日が昇り、朝が来る。光に照らされた住宅街の一角。代わり映えのしない二階建ての一軒家。幸せな家庭のために設計された住居を一人で占拠する男こそ、この物語の主人公である。
――ピンポーン
「お届け物でーす」
静かだった屋内に来客を報せるチャイムが鳴る。呼び掛ける声は、開け放たれた窓から男の耳にも届いた。
「あんだよこんな朝っぱらから……」
ベッドの上でのっそりと体を起こす。寝癖でぼさぼさの頭は天然パーマの如く乱れ、生えるままに任せた無精髭が不潔さを増長させる。
「ふあぁあ、あぁ。休みの日ぐらい寝かせろよ」
欠伸をして、頬を掻く。ベッド脇に立ち上がり、頭頂が天井に肉薄する。2メートルを超える長身とタンクトップの下から浮き上がる筋肉こそが、男を構成する最大の特徴だ。
――ピンポーン
――コンコン
再び鳴るチャイムの音に、間髪入れずノックの音が続いた。
「今行きまーす」
網戸越しに応えて、部屋の扉を開ける。階段を下る男の名は
頭は守れ。昔は馬鹿らしいとも思った。だがしかし、二年前の大戦以来ガストレアが蔓延り、死が身近になった世界では笑ってもいられない。
頭守は寝癖を手櫛で整え、意味はなし。ぼさぼさの髪のまま、玄関を押し開けた。
「柳葉様でしょうか」
「はい」
「こちらサインか印鑑を――」
簡単なやり取りを済ませ、大きなダンボール箱を受け取る。割れ物注意のステッカーが貼られたそれを丁寧に運び入れ、リビングの床に置いた。
伝票に記載された品目は食器。送り主の欄には、会わなくなって久しい姉の名が書かれていた。
「姉さん? なんで食器なんか……」
両親の葬儀を終えて以来、連絡すら滅多に取らなかった姉だ。なぜと疑問には思いつつも、貰える物は貰う主義の頭守は迷いなくダンボールの封を切った。
初めに目に飛び込んだのは青色だった。群青の光を返すそれは、よく見ればその全てが滑らかな毛であることがわかる。
続いて見えるのは羽。翼と言うべきか。青みがかった黒色のそれは、いわゆるコウモリの持つ翼に酷似している。
そして最後に、それを目に捉えた。
「はぁ?」
コウモリの翼の主。生後一年に及ぶかもわからない小さな命は、ダンボールに敷き詰められた毛布の中で静かに寝息を立てていた。
「人か……?」
男はその日、子供を授かった。
「ちっくしょう、俺の休日を返しやがれガキが」
頭守は大量のベビー用品を傍らに赤子を抱き抱えていた。青髪の赤子は毛布にくるまれ、頭守の腕の中で揺られている。
最近復旧されたばかりのインターネットを駆使して育児の情報を集め、急いで必要なものを買い揃えたのだ。尋常ならざる様子でベビー用品を買いに走る寝癖だらけ髭だらけの男は、店員の目には不審者のように写ったことだろう。
「だう、あうあ」
赤子は無邪気に翼を伸ばす。人の腕の代わりに生えるコウモリの翼。時折赤く染まる瞳。純粋な人ではない。ガストレアの特徴である赤目を有し、強靭な再生力を持って生まれる女児。通称ガストレアの呪い。呪いに祝福された子を、世間は呪われた子供たちと蔑んでいた。
「ったく、姉さんもなんでガキなんか送ってきたんだか」
姉から送られていたダンボール箱の中には、哺乳瓶や粉ミルクなどの最低限必要なものと、手紙が同封されていた。
『元気してる?
頭守の大好きなお姉ちゃんよ!
一人暮らしは味気ないと思うから、お姉ちゃんがお腹を痛めて産んだ赤ちゃんを送るわね!
その子の名前はつばさよ、柳葉翼。誕生日は5月5日。
お姉ちゃんのためだと思って大切に育ててね!
