【本編完結】灼眼のシャナ異伝~逆襲~   作:白井茶虎

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 聖地巡礼は6月に行ってきました。
 徹夜で張り込みはしませんでしたよ。。。


(その後) 再出発 ~伊勢にて~

 

『転換の日(ドゥームズデイ)』より、半年と少しが過ぎ去った。

 日本は、比較的落ち着きを取り戻している。行政のシステム的な混乱はほぼ収束し、“生えてきた”ものに対する法や取り決めも、臨時的ではあるが安定した対応を取れるようになっていた。

 

 池家も、外への影響が大きすぎる酒蔵の処置がほぼ終わり、引っ越しと正式な売却を待つのみとなっていた。腐敗が早いらしい酒は優先的にオークションに出され、その気になれば手に入れられる額と思えば気を失いそうな高値で世界中に回り始めているとか。

 前金としてその売値のほんの一部を受け取り、母は仕事を減らした。向こう十年は働かなくていい額が入ったのだが、『恐いし落ち着かない』と、いつでも復帰できるように最低限の繋がりを維持している。

 速人は御崎高校で、相も変わらずスーパーヒーローとして八面六臂の活躍を見せている。かの高校の文化祭たる清秋祭も近付いているが、去年のようなキャパオーバーに陥らず、人使いの才能の片鱗を見せ始めたとかなんとか。

 雅人は自宅警備員を続けている。かといって、かつてのように時間を無為に流してはいない。酒が辿った歴史を調べたり新設された警備システムの監視をしたりと、家族にとっても自分にとっても有意義と思える暮らしを送っている。

 最後に、シャヘルは半隠居の状態だ。日本語の読み書きがこなれてきて、段々と“新世界”での生活に適応できるようになってきている。時折、どこか遠くを見つめて物思いに耽る癖は抜けないが、僅かずつ減ってきている。外界宿(アウトロー)を通じてスマホを手に入れ、まだ知らぬ知識をインターネットの海から掬い取る方法も覚えた。

 世界はまだまだややこしく火種の消火も追いついていないが、池家は平和だ。

 

「……旅行、行ってくる」

 

 すっかり日常として馴染んだ夕ご飯の席で、シャヘルはぼそりと爆弾を投下した。

 

「あら、どこへ?」

 

「……三重県の、伊勢神宮。観光……」

 

「いいですね。――誰かと? 一人?」

 

「一人の予定……」

 

 時々ピントのずれた言動となるシャヘルの保護者を自任する速人は、相槌を返しつつ頭を回す。

 

「一人で行きたい感じですか?」

 

「別に……。現地で、行きたいとこがある……そこに行けるなら、誰が来てもいい……」

 

 なるほど、と速人は大きく頷いた。

 

「母さんと行ってきなよ。完全に家は空けたくないし学校もあるから、僕は留守番だ。兄貴は……行きたければ行けば?」

 

「何だよそのついで感」

 

 抗議はさらりと流され、穏やかな団欒の中計画が立てられて行く。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

 十月下旬の某日。母、雅人、シャヘルによる伊勢観光が決行された。

 御崎市駅から東京駅、新幹線に乗り名古屋駅、乗り換えて伊勢市駅へ――。

 

「わー、いきなり鳥居だ」

 

「まだ神宮は見えないけど、ここら辺全部が神域、という訳ね~」

 

「内宮(ないくう)と外宮(げくう)、二社を中心に……125社、連なってるって……」

 

 観光案内所で受け取ったパンフレットの文字を辿るシャヘル。

 

「今から行くのが外宮、ってとこっすね。鳥居をくぐって真っ直ぐってなってるっす」

 

「マナーとして、外宮を参拝して、次に内宮、だそうよ。外宮は左側通行だけど、内宮は右側通行……気をつけなきゃ」

 

「今日は、その二つ……。明日は自由に、別宮廻り……」

 

 母は鳥居をスマホカメラに収めつつ、意気込む。

 

「初御朱印帳、買っちゃうわ。御朱印が貰える別宮の内、二つはすっごく遠いらしいから、私一人で行ってくるわね」

 

「御朱印って、あれ、スタンプラリー?」

 

「もう、失礼な」

 

「スタンプラリーは日本文化……四国お遍路で、参拝の証として発行した御朱印が元だから……間違ってはいない……」

 

「ものしりっすね。スマホ使いこなしてるっす」

 

 などなど、他愛ない雑談に興じつつ『外宮参道』と呼ばれる大きな通りを歩く。

 数分進んで。

 

「到着っす!」

 

「豊受大神宮ね! お祀りしてるのは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)――衣食住と、産業の神さまだそうよ」

 

「内宮の天照大御神の食事を用意するため、京都から迎えられた……ですって……」

 

「つまりアマテラスさまのメイドさんっすか」

 

「失礼よ」

 

 手水舎(てみずしゃ)を前にして正しい作法を調べたり、手荷物を濡らしてしまったりとハプニングを挟んで。

 

「……」

 

 豊受大御神を祀る正宮で、三人揃って手を合わせた。

 

「伊勢参りなんて初めてっすけど、ちゃんと神社っすね……」

 

「俗っぽいとまでは言わないけど、もう少し観光地な雰囲気かと思ってたわ。……凄く神聖ね」

 

 深い森を思わせる清浄な空気は、どれだけ人が出入りしようと、背筋を伸ばさせるような鎮まった気配を抱き込んでいる。

 

「次は……多賀宮(たかのみや)……高いところだって……」

 

 玉砂利を踏みしめつつ、高い樹々に見下ろされる中階段を上がる。

 

「……」

 

