シノビ・ナイトメア・オナ・ミッドサマー・ナイト 作:山葵炭酸水
陽の光を通さぬ厚い雲に覆われたネオサイタマの午後の空、重金属酸性雨こそ降っていないものの、雷鳴が時折鳴り響き、いつ機嫌を崩すか分からない様子だ。
そんな不安定な空の下、一台の高級車が総合病院の駐車場へと入って行き、一人のサラリマンが降りてきた。
身なりからしてカチグミなのだろう、自信に満ちた足取りで院内に入り、外科の外来へと向かった。
異様に顔が青白く生気の無い顔をした事務員の元で受付を済ませ、待合室に目を向けると、長らく待たされているのか不機嫌そうな恰幅のいい初老の男と、ハイスクールの生徒と思しき年頃の少年、そしてトレンチコートを纏いハンチング帽を被った男がソファに腰掛けていた。
トレンチコートの男は余程具合が悪いのか、ソファにぐったりと体を預け、目を閉じたまま苦しそうな呼吸を繰り返している。
コートの男の様子は気の毒に思うが、ここは病院で自分に出来る事が無い以上、空いた座席へと向かった。
「すまないけど、隣シツレイするよ」
「ええ、ドーゾドーゾ」
少年は十分なスペースがあるにも関わらず、サラリマンが余裕を持って座れるようにと、端の方に詰めた。
サラリマンは笑顔で礼を言ってソファに腰を下ろし、少年の半袖のシャツから見える腕と顔が、痣だらけになっていることに気付いた。
「ドーモ、俺はキノシタって言うんだけど……その怪我、喧嘩でもしたのかい? 若いねえ」
「ドーモ、僕はニッタと言います。これは、ボックス・カラテをやってるんですけど、練習がキツくて……」
「へえ! 俺も学生の頃やってたよ。これでもキョートの大会で優勝したこともあるんだぜ」
キノシタは自慢気に語り、ニッタ少年はソンケイの眼差しを向け、二人のカラテ談議が始まった。
聞けばニッタはボックス・カラテの世界チャンプを目指しているらしく、並々ならぬ情熱を注いでいるようだ。
曇りの無い瞳で熱く語るニッタに、キノシタは夢に満ち溢れていた学生時代を思い出し、接待ゴルフで腕を痛めた現在の自分と比較して、自嘲と懐古の感情が綯交ぜになった笑みを浮かべた。
しかしキノシタとニッタの談笑を横目に、初老の男はしばしば二人を睨んだり舌打ちをしたりと、不愉快そうな様子を露骨に見せ付けてきた。
(なんだこのオッサン?)
周囲の迷惑にならないよう声量には気を付けているが、男の不機嫌は拍車がかかるばかりのようだ。
フラストレーションが溜まっている状態だと、他人が楽しそうにしている様子も不快に感じるのだろう。
待合室の雰囲気が悪くなりかけたところで呼び出しの院内アナウンスがかかり、男は悪態をつきながら廊下の奥へと消えて行った。
程なくしてニッタにも呼び出しがかかり、診察室へと向かっていった。
手持無沙汰となったキノシタは、コートの男の荒い息と時計の秒針が時を刻む音を聞きながら、マガジンラックから取り出した雑誌を読み始めた。
キノシタが雑誌を読み終わり時計を見ると、1時間以上が経過していた。
初老の男が不機嫌になっていたのも頷けるな、と雑誌をラックに戻すと、再びアナウンスがかかった。
『キノシタ=サン。診察室へドーゾ』
コートの男の方が先に受付を済ませている筈だろうに、なぜ自分が先に呼ばれたのだろうか?
