「…本当に、大丈夫?」
「大丈夫だって!心配しないでお母さん!」
「辛くなったら…いつでも戻ってきていいからな。…無理だけはしないで。」
「もう!お父さんまで!大丈夫ったら!」
清水家の玄関先で大荷物を抱え、明るい表情を両親に向ける娘と、それを心配そうに見守るクラウンと清水の姿があった。
「私ね、きっとお母さんみたいな立派なウマ娘になるんだ!すぐには無理かもしれないけど…でもいっぱい頑張って、きっと私のトロフィー貰ってくるの!」
娘は耳に尻尾に、体の各器官を活発的に動かしながら、そういった。
「そう…。本当に、無理だけはしないでね。」
「うん!…いっぱいお手紙書くから!行ってきます!」
そういって娘は家を飛び出した。
バタンと閉まった玄関の余韻が、むなしく二人を包みこんだ。
「大丈夫かしら…マーシャル…。」
クラウンが必要以上の不安を顔にするのも無理はなかった。
娘は…レッドマーシャルは、他の娘に比べて圧倒的に肺が弱い。
一流のアスリートを目指すウマ娘たちにとって、それは致命的な欠陥だった。
幼い頃から、才能があるといわれ育ったクラウンでさえ、GⅠへの道のりははるかに遠く険しいものだった。地べたを這いずって、血ヘドを吐くような思いをした結晶があの秋の天皇賞の盾なのだから。
町内会のかけっこで、人間の子供にすらも負けてしまう娘が、中央の世界で表彰台を飾るなど、夢物語に等しい。それが容易に予測できる現実だった。
一度は地方の佐賀競技場や諫早競技場なども検討し、両親はマーシャルに勧めたのだが、マーシャルは頑なに中央に拘っていた。
母の背中を追いかけたいと、その夢を熱意を、淀みなき目で二人に訴えかけたのだ。
その娘の熱意に、二人は悩んだ。
本音を言ってしまえば、母が育った中央で、娘が輝いてくれるのは、二人の何よりの夢なのだ。
本当なら、清々しく娘を中央へ送り出してあげたい。
…両親は悩みに悩んだ結果、わずかな希望にすがる思いで、首を縦に振った。
「…私ってば、残酷なことしちゃったかしら。」
すでに娘が去った玄関で、クラウンはそっと言った。
ただでさえ、肺が弱くなかろうとも、そのあまりにも厳しすぎる現実に耐えかねて、学園を去っていくものは多い。
メンタルをボロボロにされて、咽び泣きながら学園を去っていくウマ娘たちを、現役時代のクラウンは何人も見てきた。
今度はその潰されたウマ娘が、自分の娘になるのでは…
そんな不安に押しつぶされそうだった。
「大丈夫さ…あの娘は君の娘なんだ。きっと…大丈夫、信じよう。あの娘を。」
清水は涙ぐみながら、クラウンをそっと抱き寄せてそういった。
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「我が家って…こんなに広かったのね。」
テーブルに着いてお茶をすすりながら、クラウンはそういう。
「まぁ、張り切って庭付きの二階戸建てを建てちゃったからね。…あと10年ローンだよ。」
と、清水はソファで少しくたびれた釣竿を磨き、リールメンテナンスをしながらそういう。
「…ふぅ。今頃何してるのかしら。あの娘。」
「きっと、友達ができて楽しく過ごしてるところじゃないかな。」
二人は窓の外の、青く突き抜ける空を眺め、1000km以上離れた場所にいる娘のことを思った。
「気分転換に、散歩にでもいかないかい?」
「あら、久しぶりね。あなたからデートに誘ってくれるなんて。」
クスっとクラウンは笑った。
―――――――――――――――
しばらくして、宣言通りに娘からの手紙は届いた。
入学式での出来事だとか。早速お友達ができたこととか。
勉強は少し難しいけど、楽しいだとか。学園の中がとても広いんだとか。
その手紙の文言だけでも、娘が明るく過ごしていることが読み取れて、二人は安堵の息をついていたのだが、それもつかの間だった。
月日を重ねる毎に、手紙の量は減っていき。たまに来る手紙には…時折疲れを感じさせるような弱音が。
その文言がちらつくたびに、クラウンの心は締め付けられる思いだった。
思い切ってスマホでメッセージを送ろうかとも考えたが、勇気が出なかった。