 参拝をして、社殿の前に建てられた看板を読んだ。

 

「御祭神は、豊受大御神荒魂(とようけのおおみかみのあらみたま)ってなってるけど……。さっきの正宮とは、違う神さまなのかしら?」

 

「荒魂(あらみたま)は……神の荒々しい側面。日本は災害の多い国だから……神は、優しく見守ってくれるだけじゃない、そう信じた……。正宮が祀るのは、和魂(にぎみたま)で……そちらは、神の慈悲深い側面であり、幸運をもたらし、よい力を与えるとされてる……らしいわ」

 

「そういうこと……。なら、荒魂を祀る神社は、災害が起きませんように、みたいに神さまを畏れる感じの信仰で建てられたのね。豊受様なら……不作になりませんように、とか?」

 

 母の推察には、シャヘルは小さく首を傾げた。答える代わりに。

 

「日本人は、特に天災の中に神を見たから……実際に神が力を振るう活発性から、願いを叶える力が強いと……よくある神頼みをする人が、多いみたい……」

 

「え。オレ正宮の方でめちゃくちゃ神頼みしちゃったっす」

 

「そちら(和魂)は、日ごろの感謝がメイン……。……まあ、日本の神さまって、割と適当……懐深いから、祟られはしないわよ……」

 

「……。そうっすね!」

 

 まるで多賀宮を守るように配されている土宮(つちのみや)、風宮(かぜのみや)を順に参り、お守りの授与などが受けられる神楽殿(かぐらでん)を横目に北の参道に入る。

 道を外れて度会国御(わたらいくにみ)神社と大津(おおつ)神社を参拝すれば、外宮を一通り廻ったことになる。

 

「俗世に荒んだ心が洗われるわ~……」

 

「山みたく登らなくていいし、距離もそんなだし、森林浴って見ても最高っすよ……」

 

 帰りの細い森道を、二人は満喫している。

 入った方の表参道よりも更に静かな裏参道から、鳥居をくぐって外宮参拝は終了した。

 

「うーんと、内宮行きのバスがもうすぐ来るようね」

 

「数はあるけど逃がすのも面倒っす。……シャヘルさん?」

 

 バス停とは方向が違う、駅の方面をじっと見ている。

 

「電車だと遠いっすから、バスに乗るっすよ」

 

「……。ごめんなさい、少し、考え事を……」

 

 バス停へと向かうも、数秒振り返った。彼女の視線の先には、それほど太くない静かな道が伸びている。

 

「気になるっすか?」

 

「明日行くからいいわ……バス、急がないといけない?」

 

「もうすぐ! 後一分!」

 

 母の元気な声に押され、シャヘルは小走りで急いだ。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

「外宮より人が多いっす!」

 

「名前からしても、お伊勢さんのメインは内宮だからでしょうね。どうしても時間が無い人がこちらだけ、というのもありそうだけど」

 

 振り返り、騒がしい商店通りへ目を向けた。

 

「江戸時代の伊勢参拝ブームから、ずっと……参拝者をターゲットにした、料理店や土産物屋が……集まってる」

 

 おかげ横丁と呼ばれるその通りは、神社の清々しさ静謐さとは真逆の賑わいを見せている。

 

「神社は神社でいいっすけど、オレはあっちのがワクワクするっす」

 

「参拝が終わったら寄って、お土産の目星着けとかなきゃ。速人の注文の『赤福』、本店で仕入れないと!」

 

 雅人は“俗な”土産物屋街派で、母は『これはこれ、それはそれ』の両方楽しむ派らしい。

 巨大な鳥居をくぐり、五十鈴(いすず)川を跨ぐ宇治橋を渡る。

 松の木が並ぶ清い雰囲気の庭園、『神苑』を通り過ぎ、二回目故に手際良く手水舎で清める。

 忌火屋殿(いみびやでん)や御贄調舎(みにえちょうしゃ)と呼ばれる建物を横目に、日本一尊い場所へ、とうとうやって来た。

 

「……」

 

 正宮、皇大神宮(こうたいじんぐう)。日本の主神たる天照大神が祀られる、神宮の核。

 外宮での間違いを思い出し、雅人は浮かびかける願い事を追いやる。追いやっている内に時間が過ぎ、願いも感謝も考えられずに終わってしまった。

 続いて、天照大神の荒魂が祀られる荒祭宮(あらまつりのみや)。内宮のそれも、やはり小高い場所に鎮座していた。

 神に供える食べ物や酒、宝が奉納される建物は、外宮よりやはり数も種類も多い。それらを写真に収めたり神楽殿でお守りを買ったりと、完全なる観光客の行動を取りつつ次々と別宮参拝を終えていく。

 

「外宮より歩いた感じっす」

 

「深くて静かな森と、清い五十鈴川の流れ……ああ、日本一のパワースポット……よかったわ……」

 

 内宮内の休憩所、参集殿(さんしゅうでん)にて、雅人は足を休め母は感慨に耽っていた。

 

「シャヘルさんって、神社参拝とか好きだったっすか?」

 

「……参拝は、初めて……。立ち寄るのも、極々まれだった……」

 

 紙コップに入る冷水を飲みつつ、ぼそりと答えた。

 

「意外っすね」

 

「そう? 外国人さんだし、お清めの様子も慣れてなさそうだったし」

 

「いや……」

 

 雅人は言いかけ、やめる。シャヘルの長い永い旅の主導権を握っていたミコトを、母は知らない。

 

「なら、どうして急に旅行なんて。理由とか――」

 

「そんなもの無いわよねー。『一生に一度お伊勢さん』なんて江戸時代からのキャッチコピーだし、外人さん人気も高いし!」

 