キノシタは訝しんだ。
「すいませ~ん、今呼ばれたキノシタですけど~。先に受付した人の順番は、ま~だ時間かかりますかね~?」
不審に思いながら、何故か無人の受付口に声を掛けたが返事は無い。
まだ受付時間内の筈だが、事務員はどこに行ったのだろうか。
――何かが変だ。
院内は異常なまでに静まり返り、他の外来へと通じる通路に人影も見受けられない。
背筋にゾワリと嫌な感覚が走ったが、きっと気のせいだと言い聞かせ、コートの男の診察を急かすためにも診察室へと向かった。
廊下を挟んで幾つかの扉が並び、それぞれの上に番号が振られている。
自分はどこに入ればいいのか判断がつかず、僅かに扉が開いている部屋の中を覗き見た。
部屋の奥では、先程の初老の男がベッドに寝かされていた。
男は衣服を全て脱がされており、ベッドの隣に立つ医者からは、何かを咀嚼するような湿った音が聞こえてくる。
手術をしているのか? いや、診察室でそんなことをする筈が無い。
慎重に室内の様子を窺うと、男の顔には血の気が無く、見開かれた目は暗い穴が口を開けている。
床には小さな血だまりが出来ており、ベッドの奥にはラベルの貼られた容器が複数置かれ、中には眼球や臓器らしき物、そして一際大きい容器には赤い液体が満たされている。
キノシタはラベルに目を凝らすと、そこには暗黒メガコーポの社名に加えて「売約済み」の文字が書き込まれていた。
ナムアミダブツ! これは違法臓器売買だ! このままでは自分の命もアブナイ!
自らの身に迫る危機を察知したキノシタは、医者に気取られぬよう、忍び足でそろりそろりと扉から離れた。
「アー……イイ……遥かに良い……」
病院から逃げ出そうとした時、ニッタの嬌声が向かいの診察室から聞こえた。
ニッタが殺されてしまう前に助け出すべく、診察室の扉を勢いよく開け放った。
室内では金髪の医者が、ニッタの腕に注射をしているところだった。
ニッタは涎を垂らし、痙攣しながら恍惚とした笑みを浮かべている。
何らかの違法な薬物を投与されているのは明らかだ。
「何やってんだよお前ら!」
「おや? 次の患者さんですか? 少々お待ちを……フムフム、キノシタ=サンね。勤め先はガイトウ・コーポレーション、資産状況ヨシ、両親もカチグミ企業勤務、と……なるほど、これはいい。お前もこいつらの仲間に入れてくれよう!」
金髪の医者はキノシタの狼狽を他所にカルテに目を通し、どうやって知り得たのか個人情報を読み上げて立ち上がり、その姿はニンジャ装束へと変貌した。
「アイエエエエエエ! ニンジャ! ニンジャナンデ!」
キノシタは目の前に現れた、伝説に語られる恐怖の存在により、ニンジャリアリティショックを引き起こした!
しかし健全な精神は健全な肉体に宿る。
そして頑強な精神も頑強な肉体に宿る!
常人ならば心停止しているところだが、ボックス・カラテで心身ともに鍛えられたキノシタは失禁するに留まり、慌てて診察室を飛び出した。
それと同時に、向かいの殺人現場の診察室から、口の周りが血塗れになった医者がゆっくりと姿を現した。
まさか、あの死体を食っていたのか?
恐ろしい想像を浮かべ、キノシタは更に悲鳴を上げて駆け逃げた。
「おい、あんた! 起きろ! このままじゃ奴らに殺されるぞ!」
外科外来の受付を通る時にコートの男が目に入り、見捨てることも出来ず、必死に体を揺さぶって声をかけた。
しかし、コートの男は呻き声を上げるだけで、一向に目を覚ます気配が無い。
痺れを切らしたキノシタはコートの男に肩を貸して、引き摺りながら玄関ホールへと向かった。
出入口が目前に迫ったところで、格子状のシャッターが勢いよく降り、閉じ込めらてしまった。
「アイエッ!? ナンデ!?」
「アァー……アバー……」
不気味な声に振り替えると、青白く生気の無い顔の医者やナースがにじり寄って来ていた。
まるでホラー映画のズンビーだ。
キノシタは周囲を見渡し、一か八かエレベーターに乗り込み、二階へと上がった。
エレベーターから降りると、病室からズンビーめいた入院患者たちが姿を現した。
だが幸いなことに連中の動きは緩慢だ。やはりこいつらはズンビーなのか。
コートの男を引き摺りながら、キノシタは手近にあった更衣室へと逃げ込み、倒したロッカーで扉を塞ぎバリケードとしたが、外からズンビーたちが扉に腕を叩き付けている。
これでは突破されるのも時間の問題だろう。
その前に更衣室の奥に見える窓を開けて外に飛び降りれば、骨折の可能性は高いが逃げおおせることが出来るはず……だが、なんという事か、はめ殺し窓だ!