じゃ、後はよろしく~♪』
手紙の文章から姉の意図を読み取ることはできなかった。中絶禁止法により呪われた子供を嫌々産む人も多いと聞くが、姉はその類いでは無いように思える。
ただこの赤子が
「きゃっきゃっ!」
「あだっ!?」
つばさの翼が頭守の頬を叩いた。無造作に振り回しただけの一打に込められた衝撃は、赤子にしては存外に大きい。ただ、つばさの瞳は赤色を示していた。
現在で呪われた子供たちの最高齢は二歳である。あまり知られていないことではあったが、呪われた子供たちが通常ではあり得ない膂力を持っていることが、一部の研究機関では明らかになっていた。
「っつー。にしても、羽なんか持ってることもあんのな、お前ら」
つばさにとって最も幸運だったのは、頭守が呪われた子供たちに対する差別意識を持っていなかったことだろう。赤い瞳のみならず、明らかに異形の要素であるコウモリの翼まで特別視しない。
それどころか、ガストレアに対する差別意識すら無い。頭守にとっては全ての命が同等だった。もし送られてきたのが殺傷能力を持たずに生まれたステージⅠのガストレアだったとしても、彼は同様に命を救うために行動してだろう。
或いは、広義で差別しない頭守だからこそ、姉はつばさを託したのかもしれない。
「明日から仕事どーすっかな……」
「まーま、まーまっ」
翼が頭守の胸を叩く。つばさの瞳は、困ったように頬を掻く頭守をまっすぐ見据えていた。
「あぁ? ママじゃねぇよ、それを言うならパパだ。って、俺はお前のパパでもないけどな」
「あーう?」
二階建ての一軒家。家庭のために設計された住居。
その日、二人目の住人が加わった。
時刻は深夜四時半。夜が明ける少し前。
「1 + 3 は?」
「よん!」
「8 - 3 は?」
「ご!」
二階建ての一軒家。かつて頭守が占拠していたその家に、今は元気な子供の声が響いていた。
「2 × 6 は?」
「じゅうに!」
「じゃあ、18 ÷ 3 はどうだ?」
「ろく!」
「よし、全問正解だ。四則演算はもう大丈夫そうだな」
玄関扉に背を向けてしゃがむ、髪をオールバックにまとめた男。柳葉頭守。
人の体に似合わない巨大なコウモリの翼を持ち、翼と同様に青みがかった髪が印象的な幼女。柳葉つばさ。
三年の時が過ぎた。赤子を男手一人で育てるのは困難であったが、頭守はそれをやりきった。幸いしたのは、つばさが呪われた子供だったことだ。
通常の子供はどんな些細な要因でも衰弱し死亡する可能性がある。だが、呪われた子供は虐待下においても多くの場合生き残る。劣悪な環境であっても、ガストレアウイルスが体を生かすのだ。適切に保護しようと努める頭守の庇護下では死ぬ道理など無かった。
加えて、つばさの保有因子は外見通りのコウモリ。睡眠時間が非常に長いことで知られるコウモリの因子を強く持ったつばさは、頭守が仕事に出かける日中ほとんど起きることがなかった。頭守が睡眠時間を帰宅後の数時間にずらすことで、夜間つばさの相手を付きっきりでできたのだ。
「ねぇねぇ! もっとむずかしいの!」
「ほう? そうだな……382 ÷ 12 は?」
「さんびゃっ!? えっとえっと……」
つばさは同年代の子供に比べて高い知能を持っている。三年十ヶ月にして流暢に喋り、単純な四則演算をマスターしているのがその証明だ。要因として頭守の教育が適切だったのもあるが、ここでも呪われた子供であることが影響する。
正常な健康体を保つガストレアウイルスは、当然脳にもその作用が及ぶ。保有する因子により差はあれど、大きさの変わらない脳は総じて早熟となる。適切な教育さえ施されれば、全ての呪われた子供たちは高い能力を得るポテンシャルを持っているのだ。
「さんじゅういち!」
「余り10」
「ふぇ!?」
慌てて再度暗算するつばさを見て、微笑みを漏らす頭守。数秒ののち立ち上がり、ふっと伸びをした。