「……。ええ……」

 

 シャヘルの口や雰囲気の重さを敏感に察した母が、息子を黙らせた。

 

「神楽殿よりもカジュアルな感じな授与所ね。種類あるし、ちょっと家用のお守りを見て来るわ」

 

 軽く明るい口調で長椅子から立ち、グッズショップ(と言ってはいけないくらいには神聖な雰囲気)へ歩いて行った。

 遮られて初めて、シャヘルのデリケートな領域に押し入ったと自覚した。雅人は小声で謝るも。

 

「別に、いい……疑問に思うのは、当然だと思うから……」

 

 立ち入って欲しくなければ一人で来ていた、と続ける。そろそろ区切りと整理をつけなければならない、だから自分の内側にこもってしまう一人旅ではなく、同行者付きの旅行を選んだと言った。

 

「整理、っすか」

 

 シャヘルは小さく頷いた。

 

「……ミコトは」

 

 久しぶりに、彼女の口から彼の名前を聞いた。

 

「自分から……神社には絶対に近寄らなかった。宿主も……神職らしきトーチは選ばなかったし……それこそ、そうじゃないと宿主が命を落とす、なんて事情が無い限り……神域へ入ることは、無かった……」

 

 ミコトの出自は『この世の神さま』みたいなものだったと、雅人は大雑把に聞いている。

 

「怖がってたのよ……自分が知らない領域の何かが、起こらないかって……。知らずに通りかかった時も、仕方なく入った時も……何も起こらなかったけど……」

 

 雅人は気付いた。

 

「伊勢神宮は、ミコトとの思い出の場所とかじゃなくて」

 

 一瞬、言っていいか悩んだ。シャヘルの視線に促され、言うことにした。

 

「あの人がいるかもしれない、って場所なんすね」

 

 シャヘルはぼんやりとした無表情で、肯定した。

 

「……いるとすれば、ここなんじゃないか……と、思った……。……そんなの夢見ごと、甘い妄想……ここを探して、見つけられなくて……きっぱり、諦める予定……」

 

 だから、整理なのだと。もう会えない誰かを過去にするための、禊なのだと。

 必要なのだと思った。だが、寂しすぎると感じた。

 

「いいじゃないっすか。今回だけじゃなくって、何回でも来れば。オレも何回だって付き合うっす。行くたびに、思い出聞かせて欲しいっす」

 

 片思いの相手の中に生き続ける、大きすぎる存在。勝てるとは思わないし、勝とうとも思わない。

 彼を喪失して、彼女の心からも失われたとしたら、それは『雅人が想う』シャヘルとは違う――などと考える。

 シャヘルが纏う冷えて悲しい気配が、和らいだ。

 

「故人を語るのも、整理の一つ……私も、やってみるわね……」

 

 結局、寂しい空気は払拭できなかった。凛と背を伸ばすシャヘルが振り返り、雅人もそちらを見ると、何かを買ったらしく袋を下げたニコニコ顔の母が帰って来ていた。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

 おかげ横丁の観光を始めて数分後、シャヘルが人酔いを訴え別行動となった。雅人は彼女に付いていたかったが、同性であることとホテルのチェックインが出来ることを理由に母が付き添うことになった。

 

「なら三人まとまって」

 

「二日目は予定が立てられないし、三日目は新幹線の都合でここをじっくり見て回るなんて出来ないのよ。速人と坂井さんち、清水さんの分のお土産は最低吟味しないと駄目よ」

 

 清水さんとは、外界宿(アウトロー)東京支部から派遣されてきた、法律に強い職員だ。口と頭の回転が速い、見るからにエリートな雰囲気の男だが、明るく気さくな性格で速人とはかなり話が合う。

 

「一人で静かにしてれば……大丈夫。雅人は、そっちの用事を……」

 

 シャヘルは普段から白すぎるため、顔色の変化が分からない。彼女も別行動を同意したため、雅人は追い払われるように賑やかな商店街に取り残された。

 不調を訴えた片思いの相手が気がかりで、何を見ても上の空だ。全員、伊勢名物『赤福』でいいだろうと投げやりな結論を出して、本店の位置だけ覚えてさっさとバスに乗った。

 二泊三日の伊勢旅行は、二日とも同じホテルに泊まる。内宮近くにもそこそこあるが、シャヘルの希望で伊勢市駅――外宮近くのホテルを予約していた。

 数時間後、夕食の席のシャヘルは普段通りだった。少しの量を、品の良い美しい所作で口に運ぶのも、同じ。その後。

 

「散策に行く……」

 

 二人の同行を拒否し、ふらりと出て行ってしまった。

 そして、夜十一時過ぎ。長距離移動や観光地が齎す気の高ぶり、神社参拝という名のハイキングで疲労が出て、雅人は広いベッドに手足を投げてぐーすか眠っていた。

 そんな雅人を、けたたましい呼び出し音が叩き起こした。マナーモードへの切り替えを忘れた就寝前の自分に舌打ちをしつつ、母からの通話だったため応答する。

 

「……もしもし?」

 

『あ、寝てた? 起こしちゃってごめん』

 

「んや……何……?」

 

 緊急事態ではないと感じるほどには落ち着いているが、不安を隠しきれていない声だ。

 

『シャヘルさん、帰ってきてないみたいで……』

 

「え?」

 

 解散は八時。観光地だが、夜がメインの名所は無いはず。遅くても九時以降になれば、目ぼしい店も神社も閉鎖される。

 

