高校内での逃走劇も、最初の方こそ地の利をうまく使って上手い事時間を稼げていたのだが、使える部分は所詮それほど広くない敷地内のみ。身を隠してから居場所を察知されるまでの間隔は狭くなり、やがて先回りをされてしまうほどまでに、ちえと狩人の差は縮まってきていた。
恒久的な悪夢の中、時間の概念が存在しない世界に迷い込んでいるようにちえは錯覚し、強化された肉体にも体力はほとんど残されていない。思春期の恋心というブーストもかけながら気力を注ぎ込んできたが、燃料の底も見えてきている。
それでも、幼馴染の顔をもう一度見るために走り続けた。一歩踏み出す度に胸が軋み、脳までもが酸素の不足を訴え叫びをあげる。足先の感覚は無くなり、太ももで地面を蹴っているような状態だ。毛穴という毛穴から留処なく汗が流れていたが、いつの間にか打ち止めになっていたようだ。
叢雲が月を覆い、地上への慈しみを妨げる中、ちえは体育館の横を通り過ぎ、部室棟の方面へと向かっていた。ちえ自身があまり言ったことのない場所で、逃走に適した構造をしているのかわからないということもあり極力近づくのを避けていたのだが、何振り構っていられる状況ではなくなってきた。
何か致命的な事を忘れている気がしたが、あやふやな記憶をあてに出来るほどの余裕はない。
先に見えてきたのは運動部の棟で、それに平行するように文化部棟が建てられている。運動部のものと思われる倉庫が並び、部室棟の建物自体にも、直接二階や三階へ通じる階段が複数付けられているのが確認できた。
まだ逃げ回れる余地があることを確信し、希望を抱いたちえが、念のため男との距離を確認するために後ろを盗み見ると、さっきまで執拗にちえの背中を追ってきていた男の強面は無く、混戦に持ち込める絶好の機会が再び訪れていた。
最初に使うのは、文化部棟の二階。建物の両端に階段があり、道を塞がれる心配もない。部室棟の構造は階段から直接通路が伸びていて、通路は実質屋外のような扱いになっている。胸のあたりまで隠れる塀がある、言わばベランダの様な作りにもなっているので、タイミングが良ければ、身を隠して体力の回復もわずかながら可能だろう。
さて、階段まであと数歩まで近づいたとき、ちえは足が地面を踏みしめなかったことに疑問を抱いた。次に、体全体が奇妙な浮遊感に包まれているのを、不思議に思った。最後に自分の足が何かに引っかかり、転んでいる最中だと気づいて、とっさに頭を庇った。
数メートルは転がっただろう。受け身が間に合ってなんとか身を起せたからよかったものの、かなりの勢いがついていて、一瞬反応が遅れれば二度と起き上がれなくなっていたかも知れなかった。
功を焦って自分の足につまづいてしまったのかとちえはまず思ったのだが、右足に残る真っ直ぐなな痣を見つけて、誰かにひっかけられたことに考えが及んだ。自分の走ってきた痕をよく見てみれば、黒いロープがちえの丁度足首辺りの高さになる様に引っ張られていて、ここに逃げ込んでくる人間の思考パターンを完全に読み取った配置をしている。
「まさ、か……」
絶望的な予測に、男から逃げまどっている間も力強い吐息しか出さなかったちえの口が、か細い声を漏らした。
部室棟周りの逃走経路をしっかりと把握し、ちえが取りうる行動を先読みして罠を張っていたなどと、冗談でも考えていいことと悪いことがあるだろうと、思ってしまった。
案の定、ちえが昇ろうとしていた階段から余裕綽々と男が降りてくる。もうこれ以上泳がしはしないと、ここがお前の終点だと告げるように、ゆっくりと、着実に。
深刻なダメージは負ったが、ちえもまだ動けないわけではなかった。右足を庇って左足が言うことを訊かなくなっていたが、引き摺る様にして男の反対へと歩き出す。裸足で動き回っていたため、足裏は完全に擦り切れて、血痕をところどころに残していた。
しかし、数歩歩いたところでちえの足は自然と止まってしまった。いや、立ち止まらざるをえなかった。男の他に、ちえの行く手を阻むものがあったからだった。それは、運動部棟と文化部棟の間に挟まれるように鎮座している、プレハブ小屋の存在だった。今年度に入り、部室棟を利用する生徒の多数から物置の増設の要望が職員らに寄せられて、とりあえずの応急処置としてとんでもない場所に設置された事件の事を、完全に失念してしまっていた。
