偏執狂の刻印   作:エビの衣風巻

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2話

 

 空と鉢合わせすることを恐れ、いつもより少し遠回りな道を選んだちえは、渦中の存在にどうやって謝ればいいのか、どのように接したらいいのか、必死に思考を巡らせた。自分は悪くなくて、勝手に勘違いと暴走をしている空に非があるのであって、自分があくせくする必要などなく、次第にほとぼりも冷めていくだろう、という考えも浮かんでは消えて、登校までのわずかな時間の中では当然それらしい答えなど出るはずもなかった。

 校内では、既に今朝のニュースで話題は持ち切りになっていた。それもそのはず、事件現場は学校から徒歩十分もしないところで、時たま、運動部が練習場として使いもしている、親しみを持つ生徒も少なくない場所だからだ。地上波などで流されているニュースではかなりぼやかされていたようだったが、ここは実際の現場は目と鼻の先にあるので、それ以上の情報が噂となって、事件のスケールを大きくしながら伝播していっているようだった。

 ちえの関わるグループの中でも暇さえあればその話題が取り上げられたが、特段そこまで惹かれるものでもないし、むしろこの手の話は忌避されて然るべきものだという意識があった側の人間だったため、会話の深くまで参加することはしなかった。しかし、そんなちえの耳にも残る程取り上げられた噂というのも存在している。曰く、被害者の男性の遺体はひどく欠損していて、とてもじゃ無いが正視に耐えられない惨状だったと。曰く、被害者は身体のあちこちを食いちぎられていて、まるでゾンビ映画の死体の様な有り様だったと。曰く、その日は全くの静寂を保たれていて、野生動物などの被害もあまり聞かない地区だったので、警察も殺人事件として動くしかなかったと。

 学校の近くで厄介な事件があったとなっては学校側も何かしら動かないわけにもいかず、多くの部活動が中止となり、授業後は速やかな下校が命じられた。部活を日々の楽しみにしていた層からはブーイングが飛んだが、元々帰宅部だったちえにとってはどうでもいいことだったので、むしろ帰り道に人の密度が増して空と遭遇する確率が減るのを後ろ向きに喜ぶくらいだった。

 授業の大半を空への対策を考えるのに費やしたちえは、学校から解放されるとすぐに教室を出ようとしたのだが、前の席に座る友人らに呼び止められてしまった。

 

「あのさ、ちえ、この後みんなで買い物行くって話があってさ、一緒に……ってどうしたの。顔色悪いよ?」

 

 一人がちえの顔を見るなり誘いの文言を止めて彼女の背中をさすり、そのほかの面子も心配そうに眉を曲げてしまう。肉体的な変調は特に感じられては無かったのだが、無論精神的な面では大荒れも大荒れな模様だったので、表にも出てきてしまっていたのだろうと推し量れた。いくらふさぎ込んでいても、迷路の解き方は浮かんでこないものだと割り切り、とっさの嘘でその場を誤魔化すことにした。

 

「いや、さっきの時間の英語の小テストの出来があまりにも悪すぎて……」

「それでめっちゃ焦ってたってわけ? 大丈夫でしょ、真面目さんだなぁ」

「そんなことないって、んで、買い物行くんでしょ、私も付き合うよ。お腹もすいたし」

「ちえの空腹宣言だ! みんな胃袋の空きは大丈夫か!」

 

 取り巻きを含む空気が少し弛緩し、なんとか乗り切れたことを確信すると、表情を陰で作り直して、友人の集団に合流をしたのだった。

 

 

 

 

 

 その日食べたスイーツの味はほとんどしなかった。

 

 

 

 

 

 友人たちと一通りはしゃいだ後、帰宅したちえは翌日の準備を整えてすぐ、夜の十時を回ったばかりの時間だというのに、既に布団をかぶり夢へ向かう船を漕ぎつつあった。大方、前日の変な睡眠のせいだろうと予想はついたのだが、昼間大きく体力を消耗したわけでも無かったというのに、かなり不自然な疲労具合だった。

 スマートフォンでSNSを流し読みし、適度に返信を返していくが、次第に反応速度は鈍っていく。意識が落ちるのをちえが自覚し始めて、ふと空の顔を思い出してしまうが、鈍化した思考に厄介事を処理する能力は残ってはおらず、物悲しさがちえの鼻を撫でるのを皮切りに、ゆっくりと携帯を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 見慣れない場所に、ちえは制服姿で立っていた。秋冬ほどではないが、やはり完全に日の落ちた後の世界というのはかなり肌寒いもので、どこかから漂う、錆びた鉄の様な尖った匂いが嗅覚を刺激してくることもあって、身を竦ませざるを得ない状況だった。