「さて、そろそろ行くか」
「もういっちゃうの?」
「ああ」
明朝。日が昇る少し前は、外周区の現場で大工として働く頭守の出勤時間だ。出勤前につばさに簡単なテストを出すのは二人の日課になっていた。
「……いってらっしゃい、パパ」
「行ってきます」
残念そうに見送るつばさの視線を背に、頭守は家の外へと出て行った。
ガチャリと音がする。玄関に鍵が掛けられた音。足音が遠ざかる。やがて独り静かになる。見慣れた光景。頭守が休みの日以外は毎日こうだ。冷たい空気が耳を刺す。
つばさはリビングへと戻り、テレビをつけた。流れ出すニュースを無視して、家庭用ゲーム機の電源を起動する。
頭守が行った後、眠ければ眠り、眠くなければ眠くなるまでゲームをする。それがつばさの日常だ。腕がコウモリの翼になっているため複雑な操作はできず、アクションゲームや制限時間のあるゲームはできない。コマンド操作で完結するゲームのみをプレイする。
押し入れの奥に封じられていた十年以上も前のゲーム機筐体は、つばさによる連日の起動にも耐えている。ダンボールに詰め込まれていた名作RPGを、一人で黙々とプレイする。
既に数度クリアしたゲーム。おぼつかない操作。一時間もプレイしていれば欠伸が出る。そうしたらいつもそこで切り上げて、布団に入るようにしていた。
しかしその日は違った。いつまで経っても眠くならない。心当たりはある。頭守に迷惑が掛からないよう、毎日遅く起きようと努めたからだ。頭守が帰ってきた後に起きれば、頭守に掛ける迷惑は最小限で済む。
だが、遅く起きれば起きるほど、眠くなるのは遅くなった。当然だ。例えコウモリの因子を宿しているとしても、つばさは人間だ。不必要に長い睡眠は体に毒となる。故にガストレアウイルスが体を起こす。ガストレアウイルスは母体の成長に合わせて、体を最適な状態に管理するのだ。
午前六時。カーテン越しに淡い光が差し込んでいる。つばさはコントローラーから翼を離した。テレビを消し、カーテンを開いて外を見る。見えたのは庭と塀。つばさの身長では、それ以上の何も見えない。
気づくと玄関の前に立っていた。眠くはない。遊べるゲームは遊び尽くした。頭守を待つには早すぎる。ただ、寂しさだけがつばさを駆り立てていた。
「パパ……」
玄関の鍵に翼を伸ばす。通常、指で摘まめば簡単に回るつまみも、不器用な翼ではうまく行かない。それでも試行錯誤を繰り返すうち、ガチャリと音がした。開いた。
後はドアノブに翼を被せ、摩擦で回して開けるだけ。そうして開けようとして、止まった。衝動的に動いていたつばさだったが、そこでようやく頭守の言葉を思い出した。
『絶対に外に出るなよ』
理由を訊ねれば、危険だからと帰ってきた。危険という言葉の意味は知っている。しかし、つばさにとっての『危険』とは、HPが0になる可能性がある時のことだ。無論、それはゲーム内でのこと。つばさは『危険』を現実に体験したことがなかった。
玄関の扉が滑るように動く。空間に満ちた光が開いた瞳孔を貫き、反射によって目を瞑る。翼膜の影で目を慣らし、裸足のまま歩を進める。
午前七時。昇り切らない朝日に包まれた空気はほのかに肌寒く、翼をマントのように纏い身を縮める。四方を囲む塀の合間に、固く閉じられた門が見える。足裏が汚れることも厭わず歩み寄る。
鉄柵の門の隙間から見えた景色は、何の変哲もない道路と住宅。ありふれた街並み。しかしつばさにとって、それは画面越しにのみ見る風景。
「ふわぁ……!」
初めて見るそれらはつばさの目には新しい。車も家も道も、知ってはいるが見たことは無いものばかりだった。
つばさは時を忘れてその光景にじっくり見入っていた。道路を車が過ぎ去って行く。離れた家の窓に、カーテンを開く人影が写る。ランドセルを背負った数人の子供たちが、一列に並んでどこかへと歩いていく。