「イ、イヤーッ! ……グワーッ!」
キノシタはガラスを打ち割るべく、ボックス・カラテのストレートを放つが、案の定と言うべきか防弾仕様の強化ガラスだ。
拳の激痛に悶えていると、コートの男が目を覚ました。
「ぬう……ここは……?」
キノシタはコートの男にこれまでの出来事をかいつまんで話し、脱出が不可能な絶望的な状況を伝えた。
ニンジャが支配する病院で臓器の違法売買が行われ、患者もズンビーと化しているなど、普通ならキノシタが狂っているだけだと一笑に付されるであろう。
「そうか……スマヌが、あれを取ってくれまいか」
コートの男はキノシタの話を笑うことなく真剣に聞き、どこか納得したように頷き、壁に向かって指差した。
指先の向かう先には、白い十字が刻印され”初め援助”と明るいポップ体でショドーされた赤い救急箱があった。
今更応急手当てをしたところで何になるのだろうか、この男も気を失ったままなら、楽に死ぬことが出来たのではないか。
キノシタは自棄になりながらも、男の最期の願いを叶えてやるべく、救急箱を取り外した。
更衣室の外から扉を叩く音が、激しさを増していく。
コートの男が開いた救急箱の中には、絆創膏と滅菌ガーゼに包帯といった応急手当の医療品、ZBRアドレナリン、真空パックされたフリーズドライ・スシと、粉末状のチャとペットボトル入りの傷口洗浄用の蒸留水が収納されていた。
男は傷の手当てもせずにフリーズドライ・スシを食べ、ボトルの水にチャの粉末を溶かして飲み干し、アグラの姿勢で深呼吸を始めた。
「スゥーッ……ハァーッ……」
――ああ、こいつも恐怖で狂ってしまったのか。
キノシタが諦めの境地に達したと同時に入り口が破られ、ズンビーがたちが侵入し始めたその時、背後から心臓を鷲掴みにするような威圧感を察知し、恐る恐る振り返った。
コートの男は赤黒いニンジャ装束へと姿を変え、メンポには禍々しき字体で忍と殺の二文字が刻まれている。
「アイエエエエエエ! ニンジャ! ニンジャナンデ!」
キノシタは本日二度目のNRSを引き起こし、再度失禁した!
片やズンビー、片やニンジャ、どちらにしても凄惨な死に方を迎える事になるのだ、まさに前門のタイガー、後門のバッファローである。
自身の運命を呪いながら、キノシタはその場に座り込んで硬直した。
「ドーモ、ニンジャスレイヤーです。オヌシの助けが無ければ危なかった、感謝する」
ニンジャスレイヤーが礼を言い終わると、二度目のNRSが災いしたのかキノシタは失神してしまった。
ニンジャスレイヤーはズンビーたちに目を向け、カラテシャウトと共に室外に飛び出した!