『十時ごろまで、フロントで待ってたのよ。お茶でも付き合って、労われないかって……。それが全然帰って来なくて、フロント追い出されて……。給湯室の自販機前で一時間くらい待機してたけど……彼女目立つから、見逃すはず無いから……。メッセージ送ったら、つい今しがた先に寝ててって返信が来たわ』

 

 散策から、まだ帰っていないらしい。

 

『あの人、ちょっと危なっかしいとこはあるけど、変なのに引っかかるような馬鹿な人じゃないし、その点はあんまり心配してないわ。けど、その……儚い、というか、目を離したら消えちゃいそうな……凄く、寂しそうな雰囲気が、あるから……ね? 探しに行った方がいいかしら……』

 

 母の心配はもっともだ。迷わず同意しかけて。

 

「……大丈夫。自殺とか、それを止めて欲しいとか、そういう旅行じゃない……はず」

 

 根拠はあるが、言い切って母を安心させるくらいの心の強さは、雅人の中には無かった。

 

(シャヘルさんは、語ってない)

 

『故人を語るのも整理の一つ』、という昼間の言葉を思い出す。

 語る相手として自分(雅人)を選んでくれるなら、彼女はこの夜闇へ消えてしまうことは無い。彼女は、絶(・)対(・)に(・)約束を守る。

 

『雅人が言うなら……信じるけど。明日、シャヘルさんのことお願いね?』

 

「おふくろは? オレ、おふくろみたいに気ぃ回せないから……」

 

『馬鹿、そのためのあんたでしょ』

 

 母はぴしゃりと息子の弱気を叩いた。

 

『シャヘルさんにとって、この旅行は楽しいだけの観光地巡りじゃないわ。けど、そういう体裁で私たちを連れてくれてる以上、一人は『楽しいだけの観光地巡り』をして帰りの新幹線でパンフレットを読み返しながら楽しかったー、って何にも気付かないで言う担当が必要なのよ』

 

 気配りの達人(そういう一面は速人に受け継がれている)たる母のハイテンションは、初めて訪れる観光地に浮かれてのものではなかったらしい。

 

『ということで、丸々自由時間の明日、“何にも知らない”お母さんは夕食の合流までノータッチだから。頼んだわよ』

 

「うん……」

 

 重大で失敗が許されないミッションを与えられてしまった。しばらくはベッドの上で、悶々と考え事をしていたが……気が付くと朝。しっかりと熟睡が出来ていた。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

 翌朝。七時の朝食バイキングで、輝くように目立つ白い姿を発見した。

 

「……おはよぅ」

 

「おはようっす」

 

 シャヘルは、挨拶の途中に出てきたあくびを噛み殺し切れていない。目も眠気のせいか曇っている。……“紅世の徒”は、食事も排泄も睡眠も必要な身体となった。

 

「おはよう、シャヘルさん。……眠そうだけど、今日は休む? ホテルの人に言っといた方がいい?」

 

 少量ずつだがメニューのほぼ全種類を載せた皿を置きつつ、母がシャヘルの顔を覗いた。

 

「……観光、行きたいから……」

 

「そう……無理しないでね?」

 

「大丈夫……」

 

 そんなやり取りを挟んで朝食にがっつく母は、余りにも自然体だ。その姿が何も気付かない役割を演じた結果なのか、本当に美味しい朝食を満喫しているのか、雅人には判別できない。

 

「じゃあ、夕食まで解散ね。まずは近くの月夜見宮(つきよみのみや)――あら、どうかした?」

 

 伏し目がちだったシャヘルの目が、母に真っ直ぐ向けられた。

 

「……私も、一番は、そこ……」

 

「あ……。……伊勢の御朱印巡りってハードなのよ。先に出てちょっと御朱印貰って、すぐ次へ行くから――」

 

「よければ……」

 

 雅人でも分かる気遣いを発揮した母を、シャヘルは呼び止める。

 

「参拝……一緒に、したい」

 

 まばたきを一つ挟んで、母は満面の笑みを浮かべた。

 

「ええ、そうしましょ! シャヘルさんの神社解説、分かりやすくていいのよね~」

 

 伊勢市駅から、歩いて十分もしないそこに。

 海の上に小島が一つだけ、異質な物体として浮いていたように。街中にぽっかりと、突然小さな森が現れた。

 

「外宮よりさらに静かな雰囲気ね。こんなに近いのに、来る人が少ないのかしら?」

 

「内宮だけ、内宮と外宮だけ……多くの観光客は、そう。別宮の優先度は、低い……」

 

「街のど真ん中でそんな広くなさそうなのに、ほんと静かっすね」

 

 一礼してから鳥居をくぐると、神聖と神秘を抱える神社独特の空気感がやって来る。内宮や外宮ではすれ違う人々の体温で誤魔化されていたが、涼しい以上に寒い秋を感じて、雅人は身震いした。

 時々草が飛び出す石垣の間を、三人は進む。昨日の参拝時よりもシャヘルの歩みが遅い、そう母は気付いた。

 もうすっかり慣れた所作で手と口を清め、二つの正宮より控えめな社の前に立ち。

 

「……」

 

 二拝二拍手一拝。

 祈りの時間が、やはり僅かに長いと、母だけは気付いた。社の前の鳥居から出て、一秒迷って、明るい声で質問する。

 

「この看板。――祀られている神さまは、月夜見尊(つきよみのみこと)と月夜見尊荒魂(つきよみのみことのあらみたま)ってなってるけど。うんと……内宮の方にもある、月讀宮(つきよみのみや)と同じ神さまが祀られてる、で良かったかしら?」

 

「ええ……同じ。漢字は違うけど……同じ、神。ここは一社で二つの神……いえ、二つの側面? を祀ってるけど……内宮の方は、一社にひとつ……」

 

