偏執狂の刻印   作:エビの衣風巻

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3話

 

 

 

 

 ちえが三度、目を覚ましたのは、月も頂点に差し掛かろうといった時だった。緩慢な動きで布団から這い出し、携帯で時間を見れば大量の通知が画面を占有している。同級生からの心配するメッセージが何件も届いていて、かなり時間も立っていたことから申し訳なさを多少感じはしたが、そのどれも返事をしようとする気にはなれず、ちえは口を引き結んで通知だけ消去した。

 母親からのメールも着信していて、そちらの方を開いてみると、父親の仕事が思ったより長引いたせいで今日は泊まり掛けになること、家を空ける期間が長くなってしまうことを心苦しく思っていること、体調が悪化したらいつでも連絡が欲しいという旨が記載されていた。

 最後の連絡が欲しい、との内容に心臓が二つに分けられてしまいそうなほどの痛みを感じ、今すぐ両親に打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。

 が、カーテンの隙間から漏れる月光で部屋に浮き上がる破壊の傷跡と、まだ色強く漂う鉄に似た匂いがその行動を抑制し、彼女に覚悟を決めさせなかった。

 

 流石に通常の食事をしてから十数時間も経過しているので、今度は自然な空腹が主張を始めていて、ちえは食べられるものを探すべくリビングにまた戻ってきた。朝食のパンも、味気なかったが普通に口に出来てはいたので、暴走さえしなければ普通の食事も喉を通るという希望的な観測の元冷蔵庫を開けるが、昼間の探索から変わらず、その大半を食べ物とは思えなかったことで、ちえは大きく肩を落とした。

 部位は違うが鶏肉のパックがまだ残っていて、流石にまた生で食べるには精神の箍がまだしっかり残っていたので、それを調理してから食べることにした。白米が食べられそうにないことは非常に残念だが、調味料は比較的口にしてもいい気配がしたので、それならまだと気を持ち直して準備を進める。

 調味料を保管してある棚を眺めながら味付けをどうするかを考えている最中、静かな夜に鋭敏になった感覚が、一つの異音という形でちえに異常を伝えてきた。普通の人間なら察することもできないほど微かな、靴底が砂利と摩擦する軽快な音が次第にちえの自宅の方に近づいて居ており、夜の散歩を楽しむ人間にしては真っ直ぐすぎるその足取りは、まともではない精神状態のちえを怯えさせるのには十分すぎる警報になった。

 息を殺してその足音を辿るが、明らかに門を通り越して、敷地内へと侵入してきているようで、真っ直ぐに玄関には向かわず、家の外周をぐるりと一周したようだった。

 家人が帰ってきたのならば、あまり不自然な行為だ。それ以前に、ちえの両親が帰ってきたのだとしたら、あの二人が乗った車のエンジン音がしなければおかしい。昼間の一件以降、目立った物音も立てていないので、様子を見に来た近隣住民という線も薄い。

 ちえは吐息が次第に震えていくのを自覚した。警察がちえのことをかぎ出し、実地調査に乗り出したのか、強盗が車の無いタイミングを見計らって家に押し入ろうとしているのか。どんどん悪い方向へ、想定が転がっていった。

 手近にあった包丁を握り、足音を殺してリビングの窓に近づいていく。どうかこのまま何事も無く立ち去ってくれることを祈りながらカーテンに手をかけ、外の様子を覗き見る。

 

「……あ、っ?」

 

 外にいた人間と、ばったり目があってしまった。情けない、気の抜けた声がちえの口から洩れる。

 警察や強盗なら、どれだけ救われたのだろうか。季節外れの黒いトレンチコートを羽織り、コートのポケットに両手を突っ込んだがたいのいい男の目が、鏃のように鋭い眼光をちえに向けて放っていた。この家の住人に向けた敵意ではなく、天音ちえ個人に向けた敵意だというのが、彼女を捉えた瞬間の男の顔つきの変化から解ってしまった。