「イヤーッ!」
更衣室に群がるズンビーたちを瞬時に殲滅すると、更に控えるズンビーの群れの奥にニンジャを見留めた。
「ドーモ! ニンジャスレイヤーです!」
「ナニッ!? ニンジャスレイヤーだと……! ド、ドーモ、コットンバレーです。貴様、どうやってここを嗅ぎ付けた!」
「ただの偶然だ! だが、オヌシの悪事が露見した以上は生かしておかぬ! この世に生まれたことを後悔させながら、惨たらしく殺す!」
ニンジャにとってアイサツとは神聖不可侵の儀式である、アイサツをされればアイサツを返さねばならない。
邪悪なニンジャの存在を感知したニンジャスレイヤーは、ニンジャの鉄の掟を利用し、コットンバレーの動きを封じつつズンビーの駆逐を続けた。
音に聞こえた狂気の殺戮者の名を耳にしたコットンバレーは、狼狽えながらアイサツを返し、背後に控えていたズンビーをけしかけて逃走を図った。
「逃がさぬ! イヤーッ!」
ズンビーたちは足止めにもならず、ニンジャスレイヤーが拳を振るうと、一瞬で全てがネギトロと化した。
「チィッ! 役立たずどもめ!」
悪態をつきながら逃げるコットンバレーを守る様に、病院中からズンビーが集まってきた。
ニンジャスレイヤーは即座にズンビーを処理するが、コットンバレーと少しずつ距離を離され始めた。
「セ、センセイ! 院長=センセイ! ニンジャスレイヤーが出ました! 私では手に負えません! どうかお助けを!」
逃げるコットンバレーが行き着いた先は、扉の上に厳かなミンチョ体で院長室とショドーされたプレートの掲げられた部屋だ。
扉に鍵がかかっているのか、何度も乱暴にノックし、ドアノブを掴んで必死にガチャガチャと音を立てている。
コットンバレーを追うニンジャスレイヤーの腕の筋肉が、異常なほどに盛り上がった。
一本一本が視認出来るほどに太い筋繊維が連なったそれは、まるでジンジャ・シュラインのシメナワだ!
「イィィィ……ヤァァァアーッ!」
「グワーッ!」
必死に扉の向こうの存在に助けを求めるコットンバレーに、タタミ10枚分の距離からニンジャスレイヤーの放ったツヨイ・スリケンが炸裂し、胴体と扉に風穴を開けた!
「イヤーッ!」
「アバーッ! サヨナラ!」
院長室の邪悪存在をコットンバレー諸共仕留めたと思われた瞬間、鋭いカラテシャウトと共にコットンバレーの頭が弾け飛び爆発四散!
ニンジャスレイヤーは即座にブリッジ回避!
ブリッジ姿勢のニンジャスレイヤーの頭上を、スリケンが空を裂き飛んで行った。
ニンジャスレイヤーのツヨイ・スリケンを受け止め、更に投げ返してきたのだ!
回避があとコンマ2秒遅ければ、ニンジャスレイヤーもコットンバレーと同じく、噛み潰したイクラの様に頭の中身を撒き散らしていただろう。
相手は相当な手練れだ!
「フー、ヤレヤレ。私は商談で忙しいんだ、些細なことで手を煩わせるんじゃない」
コットンバレーの爆発四散パーティクルの奥から現れた人物は、携帯IRC端末を懐に収めながら、呆れた様に吐き捨てた。
「オヌシが黒幕か。無辜の市民を生ける屍と化した罪、噛み締めながらジゴクに行くがいい」
「罪だと? 愚かなことを。ズンビーになれば病を患う事も、怪我に苦しむこともない。私が特殊調合した薬を投与し続ければ、肉体が醜く腐敗することもなく、社会生活を送ることが出来る。金が有る内は健康な人生を送れるのだ、何を非難される謂れがある?」
「そして金が尽きればゴミクズの様に打ち捨て、資産の少ない者は臓器を売り捌かれてズンビーの餌となるわけか。やはりオヌシは生かしておく訳にはいかぬ」
「フン、下層所得者には崇高な理念は理解出来んか。コットンバレー=サンの後釜に据えてやってもよかったが……いいだろう、邪魔をすると言うなら排除せねばなるまい」
ニンジャスレイヤーは周囲の空間が歪んで見えるほどに、全身からキリングオーラを放った。
サンシタならば即座に戦意喪失から爆発四散する圧力を放っているが、院長は意にも介さず前へ進み出て、その姿はトーガに黒帯を巻いたニンジャ装束へと変貌した。
「ドーモ、アポロニオスです。来るがいい、我が古代ローマカラテの錆にしてくれよう」
「古代ローマカラテだと……!」
悠然と構えるアポロニオスに対して、ニンジャスレイヤーの目に緊張が走った。
これまでにも古代ローマカラテの使い手とは、幾度か拳を交えたことがある。
一人残らず全て殺したが、誰もが恐るべきワザを持つ、油断ならぬ相手だったことは確かだ。
……勝てるか?