「なんで同じ神さまの神社が、近い二つの神社に分かれてるっすか?」

 

「さあ……調べても、はっきり分からなかった……。県内だけど遠くまで行けば、天照大御神が祀られてる別宮、伊雑宮(いざわのみや)と瀧原宮(たきはらのみや)があるけど……」

 

 シャヘルは鳥居の奥の社に、振り返る。

 

「神宮の公式サイトとか……定説があれば載せる場所に、はっきり書かれてなかったから……。こちらは月読命の月神の側面、向こうは暦の神の側面を祀ってる……というのが、なんとなくありそう……。……謎が多くて、いくら研究しても浅い部分しか判明しない神格だから……こちらは満月を象徴して、向こうは新月とか……向こうは男神でこちらは女神とか……色々、読んだ……」

 

「……キャラブレ?」

 

「失礼よ」

 

 すっかり定番となった母のツッコミに、シャヘルの無表情がほんのりと和らいだ。

 

「……内宮と外宮、正宮に祀られる神とその荒魂……二つの月神の神社はどちらも、彼女らの神社の次に格が高いとされてるわ……。ここと向こう、違う御朱印だから……貰い忘れに、注意……」

 

「大丈夫よ、リサーチ済み」

 

 昨日買った御朱印帳を、カバンから取り出して軽く振った。

 

「私はこれから、バスで倭姫宮(やまとひめのみや)、またバスで月讀宮へ行く予定よ。そっからは体力と相談して、電車とかバスとかタクシーとか使って、伊雑宮と瀧原宮に行くつもり」

 

 特に瀧原宮が遠いのよ――と笑う母に、ほのかな笑みを向けた。

 

「付き合わせてごめんなさい……。私は、内宮と外宮の近くで、ゆっくりする予定……たぶん夕食まで、合流は無い……」

 

 母は、シャヘルには穏やかな笑顔で頷き、雅人にはきりりとした表情を向けた。

 

「雅人は?」

 

「へ? え、あの……え」

 

 昨夜言い渡された重大ミッションが過ぎり、どういう答えが求められているかさっぱり見当がつかず、ただただ慌てふためいた。

 

「……一緒に来る……?」

 

「い、いいんすか……?」

 

「いいわ……」

 

 満面の笑みで柏手を打つ母。

 

「決まり。こっちの帰る時間とか予定変更は、雅人にメッセージ送るから。こっちからはそれ以外送るつもりは無いけど、シャヘルさんは何かあったら連絡頂戴ね。ごゆっくり!」

 

「……ありがとう、いってらっしゃい……」

 

 結局、徹頭徹尾気遣いのカタマリだったと気付いた雅人は、笑顔で大きく手を振って社務所へ向かう母を、恐ろしく感じた。

 御朱印を貰って神社から出る母を見送り、残された雅人は慎重に声をかけた。

 

「オレはお供っすから……好きなとこ、行ってください」

 

 想像よりはずっと楽しめているが、雅人は神社仏閣巡りなど趣味の候補にも入れたことが無い。

 

「……当ては、三つ」

 

「?」

 

 ぽつりと発せられたその言葉は、返事なのか新しい話題なのか分からず、間抜けた顔を晒してしまった。

 

「ミコトがいそうな場所。三つの内……二つ目」

 

「!?」

 

 思わず、ぐるりと景色の中を荒探ししてしまった。

 

「昨夜……一つ目、本命を……夜明けまで張ってた……。お母様を心配、させた……申し訳ないわ……」

 

「え……? え? なんで……まさか……!?」

 

 ミコト。この名前に、意味があるなら。昨日から何度も見聞きしたそれと、同じなら。

 

「昔……ある“紅世の王”が、ミコトは本当は、“月読命”なんじゃないか……そう、指摘したことがあった……。本人の反応からして……全くの勘違いでも、出鱈目でも、なさそうだった。……この出来事も、彼の『本当の名前』も、私たちの間ではタブーで……そもそも、少し深い事情になれば……お互い、口に出せなかった、けど……」

 

 ゲームや漫画で、時々聞く名前の神だ。日本神話モチーフは日本の創作では珍しくなく、雅人もインドアオタク並みの知識なら持っている。アマテラス、スサノオと並べられるツクヨミについて思い出そうとして……他の二神と違って、ゲームや漫画、アニメ内の設定以外、何も知らないと気付く。

 

「姉神や弟神と違って不自然なほど伝承も言い伝えも残ってないのは、神という概念を形作る“存在の力”が喰われたからとか……日本人が“紅世”の恐怖からの救済を“紅世”に喰われた神に祈ったから、例外としてこの世に表出したとか……あの話のどこまでが真実で、どこからが荒唐無稽な勘違いか。……今となっては、もう決して、分からない……」

 

 神社とは、過剰に包装された箱だ。固く閉じられた本殿の中心に、神体は厳重に祀(封じ)られている。

 人の目から隠すためか、はたまた、怪物から守るためか……。

 

「……ミコトは、とても揺れやすい人(・)格だった。呼ばれる名前で、特に……それが顕著になった……。彼が最終的に選んだのは、異なる名前を得て異なる力を発揮する方法。……それが完璧に果たされた以上、『ミコトという人間』は、どこにも、存在しない」

 

 シャヘルの声は冷たく、揺るぎない。

 

「……同じように、何かの奇跡が起きて日本の月神に会えたとしても、それはミコトという人間じゃない。……確かめて、納得しに、私は……伊勢に来た」

 

 髪をなびかせ、社に背を向け歩き始めた。

 毅然とした速足に、雅人は絶句したままどうにか後を追った。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