 いや、見慣れないというのは間違いだったかもしれない。日中よく訪れる場所でも、灯を失い、人気も払われ、黒々とした影が表面に張り付けられれば、記憶の中の風景との相違は、まるで異邦の地に等しい印象を与えるものである。実際、点々と設置されている照明の配置と、それに照らされ浮き出ているベンチやごみ箱は見覚えがあるもので、敷地の端の方には物々しい空気を漂わせる黄色いテープが張り巡らされていて、この状況から察するに、巷で噂の事件現場、ちえにもなじみ深い公園に彼女は訪れているらしかった。

 今一番の悩みの種ではなく、特段興味を持てなかった昼間の噂話を夢に観るなど、実は自分も野次馬度は高いのではとちえも思わなくはなかった。

 これほど明確に夢を見ているという認識があるのだから、自由に動けてもいいはずなのだが、残念ながら体の主導権は夢の方にあり、このリアルな夢を鑑賞することしかできないのだとわかれば、流れに身を委ねることを渋々承服するしかない。

 夢の中のちえは辺りを用心深く見渡すと、その場にしゃがみ込み、両膝をついて地面に転がる何かに鼻を近づける。視界の端には成人男性のこぶし大ほどの石が転がっていて、その半分が赤黒く変色していた。

 

 そういえば。

 そういえば、先ほどの異臭は何だったのだろうかと、ちえはようやく引っかかった。この公園に使い古された遊具は無いし、巨大な石がグラウンドに落ちているという状況も珍しい。

 あの石の黒い塗装は何だ、自分が屈んだのはなぜだ、自分は何をしようとしている、自分はなぜ、この場所にいるのか。

 

 嫌な予感が寄り集まって、徐々に形を成していく。

 そういえば、血潮というのは、鉄の匂いがするのだとよく聞くではないか。確かに、昔鼻血を出した時にも、似たような風味がした。あの石ころも、ところどころ鋭利な形状をしてて、あれで人の頭を殴ろうものなら大惨事は免れないだろう。

 例えば、自分の目の前に倒れ込んでいる男性のように、無様に横たわり、

 頭から留処なく生命の滴と脳髄を垂れ流してしまうように。

 呼吸、鼓動、その一切が止まったかのような錯覚がちえの意識体を揺さぶる。夢の自分の犯した過ちを噛み砕いて飲み込もうとすべく、夢の一時停止を試みようにも、その方法を彼女は知らなかった。

 

 瞬間、舌から脳髄に走り抜ける快感があった。味覚が暴走し、歓喜に打ち震えるさまが脳に響き、理性をすりつぶしていきそうなまでの衝動が舌を動かしていく。顎に伝わる食感がこれ以上無く心地よく、日頃の食事でもしないような咀嚼回数を記録していく。進めば進むほどそれから流れ出る液体は勢いを増し、彼女の顔を汚す。ああ勿体ない、素晴らしい料理を溢してはいけない、味わえるものはなんとしてでも味わい尽くしたい。反芻するのを一時止め、暫くのどを潤すことに集中するが、この喉越しもまた極上の逸品で、一滴一滴が喉の細胞から浸透し、骨髄から全身にいきわたっていく官能的な流れに全身が震えた。噴出が少し弱まったところで、ちえはまた口を動かし始める。

 はて、自分は何を恐れていたのか、何を疑問に思っていたのだろうか。ちえは飽和した意識の片隅に思考を取り戻したが、幸福と充足の波にそれも飲み込まれていく。やがて人としての感性にも侵食は及び、倫理や理性が少しずつ崩れていく様は、獣の御姿と大して代わり映えしなかった。

 料理が二分割されたところでちえの食欲はようやく治まりを見せ、おぼつかない足腰で立ち上がると、自分から逃げまどっていた哀れな食材の表情をまざまざとちえは見下ろした。スーツ姿の男性が自分の血に濡らされ、何も映していないぶよぶよとした眼をちえに向けていたが、かつてない多幸感の余韻に浸っていたちえには何も伝わらなかった。

 夢の中の狂人と、それを体験したちえとの境界は今やあやふやで、夢と現の境目すら消え去りそうな気もしていたが、辛うじて残されていた現実の一断片が彼女にこうささやいた。

 

「違う、これは私じゃない。私はこんな、こんなものを食べたいなんて思ったりしない」

 

 些細な抗いを嘲笑うかのように、ちえの肉体はその指をいやらしい音を立てながら舐めるが、狩人の如く鋭い視線が首筋に刺さるのを察知すると、その発生源を探すべくすかさず振り返った。

 二百メートルは向こうだろうか、公園の入り口に立ち、灯の届かない場所であることを加味して背格好から推測することしかできないが、布にくるまれた長物を握りしめながらこちらを睨み付けている、長身の男性と思しき人影を目にすることができた。

