばさないわけにはいかなかった。
「なにかあったんだったら私に言いなよ! ほら、私たちなんでか知らないけどここまで一緒にやって来たじゃん、頼るも頼られるもさ、なんというか、こう、どうだっていいじゃん!」
堂々巡りの感情が整理されているはずもないので、脳の理性的な部分が羞恥心をイエローカード代わりに突き付けてくるも、ニュアンスが先行して理論的な事は何一つ組み立てられないまま、言葉ばかりがその後も飛び出していく。
「今更隠し事なんてはっきり言って無駄じゃん、もう何年の付き合いになるわけ? お互い知らないことの方が多いわけだしさ、もうこの際何でも言っておきなさいって、ほら、何でも聞いてあげるからさ。何でもは聞いてあげないけど」
最後の最後で本心を伝えられることができ、ちえはそこで一度言葉を切った。ここでスルーという選択を取られてしまうと、彼女からは空の表情を窺い知ることができないので、どうしようもなくいたたまれなくなってしまい、コンクリートに穴を開けて墓を作りたくなってしまいそうな衝動に駆られてしまう。
部活終わりの男子生徒が数名、自転車の鈴を鳴らして二人の傍を通り抜けていく。泥と汗の混ざったきつい匂いが風に乗り、そちらに意識が行きかけた時、
「でもお前はさ、大事な事俺に話してくれなかったよね」
空が掠れた声で漏らす。ちえはそれに「へっ?」と間の抜けた声で返すことしかできなかった。
「知ってるんだよ、お前が今までいろんな男子と付き合ってきて、どんな理由で別れてきたか」
「あ、あの」
「お前の友達がさ、俺に気を利かせていっつも教えてきてくれてたんだよ、お前がどんな風に悩んでるのか。お前が恋人についてどんな風に悩んでるのか。お前さ、付き合い始めたって報告はしてくれるけど、何で別れたのかとかは教えてくれないよな」
「そ、それは人に話すことでもないというか、秘密にしておいた方がいいかなって思ったからというか」
「じゃあさっきのあれは何だったんだよ! 隠し事なんて無駄だって言っておきながら、お前自身が一番隠し事してるじゃないか!」
空が激昂した。ちえに向かって、声を荒げた。
ちえにとっては、久々に見る光景だった。恐らく十数年の付き合いを振り返っても、ちえのちょっかいや弄りにもやんわりと対応し、温厚な態度を崩さないでいたので、負の感情を表に出さない、比較的内向きな人間だと、ちえはそう思っていたから。
二人が同時に足を止めて、車が二、三台通り過ぎるまでの間、空白が生じる。空の次の行動を待ってただ呆然とするしかないちえと違い、空は数度躊躇の色を見せるが、やがてのっそりと振り返った。
男子としてのプライドからか、口の端を今にもちぎらんとばかりに引き絞り、目の淵から感情が結露して零れ落ちそうになっているの必死に飲み込み、決壊寸前の河の如く肩を震わせる空のその姿が、幼馴染という関係をある意味で楽観視していたちえを、悉く貫いていった。
ちえが項垂れてしまっても、空は構うことなく続ける。
「俺を憐れんでか? 俺が傍にいるからか? 俺に遠慮してたのか? 俺がお前の恋愛を邪魔してたのか? お前のために、俺はお前から離れるべきなんじゃないのか?」
「ち、違うよ! なんで空が自分を責めるのかわからないけど、私の悩みは私が原因なのであって、空がいるからとかそういうのじゃない、きっと、私が割り切らなきゃけないことで、だから相談しなかったわけで……」
「認めるんだな、お前の嘘。隠し事なんてしたってしょうがないなんて」
二人の時間すら凍り付かせそうな、空の低い声にちえはとうとう二の句を継げなくなってしまった。反論しようにも、ちえは半ば自分の矛盾に気付きかけてしまった。もう何を口走ろうとも、空を呼び止めることは能わない。
空はちえにもわからないほどの瞬間顔を歪ませると、普段の帰路とは違う方面へ、ちえを置いて歩きだしてしまった。この後ちえに追いつかれてしまうのを恐れてか、それとも、自分の通告を噛みしめるための時間が欲しかったのか、あるいはその両方か。
空の姿が完全に見えなくなってからも、ちえは、追いかけることも、逃げ出してしまうこともできないまま、足を固着させてしまっていた。気を付けなければ呼吸をすることも忘れてしまいそうなほど、彼女の身体はその制御を拒み、ただの人形へと近づいていくようだった。
何を、どう間違ってしまったのだろうか。通り過ぎる人々の奇異の視線をよそに、ちえは自問を繰り返す。
どうすればこの結末を回避できたのか、自身の心中を打ち明けてしまうべきだったのだろうか、どうしてこうも、空に拒絶されて胸が痛く、死んでしまいたいほどに目頭が熱いのだろうか。