 月夜見宮と外宮を結ぶ細い道を、ゆっくりと歩いた。急いで『当ての三つ目』たる月讀宮へ行けば、気遣いから先行した母と出くわすかもしれない。そうなると、気まずい――シャヘルと雅人が無言で確かめ合った結果だ。

 

「……左側通行」

 

「うっす」

 

 真ん中だけ黒色で舗装されている小道を進む。

 

「この辺りはどこも神域……道の真ん中は、歩かないで……」

 

「これっすね」

 

 黒い一本筋から離れた。

 

「馬に蹴られて死ぬわよ……」

 

「そうなんすか……」

 

 言葉少なく数分歩き、外宮を散歩感覚で一周してから、バスに乗った。

 

「こっちは道路に挟まれてるけど、やっぱなんとなく、神聖っすね……」

 

 皇大神宮別宮、月讀宮。駐車場の奥に、鳥居が屹立している。まるで森が口を開けているようだ、木々の緑の真ん中に日陰で黒く暗い穴が続いている。

 無論、昼間の神社だ。近付くと見えるが、薄い木漏れ日が空間を照らしており、移動に不自由などしない。道は日向で温められて、涼風が秋の心地よさを運ぶ。

 この心地よさに、雅人は背筋を振るわせた。

 

(まるで……あの部屋だ)

 

 八か月間過ごした、クーラーも無いのに快適な温度を保っていた……自分と二人で過ごした、幻の日々を思う。

 あの部屋はもう無い。現実の自分の部屋は、夏は冷房、冬は暖房を欠かせない。知らない内に設置された酒蔵も、もう時を数えて腐りゆくだけ。

 

(もし、会えたら)

 

 心霊現象に怯えたのは、小学校に上がる前が最後。この世には神も仏もいないといつしか思い込んでいた。“紅世”に関する『この世の本当のこと』を聞いても、人間とこの世が踏み荒らされる現実を知って、やはりそんなものはいないのだと、思考に登らせる前に切り捨てた。

 が、神がいるとすれば、あの部屋で共に過ごして、何度も料理を作ってくれた彼が、そうなのだと。

 

(そりゃ、戻ってきてほしいけど)

 

 シャヘルは諦めている。諦めるためにここへ参拝しに来た。

 

(……なんなんだろう)

 

 彼女は寂しがっている。だが、戻ってくるのが正解だとも、何故か思えなかった。

 シャヘルへの恋心は、応援はされずとも公然の事実となっている。完全に諦めてはいないが、成就は違うと感じている。

 違和感のような拒絶の感覚。これは、恋心からくる嫉妬とは、別種だった。何かが、違った。

 もやもやと自分の感覚に答えを出せないまま、シャヘルのゆったりとした足取りを追って。

 

「あれ……四つ?」

 

 壮観だった。小ぶりな社が四つ、正面に並んでいた。

 

「ええと……月読命と、その荒魂と……?」

 

「伊弉諾尊(イザナギノミコト)と弉冉尊(イザナミノミコト)……有名な神だから、分かるわね……」

 

「分かるっす。国生みの、アマテラス三兄弟の両親っすよね」

 

 天照大御神の弟神である、月読命にとっても。

 

「こんな風に、四つが横に並んだのは……凡そ150年前……。だけど、それ以前から……“両親”の社は、すぐ近くにあったそうよ……」

 

 四社の参拝の順番は決まっているらしい。向かって中右の月読宮(つきよみのみや)、右端の月読荒御魂宮(つきよみのみことのあらみたまのみや)、戻って中左の伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、左端の伊佐奈弥宮(いざなみのみや)――と、看板に書かれていた。

 看板通りの順番で参拝して、少し下がって四社を眺める。

 

「……ミコトに。兄弟弟子はいたけど、兄弟と呼べる存在はいなかった」

 

 彼方を想うぼんやりとした口調に聞き入る。

 

「だけど……きっと、親だと思ってた存在なら、いた。……はっきりとそう言ったことは無い。むしろ口に出したのは、全く別の関係性……」

 

「誰……いや、どんな人だったっすか?」

 

 名前を聞いても分からないだろうと、問い直す。

 

「私から見て……嫌な相手だった。ミコトが彼らに世話になったのは……私と会う前。きっとその日々、思い出は……幸せだったんでしょうね。……私にも一度も語らないまま、封印してたわ……」

 

 幸せなのにか、幸せだからか。雅人は判断できず、続きを待った。

 

「人間でも、人間に共鳴できる“紅世の徒”でもなかった……。それでも備えてた、人に準じた、人に都合の良い倫理観……これは間違いなく、『両親』から受け継いだもの……」

 

 もしも、人喰いに拾われてそれに影響されたなら、どうなってたかしら――と、シャヘルは呟いた。

 

「ミコトは両親と、酷い別れ方をしたみたい……一方とは死別、もう一方……父親とは、決別? 私が父親の方と会ったのは……た(・)っ(・)た(・)五百年前。……愛した女性、ミコトにとっての母親の死で……彼はすっかり歪んでいた。ミコトを利用するために呼びだして……情で身動きを封じさせて、殺す一歩手前まで、追い込んでた……」

 

 向こうの神社で言った、ミコトの正体に迫った“紅世の王”が、その父親らしい。

 

「奇跡的に生き残って……殺されかけただけじゃない、最悪の裏切りを受けて……それでも恨みはしなかった、みたい……。親子という関係を偽りで隠して、以降封印したのも……彼に子殺しの罪まで背負わせないため……だと思う。自分を殺しかけた儀式を、世界を救済する儀式へと応用した……それを明かした時、父親への感情が、漏れてたのよ。誇りと憐憫、悼みと懐古……ええ」