 突然の害意に思わず包丁を取り落としてしまったちえは、拾い直す余裕も無くその場にへたり込んでしまった。庭に置かれていたレンガを男が手に取り、窓に近づいてくるときも、細かく唇を震わせるだけで、全く心当たりのない男の正体について、取り止めのない推測ばかり思い浮かべるだけで逃げるそぶりも見せなかった。

 男が無表情のままレンガを振り上げ、躊躇なくちえ目掛けて投げつける。硝子は無抵抗に粉々に砕け散り、その役目を放棄した。レンガ自体はちえが身をすぼめたこともあって直撃はしなかったが、ガラスの無数の破片が彼女に襲い掛かり、その破片のいくつかがちえの肌に何本かの赤い筋を刻んでいった。

 恐怖で痛みが麻痺していて声こそ上げなかったが、自分のすぐそばを通り抜けていった鈍器と、にじみ出てくる自分の血液を見たことによって、ようやく置かれている状況を飲み込んで弾かれたように立ち上がった。

 頼みの包丁はガラス片に紛れて手を出せそうもなく、男はコートの中に手を入れて何かを取り出そうとしている。男の身体の影になって全貌ははっきりしなかったのだが、現代社会ではお目にかかる機会の少ない、時代劇でしか見かけないような刀の鍔だけはぼんやりとその形を浮き上がらせていた。

「こ、来ないで!」

 男が土足のままちえの家に上がり込んだ瞬間、襲われて初めてちえが声を荒げた。足元にあった大き目なガラスの欠片を男目掛けて投げつけ、男が顔を庇った隙をついて玄関に向かう。靴を履くのも忘れて外へ飛び出し、行く先も決めないまま住宅街を走り出した。

 

 アスファルトが足の裏を容赦なく削り、服の隙間から入り込む夜風がちえの身体を冷やしていく。丸一日殆ど食事のできていない状態で、激しい運動をするにはかなり厳しい条件だったが、追いつかれれば一巻の終わり。後ろを振り返れば男も早足で追いかけてきており、命を削ってでも足を動かさなければならなかった。

 暫く走っていると、いつの間にか見慣れた景色に周りが変わっていた。時間帯のせいもあってかなり見せる顔は違っているが、どうやら高校の通学路に沿うように移動していたらしかった。陽が出ている頃は人通りの多い賑やかな通りだが、流石に夜も深まれば冷たい雰囲気の漂う、閑散とした空間に様変わりしてしまうらしい。

 相変わらず男との距離は詰まりも開きもせず、一定の距離を保っていた。男の方には速やかにちえの抹殺を試みるつもりはないようで、獲物が疲弊しきったところを確実に仕留める、狩人の風格めいたものまで漂ってきそうな余裕を見せていた。

 ちえが清廉潔白の身であれば近くの交番に駆け込んだり、まだ明かりのついている民家に逃げ込むと言った方法も取れるのだが、実質お尋ね者の身分になってしまった以上、そういった手段は取りにくい。それに、男の仕草から武器を隠し持っているだろうと予測されるので一般人を安易に巻き込むことはできず、警察の介入を拒む選択を一度でも取ってしまっているため、保護された後の顛末を許容できないちえに残された手段は、一人孤独に逃げ惑うこと以外には無かった。

 

 もうすぐ底を尽きようとしている体力と、逃げ先の無いほぼ詰みかけた状況の中、無意識のうちに足が向いていた高校のすぐ近くまでちえは来ていた。やがて見慣れた正門の前を通りがかると、閉められた門に近寄り、三階建ての校舎を見上げて立ち止まった。初めて見る夜の高校は、昼間の若く活気にあふれた学び舎としての姿から一転して、無機で物々しい印象を発していて、普段生活しているだけならば、決して寄りつくことは無かっただろう。感慨にふける暇も無く、激しく上下する肩と、早鐘を打つ心臓、酸素を求めて膨張と収縮を繰り返す肺の動きが、ちえに次の動きを促す。

