本編より、けっこう後の話。
これは、悪い癖だ。
私は嫌なことがあると、いつも此処に逃げ込んでしまう。
昔はこんなことしなかったのに。
もう私は、学園の3年生になるというのに。
この狭く、暗い、服と、木と、微かに誰かの香りのするこの場所に。
誰の目も届かない。誰の声も聞こえない。
明かりもなく、音もなく。
ただなにをする訳でもなく。
わたしは、膝を抱えてここにうずくまる。
会いたい/会いたくない
顔が見たい/顔を見られたくない
見つけて欲しい/そっとしておいて欲しい
私は、私の気持ちが分からない。
それでも、こうやって傍に行くのはきっと。
『誰か』に見つけて貰いたいからで。
それでも、こうやって隠れてしまうのはきっと。
『誰か』から見つかりたくないからで。
冷静ではない。
分かっている。
冷静ではない。
知っている。
冷静ではない。
だからどうしたと云うのだ。
感情をコントロールできるのであれば、最初からこんな所に篭ってなどいない。
「……いたい」
ぼそりとしたわたしの声は、静寂に溶けた。
まるで、わたしの存在が薄っぺらだといわれたみたいで、私の気分は今以上に下がってしまった。
はじめは、些細なことだった。
私はその三人組が気に入らなかった。
私の敬愛すべき教官の講義で、私語をする、手紙の交換を行う等の不貞行為を繰り返す。
いや、教官の講義でなくともこの学院の教員は総じて高い技量を有している。その恵まれた環境に感謝すべきなのだ。
しかし、繰り返される雑音。
我慢した。私は我慢したのだ。
だがしかし。
我慢と云う物には、限度がある。
やんわりと。
朝課外の際に、私はやんわりと注意したのだ。
「お前たち、ちょっと騒がしいんじゃないか?」
「そんなことないよ、ね~?」
「ねぇ?」
いやいや。お前たちが五月蝿いと思っていないだけで、少なくとも私は五月蝿いと思っているのだぞ?
たとえIS戦だろうが肉弾戦だろうが1対3であっても一方的に黙らせられる私が、このラウラ・ボーデヴィッヒが穏便に済ませようとしているのに。
それをすると嫁とかシャルロットからお叱りがあるからこうして、こうして穏便に済ませようとしているのに。
私は我慢した。
結果、改善はされず悪化した。
私は我慢したのだ。
その結果、折り合いが取れないのであれば『相談』だ。
昼前の休憩にて、私は三人に話しかけた。
「すまないが、騒々しくて授業に集中できんのだ。静かにしてもらえると助かる」
「ボーデヴィッヒさんちょっと神経質なんじゃない?」
「アレじゃない? ドイツの軍隊ってアレじゃない?」
「アレアレばっかでなに言ってるか分かんないよりっちゃん」
「元々談話する時間でもないのだが……」
いかんいかん。言い方には気をつけねば。
これは相談なのだ。お願いと言い換えても良い。
それなりの礼儀というものがある。
「まったく会話するなと命令する気もないのだ。私たちには授業を受ける『権利』がある。
それをお前たちに強制するのはおかしな話だが、こちらの権利が阻害されてしまってはそうも言ってられない。
どうにか納得してくれないか?」
「ふーん。そうかもねー」
「ヒノっち興味ウスだよそれは。ボーデウィッヒさん怒るよぅ?」
「いや、決して怒っている訳ではない! ただ私は―――」
嘘だ。
実はかなり怒っている。
だが、私の意見は消極的ながらも反映されそうな傾向だったのだ。
……。
だった、のだ。
笑い声が、煩い。
押し殺し損ねた笑い声が、背後で聞こえる。
プ、とか、クスクスとか。
たまに聞こえてくる笑い声が癪に障る。
怒るな。
怒って得することなど無い。
我慢だ。
無理。
昼休みは、口論になった。
戦争にならなかっただけ褒めて欲しい。
向こうの言い分としては会話を禁止されたので文通してた、なにキレてんの、と云った所だ。
なるほど然り、たしかに話し声は少なくなったが、後ろで頻繁に笑うのであれば解決もクソもないではないか!