 弾けるように駆けだし、その場を離脱しようとするところで、けたたましい電子音がちえの世界を再構築し、彼女は平穏な、彼女自身の部屋に意識を戻すことに成功したのだった。

 

 

 

 

 

 

 全身を万遍なく覆う寝汗のべたつきが、ちえの朝を迎えた実感だった。勿論寝覚めは最悪だった。自分が怪物のように人間を襲い、捕食し、それでいて満ち足りた感覚すらあったとなれば、普通の人間であれば、正気を失いかねない悪魔の映像を延々と見せられていたに等しいのだから。

 夢というのは目を覚ます頃には半分以上忘れることも珍しくなく、時間の経過とともに薄れることを期待したりもしたのだが、夢というより、記憶、記録の様な側面を持っているかのようにちえの眼窩にこびりついて離れようとはしなかったので、生々しく、ぬめりを持った不快感を伴ったまま一日を過ごさなければならないのかと思うと、憂鬱度合いは激しく増していくのだった。

 このまま着替えようとはとても思えなかったので、とりあえず朝食を食べ、シャワーを浴びてから登校しようとリビングに向かう。

 珍しく寝間着のままの娘に意外そうな反応を見せた母親だったが、ちえはそれを無視してテーブルにつき、いつものトーストに手を伸ばした。しかし、バターの芳醇な香りと、程よい焦げ目のついた美味しそうなパンも、今日はなぜだか食が進まなかった。味に変わりはなさそうだが、胃腸が、喉が、それ以外を渇望しているようにも感じられた。

 

「お母さん、今日は父さんの仕事の付き添いで一日外に出なきゃいけなくて、しかも結構遅くまでかかりそうなの。だから晩御飯は自分で何とかしておいてね」

「わかったわかった」

 

 母親が話しかけてくるのを聞き流しつつ、今朝も父親がテレビをつけていたので、流れているニュースを見ながら残るホットミルクに口を付ける。ニュース番組のキャスターは深刻な面持ちで淡々とニュースを読み上げていき、やがて例の不審死事件の続報に切り替わった。

 ちえは下腹部に拳を食らったが如く衝撃を受け、凄まじい吐き気に今しがた飲み込んだ朝食を全てぶちまけてしまいそうになり、トイレに慌てて駆け込んだ。

 信じたくはなかった。いや、完全に信じているわけではない。なぜなら夢の中の残虐な行為は、あくまで学校に広まった噂話に深層心理が影響を受け、犯人の動向を無意識下で夢想しただけなのであって、現実世界で起きてはならない出来事のはずなのだ。報道で詳細は報じられていなかったので、夢の世界のちえの奇行はただの肥大化させられていただけなのかもしれないが、現場に落ちていた凶器とされる手頃な石が、鋭利な形状をした石が映り込んでしまった以上、凶行の関連性を示す証左足りえてしまっていた。

 

 報道番組では、三十代サラリーマンの男性が例の公園で、遺体で見つかったと報じられていた。遺体の傍に落ちていた血痕の付いた石と死体の状況から殺人事件と断定。犯行時間はおよそ深夜十二時時過ぎ。彼の家と駅を結ぶルートから公園は外れていたことから、帰宅途中何者かに襲撃され、逃げた先の公園で惨殺されたのだろう。警察はその前の事件と同一犯の可能性が非常に高く、夜間に公園周りの警戒をするとともに、近隣の住民にも警戒を呼びかけるとの内容だった。

 胃袋がひっくり返ったかのような痛みに結局のところは何もかも戻してしまったのだが、全てを吐き出してからも、ちえの身体は強い拒絶反応を引き起こして身体を動かすことはできなかった。母親が心配してトイレに入り込み背中をさすったり、声をかけるなどしてくれたおかげでなんとか歩けるまでに体調は回復したが、とてもではないが外出するには至らず、母親が何も言わず学校に連絡を入れてくれていたおかげで、ちえは一日安静を取ることになった。

 

 ベッドの上から一言、友人らにSNSで体調不良で休むことを伝えると、その作業すらかなりしんどく、返事を見る間もなく携帯が手から滑り落ちてしまった。これはいよいよまずいと諦めて目を瞑るが、全く薄れない夢の記録の、スーツを着た男の虚ろで精気の無い目が何度も想起してきて、度々胃液の逆流を誘発させて休息を取る暇もなかった。

 拷問のような時間がどれほど続いたのか、数えていたわけではないので正確な時間は分からないが、だいたい一時間もすれば身体の方が疲弊してきて、指一本も動かす余力も残らないのと引き換えに、小康状態になるまでは持ち直せた。