 生まれて以来の全力疾走のお陰であれから男との距離は少し開いたようで、鋭敏な本能が男の追跡に反応を示してはいたが、鍵のかけられた門をよじ登るぐらいの時間は確保されているようだった。高校の校舎の立地は実はかなり入り組んでおり、日々通い慣れた者以外には意外と勝手のわからないものだと以前聞いた覚えがあったので、建物の中を使えないのは惜しいが、最悪中に強引に入ることもできるので、身を隠す場所は多く男をやり過ごすには最適な場所のように思えた。

 女子として平均的な体格のちえにとって、門は乗り越えるのにはやや厳しい大きさの筈だったが、ちえの中には障害物にはならないだろうという確信があった。意を決して門の縁に手をかけ、体を引っ張りながら地面を踏み切ると、案外すんなりと身体は持ち上がり、門の上に跨ることができた。感覚だけでなく、間違いなく身体能力も向上していることを自覚したちえに呆然としている時間は一秒たりとも無く、体の内部の変化にもまた戸惑いながら、高校の敷地内へと身体を滑り込ませ、男の視界に入る前に教室棟に向かった。

 

 

 

 

 ちえの高校校舎は大きく分けて五つに分かれている。生徒の教室が主に入っている教室棟、職員室や図書室など、特別活動に使う施設が多い職員棟、武道場と体育館が併設されている体育館棟、そして運動部文化部の各部活の部室に使われている部室棟が二つで計五つ。教室棟と職員棟が隣り合っていて、教室棟から体育館へ直接繋がっており、運動部の部室棟へも体育館から通路が連絡されている。部室棟だけがどこの校舎とも繋がりが無く、孤立した立地になっていた。

 職員棟の裏、倉庫が立ち並んだ場所に一先ず身を潜めたちえが取った行動は、とにかく体力回復に専念することだった。男がどこに向かったのか、確認をしてから隠れる場所を決めるべきだったと悔やんだが、疲弊しきった状況で顔をひょっこり出して、ばったり出くわしてしまえば目も当てられない。幸い高校の敷地内には屋外だけでも探しに行くのが予測できる場所が複数箇所あり、その最初を男が引き当てるというのも考えにくく、意味も無く動き回った方がリスクも高く非常に危険な行為だ。今の彼女に出来るのは、男の気配をじっくり読みつつ、コンクリートの壁に身を預けて体力を溜める以外なかったのだ。

 

「……どうかこのまま見失ってくれますように」

 

 少ないながらも瞬く星の飾られている夜空を見上げ、この時ばかりは、普段あまり行わない、祈るという行為をちえはしてしまう。しっかりと声を潜めてだが。

 

「あの人は一体誰なんだろう……どうして私を……」

 

 気の抜けない状況下でも、どこからともなく現れ、自分を襲撃してきた男について、束の間の休息を与えられた瞬間、考えを巡らせてしまう。男の目的は明らかにちえの命。どうして狙われるのかまでは、人を食らった獣だからと、無理やりのこじつけることは可能だ。その場合、男は天音ちえという人を食らう獣ということを知っていて、人の形をした化物の存在を認知しているという仮定が存在しなければならなく、ならばそれをどこで知ったのか、いつから知っているかという謎がまた浮上してきて、結局男が何なのかについては、堂々巡りの迷宮入りになってしまいそうだった。

 

「……そういえばあの人、夢の中で見た様な気は気がする」

 

 壁に背中を擦りながらちえが腰を落とした時、左の太ももに細長いものが押し当てられる感覚があった。ポケットの中のそれを取り出せば、なんという奇跡か、押し込められていたのはちえの携帯だった。朝からろくに充電をしていないのでバッテリー残量は心許ないものだったが、外との連絡が取れる手段が一つあるというだけで、驚くほどちえの心には余裕ができていった。