私は我慢した。
我慢したのだ
しかし限度がある。
繰り返す。我慢と云う物には限度がある。
口論で済ませた私は、成長したと皆に褒めてもらってもおかしくはない筈だ。
そういった、ささいなきっかけだった筈だ。
弾みだと、思いたい。
ヒートアップした口論で、零れた
『化物の癖に』
二ノ宮りおんが発した小さな一言。
その一言が耳に届き、耳朶を伝播し、脳が理解し、心が解釈する。
バケ、モノ。
化物、モンスター、化生、怪物。
私の産まれを知っていて、直接的な―――
直接的な、端的な、私を。
私を、示す、単語。
嗚呼。躯が震える。
嗚呼。心が凍える。
視線が怖い。
私はどんな眼で、どんな表情で見られているのか。
怖くて確認できない。
それは、ヒトを見る眼をしているだろうか。
弾かける様に教室を飛び出した。
感情が溢れる前に一人になる必要があった。
午後の講義の開始を告げる鐘が鳴る。
次はあんなに楽しみにしていた織斑教官の講義だというのに。
私は駆け出した脚をとめることができず、何かから逃げるのだった。
自分の心を理解する前に。
暴かれて、しまう前に。
暴れて、しまう前に。
私は、駆けた。
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午前中お休みいただいており、昼から回復したので出席する旨を胸に、違ったマヤちゃんに伝え、チッピーに捕まり話をしながらクラスに向かう羽目になった。
「あんでしょうか織斑先生。心配しなくてももう熱は下がりましたよ」
「熱がなければいいと云う訳でもあるまい。治るまで休んでいればよかろうに」
云えない。ただの下○で、腹下しただけで午前中丸々休んだなんて云えない。
「授業の進捗も悪くない。お前の体調がよければ、終わりの10分程度壇上に上がるか?」
「誰得だよ」
遊びすぎだろ、あんた。
弟に授業させてどうすんだ。仕事しろ。
「まあ考えておけ。皆、お前のトークにそれなり興味があるようだぞ?」
「へいへい、ネタをなんか考えときますよっと。……なんだ?」
「ふむ。……剣呑な雰囲気だな」
教室に入ると、満面の笑みで仲良し三人組に詰め寄るシャルロットの姿が!
なにアレ怖い。たけぴーとヒノっちとりおんちゃん(巨乳)ビビってる。
分かる。俺もあのシャルロに詰め寄られると失禁しそうになる。
「全員、席に着け。授業を始める」
有無を言わさぬチッピーてんてーの発言によって訓練されている俺達は素早く着席した。
三人組は安堵の顔ですが、
「おい、ボーデヴィッヒは何処だ? 昼までは出席になっているようだが…?」
シャルロットさんの顔が不機嫌笑顔なのが非常に気になる。
クラス全体の浮ついた雰囲気? も。
地に足がつかないというか。不安? 不満?
あんまり良くないイメージな。
[ねぇねぇ箒ちゃん?]
[なんだ、どうした?]
この状況で平然としているお前の脳味噌がどうしたって思いますけど。
ISのコアネットワークを通じたプライベートチャンネル通信。
ほぼ無音に近い発声をISが拾い解読、秘匿回線で変換した音声をISの網膜展開型インターフェイスへ展開し交信。
周りからは口元が動いてるようにしか見えないだろう。
こそこそと会話する。きっとファンタジーの念話ってこんな感じなんだろなとか感想を浮かべつつ。
[何があったん?]
[ああ、それはだな―――]
ごにょごにょごにょり、っと。
お前そこまで顛末を分かっておきながら我関せずってどうなん?
興味がなかった? あ、そう……。
授業は進む。
一見するときちんと受講している様に見えるイッピー&モッピーですが、バックグラウンドで俺と箒の通信は続いている。
俺は話しながら要点を起こし、メールにまとめる。
網膜投影と仮想レイヤーを駆使した内職。
なんという技術の無駄遣い。
送信先:ラブリーマイシスター千冬ちゃん2○歳
送信っと。
ちなみに後日このアドレスの登録名が見つかり鼻が折れかけたのは秘密です。
講義を続けながら(つっても対戦動画の技術解説が主な内容だが)、教卓の端末でメールを確認してるだろう姉。
クラスの微妙な浮つき具合には気がついてるが、とりま流している彼女はどういったアクションを取るのか。
メールを確認した織斑先生は。
更に流した。
あるぇー?