ニンジャスレイヤーが二の足を踏むのも無理は無い。
この病院に転がり込む前、既に邪悪なニンジャと三度にも渡る激戦を繰り広げたばかりだったのだ。
(グググググ……コワッパ相手に珍しく弱気ではないか、フジキド。サンシタニンジャ数匹と遊んだだけで息切れを起こすとは、なんたるブザマ。これではオヌシの妻子も浮かばれまいて。ブザマついでに、儂にドゲザして頼んだらどうだ? 偉大なるナラク・ニンジャ様、どうかお助け下さい、とな)
脳内に響くナラクの嘲笑に、ニンジャスレイヤーは我に返り怯懦を恥じた。
そうだ、かつて妻子を殺された時、邪悪なニンジャを一人残らず殺すと誓ったではないか。
連戦による負傷と疲労など言い訳にはならぬ! 勝てるだろうかではない、勝たねばならぬのだ!
(礼を言う、ナラク)
(……フン)
ナラクの叱咤を受け、己を奮い立たせたニンジャスレイヤーは、アポロニオスを見据えて決断的にアイサツを返した。
「ドーモ、ニンジャスレイヤーです。ニンジャ! 殺すべし!」
◇◇◇
不機嫌そうな空から雷鳴が響いてくる静まり返った院内で、キノシタは目を覚ました。
ニンジャもズンビーも全てが夢だったことを祈りつつ立ち上がり、スラックスに失禁の痕跡を見留めて、やはり現実だったのだと絶望した。
どれだけの時間が経ったか分からないが、自分が今も生きているという事は、脅威は去ったのだろうか?
ふらつく足取りで更衣室から出ると、ツキジめいた光景が広がっていた。
これはあの赤黒いニンジャ――確かニンジャスレイヤーと名乗っていたか――の所行だろうか。
玄関ホールの出入り口は、今も変わらずシャッターにより脱出を阻まれていた。
どこからか何かが激しくぶつかり合う音と、身の毛もよだつカラテシャウトらしき声が聞こえてくる。
遺伝子に刻まれたニンジャへの本能的な恐怖が、戦闘音のする方向は実際アブナイと頭の中に激しく警鐘を鳴らす。
キノシタは脱出口を探すべく、真逆の方向へと移動を始めた。
「アバー……」
不意に外科外来の方角から、聞き覚えのある声が発された。
目を向けると、青白く生気の無い顔のニッタ少年がこちらに向かっていた。
キノシタは瞬時に悟った。彼もまたズンビーにされてしまったのだ!
「キノシタさぁん……すごく、イイ気分ですよぉ……貴方も僕らの仲間に加えて差し上げますよぉ~」
「アイエエエエエ! 結構デス! そんなことしなくていいから!」
キノシタは全力で逃げ出し、必死に階段を駆け上った。
ズンビーの緩慢な動きでは、階段が重大な障害になるだろうと踏んだのだ。
しかし予想に反して、ニッタは機敏に階段を上っている。
「アイエエエエエ! なんでだよ! ズンビーは動きが鈍いんじゃないのか!」
キノシタの不平も尤もである。
しかしニッタはズンビーになったばかりで、体組織の損傷は少なくほぼ生身の状態だ。並みのズンビーとは鮮度が違うのである!