 しかし、何度も確認している通り、ちえが助けを呼べる相手はもう数が少なかった。それも、最終的には彼女の罪咎が白日の下にさらされるに至るもので、助けを求めることは、罪の自白をするに等しい行為になっている。

 ただ、いまだ決心はついていなかったにせよ、このまま何もできず殺されるのは看過できなかった。ちえが体の変化に心身をすり減らしていた時、ちらと命を絶つことも考えなくも無かったが、異常なまでに生きたいと願う欲求が、自死という道を完膚なきまでに叩き壊していた。ただ、贖罪を考えるのであればこの命をもってしか考えられなかったので、然るべき手順をもって然るべき場所で裁かれるべきだと、両親ならば、まだその道を舗装してくれるだろうという信用があった。まだ起きているかはわからないが、連絡を取る価値はあった。

 

 電話帳から母親のものを探し、コールボタンを押そうとした瞬間、思わぬ人物からその決意を揺るがされてしまうことになる。

 

「えっ……なんで、今……?」

 

 携帯に表示される通知には、幼馴染からのメッセージを知らせるものが。ここ数日全く縁が無く、名前を聞くことも見ることも恐ろしかった、愛しい幼馴染からの久しぶりのメッセージだった。

 ちえの心に固まっていた決心はたちまちに融解し、跡形も無く辺りの草むらに染みわたっていった。震える指で画面をタップし、空からのメッセージ内容を確認する。

 

『今日学校を休んだって聞いたんだけど大丈夫だったか?』

 

「今更、なんでよ……」

 

『ここ最近ずっと顔を合わせられなくて、俺も会うのを避けてたっていうのもあるんだけど……』

 

「こんなのおかしいよ……」

 

『本当はここで言うのもどうかと思うんだけど、あの時はごめん』

 

「どうして、空の方から謝っちゃうのよ……」

 

『ちえに会ってちゃんと謝りたいんだ』

 

「私とはもう顔を合わせたくないんじゃなかったの……?」

 

『また体調が治ったら、連絡くれよな。待ってるから』

 

「今そんなこと言われたら私……」

 

 今すぐに会いたくなってしまう。口に出すのはなんとか抑えきったが、指はその意に反して簡単に心の内を露出していく。

 

 

 

 

『助けて』

 

 

 

 その三文字を入力し終えて、送信ボタンを押しそうになるが寸でのところで手の先が固まる。

 ここで空に助けを求めるということは、人食いと正体不明の狩人の争う非日常に空を巻き込むということである。ちえは既に最低でも人を二人は殺しているし、男の方も日本刀という法外な武器を所持し、躊躇なく人の家を破壊し殺す意思を見せられる異端者な訳で。ただの人を、善良なる日向の人間をその間に挟むということが何を意味しているのか、分からない彼女ではない。

 だから終わりにしようと思ったのだ。男がある程度人の目を気にするも察している――でなければわざわざ時間を深夜に選ばないだろう――から、両親という斧で未練を断ち切ろうとしたのだ。自分がこれ以上、無関係な人を巻き込まないように、自分の手で決着をつけるために。空の姿をもう一度目にするということは、その決意を無為にしてしまうということなのだ。

 だが、言葉や文にしてしまえるものなど、理路整然と纏められてしまうものなど、簡単に吹き飛ばせてしまうものがあることをちえは失念していた。

 

『助けて いまがっこうにいる』

 

 今までちえがどうしても理解できなかったもの。模倣を試みて幾度となく失敗したもの。自分の中には存在しないと思っていたもの。自分の中と他人とで似て非なると思い込んでいて、実は、ただ少し表面の形が違っていただけのもの。

 

 

 

 

 

 

 それは知性を軽く凌駕する情動、“恋”と呼ばれるものだった。

 

 

 

 

 

 感情の奔流に崩された表情で、決壊した涙腺から願いが滴り落ちていく。声を押し殺し、嗚咽を二の腕に吸収させて、寂寥を仄めかす幼馴染の後姿を思い浮かべる。幼馴染に関する最後の記憶は、あどけない笑顔がいいという我儘が、最後の一押しとなった。