講義は止まることなく続く。
間違いなく俺のメールを読んだちーちゃんはガン無視です。
滞りなくいい感じで進み、残り20分という所で一旦切られた。
「キリがいいのでここで終わりにする。質問はないか?」
織斑先生の問いかけに、クラスは無言の肯定を返す。
「ないな。それじゃあそうだな、おいクラス委員長」
「はい」
ご指名ありがとうございまーす。イチカです。
「このクラスの浮ついた空気をなんとかしろ。授業に身が入ってない者が多すぎる」
えー。
ここで振んのかよ。
はいはいはい、分かりましたよ。
アゲてきましょう。上がれ、テンション上がれ。
俺様いわく上がれテンション。
「少々、時間をお借りしてもよろしいでしょうか、織斑先生」
「許可する。残り時間、好きに使え。ただし結果は出せよ?」
謳え、馬鹿者。
姉はそう、俺にだけ聞こえる声で呟いた。
すかした笑みを浮かべて、教室の後ろで壁に寄りかかる千冬姉さん。
「それじゃあそうだな。たまには真面目に話をしよう」
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「キミ達は、ラウラ・ボーデヴィッヒの出自を知っているね?」
噂大好きな女の園。
一度漏れた情報にプライバシーなどある訳が無い。
俺が靴下を左右色違いで登校しただけで一年はネタにされるぐらいなのだから。
「彼女は知っての通り普通じゃない。その生い立ち、境遇、生活環境、習得技術。
もっと簡単に言ってやろう。『異常』だ。
親の腹から産まれてないし、親の愛情なんかも当然知らない。一般常識なんて以っての他だ」
目を伏せる娘、睨んでくる娘、驚きを隠せない娘、同情する娘、無関心な娘。
「お前等、俺も含め全員と比べてみても誰一人として膝元にすら及ばないヘビーな家庭事情だ。
そりゃあいいさ。そりゃあ事実だ。アイツにしたって、今更それを自分から口に出すことはない」
遺伝子強化試験体。
試験管ベイビー且つアドバンスドベイビー。
培養層で育てられ、育たなかった素体は廃棄され、
それは、事実だ。
それは、過去だ。
変えられない、否定も出来ない。
「怖がろうが、引こうが、苛めようが、拒絶しようが、全然構わない。アイツは出自的に俺達と違う。俗に云う―――」
ガン、と。硬い音が響いた。
棒やすりが飛来し、黒板に穴が開く。
俺の顔のすぐ横で。
「オデコでタバコを吸ってみたいならいいけど、そうでなければそれ以上口を開かないで」
部分展開すらせず、愛機とのリンクのみでパワーアシストを行った器用な女が、普段の柔和な笑みを磨り潰し冷たい視線で俺を睨む。
「シャルロット・デュノア。後ろに立ってろ」
「一夏、人の気―――」
「黙って立ってろ。それとも俺のコイツで顎外されてぇのか?」
デュノアの眼前に雪片弐型を遠隔展開。
テメエばっか伸びてるとでも思ったか。
テメエばっか小技が使えると思ったか。
テメエばっかキレてると思ってんのか。
「続けるぞ。あいつとの付き合い方を俺が決める訳じゃない。キミ等が自分で選んぶんだ。
人間関係なんて他人にどうこう云われて決めるもんじゃねぇからさ」
あー、ヤニ吸いてぇ。
未成年の喫煙が合法の国ってあったよな。
大麻もたしか合法の国あったよな。
卒業したらどっかその辺の国外行ってみっか?
「けどさ、忘れないで欲しい事がある」
合法ハーブもそろそろ規制きそうだし、楽しむなら今のうちだなぁ。
ドラッグには怖くて手が出せないけど。
つーか人として越えちゃいけないラインだと思うし。
「あいつ、不安がるんだ。皆に迷惑をかけていないか。
あいつ、心配がるんだ。皆に嫌な思いさせてないか。
確かに、あいつの出自は普通の人間じゃねえよ。
だけどさ、俺から言わせりゃだからどうしたって話だよ。
だって、あいつ。こんなに人の気持ちを慮れるんだぜ?
相手を思いやれるんだぜ? あんなに他人を拒絶していた奴がさ。
あいつ、泣くんだぜ。普通の女の子に産まれたかったって。
あいつ、嘆くんだぜ。愛情を注いでくれる両親が欲しかったって。
みんなが羨ましいって。みんなが妬ましいって。
だけどそういった汚さを、あいつはぶつけてきたか?