 相も変わらず鮮烈な悪夢の感触は指や肌、鼻と舌などに何度もリフレインしてちえを苦しめていたが、それ以外のことを考えて気を紛らわせる余裕が出てきたことから、何か正反対のことを意識し続け、次第に眠りにつくことを彼女は期待して思索にふけることにした。

 

 やはり、最初に浮かんだのは空の顔だった。ここ最近の目下の悩みで最も深刻で、解決策の見出せない厄介な命題の根源。しかし、彼の存在は弱り切ったちえの心には大きな支えになり得た。

 何せこれから考える時間はたっぷりあり、昨日一日かけても結論の出なかった難題なので、悪夢の誘惑に負けないほどの印象がある。今日妙案が浮かんでしまえば、復帰がいつになるのかはわからないが、明日からでも、週末を挟んで月曜日から思案の結果を存分に試せる。仮に何も思いつかなかったのだとしても、苦痛から目を逸らせただけでも儲けものだ。

 思考が逸れたことで少し体が軽くなり、まだ喉の奥に違和感が残っているのが気がかりだったので喉を濯ごうと洗面所に向かうと、両親が外に出る支度を終えて、ちえのその報告をしようとしているところに遭遇した。

 父親の仕事の都合で両親ともに家を空けることを失念して不安が一気に膨らんだが、一人で行動できるまで持ち直したこともあってか、とりわけ気にすることでもないだろうとちえは気を取り直す。

 

「ごめんねちえ、ほんとはずっと見ててあげたいんだけど、そろそろ行かなきゃいけなくて」

「いいよ、少しは楽になったから。それにお父さんもお母さんがついてってあげないといろいろ大変でしょ?」

「ありがと……ご飯食べたくなったら冷蔵庫の好きなもの食べていいからね」

「食欲が復活したらね」

 

 家の中にいてもあまり顔を合わせない父親も、今日ばかりは憂いを隠さず面持ちに出してちえを見ていたが、あまり時間の余裕が無かったようで、ちえへの報告を終えて出発する準備を終えた母親に引っ張られて、一言も発せないまま出かけていってしまった。

 いつもの如く主導権を握れない情けない父親の姿にそこはかとない癒しを覚え、ハッと自分の用事を思い出すと何度か喉を洗い、また幾分か気持ちを楽にして自室に戻った。

 さてさて、気を取り直してもう一度脳内空対策会議を開こうといったところで、内臓が我儘を振りまいた反動が瞼を重くし、言語を始めとする理論的な思考分野の機能の足を引っ張り始めた。つい数時間ほど前に見た唾棄すべき妄想がトラウマになりかけていた彼女も、唐突に舞い降りた睡魔に少しも抗うことはできないまま眠りの世界に誘われてしまった。

 

 

 

 

 

 

 紛れも無く、例の悪夢の類なのか、とちえはその体感から察することができた。ただ特筆する点があるならば、前回のそれとは異なり、五感に直接訴えてくるものもなく、臨場感の無い、記録映像を再生しているような感覚が強い事だろうか。これから起こる事では無く、すでに起こったことの追体験をしていると変えてもよさそうだ。

 舞台は、ちえの通う高校近くの、今まさに世間の注目になっている公園。半月は鉛色の雲に意地悪く隠され、日が沈んで久しく、恐らくは日付も変わった頃。二件発生した事件現場がどちらも立ち入り禁止になっていないことから、最初の被害者の男性が何者かに襲撃されなかった設定なのだろう。

 自分は深夜だというのになぜか制服を着こんでいて、右手には土で汚れたビール瓶を握りしめて茂みの周りをうろうろしていた。二回目の体験とは言え、自分の意思と、自分の肉体の間に違う何かが介在しているというのは相当に気持ちが悪いもので、勝手に動き回る視点にちえの意識は振り回される一方だった。

 夢の中のちえは街灯の光を避け、目を皿のようにして公園の敷地内を見回した。まさに獲物を探す野生の獣と言ったところか。十数分は何かを探し回って、一切の収穫を得られそうもないと思った彼女が公園を立ち去ろうと出口の方に足を向けたその時、耳が反対側の入り口の方から、軽い金属のこすれ合う騒然たる音を拾った。見れば大きな袋を担ぎ、緩慢な動きで公園に植えられた木々の根元や茂みの中をのぞき込む人の姿があるではないか。

 気取られないよう身を低く屈めて、物陰の間を静かに渡るようにして距離を詰める。百メートルは近づけば、その人影の全貌は簡単に明らかになった。

 賑やかな音を発していたのは、ボロボロのビニール袋に積み込まれた空き缶の数々だった。その袋を下げていたのは、髪だけでなく眉や髭を含めた、至る所の毛を無衛生に伸ばし、何年もアイロンから縁切られているだろう服を着た、いかにも浮浪者という風貌の初老の男性だった。実際に彼と対面をすれば、かなりの匂いに鼻をやられてしまいそうなものだが、感覚のほぼ無いちえには都合よく効かず、体を動かしているちえも、あまり気にしてはいない様子だった。