 

 正面の、並ぶ四つの社を見据える。月読命を祀るそれだけは、一回り大きい。

 

「付けられた自分の傷には苦しまず、自分を傷つけることで生じた相手の苦しみを、先に想うのよ」

 

 シャヘルは、声を揺らさずに言った。

 

「……姉神は、もう少し離れた場所で、一柱大々的に祭られ。弟神は……伊勢から追放。真ん中の、ほぼ語られていない神が……両親と共に、祀られている。……こちらの神は、親子仲良く過ごせてると……いいわね」

 

 シャヘルは、ここがどこなのかを思い出したのだろうか。夢のように揺蕩う口調に戻し、ぼそぼそと目の前の社に住まう神々へ付け加えた。

 

「シャヘルさんが、ミコトのお父さんが嫌いなのは、あの人を傷つけたから?」

 

「……。平たく言えば、そうなるわ……」

 

 少しだけ、肩を落としている。今日、断片的に事実を聞いただけの雅人には、察するなど不可能なのだろう。複雑な事情が渦巻いているように感じた。

 

(……やっぱり、帰ってくるべきだ。あの人は)

 

 心願成就は、荒魂を祀る神社がいいらしい。雅人は荒魂宮に進んで、もう一度賽銭を投げた。

 隠しきれない悲しみを払おうとしてくれている青年の背中を、シャヘルは眺めた。

 

(付き合わせてしまって……悪いわね)

 

 少々長いお参りを待ちつつ、ふと思った。

 

(荒魂……神威を顕現させるその時の姿。……ミコトは、とても極端だったわね)

 

 和魂と呼べる普段は最弱を冠しているが、荒魂を宿すその時は誰も敵にならなかった。何(・)も(・)間(・)違(・)え(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)、荒魂のミコトに勝てるのは、神威召喚された“天壌の劫火”くらいだろう。

 五百年前の大敗まで、その状態になれば敵などいないと、彼らしくない油断や余裕を抱いていた。シャヘルはシャヘルで、自らを壊した“この世の神”たる側面に裏返った彼に、怯えるばかりだった。

 

(それが、有り得ないはずの負けを、呼んだ……だけど)

 

 あの戦いに、勝っていれば。あそこで、力を奪われていなければ。

 

(……今は、在ったのかしら)

 

 欲望が薄かったミコトは、新しい自在法も、策略も、編み出すことが苦手だった。備えられるのが彼だけだった今回の『大災厄』でも、主軸となった方策はアシズが行った儀式だった。

 発想の元となった儀式が行われなければ、ミコトはこの方法に辿り着けなかった。あの経験を経ていない彼は、別の方法に辿り着いていたのだろうか。

 

(考えても仕方ないわ……)

 

 ちょうど、雅人の参拝が終わった。当ての二つ目から去るために、社に背を向けると。

 

(……)

 

 目の端に、明るい黄色が過った。まるで、真円の月のような、はっきりとした黄色が。

 振り返って確かめると。

 

(……ああ、別に珍しくない。ただの……)

 

 モンキチョウ。羽を休めるために、緑に埋もれた神社まで飛んできたのだろうか。

 

 

     ―*―*―*―

 

 

 夕食の時間まで、シャヘルと雅人はホテルで休んだ。

 ディナーの席で、興奮気味に御朱印七種の制覇を誇る母。シャヘルは穏やかな気配で、雅人は少し宥め気味に、楽しかった一日の様子を聞いた。

 

「今日も……出かける。先に寝てて……」

 

 母の目配せを受け取り。

 

「オレ……行っていいっすか?」

 

「いいわ……寒かったから、上着も持っていく……」

 

「分かったわ、明日に備えてゆ~っくり温泉に入ってくるわね!」

 

 そう、笑顔で送り出された。

 

「えっと……三つ目、本命?」

 

「そう……」

 

 夜。月読命が支配する領域だ。

 

「本命中の本命……満月に合わせて、日程を組んだ……」

 

「月の神様っすからねえ……」

 

 夜闇の中でも、くっきりと陰影が浮かんでいる。

 街灯よりも、日の次に世界を照らす大きな月が、街の闇を照らしている。

 

「この近くっすよね」

 

「……昼間に行った」

 

「え?」

 

 外宮の方の月読命の神社、月夜見宮の前まで歩いて。

 

「ここ……」

 

 真ん中に黒い舗装が伸びている、そう長くない小道。

 

「馬に蹴られるこの道?」

 

「出るのよ」

 

 はっきりとした口調に、黙ってしまった。

 

「夜、ここに。月読命が」

 

 幽霊ではなく、神が。

 

「……マジっすか?」

 

「……もちろん、神話よ」

 

 小道の中ほどに、木の看板があった。昼間は見逃してしまったが、この小道に伝わる民話について記されていた。

 

「神路通(かみじどおり)……」

 

 外宮の裏参道と月夜見宮を結ぶこの道を通って、月読命は豊受大御神へ毎夜会いに行くそうだ。

 

「毎夜? なんでっすか?」

 

「調べても分からなかった……」

 

 外宮側の出口に近い場所に、シャヘルは座り込んだ。雅人も隣の適当なスペースに腰を下ろした。

 

「外宮は、天照大神の食事を用意する場所……要は、台所。案外、料理をしに行ってたり……?」

 

 雅人は、思わず小さく吹き出した。いそいそわくわくと、台所へ向かうミコトの背中を思い出したからだった。

 

「他には……豊受大御神の、別名……一説でしかないけど、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、なの……」

 