あいつ、自分が裏でなんて蔑称で呼ばれてるか知ってるぜ?
だけど、何もしないだろ。
俺も含め、あいつは簡単に俺達を叩きのめせるのに。
それでもあいつはそうしない。しないんだよ。
だって、悲しいから。そんな事すると悲しくなるから。相手も、自分も」
口が寂しい。
タバコが吸いたい。
頭がイライラしてモガモガしてスッとしない。
煙草が吸いたい。
電子煙草吸ってみたけど何アレ。
気体ジュースじゃん。
「人の定義なんて難しい。難しいらしい。俺にとっちゃ簡単だけどな。
『人の心を、悲しさを感じる心を知る者』、それが俺にとっちゃ人間だ。
人の心を切り裂くような、他人の悲しさを感じ取れない様な奴を俺は人と思えない。
なあ、竹本若菜、日野森明子、二ノ宮りおん。
問うぜ? 『お前ら、人間か?』」
名指しされた者は、羞恥で顔を伏せた。
名指しされなかった者は、後ろめたさに目を伏せた。
正直、ほっとした。
伝わらなかったらどうしようかと思ったぜ。
いやいや、平和。
「んじゃ、前フリ終わり!」
元気よく行きましょう。
ヤニすいてーとか言っちゃいけません。
健康的にいきましょう。
「おいおい下ばっか見てんなよ? こっからが本題だ。おい顔上げろ!
終わったことに思いを馳せてどうすんだよ。
未来はそっちにゃねえんだ。コッチ見ろや」
机を叩く。
音にびっくりした生徒が前を向く。
たかだか40人程度の女子高生の視線なんて緊張しねー。
千人規模の集会でやらかした俺にはなんともねー。
だけど姉の熱烈な視線だけはとめて欲しい。わりとガチで。
「年を取って無くすものって、なんだと思う?」
先生、俺は大人になれたでしょうか?
まだまだだと思います。
だけど先生みたいな素敵な大人に、俺もいつか、成りたい。
「人は年をとると恥を覚え、臆病になる。
見なかったフリ、聞こえなかったフリを覚える。
それを大人というのだろうけど、それじゃ成長は止まってしまうんだよ」
やって後悔する、やらずに後悔する。
そういう次元にない。
上手くやるやり方を覚え、それなりでこなそうとしてしまう。
「年を取って無くすもの、それは『勇気』だ。
キミ達はモノを知らない。経験不足故に恐れを知らない。
それを未熟だと人は笑うかも知れない。だけど、んなこたぁねえ!
気持ちのままに、心のままにやってしまう事の何が未熟か。
失敗を恐れて、恥を恐れて何も出来ない置き物に哂う権利なんかねえんだ」
手を抜く風潮の昨今ですが、アテクシそういったの大ッ嫌いでげす。
真面目にやること。真剣にやること。懸命にやること。
それの何がかっこわるいか。ダサいか。
そういったのが眩しいからって、自分が持ってないのが悔しいからって誤魔化しやがって。
個人的には好きにしろって思いますが。
けどさ。
意地張っても強がってもいいけど、素直さだけはなくさずに。
「間違えたって、恥かいたっていいんだ。やってしまってからだって遅くない。すぐやり直せる。
だから、感じる心を止めるな。いつだって自分の心に従え。
それで失敗して誰かに迷惑かけたら謝ればいいんだよ。大丈夫、キミ達は若い。
人でも殺さなきゃ社会が許してくれるさ、存分に失敗しろ。
―――胸を張ってやらかそうぜ? 18歳なんて二度とこねぇ! 青春っぽいこと、しようぜ?」
はい、お仕舞い。
俺は教壇を降り、教室の後ろへ歩く。
なんだなんだと目で追うガールズ。
あんま見んなよ。これから恥ずかしいことするんだから。
「織斑先生!」
「なんだ、織斑」
手を挙げて、大きな声で。
「やりたい事がありますので、授業をサボります!」
豚肉をぶっ叩いたような音が響き、人間大の物体が教室の後ろのスペースを2,3メートル滑っていった。
いえ、俺が出席簿でぶん殴られてぶっ倒れただけですけどね!