そうしている内に、やがて頭がぼんやりとしてきた。睡魔だ。柵越しの世界を見るのを止めて、開きっぱなしの玄関へと引き返す。ゆらりと頭を揺らしながら、両の翼でドアノブを挟んで引いた。
バタンと音を立て扉が閉まる。その音にびっくりして目が冴えた。
少し待ってみたが、いつも聞くガチャリという音は聞こえない。扉の開閉に伴っていつも聞こえていた音が、聞こえない。音に過敏になるのはコウモリの
ふと鍵を開けた時の音を思い出し、もう一度つまみを回そうと試みる。ほとんど翼に隠れて見えず、親指が変化した突起は極めて不器用。簡単に回せはしない。しかし、何事にも運というものはある。
鍵を開けた時と逆方向に回る感触。合わせて、ガチャリと音が鳴った。それに満足し、フローリングに右足を踏み入れる。床に触れた足裏に違和感。見れば、砂粒がまばらに付着している。
翼を使ってはたくと、乾燥した粒子は転がり落ちていった。左足も同じようにはたき、違和感が無くなったのを確認してから廊下を歩く。子供部屋とは思えないほど簡素な自室に入り、再燃する眠気とともにベッドに潜る。
こうして、つばさの初めて外に出た一日は幕を閉じた。
つばさは家の庭を歩いていた。足が汚れるのを嫌って、頭守が捨てた靴下を重ねて履いている。侵入を拒むように生い茂る雑草を慣れた様子で掻き分けて、コンクリートブロックの塀に囲まれた世界を探索する。
初めて外に出た日から、起きていられる日は毎日外に出るようになった。最初の内は南京錠で閉じられた鉄柵の門を越えようとしたが、小さな体と不器用な翼ではうまく登ることができず、早々に断念した。
次に目を付けたのは庭だった。一軒家の決して小さくない庭は、手入れが放置され雑草が繁茂している。いざ探索を始めようと勇んでみれば、新たな問題が発生した。土だ。一切舗装されていない庭には、当然土がある。産まれてから温室暮らしでやや綺麗好きの癖があるつばさには、裸足に土が着くことが我慢できなかった。
頭守の靴下を手に入れるまでは、踏むと音が鳴る砂利が敷き詰められた家の裏側を見て歩いた。数日間念入りに見て回ったが、めぼしいものはエアコンの換気扇だけ。上に乗れば塀の縁に翼は届いたが、翼の構造では人の体を持ち上げることは叶わなかった。
庭の探索は、つばさにとって新鮮なものばかりだった。草や花。石に様々な虫。見たことのないものばかりで、楽しみに事欠かなかった。塀の外に出るという当初の目的を忘れ、毎日のように遊んでいた。四ヶ月もそんなことを続けていれば、箱入り娘であっても慣れるものだ。
だからこそ、その日が訪れてしまったのは不運であり、必然だった。およそ一週間、頭守が新たに買い与えたゲームに熱中し、庭に出ることがなかった。七月の下旬。庭に訪れた変化。つばさははじめて『危険』と出会うことになる。
虫の羽音が騒がしい。耳が良いつばさだからこそ聞き取れた音だ。前回庭に出た時には、ここまでの密度で虫の羽音が聞こえることはなかった。無論、つばさの胸中に生まれたのは興味。
雑草を掻き分け、音の発生源へと近づく。程なくしてそれは見えた。奇妙な波線模様を描く歪な球体。コンクリート塀の内角に貼りついたそれに群がる、つばさの人差し指程度の大きさの虫。黄色と黒色で構成された、俗にキイロスズメバチと呼ばれる昆虫だ。
つばさは知らないことだが、スズメバチの巣は毎年のようにこの家に出没する。その度に頭守が駆除していたが、今年の巣の存在に頭守はまだ気づいていなかった。
無警戒に巣へと近づく。程なくしてスズメバチもつばさの接近に気づき、警戒するようにつばさの周囲を飛び回る。更に一歩。スズメバチの羽音に混じり、カチカチと音が聞こえる。それでもつばさの足が止まることはない。
一匹のスズメバチが、導かれるようにつばさの右肩に留まった。間もなく、コウモリの因子によって黒く染まった肩に、スズメバチの針が突き立てられる。