張っていた糸が切れるように、ちえはその場に崩れ落ちる。懸命に策を練り、男の虚を突いたとしても、一度折れてしまった心で、限界を超えて酷使されていた肉体を御するのはもう叶わなかった。幼馴染との再会は、もう願うこともできないだろう。
「終わりだ食人鬼」
鍔を鳴らし、鋭利に研がれた刀を抜き放った男が、口の中で唸る様に呟く。
「何よ食人鬼って……私の事……?」
「食人鬼風情が人の言葉をしゃべるな」
「私何も知らなかったの! 私は一体何なの、一体何になってしまったの?! あなたなら知ってるんでしょ?」
「人でなしが人のふりをするな。人でなしのまま黙って殺されろ」
たまらずちえも言い返すが、男の方はまるで会話が成り立つような気配が無く、言葉を交わすことそのものを拒絶しているようにも見えた。
「お前らがいる限り人に真の安息は無い。お前らの時代は終わった。だからお前ももう終われ」
「そんな……意味が解らないよ……」
自分の成り果てたものをついに知っている人間に出会ったというのに、自分の立っている場所が何処かを知っているのに、何も知らないまま朽ちていくというのか。果てしない無力感がちえの頭を下げ、生への渇望を奪っていく。涙腺は熱くなっていたのに、目から何も零れることは無かった。人の道を外れた化物には存在しないのだと、自分の心が認めてしまったようだった。
最上段に構えられた男の刃に、雲から解き放たれた月の光が怪しく反射する。ちえは自ら首を差し出すようにうつむいたまま、微塵も動かない。最後の最後に無抵抗になった獲物に無感情な視線を下ろし、程無くして切っ先を振り落とさんと刀を握る拳に力が入った。
ちえの耳に飛び込んできたのは、刀が空気を割く衝撃でも、自分の頭が地面を転がる揺れでも無かった。金属が何か柔らかいものに衝突した時の、鈍くくぐもった音だった。
いつまでたっても自分の意識がはっきりしているのを不思議に思っていると、巨大な影がちえの視界の半分を覆うように倒れ込んできた。その影が握りしめていたのが、先ほどまで男が握りしめていて、自分を一刀両断にしようとしていた刀であることを認めると、ぎょっとしてその頭部を一目見ようと目線を上げかけたが、二度目の重い響きが液体の飛び散る音と重なり、影もまた大きく身体を震わせたのを目撃して、ちえは思わず目を覆ってしまった。
「大丈夫か、ちえ」
随分と長い間、待ち焦がれていた声がちえの胸を揺さぶった。数日ぶりという、他人の正目からすればわずかな時間だが、地獄の底で永遠に刑を受け続けていた罪人のような気分を味わっていた彼女からしたら、待ち望み過ぎてついに幻聴が湧き始めたのかと疑えもする事態だった。顔を上げれば、そこには異端の狩人ではなく、日常の象徴、幼馴染の空がいるということも、にわかには信じられなかった。
「あ、あれ、なんで空が……?」
「お前が助けろって言ったんじゃないか!」
状況を飲み込めないまま虚ろな目で見つめてくるちえを、幼馴染の形をした誰かもまた、半分茫然自失になりかけながら見つめていた。掴んでいた金属バットは大きくへこみ、黒い液体を先から地面にしたたらせている。
空のような誰かは手に持っていたものを放り投げ、ちえの視線に合わせるように身を屈めると、恐る恐る彼女の身体を抱きしめた。彼女の心音を確かめるように、自分がついに間に合ったことを実感するように、或いは、現実に帰ってこないちえの意識に助かったことを伝えるように。
「よかった……また会えて、ほんとによかった……」
「くう……なの? きて……くれた……?」
心の底から漏れたような空の言葉と、触れ合った箇所から染みわたってくる暖かさ、隣り合った心臓が異常なほど早く脈打っているのを感じ、ようやくちえは自分が死に際に都合のいい幻想を見ているのではなく、空に命を救われ、抱擁されているのを現実として受け入れられたのだった。
空が助けに来てくれた。自分は死に最も近い十数分間を無事に生き延びた。また空と話すことができた。喜びたい出来事が一気に押し寄せて、ちえの感情は許容量を大幅に超過してしまっていた。男をどうにかできたということが、空にとってとてつもなく重大な事件な気がしないでもなかったが、とりあえずこの状況を享受しよう、せっかく空の貴重な姿が見られるのだから、とちえは楽観的に考え、空の背中に腕を回そうとした。