ニッタを振り切ることが出来ず、遂に屋上まで追い詰められてしまった。
自分に打たれた物と同じ薬品が入ったシリンジを手に、ニッタがゆっくりと迫ってくる。
「頼む、正気に戻ってくれ! ボックス・カラテの世界チャンプになるんだろ!? 俺をズンビーにしたって夢は叶わないぞ!」
「夢……カラテ……チャンプ……」
キノシタの命乞いとも言える呼びかけに、ニッタはシリンジを取り落とし、がくりと膝を突いた。
「う……うう……キノシタ=サン、僕を殺してください……。あの医者が言ってたんです、ズンビーになったら人間には戻れないって。あとはもう、両親の貯蓄が尽きるまで、高価な薬を打ち続けるしかないんです。それならいっそ死んでしまった方がいい!」
「諦めるなって、ダイジョウブ。当てがあるんだ」
ズンビーになったのがニンジャの仕業なら、あの赤黒いニンジャなら治す手段を知っているかもしれない。
涙を流すことも出来ないニッタに励ましの言葉をかけるが、正直言って確証は無い……が、藁に縋る様なものでも、それに望みをかけるしかない。
ニッタを連れて院内に戻ろうとした時、屋上出入り口から赤黒い影が現れた。
「アイエッ! あ、ああ、ニンジャスレイヤー=サンか、脅かさないでくれよ……失禁するかと思ったぜ」
ニンジャを目にするのが三度目ともなると、軽口を叩ける程度には耐性が付いたらしい。
ニンジャスレイヤーは一体どれほどの死闘を繰り広げてきたのか、全身が傷だらけで肩で息をしており、破れたニンジャ装束から覗く傷口は床に鮮血を滴らせ、熱した鉄板に水を落としたようにジュッと音を立てて煙を上げた。
満身創痍のニンジャスレイヤーは、未だ闘志の衰えぬ目でニッタをギロリと睨め付けた。
「まだズンビーが残っていたか」
「ま、待ってくれ! 彼はまだ正気を残してるんだ! なあ、あんたニンジャなんだろ? 彼を人間に戻す方法ぐらい知ってるだろ!? 頼む、助けてやってくれ!」
「……スマヌ。私には彼を助ける手段を持ち合わせていない。せめて人の心を残したまま逝けるよう、カイシャクしてやるしか出来ぬ」
「なんでだよ! ニンジャなんだろ! ニンポでどうにかしてくれよ!」
キノシタは半狂乱になりながら、ニンジャスレイヤーにしがみついた。
しかし無念そうに目を伏せ、首を横に振るのみだ。
「キノシタ=サン、僕のためにアリガトウゴザイマス。でも、いいんです。覚悟は決まりました……」
ニッタはゆっくりと立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
「最期に一つ、お手合わせして貰えませんか。キョートで優勝したキノシタ=サンに、僕のカラテがどこまで通用するか、試してみたいんです」
「ならばせめてもの情けだ、私がタチアイニンを務めよう」
キノシタは困惑した。
学生時代に大会で優勝したのは事実だが、カチグミサラリマンは忙しく、既にボックス・カラテは引退済みだ。
カチグミの嗜みとして空いた時間にジム通いはしているが、ブランクも長く、二度にも渡るNRSによりコンディションは最悪だ。
現役選手と勝負などすれば、怪我では済まないかもしれない。
しかし到底そんなことを言い出せる雰囲気ではなく、なし崩し的に承諾してしまった。
「1ラウンド3時間、頭突き噛み付き金的は禁止。それでは両者構え……始め!」
「ヨロシクオネガイシマス!」
「ヨロシクオネガイシマス!」
ニンジャスレイヤーが合図にチョップを振り下ろすと、二人はアイサツを交わし、牽制のジャブの打ち合いが始まった。
ニンジャスレイヤーから見れば子供のじゃれ合いの様な拳の応酬だが、笑う事も軽んじる事も一切なく、真剣に行く末を見守っている。
二人の攻防は数分続いたが、ニッタはズンビー化の症状が進行しているのか拳のキレを少しずつ失っていき、徐々にキノシタが押し始めた。
キノシタは基本的なワンツーから一歩踏み込み右アッパーを放ち、ニッタはこれをスウェーで回避、しかし追い打ちの左フックがニッタの頬に命中した。
「どうしたオラァ! そんなザマで世界が獲れるか!」
燻ぶっていた闘志に火が着いたのか、荒々しい声と共に渾身の右ストレートを放ったが、ニッタはサイドステップで躱し、キノシタの腕を両手で掴んで大きく口を開けた。
ナムサン! 掴みも噛み付きも、ルールで禁止されている行為だ!