「イ゛ッ!?」
焼き付くような痛みが走る。反射的に左の翼が閃き、肩のスズメバチを薙ぎ払うように叩き潰す。続けさまに走る痛み。刺された場所を認知するより先に、更なる痛み。
「ヤアアアァァッッ」
はじめて感じた強い痛みに、苦しみ悶え、振り払おうとする。しかし痛みが消えることはなく、間近にあったスズメバチの巣を破壊する結果に終わる。
青みがかった黒い翼が、群がるスズメバチで黄色に染まっていく。刺さった針は、呪われた子供の再生力によって癒着し抜けることない。つばさの体から逃れることができず、多くのスズメバチは暴れるつばさによって体液を散らす。
「アアアアッッッ!」
途絶えるどころか増していく全身の痛みに、咆哮にも似た叫び声を上げる。沸き上がる衝動に駆られて、翼が広がり強く羽ばたく。
つばさの体が宙に浮いた。赤く染まった瞳が、雑草に覆われた庭を見下ろす。半ば無意識に翼が羽ばたき、気づけばどう頑張っても越えられなかった塀が下にある。
飛翔はそこで止まった。放物線を描き、つばさの体が道路に墜落する。ランドセルを背負った子供たちが、突然落ちてきたつばさをギョッとした様子で見ている。
「イヤァッ、アアアッ!」
塀を越えてなお、無数のスズメバチがつばさを追って飛んでくる。つばさには逃げるしか択はなく、ふらつきながらも一心不乱に駆け出した。
見知らぬ世界。焦がれた世界。塀の外に出られても、楽しむ余裕などありはしない。痛みで朦朧としながら、ただひたすらに走る。
悲鳴が聞こえる。自分のものではない。あちこちから聞こえてくる。遠ざかる足音。電話のコール音。とめどない泣き声。
罵声が聞こえる。化け物。赤目。死んでしまえ。投げつけられた石は、スズメバチに比べれば痛くなどなかった。
スズメバチに纏わりつかれる赤目の少女など、好んで近づく者はいない。救いの手などあるはずもない。遠くにパトカーのサイレンを聞きながら、つばさの体は小川へと転がり落ちた。
「あれ、俺の家だよな……?」
帰宅した頭守を迎えたのは、パトカーの赤い光だった。茜差す空。午後七時のことだ。
頭守の家の前には一台のパトカーが止まり、今まさに警察官の手によって規制線が張られている所だった。嫌な予感がして近づくと、別の警察官が入口の門を開けようと四苦八苦しているのが見えた。
「この家から赤目が出てきたらしいわよ」
野次馬の声が耳に入ってくる。ゾッと寒気がした。
「本当?」
「ほんとよ、ほんと。息子が見たって言ってるもの」
「怖いわねぇ。早く捕まらないかしら」
「あっちの方に行ったらしいけど、どこに隠れてるのかしらねぇ」
無関係を装って家の前を通り過ぎる。家が見えなくなるまで歩き、焦燥をあらわにして走り出した。
「つばさ、無事でいてくれ……!」
全身の冷たい感触。目を開けると、真っ暗な空が広がっていた。
「うぅ」
体を起こす。下半身が水に浸かっている。河川敷の石の上で寝ていたからか、体の節々が痛みを訴えた。
辺りを見渡すが、当然見覚えはない。星一つない曇天。まばらに立つ街灯の光にうっすらと照らされている。理解したのは、目の前にある水の流れが川ということだけ。
ずっしりと重い体を持ち上げて立ち上がる。いつの間に脱げたのか、履いていた頭守の靴下は無くなっていた。翼膜を通すために左右が大きく開いたシャツを、翼で正面に寄せて絞る。ふと翼に付着した黄色い粒のようなものが目に入った。
よくよく見ると、それら全ては虫の死骸。全身を残したままのものも、体の一部が捥げたものも。無数のキイロスズメバチの死骸が、針をつばさに刺したまま息絶えていた。
「ひぃっ」
見れば、翼だけでなく脚や腹にもスズメバチの死骸がぶら下がっている。白い肌に無数の黒い点。突き刺されたままの針だけが残され、黒と黄のノイズ模様を描いている。
「やっ、いやぁっ!」