「ならん。教師として許可出来ん。織斑、お前は学生で、学業こそが本分だ。
やりたい事があるからとそう易々許されると思うか?」
いひゃい。ごいすーいひゃい。人中打ち抜いたよこの姉。
思いっきり殴った。うそみたいだろ。俺のこと愛してんだぜ、これで。まだ、痛みで動けないんだぜ。
「ああ、そういえば織斑は体調不良で午前中は欠席していたな。おや、顔色が悪いじゃないか。
体調不良が長引いて学業に支障が出てはいかん。今日は早退するといい」
「お言葉に、甘えます!」
痛っっっっってえんだよ、この馬鹿力!
なんで出席簿の平面で拳みたいな打撃かましてんだよ。
あれ、中々立てない。
脚にきてる?
女の打撃で、冗談みたいなビンタ的なサムシングで立てなくなるイッピー?
あ、やべぇ。
死にたくなってきた。
小走りに織斑千冬の前に立つ女の子がひとり。
おいおい、俺が教室出てからにしてくれよ。
立てないけど。
「先生! 私、今すぐやらなきゃいけないことがあるので早退します!」
二ノ宮ちゃんが織斑先生の前で言い放つ。
え、なにこいつ。
パンツ見えそうなんだけど。
「何を馬鹿なことを言っている」
ビンタ。
激しいビンタ。
二ノ宮ちゃんは倒れた。
うそ、俺に倒れてきたから背中を支えた。
人を倒すビンタってなんなの? 馬鹿なの? 死ぬよ?
こっそりブラのラインとか探ってないよ。ホントだよ。
「ん? おい二ノ宮、顔が赤いじゃないか。―――保健室でも行って来い」
「御言葉に、甘えますっ!」
元気良く立ち上がり、ドアを開け、保健室とは逆の方へ駆けて行く二ノ宮さん。
あらあらまあまあ。
若いねぇ。
ぴっちぴちだね。
卑猥だねっ!
んじゃま、出遅れましたが行きますか。
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まだ授業中だというのに、寮の部屋に帰って来た者がいる。
この部屋に入ってきた時点で、誰だか丸分かりなのだが。
「授業サボタージュの悪い悪い兎ちゃんはいねーかな、っと」
嫁は制服のままベッドに横になる。
私は、嫁の部屋のクローゼットから嫁を観察する。
隠れるのは得意分野なのだが、嫁は私が忍び込んでもすぐ気付く。
愛と思いたいが、単純に気配に敏感なだけだろう。
「まー、いっか」
本格的に寝そうだぞあの男。
何しに来たのだ?
何しに来たと言っても、彼の部屋なのだが。
「其処に篭って満足するなら存分に篭れ。時間と体調の許す限り好きなだけな。
だけどひとつだけ教えてやる。其処に居たって何も、何一つ変わらない。
そんな所でお前が幾ら時間を費やそうが、無駄にするだけだ。それでいいなら其処にいろ」
ゴロゴロと体勢を変えながら一夏は呟く。
まるで収まりのいいポディションを探しているかのようだ。
「でも俺はお前の友達のつもりだから。仲間のつもりだからついでに言ってやるよ。
出てこい。其処にゃ何もないけど、此処には少なくとも俺が居る。
お前の愚痴を聞いて、お前と一緒に悩んでやることぐらいは出来る。
俺だけじゃない。其処から外の世界には、お前の味方がいるんだぜ?
それでも其処がいいなら好きにしろ。お前の決断だ。これ以上は何も言わねえよ」
アイツは。
アイツは。
アイツは。
ねっころがりながら、なんてことをいうんだ。
きっと知ってる。
全部知ってる。
知った上で、いつも通り。
そんなの、ズルい。
私はクローゼットの扉を跳ね除けて、ベッドに横になっている織斑一夏に覆いかぶさった。
下からいつもの顔で私を見上げる一夏。
人の気持ちを知ってる癖に。
そうやって、そうやって!