何より、親以外の誰よりも分かり合えていると思っていた幼馴染の胸懐に、数年間積もり続けた果てしなく重い何かの存在に気付くことができなかった自分が悔しく、その悔恨すら傲慢だったのかと思うと、やりきれなさの渦が内臓を掻き混ぜていった。
「本当に違うんだよ、空がいなければとか、そんなこと考えたことも無くて……」
底なしの沼に沈んでいく気分と共に、ちえの視界も段々と黒ずんでいく。意識が完全に飛んでしまう前に、彼女の身体を支配していたのは、強烈な飢餓と、ざらついた喉の渇きのみだった。
次にちえが意識を取り戻したのは、夜の闇に呑まれた自室のベッドの上だった。一体どうやって家に帰ってきたのか記憶には一切残ってはいないが、跳ねのけられた掛布団と、触り慣れたベッドのシーツの感触、使い古された目覚まし時計の配置と、馴染のある天井の蛍光灯の装飾が、確かに帰ってきているのだと自覚させてくれた。
どうやら制服を着たまま寝込んでしまっていたらしく、慌てて脱ぎ捨てて目立った皺が付いていないことを確認し、小さく安堵の息をついた。さっきまでの自分の状態からすると、晩御飯も食べていないだろうことは想像に難くなかったのだが、不思議とちえのお腹は満たされていて、むしろ好物を食べた後の様な高揚感すら感じる次第だった。スマートフォンを充電器に差し込みながら時間を確認すると、夜の二時半で、絶妙に中途半端な時間だった。明日が土日ならまだしも、当然の如く平日なので、せめてシャワーを浴びてもう一度寝ようと決めて浴室に向かった。
程よい暖かさの温水を浴びながら、空との一幕が、どうか短い悪夢でありますように、と願う。が、そう都合のいいものばかりだとも思えない。ちえの眼窩には、寂しさの籠った熱がまだ籠っていて、それが、妄想ではなく現実だったのだと強く主張して引かなかった。
これ以降、どんな顔をして空に会えばいのだろうかと、ちえは気が気でなかった。家が近く、通う高校も同じ。生活圏が一緒なので、どうあがいても、空に遭遇しないわけにもいかないだろう。
一度底辺にまで下がったと思っていた気分に、まだ下がる余裕があるのかと驚くちえだったが、寝ぼけた頭と鈍化した知能でこれ以上考えても、答えはきっと出ないのだろうと区切りをつけて、シャワーを切った。
黒っぽく濁った水溜りを見て、あの後の自分は一体何をしたのだろうか、泥遊びでもしたのだろうかなどとよそ事を考えたのもつかの間、着替えを済ませた途端またもや意識に靄が掛かり始めるが、今度は純正の眠気らしく、頑張って抵抗しながらも散らかした制服も放置したまま更衣室を後にし、ベッドに身体を倒れ込ませると、規則正しい寝息を立てはじめる。
今度はいつもの起床時間になるまで、ちえは目を覚まさなかった。
時間というものは平等且つ無慈悲なもので、幼馴染に対する解決策が何一つ存在しないまま、朝はちえの眠りを打ち破ってしまう。
脱衣所に放置されたままのはずの制服がいつの間にか自室の机の上に置いてあったが、あちこちにクリーニング後のタグが括りつけてあったので、母親が予備の物を用意してくれたのだろうが、となれば、母親が気を利かせて回収してくれるほど汚れていたことになるわけで、ベッドのシーツに移ってはいまいかと危惧もしたが、そちらの方には被害が及んでは無いようだった。
「お母さん、私制服脱ぎっぱにしてたはずなんだけど、どっかやった?」
「大分汚れてたから今日クリーニング出そうと思って拾っといたわよ。どんなはしゃぎ方したらあんなになるのよ」
「その、ごめん、記憶にございません……」
クリーニングに出す必要はあるが、二次被害のようなものは確認できない程度の汚染が一体どのようなものなのか、興味は尽きなかったが、実際どのくらいの酷さだったのかをあまり注視したわけではなく、そもそも興味も掻き立てられないところだったので、ちえは大人しく朝食を食べることにした。生活規則の乱れた影響か、焼き立てのパンとバターの織りなす心地の良い香りがほとんどせず、ちえは少しだけ落胆する。
珍しく父親が朝のこの時間帯に仕事をしないでリビングでテレビを見ているので、トーストを咥えながら画面を眺めてみるも、番組自体はただのニュースだったようで、すぐに目を逸らしてしまう。
『……次のニュースです。……県の県立高校の周辺で、五十代の男性の遺体が発見されました。被害者の男性は職業不詳で、高校近くの公園で寝泊まりしている姿が何度も目撃されており……警察は、事件の線で捜査を進めるとして……』
聞き慣れた名称がニュースキャスターから発せられたのを聞き、ちえは首筋がざわめくのを自覚した。
「うちの高校の近くじゃん」