 地面に手をついて、茂みの複雑奇怪な幹の中の様子を覗き込み、缶を探す姿は、缶の用途をよく知らないちえからしてみれば不気味そのものだったが、ちえの身体は臆することなく彼の背後に近づいていき、手にしていたビール瓶を天高く振り上げる。

 そこでちえの意識はようやく体の狙いに気付き、やめろ、と身を割く思いで叫ぶも、自由の利く体を持たず、身体との繋がりも、視覚の共有ぐらいしかない彼女の声は無情にも夜の冷え切った空気を震わせることも無く、男性の頭頂部から真っ赤な彼岸花が咲き狂った。

 女の孅弱い膂力でも、急所を突かれてしまえばあっけないもので、男性は悲鳴を上げる間もなくその場に倒れ伏した。間髪入れずビール瓶を地面のコンクリートに叩き付け底を粉々に粉砕すると、鋭利な断面を男性の喉に差し込み、完全にその息の根を止める。

 振り下ろすスピードが、彼女の筋力にしてはいささか早すぎるとちえも感じはしたのだが、いくら現実世界ではないにしても、自分が二度も人を死に追いやる生々しい体験をしたという衝撃の前では些事に等しく、目撃した全てを吸収しきれない彼女の精神体は発狂寸前のところまで追いつめられてしまっていた。

 目を背けようとしても、耳を塞ごうとしても、夢の中のちえの肉体を通してしか世界を感じられないということは、裏を返せば肉体と意識の統一が無ければ情報の遮断もできないということ。既に一度、かの野獣の蛮行を知ってしまっている以上、醜い肉塊を作り上げた次の行動は予想に容易かった。

 

 野生の獣に食事の作法などない。淫靡で下品な音が歯の隙間から上がり、口の周りを肉のカスが汚しても拭き取ろうともしない。分厚い層を食べ進めると浮き上がる、人の形の礎に悪戦苦闘している様を見ると、決して粗暴な訳ではなく、ただ初めての体験に試行錯誤を重ねているようにも見える。

 雲の切れ間から怪しげに月の眼差しが零れ落ちてきて、ちえの黒髪を淡く照らした。几帳面に清潔に保っていた制服は前半分丸ごと染料に浸したかのように朱色を染みわたらせ、趣味の悪いオセロのようになっていた。

 無秩序に荒れ狂っていた獰猛さは鳴りを潜め、頬の奥に詰まっていた筋繊維を吐き出したちえは、しっかりとした足取りで屍を踏み越え、公園を抜けた先の住宅街へと消えていく。ちえの意識はその行く末を見届けることなく、現実世界に引き戻されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 彼女はあの後、どこに向かったのだろうか。その答えが解ってしまった。あの姿のままぶらつけば、いくら深夜であろうと、誰かに遭遇してしまう可能性は高くない。だが今のちえが無事でいられるのは、つまりそういうことだ。一昨日の夜、晩御飯を抜いたちえが満腹になっていたのも、シャワーを浴びた時に落ちた不可解な汚れも、朝食のトーストが美味しく感じられなかったのも、ちえの周りで上手くいかなかったこと全て、何もかも、原因ははっきりしてしまった。

 意外なことに、身体はもう何も拒絶しなくなっていた。ようやく気が付いた馬鹿な理性に溜め息をついてるように、不気味すぎるほどに落ち着いていた。

 身は受け入れる準備を整えていた。ちえが夢を見てからずっと、いや、それ以前からずっと、機会をうかがっていたのかもしれない。もっとも残酷なタイミングで、最も効果を得られるように、狡猾に、非情に。

 

「夢じゃない……全部……私がやったこと、だったんだ……」

 

 口に出して、ちえが夢と名付けて逃避していた悦楽の時間を認めた瞬間、制限されていたちえの世界がまた一気に息を吹き返した。

 閉じられていたのは、主に嗅覚だった。開門と同時に一呼吸ごとに挟まれるのは、少し前までは些細な怪我を負った時に幽かに香る程度だった、鮮血。鼻の神経を貫き、脳の後ろに回り込んで直接差し込まれる、とてつもない刺激臭。

 

「うっ……」

 

 なじみの薄い匂いが絶えなく肺に入り込んでくる感触は、すぐにでもこの部屋から出ていきたくなるほどの不快感を付き従え、この異臭の中平気な顔をして過ごせていた自分が信じられなくなるほどだった。