掌が幼馴染の広い背中に吸い付いた瞬間、自分の異常のトリガーが何なのかを思い出し、慌てて空を突き放そうとちえがもがこうとしたとき、彼女の意識は前触れなく裏返ってしまった。
ちえを襲った最大の危機を粉砕し、赤の他人をも撲殺してしまったという事実から、これから自身に降りかかるであろう極大のピンチに動揺を隠せない空だったが、足先がボロボロになりながらも、それ以外に目立った外傷もなく自分の腕の中で生きている幼馴染がいるだけで、全てが救われたような気がしていた。
「さあ、早く家に帰ろう、自分がおぶってやるから。まずは足の手当てをしないとな」
よほど精神的に堪えたのだろう。異性にこれだけ好き放題されても放心したまま抵抗の一つもない様子を見るに、意識が戻ってくるのを待つのはだいぶ気の長い話になりそうだった。
ちえに肩を貸し、人形のように動かない彼女を無理やり立たせる空。
「こら、ここで寝ると危ないから、もっとしっかり……うわっ」
もう二人を脅かす者は無いと断定し安心しきっていたからか、弱り切ったちえが空の肩を握り、そのまま全体重をかけて押し倒そうとする行動に反応できず、そのまま彼女に乗りかかられてしまった。
幾ら突然の事だからと言って、衰弱した女子に高校生男子が簡単に力負けすることに、空は不信感を覚えることができた。そして、ちえの瞳に生気が戻らないまま、彼女の目力が増していくのを目の当たりにし、更なる異常事態に見舞われていることを彼は察知した。
「どうしたんだ、ちえ!」
「うううぅぅぅぅぅ……ううぅぁぁあああう!」
空に名前を呼ばれた瞬間、大口を開け彼の喉元に食らいつこうとするちえ。圧し掛かる体重のバランスが崩れたことにより、空は上体をずらして喉笛が肉体から別れることをすんでのところで避けることができた。そのまま横に力を加えてちえを転がすと、すかさず腹の上に馬乗りになり、転がしていた金属バットを何とか再び拾い上げてちえの肩を押さえ、彼女をその場に固定する。
なんとかちえを取り押さえることはできたが、空の心中には嵐が吹き荒れ、愛しい幼馴染の豹変を飲み込むことはできていなかった。
「あああぁあぁあああ……ううぅぅうぅううあああ……」
ちえが謎の男に切り殺されそうになっていたこと以上に、理解に苦しんでいた。幼いころからずっと、つい最近まで普通の生活を営んでいたはずの彼女が、涎を垂らしながら異様に発達した八重歯を剥き出しにして、空の肉を貪ろうとしている光景が、さっきの事象以上に現実離れしているように空には思えた。
ちえを押さえている腕が震えだし、ちえの肩が地面からだんだん浮き始めたのも、空に更なる衝撃を与えた。
これではまるでただの野生の獣ではないか。血肉に飢え、所構わず力を振るい、人々を傷つける恐ろしい獣ではないか。
ふと、空はこの学校周辺で連続していた不審死事件について、密かに支持を集めていた噂のことを思い出した。被害者は野犬に襲われていたような状態だというのに、警察は殺人事件だと決めてかかっていた。それは明らかに殺害方法が人の手によるもので、肉を食い破られたのは殺された後だという線が濃厚だからでは、という随分荒唐無稽なものだった。
空もその話を聞いたときは、噂の完成度の低さに思わず鼻で笑ってしまったものだが、まるで人食い鬼に成り果ててしまった彼女の姿と、刀を振り回す日常から遠く離れた大男の存在という対岸の出来事が、頓珍漢な妄想を一つに繋げてしまった。繋がるに十分な状況を作り上げてしまっていた。
もし仮に、幼馴染であるちえが本当に件の連続殺人犯ならば、空の想い人が稀代のシリアルキラーだとしたら、一体この先、自分たちには何が待っているのか。いや、そもそも何かですら待ってくれるのかどうか。
少なくとも、二人の行き着く先が、『めでたしめでたし』で締めくくられることはまずないだろう。
「あああああああああああああああああああ!」
部室棟の窓を揺らす叫びは、どちらが上げたものだっただろう。
拮抗していた力はちえの方に軍配があがり、金属バットが勢いよく上に撥ね上げられる。空は情けなく尻もちをつき、獰猛な食人鬼が完全に拘束から解き放たれた。