激痛を思い出し、全身を翼で払う。スズメバチの死骸が捥げ、パラパラと落ちていく。しかし、どれだけ念入りに擦っても、深く突き刺さった針だけが抜ける様子を見せない。
「はーっ、はーっ、うっ」
やがて疲れが先に来て、涙が目から溢れる。ぐっと堪えて、歩き始める。行き先はわからない。どこかにあるはずの家に帰るため、街灯の下へ、坂を登る。
登りきると、道路に出た。点々と続く街灯に照らされた道。右も左も同じ様。家など見当たるはずもない。
「うぅっ、ひぐっ」
堪えたはずの涙が頬を流れる。それでも歩みは止めず、暗い夜道を着実に進む。
ゴールの見えない道のりを歩き続けた。歩き続けて、やがて人の声が聞こえた。憔悴しきったつばさにとって、それは希望に思えた。
開けた空間。点在する遊具で、ここが公園であると察した。
公園の入口。街灯の下で五人の男が談笑している。腕に黒い模様があったり、耳や唇に金属が着いていたり。奇妙な格好ではあったが、疲れてきったつばさに考える余地はなかった。
「たす、けて……」
「うおっ、なんだこのガキ!?」
つばさの存在に気づいた男たちは、あっという間につばさを囲んで立った。街灯のわずかな光で、未知の生物と対面したようにつばさの体を観察する。
「あんだこの羽、コスプレか?」
「ちげーよ、ガストレアだろ」
「うわっ、こいつ顔にハチくっつけてやがる」
「おえっ、なんだこの黒い粒。オレこういうの無理なんだよ」
「タツヤてめぇ集合体恐怖症か? だっせぇな」
三者三様の反応。しかしつばさの求めていた反応とは違っていて、困惑する。
「んで、どーするよこのガキ」
「当然、こうだ」
男たちの中でも比較的大柄な男の拳が、つばさの顔面にヒットする。上からの衝撃で後頭部がアスファルトに衝突し、生ぬるい感触が頭皮に広がる。
何が起きたのか理解できず、つばさは目を見開いた。
「ガストレアのガキなんざ殺すしかねぇだろ」
「これで俺らも正義の味方ってな」
「あー、よーやく仇討ちができるぜ」
「オレパース。キモいもん触りたくねぇ」
「タツヤてめぇ……。あー、まあいいか。動画撮ってろ」
「へいへい」
タツヤと呼ばれた金髪の男は道端の段差にどっしり座り、スマートフォンをつばさに向けて構えた。
「そんじゃ、駆除開始だっ!」
「がはっ」
勢いをつけた男の蹴りが、仰向けに倒れたつばさの脇腹を抉った。
「怪物はあの世にすっこんでろ!」
「てめぇら赤目のせいでじいちゃんは死んだんだよっ!」
「あ゛あ゛っ!」
地面を転がるつばさの翼膜が踏みにじられ、背中が踏みつけられた。
「苦しんで死ね!」
「あぐっ」
胸倉を掴まれ、頬を殴られた。
「いあ゛っ、あ゛っ、あ゛ぅ」
強制的に立たされ、三人がかりで繰り返し蹴られた。
「あがっ」
ガードレールに背中から叩きつけられ、体がくの字に折れ曲がった。
「がっ、ごふっ!?」
アスファルトに投げ付けられ、腹を踏み抜かれた。
「はあ、はあっ、くそ! まだ死なねぇのかよ!」
「ぐふっ!」
ヤケになった男に、再び腹を踏み抜かれた。四人がかりの
「はあっ、やっぱバラニウムじゃねぇと殺せねぇのか?」
「バラニウムならあんぞ」
それまで撮影に徹していたタツヤが、黒光りするナイフを差し出していた。ガストレアの再生能力を阻害するバラニウム。それによって作られた武器は、呪われた子供の命など容易に刈り取ることができる。
「あんなら初めっから出せや!」
「やー、ついさっきまで忘れてたわ」
ひったくるようにバラニウムナイフを奪い取る男。振り返り、倒れたつばさを正面に見据えた。
「はー、ったく。まずは試し切りからだな」
バラニウムの刃がつばさの太ももを切り裂く。傷口から赤い血が溢れだす。傷が塞がる気配は無く、血が止まらない。
「あぁ、ぃやぁ」
「ギャハハハハッ! こいつぁ最高だ! マジで治らねぇぞ!」