「イチカ、私は、私は!」
言葉が暴れる。身体が裂けそうだ。
止められない。
止まらない。
この涙も、この言葉も、この想いも。
「私は! ―――普通に産まれたかった!」
皆と同じように。
男と女が体を重ね、愛を育み。
求められて産まれたかった。
母の海で育ちたかった。
父の腕に抱かれたかった。
両親と云う存在に、無償の愛に、『普通』の家庭に、『普通』の家族に。
普通に、産まれたかった。
それは、きっと。
きっと簡単で、ありふれた、―――とても尊い光景。
私には、一生、手に入らない光景。
「イチカ、イチカぁ! 私は! ワタシは!」
一夏の胸元を叩く腕が止まる。
それでも、腕は離せない。
これ以上、『人』と離れたくなかった。離れるのが怖かった。
一夏のシャツを見る。
ボタボタと涙が落ちていき水溜りができそうだ。
目が熱い。
だけどそれ以上に、言葉のナイフに切り付けられた傷が、熱かった。
「
この三年間、沢山学んだ。
普通を。一般常識を。
そして知った。ワタシは、化物だ。
何処を探しても私の様な存在はいない。
ドラマも、漫画も、小説にも。
荒唐無稽なフィクションの中でしか、ワタシは存在しなかった。
気持ち悪い。
気味が悪い。
自然じゃない。
造花みたい。
人じゃない。
ばけものみたい。
ばけもの。
聞こえている。
私の強化された聴覚は拾うのだ。
昔は周囲等どうでも良かったのに。
今ではご覧の有様だ。
なんて弱いのだ。
弱くなったのだ。
「それでも、俺はラウラが好きだよ」
そうやって悩んで、考えて、凹んで。それでも最後には前を向くラウラが好きだ。
変わりたいって。変われない過去を嘆くけど、それで終わらない強いラウラが好きだ。
たまにこうやって弱さを見せる人間臭いラウラだって好きだ。
一夏はそういって私の腰を抱き、滴を掬うように涙を吸った。
変態だ。大変な変態だ。
「俺じゃ足りないってんなら、部屋の外に出てみろよ。きっと面白いことになってんぜ?」
一夏に押され、ふらふらと部屋のドアまで歩く。
かすかに「ぼくに謝ってどうするのさ。ちなみにラウラが許してもぼくは許さない許さないよ絶対にだ」声がする。
ふらふら、ふらふら。
定まらない足取りのまま、ドアを開ける。
「ラウラ! もう、探したんだよ?」
シャルロットが開口一番にそう声をあげ、私を抱き締めた。
その包まれる感覚に、安心感を覚える。
それはきっと、母に抱かれるようなものに近いのだろう。
私は母を知らない。
だけど、この感覚があれば。
母がいなくても、生きていけそうだと思った。
「ごめんなさい、ボーデヴィッヒさん!」
「ごめんなさい!」
私は、深く頭を下げる彼女達をみる。
腹立たしいし羨ましい。
私は、この三人を物理的に引き裂いてやりたい。
けれども、そんな行い、してはいけない。
私は、人なのだから。
普通じゃなくても、胸を張って人間だと云える様に。
私が誇れる自分である様に。
「許す。気にしていない」
強がりだっていい。意地を張っていい。
辛くても、前さえ向いていれば。
「そんな兎みたいな眼してる癖に、ラウラは可愛いねぇ~」
こうやって、後ろから支えてくれる人がいる。
シャルロットが背中から手を回し私を抱きとめ、体温を、温もりを与えてくる。
嫁はきっと、それを伝えたかったんだろう。
壁を背に、世界と断絶したって。
其処には何もない。逃げ場すらないのだから。
此処には、敵が多い。
世界には、嫌な事が溢れている。
だけど、私の味方も、私の喜びも、こちらにしかないのだ。
きっとこれからも、私はあの狭い世界に逃げ込むだろう。
此処は、眩し過ぎるから。
けれど、こうやって立っていれば。
私だってこの世界の一部なのだ。
それを学んだから、これから何度逃げ込もうが、その度に出てこれるさ。
「なに一人で完結した顔してるのさ。ぼくはちっとも溜飲が下がっていないんだからね」
そう怒るなよシャルロット。
そうやってお前が怒ってくれるから、私はこうやって笑えるのだ。
お前さえよければ、これからも私と仲良くして欲しい。
「心配無用だよ。知らなかったのラウラ?
ぼくが一夏と結婚したら、ぼくはラウラを娘にするんだから」
それは、なんともまあ。
理想的な家庭。未来絵図。
私が愛する父がいて、私を愛する母がいる。
なんて、満たされた『絵に描いた餅』だろう。
けれど、肯定できん。
「それは却下だ。織斑一夏は私と結婚する。―――いわゆる『私の嫁』だからな。異論は認めん」
シャルロット・デュノアは後に織斑一夏に自慢気に報告する。
そう言い切ったラウラの笑顔は、ヒマワリみたいに素敵だった、と。