 一際強い夜風がちえの髪を攫おうとする。天気の気紛れを合図にしたかのように、空へのメッセージが取り返しのつかない場所へ運ばれていく。ちえが今まで自分を苛めていたものの正体を受け入れるのと同義であり、これから迫りくる酷烈な欲求の訪れを意味する象徴でもあった。

 

「ああぁあああぁあああ!」

 

 食べたい。人を食らいたい。生暖かく歯ごたえのいい極上の肉を口にしたい。まだ流れることを欲するイキのいい血液を飲み干したい。甘美な快楽を、この世で最も原始的で刹那的な逸楽を味わいたい!

 やっとの思いで手に入れた泡沫の休息を、ちえの金切り声が無情にも切り裂いていく。完全に予期出来ていたためこのままがむしゃらな行動に出ることは無かったが、男が彼女の位置を把握するのには十分すぎる合図になったことだろう。だが、今のちえにとってはここまで予測の範囲内で、体の自由が一時効かなくなることも折り込み済みだと計算ができた。男に見つかるまでの時間をまた引き延ばすことのできる場所への移動を考える余裕も、もしかしたらやり過ごすことのできるかもしれないという希望を持つことさえできた。

 

「……ああ、やっぱりなのね」

 

 ちえは倉庫の合間を縫い、後者の奥まった方へと慎重に進んでいく。彼女の胸は、巨大な氷の塊が溶け切った後の様な清々しさに一時満たされていた。

 一度大本を認めてしまえば、あとは簡単な話だ。ちえの食人衝動は、強烈な恋心の揺れによって生じていただけだったのだ。空に明確に拒絶されたことが引き金となり、形を得たのだろう。一人食べたのでは収まらず、次の日にもう一人を手にかけて、翌々日に空の事をしっかりと考える時間が出来てしまったから、もう一度衝迫が具現化してしまった。

 一般人が精神的な高低差に出るような事柄が、食欲として出ているだけなのだ。それが何故食人衝動へと変貌したのかまでは分からないが、現実問題ちえにはそのような形で出ているので、それ以上それ以外の事実確認は今は不要だった。

 

 

 

「食人鬼め……人に紛れ人を食らう、薄汚い獣どもめ……」

 

 深淵の底から響くうねりの様な低い声が、ちえの背中を撫でた。追いつかれたと焦り、反射的に振り向けば、大の大人でも声を届かせるにはそれなりの力の入れ具合が必要なほど遠くから、月夜に後ろ頭を照らされて、地面に膨張した闇を垂らした男が大股で近づいてきているのが見えた。

 囁くような喋り方だったというのに、古い金属の軋みの様な、幾万の怨嗟の籠った言葉がちえの耳元ではっきりと聞こえたのも、ただの幻聴ではない、彼から発せられた怒りの一端を受け取れたからなのだと察せられてしまい、ちえは身震いを禁じえなかった。

 一度居場所が割れてしまい、相手に次の行動先を読まれやすくなってしまった以上、最初に隠れたように、予断を許してはくれないだろう。空か、騒ぎを聞きつけた誰かの介入が行われるまで、永遠にも等しい、綱渡りの時間の到来だった。ちえは奥歯を噛みしめ、逃げ回るのに有利な場所はどこか、必死に脳内でシミュレートを重ねていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼馴染の女子に対して、強烈なきっかけがあったにしても、周りの目を気にせず激昂してしまうほどの思いを持った男子が、その相手から尋常ではないメッセージを受け取って、すぐに行動を映さないわけがなかった。

 完全に無視を決め込まれるかもしれない、復縁はもう不可能かもしれない。半ば絶望しながら、それでも勇気を振り絞って連絡を取ってみたら、尋常ではない様子で助けを求めてきた。メッセージの途中から変換を諦めるほど切羽詰まった状況なのだろう。こんな時間に、学校などというわざわざ面倒臭い場所に呼び出す悪戯をする程、空の知る幼馴染はいい性格をしてはいなかった。