すかさず食人鬼は捕食の邪魔になるバットを彼の手から叩き落とし、のけ反る獲物にその牙を剝く。その食欲を満たすためだけの捕食行動であり、捕えた獲物がなんであるのか、理解をしていない様子だ。
ちえがとびかかってくるのを、空はやけにはっきりとした頭で認識していた。思考が加速し、周りの時間を置いていく。間違いなく、自分はここで死ぬのだと。幼馴染に体中をしゃぶりつくされ、その生涯を終えるのだと、自分の未来を予測して見せつけていた。
幼馴染を救おうとしたが、その幼馴染は人食いの化け物に変貌していて、結果的に何も得られないまま死んでいく。あまりに、あまりに酷い末路ではないか。空は歯軋りをする。
ただ、幼馴染に関しては、天音ちえに関してだけは、とことん馬鹿になれることを空は自覚していた。それは様々な事件があったからではなく、色々な切っ掛けがあるわけでも無く、例えば、去年の夏のように、今晩のように、考えなしに動いてしまえたように。こんなにも大好きなのだから、ちえが何になっても、ちえに何をされても、彼女が望むなら、それに応えてあげようと思ってしまえるのだから。
理性を失っても、人でなくなってしまっても、今のようにちえが泣いているのなら、空はその悲しさを埋めるために何だってしてあげたい。
空はずっと、いつだって彼女のために何かしてあげたかった。彼女を守ってあげたかった。彼女に彼氏ができた時、それを自分から言い出せなかった自分が不甲斐無かった。それでも、彼女が幸せになれるならそれでよかった。彼女が恋愛について酷く悩んでいると知った時、何度も力になりたいと強く願い、幼馴染という地位に甘んじて足踏みしていたい自分が憎かった。
「大好きだよ、ちえ」
痛々しいちえの姿を見て、手を上げるなどできるはずもなく。結局ちえに思いの丈をぶつけることができなかったことを悔やみながら、空は為されるがままに、ちえに左ひじから先を差し出した。
「……っぁあああああああああああああ‼」
牙が表皮を易々と突き破り、筋繊維をずたずたに引き裂き、腱を砕き、引きちぎられる痛みは、想像を絶する苦痛だった。一瞬のうちに空の自我が消し飛ぶが、無我夢中になって齧りつくちえに小指を噛み千切られると、強制的に意識が呼び戻されてしまう。
掌が半分ほど消失したところで、ついに空の痛覚は完全に職務を放棄した。全身の筋肉が硬直して身動きが取れなくなり、数十秒のうちにいよいよ失血量も馬鹿にならなくなってきている。
幼馴染の変わり果てた姿と、自分の一部が欠損していく様を淡々と眺めつづけられるほど空の肝は据わっておらず、食事風景を視界の中心から外した。
坂倉空の人生はここで終幕。片思いしていた相手に自分の血肉を捧げ、幼馴染に刀を持った男殺しの汚名まで背負わせてしまうことになって、無力に果てる。なんと無様な事か。
本調子に戻った夜天に、くっきりと星と星を繋ぐ線が見える。自転車に乗ってきた空にしてみたら今日の気温は少し肌寒かったが、散歩をするぐらいならこれほど過ごしやすい環境は無いだろう。
ここに至って、空は自分の頭の中がやけに岡目八目になっていることに気付いたが、これは単に酸素の足りなくなった脳が思考能力を落とし、現実逃避をし始めただけで、生命活動の最後の瞬きに過ぎないことも勘付いていた。
その証拠に、いつのまにか自分の腕を齧っていたちえが咀嚼をやめて彼の顔を直視していたことを、
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、なさい……」
口の周りを真紅に汚し、対照的に顔を真っ青に染めて涙を滴らせていたことに気付かなかったのだから。
いつの間にか、天音ちえは宝物を湖に落とさないよう、しっかりと抱きとめている幼子のように空の左腕を抱えていた。心臓に近い方の傷口を押さえ、彼女の寝間着は無事な箇所が無いぐらいに濡れきっていた。
壊れてしまったオーディオ機器のように同じ言葉をちえが繰り返し、その動揺具合は今迄に類を見ないほどだ。自分でも受け止め切れていない、不可抗力的な食人行為ではあったが、自分の一番大切で身近な人間を自ら食し、死に至らしめようとしていたのだから、その場で狂いださないだけでもマシな方だろう。
幾らでもちえを責め立てることはできる。質問攻めにすることも、恨み節をぶつけることだって容易だ。それをする権利は、間違いなく空には備わっていた。だが、坂倉空が彼女を非難するなど、嫌ってしまう要素など存在しない。坂倉空はそのいずれも選ばない。