 二度の悪夢を経てある程度の耐性を得ていたのか、口元を押さえながらも通常の呼吸を再開した彼女は、一先ず空気を入れ替えようと窓の鍵に手をかけたが、この空気を外に出してしまうと、漏れ出た臭気が人の警戒心を呼び覚まし、周り回ってその原因を突き止めてくるに違いないと考えたちえは、おいそれと窓を開放することができなくなり、羨まし気に窓の外を眺めるにとどまった。その際、家のすぐ近くの曲がり角から明らかに視線を浴びたのがわかり、跳ねるようにカーテンを閉めた。

 正常でない精神状態が引き起こした自意識過剰な錯覚だと自分に言い聞かせ、再度小指の先ほどの隙間から外を覗き見ていると、正午にも至っていない時間帯らしく、何もない穏やかな光景に戻っていた。家の前の駐車場に車は無く、流石に両親はまだ帰ってきていないようだった。

 

 よろめくように後退り、ベッドに落ちるように腰かけると、自分の汗と愛用のシャンプーの混じった嗅ぎ慣れた匂いが一瞬だけ舞い上がり、正気を向こう岸に渡らせない一本の綱として機能を果たしてくれた。

 もう自分の身に何が起きているのか、これから自分がどうなっていくのか、分からない、分かりたくもないというのがちえの現状だった。現実問題、殺人を犯してしまった時点で、ちえの生涯から一切の安息がもたらされなくなっていた。動機がなんであれ、人の死体を貪る行動を取ったということは、法的な観点からも、道徳的な観点からも、正常な人としての範疇を大きく外れたものに違いない。社会的な制裁は、並大抵のものでは済まされないことだろう。

 人を食らう異常性に焦点を当ててみても、同じような事が言えた。むしろ、こちらの方が深刻さはあるだろう。なにせ、もう“二人も”食してしまったのである。これから誰も食わないなんてことを、どんなに誓ったとしても、自分すらそれを証明できないのである。既に、人肉の味を覚えてしまった、無意識下に繰り返してしまった。それはもはや人ではない。人でなしの怪物である。

 人を害する怪物を、人が受け入れてくれるだろうか。いつ襲われるかもしれないという恐怖を無視して、怪物の人間ごっこに付き合ってくれるだろうか。世界がそれを許してくれるのだろうか。

 肯定的な意見は、ちえの中からは出てこない。

 

「ぅ、ううぁ、ああああ、ああああああああああああああああああああああああああああ‼」

 

 始めは絞り出すように、やがて栓が壊れてあふれ出た慟哭がちえの部屋を揺らした。手近にあった目覚まし時計をクローゼットに叩き付け、本棚の参考書を乱雑に掴んで一つ残らず床に引きずり落とす。大事に飾ってあったお気に入りのバンドのポスターを爪を立てて剥がし、机に立てていた照明を何度も壁に叩き付けた。カーテンを引きちぎり、壁紙を素手で無理やり剥がすなど、行動がエスカレートしていった結果、数分もしないうちにちえの部屋は見る影もなく蹂躙し尽くされ、廃墟の一室と見間違うほどにまで荒んでしまった。

 それでもよかった。どうでもよかった。もうちえには人間的な暮らしなど望めないのだから。これまで一生懸命育ててくれた普通の両親には、罪悪感が湯水のように湧き出て仕方が無かった。彼女の凶行で慮外な報いをすることになるのも彼らなのだから。この後始末をするのも恐らく両親だろうが、その程度の迷惑など、些末なものになってしまうのだから。

 

「あああ、ああああぁぁぁああああああ……ああああああぁぁあぁぁ……」

 

 細やかな瓦礫の中で言葉も出ず、半開きになった口から上がる呻き声はまるで、彼女が真に怪物になってしまったかのようだった。

 一度は落ち着いた破壊衝動が、息を吐き切るとまた盛り返してきて、ちえは頭の近くにあった学校の鞄を鷲掴みにしてドアへと放り投げた。中身をぶちまけながら不愉快な音を立ててドアに衝突した鞄だったが、それが最後まで手放さなかったものが一つだけあった。自然と最後のそれに気を取られたちえは、ペンケースを手のひらで押し潰しながら、恐る恐る鞄の中身を覗き見た。

 数か月前、家族旅行に行ってきたらしい空がちえに買ってきた、何とも言えない御当地キャラクターのキーホルダーだった。どこを見ているのかわからない視線と、引きつったまま張り付けられた笑顔、ありがちなポーズを取ったその何とも言えない見た目は、総合的に見ると五十点も上げられないような不恰好なものだった。当然貰った方は文句を隠さなかったが、せっかく幼馴染が買ってきた物を無碍にすることもできず、鞄に仕舞ってそのまま忘れ去られていたものだ。

 