 ちえからの一文を受け取って、空は最小限の着替えと、押し入れの中に眠っていた金属バットを片手に家を飛び出した。幸い親はもう寝入っていて、夜更けの不良行為を咎められる心配も無さそうだった。その代わり、帰ってきてからのことが恐ろしかったりもしたのだが。

 

 自転車で学校まで通常通りの速度なら十五分。深夜ということもあり、信号や速度を度外視すれば十分以内には到着することができる。ほとんどが平坦な道で、坂道と言った坂道があまりないのも追い風になりそうだ。

 十二時を回り、夜空に白い骨の様な灯りが堂々としている中、長らく感じていなかった腕や足を撫でる凸凹とした冷風に、懐かしい痛みを覚えていた。

 空とちえは、自転車通学ができる場所に住んでいる。だから、入学してしばらくは二人とも徒歩という選択肢を取ることは無かった。それが、家を出る時間を早め、朝の余裕を少し減らしてまで歩き始めたのは、一年生の夏休み、特別補習という学校の用意した気怠いお節介に悩まされていた時だったと空は記憶している。

 

 わざわざ夏休みの真最中に、学校に押し込められて遠い先のように感じる受験の対策を、どうしてしなければならないのか。華の高校生の数少ない楽しみを、もっと有効活用させてはくれないのか。二人の不満は、おおむねこれらで一致していた。

 特別補習も中盤に差し掛かった頃、二人は揃って寝坊をしてしまったことがある。指し示し合ったわけでは無い。両名がたまたま夜更かしをした結果、目覚ましの効力が睡眠を妨げるに及ばなかっただけだ。

 完全にサボってしまえばかなり厄介な事態になってしまうため、朝食も取らず飛び出すようにして家を出た空が見たのは、髪をぼさぼさのままにして自転車に乗っている、顔を真っ青にしたちえの姿だった。身だしなみの整っていないお互いの顔を見て、遅刻しかけている現状を忘れてしばらく見つめ合った後、二人は笑いあった。それはもう見事な大笑いだった。空の母親が窓から「何笑ってんの、早く行きなさい!」と怒鳴るような、見事な音量だった。

 補修を嫌々受けていた二人は、その場は慌てるふりをしたが、すぐに取り繕うのをやめて自転車から降り、自転車を押し引いて学校へ行くことを決めた。朝ごはんを抜いていて、お腹が空いていたので、途中でコンビニによって買い食いまでしてしまった。

 学校では当たり前のように仲良く二人で教師にこってりと絞られたが、空の中に後悔はしなかった。久しぶりに自分の足で歩きながら幼馴染と過ごした時間が、この世で最も充実していると感じたからだ。それから二人は、徒歩での通学に切り替えた。帰りの時間まで合わせることはお互いの予定があり、流石に恥ずかしいこともあって難しかったが、できる限り朝の時間は合わせようと約束を交わした。

 

 そこまでの事をしてしまおうと思えるほどに、空にとっての天音ちえという存在は、大きいものだった。だから、空の方が愛想をつかしてちえの傍から離れていくなんてことはあり得なかった。数日前ちえを突き放した時、胸を抉る傷に空もまた同じように苦しめられていた。どうやって関係を元に戻そうか、本当の気持ちを、蓄積されたちえへの想いを信じてもらえるにはどうしたらいいのか、ちえの心を揺さぶって、振り向かせるにはどうしたらいいのか。ちえと同じように、空も少ない経験と知恵を振り絞って考え抜いた。

 やっとのことで固まった決断を実行に移す前に、なんとしてでもちえを救い出さなければならない。ハンドルを握りしめ、これ以上上がらないギアに苛立ちながら、空は自転車をこぐ力をさらに強めた。

 

 

 

 

 

 

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