「おいっ、俺にも使わせろよ!」
「お、俺も!」
「いいぜ、ただし一回ずつな! トドメは俺が刺す」
バラニウムナイフが二人目の男に渡る。左の翼を持ち上げて、翼膜を一気に切り裂いた。
「うぅ」
「あれ、あんまり痛がらねぇな」
「早く渡せよ、一回ずつだろ」
「仕方ねぇ、ほらよ」
ナイフを受け取った三人目の男は、振り子のように腕を振り、つばさの腹を横一文字に切り裂いた。
「ぃ゛っ、ぁ゛ぁ゛」
「おいおい、殺すなよ?」
「大丈夫、腹で死にやしねーよ」
「次は俺か。どこ切るかな~」
四人目の男は、つばさの体を起こし座らせる。そのまま背後に回り、背中を斜めに切り裂いた。
「い゛か゛あ゛っ」
「うおっ、一番深いんじゃね?」
「バラニウムなら傷つくって、不思議だよなぁ」
「返せよ。トドメ刺す」
一人目の男にナイフが戻った。赤い血に濡れたナイフを、つばさの頬にペタペタと当てる。
「何か言い残すことあるかぁ? ま、あっても聞かねぇけどな」
「違いねぇや!」
「ギャハハハッ!」
「たす、け」
「ああん? 聞かねぇっつたろ。頭沸いてんのかガキ?」
「………パパ」
「はっ、ガストレアのパパってか? 助けに来るわけ」
その足音は、殺意に盛り上がった男たちにも聞こえた。深夜二時の夜道。豪速で迫る影は、それが振り抜いた拳は、ナイフを持った男を撥ね飛ばし、一撃で昏倒させた。
「なんだてめぇ!」
「ふんっ!」
続く回し蹴りが二人目の男の側頭部に命中。体が錐揉み回転し、墜落を待たずして意識が刈り取られた。
「ま、まって」
「はあっ!」
回転の勢いを乗せたまま、強烈なラリアットが三人目の男をガードレールに叩きつけた。結果は当然、即死。
「ひっ、うわあぁぁぁあ!」
「おらぁ!」
逃げ出す四人目の男の後頭部を鷲掴みにし、腕力を以て地面とキスさせる。間もなく、男は意識を失った。
「お、オレは何もしてねぇよ! ここで動画撮ってただけだ! ほ、ほらスマホはやるから、見逃してくれよ!」
タツヤはスマートフォンを投げ捨て、尻を地に着けたまま後ずさった。
「……」
無言で歩み寄る。足裏でスマートフォンの画面が割れる音が聞こえる。
「や、やめろ、来んなよ。オレはまだ、死にたくねぇ」
アイアンクロー。顔面を鷲掴みにし、タツヤは高く持ち上げられる。指がめり込み、顔の皮膚が破け、血が流れる。
「が、あ」
恐怖。タツヤは持ち上げられたまま失禁し、気絶した。ぶらりと垂れるタツヤを投げ捨て、つばさに向き直る。
たった一人で、一瞬にして五人の男を蹂躙した。
その男を構成する最大の特徴は、2メートルを超える長身と、タンクトップの下から浮き上がって見える筋肉。
そして何より、柳葉つばさの、父である。
「パパ……!」
「つばさっ、大丈夫か!」
頭守は傷だらけになったつばさを抱きしめた。
「パパっ、ごめんなさい。勝手におうち出ちゃってごめんなさいっ」
涙を流し、謝罪の言葉を繰り返すつばさ。
「いいんだつばさ。パパこそ、パパこそごめんな。つばさを自由に、自由にっ、してやれなくて……!」
つばさの小さな体を抱きしめて、涙を噛み殺す頭守。
「パパぁ、パパぁ、パパぁあぁぁぁ」
「絶対に、つばさが絶対に、自由に生きられるようにしてやる」
一組の親子を、優しい月明かりが照らし出していた。
四年後。
「パパ! 早くしないと先行っちゃうよ!」
「ちょっ、待てって」
とあるマンションの一室。
「はぁ。やっぱつばさまで民警になるこたぁなかったろ」
「やだっ! パパのイニシエーターはあたしじゃなきゃ嫌だもん!」
そこに一組の親子が暮らしている。
「はいはい。わかりましたよっと」
「へへっ、パパ大好き!」
二人の歩む道のりは、途轍もない困難に包まれていることだろう。
「うっし、今日から民警だ。気張っていくぞ!」
「おーっ!」
それでも、二人は笑って歩むのだ。
終わりの見えない道のりを。