「く、くうううううう……空……空……!」

 

 当時のちょっとした喧嘩を懐かしんだのもつかの間、現実逃避から帰ってきたちえを待っていたのは、今までにない、複数の手を持った虚無が這いずり回る、激烈な飢餓だった。その猛威は脳細胞が一つずつ分解されていく様を連想させ、すぐにでも行動を始めない限り、知的生命体としての体は加速度的に崩れ去っていくだろうことが本能で理解できた。

 バランスが取れず上手く立ち上がれないため、四つん這いのまま部屋を飛び出し、廊下の至る所に四肢を打ち付けながら、食糧の保管されている場所にキーホルダーを握りしめて向かうちえ。欲求が暴走するタイミングに奇妙な一致が見られ、根源の正体の一端を掴みかけたような気がしたが、程無くして菓子や常温保存できる食品を纏めている棚の前に倒れ込んだ際、切っ掛け共々忘却の彼方へとその機会は追いやられてしまった。

 中を覗き込み、震える手で中身を物色するが、小分けにされたチョコ菓子や、父親が好んで食べる煎餅類、一口大のゼリー、大玉の飴、魚や果物の缶詰など、そのまま食べられるものはいくらでもあった。しかし、そのどれを見てもちえの胃袋は何の反応も見せず、河原に落ちている小石を手に取っているようにしか感じられなかった。

 板チョコの銀紙を引きちぎり、拒み続ける口をこじ開けて齧りつくも、驚くべきことに砂糖の甘さもココアの風味も全く取り払われた、完全な無色が舌に当たり、飲み込んで少しでも腹の足しになればよいものを、喉が痙攣して奥に入り込むのを完全に拒んでいたせいで、ちえはたまらずトイレに駆け込み、全て吐き出してしまった。台所の傍に貯蔵されている色とりどりの野菜ならばと試してみようにも、新鮮さを示す鮮やかな色彩も、蝋の塊の上から塗られた油絵の具、或いは樹脂に施されたメッキのようにしか彼女の目には映らなかった。持ってきてしまったキーホルダーの方がよっぽど食欲を掻き立てられるのが、不気味で怖くてたまらなかった。

 

 生野菜すら食物として身体が認識しないのなら、何で空腹を凌げばいいのだろうか。なんとしてでも飢餓状態から抜け出したいちえは、冷蔵庫を開け、目を皿のようにして食物を探すが、意識を侵食する飢えの審査は依然として厳しいままだ。

 しかし、チルド室の中に押し込められていた生の鶏肉のパックに行き当たった時、辛うじて食道の逆流が鳴りを潜めたのを、ちえは実感した。まだ心身ともに正常だったころ肉が大好物だったというのも関係してか、尚々やや抵抗があるものの、食材としてまともに認識できる物品があるのは素直に喜ばしい事だった。ただ、今から調理を簡単にでも行えるような余裕と猶予があるわけではない。

 普通の人間ならば衛生や体裁などを考慮してやらないことも、しなければならないというのはかなりの勇気が必要だったが、駄々をこねられる時間は残されていない。それに、ちえには半ば確信にも似た予感がしていた。恐らく今の自分なら問題はない筈だと。これ以上の条件で、自分は平然としていられたのだからと。

 透明なパックを破り、中身をつまみあげると、刹那の躊躇の後、彼女は豪快に生肉にかぶりついた。生臭さと不安定な柔らかさは慣れないものではあったが、抵抗感は不思議と無く、咀嚼も嚥下も問題なく行えてしまった。何も、問題は無かったのだ。

 

 餓鬼道の招きはそのままだが、苛烈さが一度治まったことで、人間離れした感性を得てしまった自覚を噛みしめることができてしまい、ちえは少なからず再度ショックを受けた。手に持っている生肉はまだ半分以上残っていて、全て食べきれるだろうというのはちえにもわかっていたし、体がまだ求めているのも知っていたが、一時の静けさの中で、落ち着きを取り戻してからまた口を付けようとはまだ思えなかった。

 人間らしさがまだ自分の中に残っていることへの安堵と、自分はもう向こう岸にいて、人間らしさを感じるのは過ぎ去った季節の残り香を嗅ぎ分けているだけなのだという寂しさに挟まれて、ちえはボロボロと涙を溢さずにはいられなかった。静かに、指一本動かせないまま、頬を心が伝っていった。

 どうして自分なのだろう。自分は聖人ではなかったが、人としての尊厳を奪われる天罰を下されるような極悪人では決してなかったはずだ。ただ普通の人として生きて、これからもその普通に骨を埋めるとばかり思っていた。起伏の無い人生は嫌だとは願っていたけれど、奈落への片道切符など望んではいなかった。一体なぜ、自分がこんな目に遭っているのだろう。自分よりこの刑罰を受けるにふさわしい人間はごまんといるはずなのに。自分が選ばれたのは、一体誰のせいなのか?