公式の試合では当然のこと、スパーリングでもこのような真似をすれば、即座にムラハチだ!
目から理性の光が薄れたニッタを注視しつつ、ニンジャスレイヤーの手にスリケンが生成された。
「AAAARGH!」
ニッタは叫び声を上げ、キノシタの腕を離してよろめきながら後退り、ニンジャスレイヤーは掌中のスリケンを握り潰して一息ついた。
「ドーモ……スミマセン、デシタ……」
ニッタはケジメ案件とも言えるシツレイを詫び、再び構えを取った。
ニッタの目は焦点が合わず、全身も僅かに震えている。
正気を完全に無くし、人肉を求める獣と成り果てるのも目前のようだ。
そうなる前に終わらせるべく、キノシタは上半身を捩じりながら、先程のストレートの時よりも力強く踏み込み、全身全霊を込めたボディ・ブローを叩き込んだ。
学生時代、何人もの対戦相手をリングに沈めた、恐るべき一撃だ!
「オゴーッ!」
ズンビーは痛みを感じない筈だが、ニッタは苦悶の叫びをあげて盛大に吐血し、がくりと膝を突いた。
「そこまで! 勝負アッタ!」
ニンジャスレイヤーが決着を宣言すると、キノシタは構えを解いた。
わざと負けてやるべきかと僅かに迷いはしたが、カラテに掛ける真摯な想いを聞いた以上、それは命を持ってケジメしても贖えないシツレイだ。
「アリガトウゴザイマシタ」
「アリガト……ゴザイマシタ……。流石……強いですね。もう悔いはありません、カイシャクをお願いします」
「イヤーッ!」
跪くニッタにニンジャスレイヤーのチョップが閃き、首が切断された。
胴体から離れた頭部が床に落ちるより早くニンジャスレイヤーは受け止め、ニッタの遺体を横たえて、生首を本来あるべき位置に置いた。
「ナムアミダブツ」
ニンジャスレイヤーは両手を合わせて冥福の祈りを捧げ、キノシタに目を向けると、へたり込んで涙を流していた。
「知己の仲であったか」
「いや……彼とは今日が初対面だよ。たまたま待合室で少し話しただけさ……。けど、俺みたいな上司と取引先の顔色を窺ってばかりの不甲斐無い大人より、夢に溢れた若者が生き残るべきだったんだよ……!」
キノシタの嗚咽は、次第に慟哭へと変わっていった。
会って間もない人間のために涙するキノシタを目にすると、ニンジャスレイヤーの胸中に悔恨の念が湧き上がった。
自分のすぐ間近で邪悪なニンジャの非道を許してしまったのも、ひとえに己の未熟さのせいだ。
このような悲劇を繰り返さぬためにも、一秒でも早く、一人でも多くニンジャを殺さねば。
(スマヌ……恨んでくれて構わぬ)
感傷に浸るニンジャスレイヤーを一喝するかの様に、稲光を伴った一際大きい雷鳴が鳴り響いた。
雷光に照らされたニッタの死顔は、安らかで満足気なものだった。