左腕はもう使い物にならなくなり、無事な方の腕も持ち上げるのがやっとな状態だったが、空はちえの頭を宥めるような優しい手つきで撫で、そのままちえが間断なく流す後悔の結晶を拭った。
「僕も一緒に背負っていくから。だから泣かないで、ちえ」
天音ちえの目が驚愕に見開かれる。到底あるとは思えない未来を語る空の姿が、またちえの悔悟を増幅させる。このままではちえは誰に裁かれるでもなく、自分で自分を裁き、貶めてしまうだろう。空はそれを避けるために、さらに続けた。
「大好きだよ、ちえ。今までも、そしてこれからも」
何年も自分の胸中に仕舞い込み、彼を苦しめ続けていた秘密がここにようやく明かされた。一度目は届かなかった告白も、今度はしっかりとちえの耳に届き、心を震わせることができた。
「私も、大大大好きだったよ……! 空ぅ……!」
思いが通じ合った喜びと、ようやく手にした幸せが自分の腕の中で消え失せていくのを止められない情けなさで、ちえの感情はとうとう限界を迎えてしまった。
「ちえはもう大丈夫、大丈夫だから……」
久遠の眠りに誘われて、空の目蓋が徐々に閉じていく。ちえが空の体をゆすったり、懸命に声をかけてなんとかして彼を現世に留めようとするも、彼女もまた、ついさっきまで命を燃やしていたのには変わりがなく、幼馴染に手を引かれるように、視界が黒く塗りつぶされていく。
「行かないで、私を一人にしないで、もう私にはあなたしか……いな……」
滑りの悪い歯車が、溝一個ずつ詰まりながら回るみたく、自分の体の中悉くが蠢いている不快感に身をよじりながら、ちえの身体が空に重なる。
複数人が走ってくるのを足音でおぼろげに感知しながら、二人はそろって目を閉じた。
走馬灯とも呼べるタイミングで二人は揃って、小さい机をお互いで挟んで座り、笑顔で食事をしている夢を見た。ちえが料理を自信満々に食べさせ、口にした空はなんともおいしそうに頬張る。何気ない会話に満ち足りた光景は、果たして、二人の未来の姿なのか。
“連続不審死事件、ついに解決か”
『一カ月ほど前、世間を恐怖のどん底に陥れた連続殺人事件が凄まじい結末を迎えようとしている。三日間を通して死者二名、重傷者二名を出したこの事件は、……犯人と思しき男性が、人体に重大な悪影響を及ぼす薬物を所持していたことが判明し……被害者の一人の女性に薬物を使用し、正常な判断力を奪い二人を殺害させたとして……男性の死後、同じような事件が発生していないことから……』
「ですって、全く怖いわねぇ」
時刻は十一時を少し過ぎたあたり。温和そうな老人の運転するタクシーの後部座席に、雑誌を片手に微笑む壮年の婦人と、神妙そうに眉を顰める白髪交じりの初老の男の姿があった。女の方は実に気楽だが、男の方はと言うと、頭痛に頭を悩ませているか、難題にひたすら頭を抱えている様子だ。
「やだねえ、娘のお見舞いに行くっていうのにそんな険しい顔してたら、見舞われる方も元気出なくなるってものよ? 娘を“人を食べちゃう化物にさせられて”心配なのはわかるけどね」
女が口を休ませることなく男に話しかけるが、相手の反応が芳しくないのが続き、つまらなさそうに口を尖らせた。
「そりゃ今回お父さんにはいろいろ迷惑をかけたけど、それも折り込み済みだったはずでしょ?」
先ほどまでとは違う、嗜虐心の混じった含み笑いを女の姿をした小悪魔のような女は漏らした。耳元で突かれて痛いところを囁かれ、渋かった男の表情がさらに濃くなる。
満足げに頬を緩める女の口元に、余人よりも鋭く伸びた、白い犬歯が垣間見えた。
血に染まった娘の制服を、母親が何の疑問も抱かずに片付けるだろうか。どうしてあんなにも都合よく深夜まで両親が外出をしたのか。外部からやって来た食人鬼を狩る男が、あんなに早く身元を特定できるだろうか。瀕死の重傷だった二人を生き長らえさせたのは、一体誰だったのか。
答えはもう分かり切っている。
「本当、血は争えないわ」
隣の席から視線を外し、窓の外の景色に興味を移した女が何気なく発した言葉を聞いて、男は無意識に、肘から先の存在しない自分の左腕を労わる様に、そっと撫でた。
お読みいただきありがとうございました。
これにてハッピーエンドにございます。