 

 ちえの中に、にわかに憤怒の兆しが見えた。それはごく一般的で、かつ成長過程にある未熟な精神を持つ子供ならば、芽生えて当然の帰結である。その体質に産み落とした原因として真っ先に思いつく親や、存在を知らない犯人X、微塵も存在を信じていなかった神のせいに出来たなら、誰かに憎悪をぶつけることができたなら心の持ちようもいくらか変わったに違いないが、ちえ自身が、恋愛感情絡みの異変にも人のせいにはできないように、冷静な分析力と、優しすぎる心を持ってしまっていた。そのため感情の捨て場所をうまく見つけられないまま、粘り気のある黒い感情が彼女の喉を少しずつ絞めていくのだった。

 呼吸が浅くなり、次第に視界がぼやけ始めたとちえが感じ始めてすぐ、玄関の戸が激しく叩かれる音を出した。予想だにしなかった発生源からの音に身を竦ませるちえだったが、先ほど散々自分が激しく暴れまわっていたことを思い出すと、近隣の住民が異常を察知して駆けつけてくれてもおかしくはないと分析して胸を撫で下ろした。

 だが、対処は考えなければならない。強盗に荒らされたとしか思えない酷い有り様の屋内と、寝起きそのままの格好で、生の鶏肉を齧って口周りと肘から先がお世辞にも清潔とは言えない状態の女子高生一人。軽率に外に出ようものなら近隣は大騒ぎになるはずで、自分が極悪殺人鬼という自覚もあってか、応対などもってのほかというのがちえの出した結論だった。

 ノックを無視し続けてその場を立ち去ってくれるのをしばらく待ったが、そこでふと、このまま居留守を決め込んだ結果、警察を呼ばれてしまい、家の惨状とちえのみてくれが白日の下にさらされる可能性が彼女の脳をよぎった。それこそ大騒ぎだろう、そこから芋づる式に、ちえの蛮行に辿りついてしまうかもしれない。

 

 自分でも受け入れられていないのに、赤の他人に暴かれてしまうことが怖くて仕方が無かった。ちえは玄関まで行くが、戸には手を振れないで言葉だけを投げかけることにした。

 

「なんですか」

「あっ、ようやく返事が返ってきた! その、すいません。中からすごい音と悲鳴が聞こえてきたので何かあったのではと心配になってしまいまして!」

「ご、ごめんなさい! 何もないです! ただ物を運んでいたら派手に転んでしまって……。気が動転してつい叫んでしまいました! ご迷惑をおかけしました、私は大丈夫ですので!」

「で、でも……」

 

 扉一つ挟んだ向こう側が、ちえの言い訳に納得していないのが声色でわかった。善良な市民を騙すことに胸が酷く痛んだが、これ以上関わってもらうのは御免被りたかった。それに、空腹状態の自分が人間を目の前にして、その人間が無事でいられる保証がなかったこともあり、ちえは募る焦燥感を堪えながら説得を続けた。

 二分ほど見知らぬ誰かとのやり取りは続いたが、住民の元気な声を聞いてとりあえずは納得したのか、心配する言葉を何度もかけながら、ドアの向こう側に陣取っていた気配は消えていった。

 すぐさま玄関前の状況を観察できる場所まで回り込み、リビングを覆うカーテンの隙間から覗けば、四十代ぐらいの婦人がちえの家の方を何度も振り返りながら立ち去っていく様子が確認できた。

 人との会話という外部からの要因が加わって意識が多少他に行ったおかげもあって、鎖が体中にまとわりついたような疲労と一時の安堵がちえに去来する。結局問題を先送りにしたに過ぎないのだが、ちえにどうすることもできない以上、とっさに判断を下してしまったのも無理はなかった。

 今は思考を無にして、隔離された空間に一人で閉じこもってしまいたかったので、ちえは冷蔵庫の前に散乱する数多の食料品を元に戻し、開封してしまった生肉をビニールで包み、まだ食べられると判断する狂った理性を頭を振って除外してゴミとして処理すると、肩を落として自室に戻り、私物の残骸には目もくれず、ベッドの上に乗っかった瓦礫だけを床に蹴り落とし、布団を全身に掛けて外世界との繋がりを完全に断ち切ってしまった。

 帰宅した両親に何を言われるのか想像すら恐ろしく、それが自分のタイムリミットなのだろうとアタリを付けて、思慮を放棄したちえの意識は再び闇に落ちていく。充満する血の匂いなど鼻が疲労して拾わなかったので、彼女の眠りを阻害するには至らなかった。

 

 

 

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