 何か、とんでもない秘密を語るような口調で。しかし、雅人には意味を受け取れなかった。

 

「あ、あめ……何の神さまっすか?」

 

「日本の創世神……割と、マイナー?」

 

「え、イザナギとイザナミがそうじゃないんっすか?」

 

 日本を生んだ神が、創世神なのではないのかと。

 

「そのイザナギやイザナミを生んだ神……がいて。何代か辿って……初めて生じた神が、天御中主神……古事記で、最初に名が記されている神よ……」

 

「へえ……?」

 

 国生みの父母より前に、そんなに神がいたとは、雅人は思いもしなかった。

 

「天御中主神も……不自然なまでに、語られない神。そういう神は……“存在の力”を司っているらしくて……ミコトも恐らく、そこから分かたれた存在だった……」

 

 人間世界と『この世の本当のこと』のリンクで、背筋がぶるりと震えた。

 

「伊勢……この伝説を知って、来ようと思った……。会えるとすれば、出(・)る(・)という伝説があって……怖いくらい、繋がりが見えたここ……」

 

 だから、本命中の本命なのだと。

 それから、月が高く上がって、下って……シャヘルと雅人はじっと待った。

 伝承によると、月夜見宮の中を縫っている石垣の一つを馬に変えて、それに乗って外宮へ向かうとか。月が照らす小道を凝視しつつ、蹄の音が聞こえないか待った。

 来るのがミコトなら、騎馬ではないだろう。数百年前の約束以来こだわって履いていた草履の音がやってこないか、そわそわと待った。

 自動販売機で熱いコーヒーを調達したり、犬の散歩に来た通行人にぎょっとされたり、神が通るという黒い舗装を踏む車をはらはら見送ったり。

 

「日の出まで……あと一時間っす」

 

 月の神の支配領域は、去りつつある。

 

「雅人……ありがとう」

 

「へあ?」

 

 変な声が出てしまった。定時報告のつもりだった、応答を求めていなかったつぶやきに返った、感謝に。

 

「昨夜、一人で待ってた時間は……苦しい、だけだった。来るわけないのに、期待を捨てられなくて……今更帰って来ても、苦労するだけだから、とか……再会できたなら、何を言ってやろうとか……それを考えるのも、全部全部無意味だとか……ぐるぐる、ぐるぐる……堂々巡りで、ただ、苦しかった……」

 

 コーヒーの空き缶をゴミ袋に捨てて、シャヘルは立ち上がった。

 

「人は、歪みを“違和感”として、受け取った……」

 

 それは、雅人も何度か聞いた。

 

「あっただろうか、そうだっただろうか……こんなものが、いただろうか……。“紅世”という侵入者は受け入れられて、存在にも痕跡にも歪みを孕まなくなった……」

 

 そうしたのは、彼女に他ならない。

 

「歪みが失われた、今の、この世界。……私は、一つだけ、そうだっただろうかという“違和感”を、抱いてるわ……」

 

 呼吸を置いた音。それが聞こえるくらい、夜が去りつつあるこの世界は静かだった。

 

「ミコト。そ(・)ん(・)な(・)人(・)間(・)は(・)、い(・)た(・)だ(・)ろ(・)う(・)か(・)、と……」

 

 雅人の息を呑んだ音が響いたほど、世界は静かだ。

 

「……きっと。彼は特大の歪みだった……。誰も誕生を予想せず、世界すら想定しなかった……一種の不具合。“紅世”が受け入れられた今、歪みは……彼に集約された、のかも……?」

 

 太陽にその場を譲る月の落下音が、聞こえるほど。

 

「どんな世界が、正しかったのか。ミコトが生まれたこの世界は、間違っているのか。……私にも、“天壌の劫火”にも、“祭礼の蛇”にも、答えは出せない。でも……」

 

 静寂(しじま)の世界の真ん中で、振り返った。

 神格を奪われ、壊された過去を。

 過去に背を向け、前を向く。過去を積み重ね、やってきた今に、目を向けた。

 

「私は、この世界が」

 

 拾われ、旅して、旅の果てに生まれたこの世界を見て。

 

「愛おしい」

 

 今にも激発しそうな事象が尽きない、世界と世界が交じり合った、誰も予測しなかった、この世界に踏み込んだ。

 

「ミコトを入り口として生まれた違和感は……ずっとずっと辿ると、世界に繋がってた……。きっと、この世界は、間違ってるのよ……。だけれど、私は……この世界で、生きていくわ」

 

 白じむ空を仰いで。

 

「正しいとか、間違ってるとか……神さまがいれば、決めればいい。……私はもう、神じゃない。だから……世界の正否なんて、考えず、決めず……進むだけ」

 

 小道に、背を向けた。その背からは、昼間に神社で見せた悲愴さが消えていた。

 

「……整理がついた。雅人……今日の張り込みでは、丁度いい位に気が逸れて、かえって考え事に集中できたと思う。この旅行……一人旅じゃなくて、良かった……」

 

「う……うっす」

 

 空き缶袋をからから鳴らして、雅人も立ち上がった。

 

「……ミコトは、世界に帰郷した。私は、この世界で生きる……。きっと、それで、いい……」

 

 そうぽつりとつぶやいて、宿への道へ戻った。

 追おうとした雅人は――

 

「――ッ!?」

 

 聞こえた気がして、小道を振り返った。

 

「どうしたの……?」

 

「い、いや……なんでも、無いっす」

 

 気のせいだ、草履の音が聞こえたなんて。

 何も聞こえなかった、それが正しい。そ(・)う(・)だ(・)っ(・)た(・)だ(・)ろ(・)う(・)か(・)、と思う方が間違っている。

 

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