そして、それからしばらしてまた一通の手紙が届いた。それにはいつもと変わらぬ気丈な文言が並んでいたのだが、クラウンはすぐにその手紙の異変に気付く。
その手紙の一部分だけが、濡れた後に乾いたような、少し皺が寄った跡があった。
光に照らしてみると、その跡というのは、およそ直径数センチほどの円状に広がったものだった。
クラウンはすぐに察した。…それは、娘の涙の跡なのだと。
「う…ううぅ…う…う。」
クラウンはその手紙を胸に抱き寄せて、いつぶりかの涙を流した。
「…お母さん?…どうしたんだい?」
妻の異変に気が付いた清水はすぐさま駆け寄って、クラウンを抱きしめた。
「私…やっぱり…間違ってたのかしら。」
「そんなことはない!…信じるんだ…あの娘を。」
そういって励ます清水の心中も、実際はクラウンと同じだった。
―――――――――――――――
それからまたしばらくの月日が流れた。
二人は、自宅のインターホンが鳴るたびに、ぐっと体を強張らせた。
扉を開けたら、そこに荷物をまとめて帰ってきた娘がいるのではないか、といつも思っていた。
…仮にそうだったとしても。二人は決してあの娘を責めないつもりでいた。
まずはそっと、優しく抱きしめてあげたい。何も聞かずに、気のすむまで。
「はい、どうもご苦労様です。」
今回のインターホンは娘ではなかったことに、とりあえず一安心したクラウンは、配達員から荷物を受け取る。
「宅配かい?」
「お義母さんからね。きっとまたお野菜よ。有難いわ。ってお父さん!今日の新聞、取り忘れてるわよ。」
郵便受けに、手つかずのまま放置してある新聞にクラウンの目が光った。
「あ…ああ!ごめんごめん。土曜日は新聞のことすっかり忘れちゃうんだよ。」
そういって清水は新聞を取ってそそくさと退散した。
「さぁて、お野菜たくさん頂いちゃったから。今日はお野菜尽くしよ!…お義母さんったら、これと同じ量の野菜をマーシャル宛にも送ってるんですって!」
と、クラウンが野菜の煮物を食卓へ持ってくる。
いつもは、妻に対し「ありがとう」と返してくれる清水だったが。その日は取り遅れた新聞を食い入るように見ていた。
「…お父さん?食事中の新聞はよしてくださいな!」
とクラウンがいうが、清水は新聞を手放さなかった。
「もぉ!お父さん!」
「…お母さん…これ、マーシャルだ。」
と、清水が新聞の一面を指さす。
その面のほんの隅っこに、先日行われたレースの着順が記してあった。
その第4Rの着順…4着に、『8:レッドマーシャル』との記載が。
「…嘘。あの娘、入着したの?」
クラウンは目をまん丸に見開く。
「…動画だ!昨日のレースなら、きっと公式に!」
清水はPCに飛びつく。
そして、探し当てる。そのレースを。
『10番人気はこの娘、レッドマーシャル。』
『担当トレーナーが変わったという情報が入っています。新しい彼女に期待です。』
パドックでのその実況から始まり、レースは展開される。
『さぁ中山の直線は短いぞ!一番手は変わらずトージョーイシン!それを追いかけるハーネスブラック、おっと後ろの方では誰かがバ群を抜けた...これは...8番レッドマーシャル!!強い追い上げを見せます!!!』
『驚異の瞬発力です!』
娘のその、中央で文句なしに太刀打ちできる追い上げに、二人は固まった。
「マーシャル…!」
「ほんとうに…!」
『今ゴールしました!一着トージョーイシン!見事逃げ切りました!二着は惜しくもハーネスブラック!三着にオオエドカエヅ、そして四着に....レッドマーシャル!!』
「あ…ああ!マーシャル!」
「お母さん!マーシャルは…頑張ってるよ!」
二人は抱きしめあって、初の娘の入着を涙を飾りに、歓喜した。
――――――――――――――
『しばらくお手紙出せなくてごめんなさい。』
久しく届いた娘の手紙の始まりの文言はそれだった。
その字体から、娘が久しぶりに明るい表情をしていることが読み取れた。
「…あの娘ったら、初めてもらった賞状を抱いたまま寝ちゃって、シワになっちゃったんですって。」
「ははは。そうかぁ。」
夫婦の会話にも、いつぶりかに光が差し込む。
「それと…新しいトレーナーが付いたって話じゃない?その人についてなんだけど。」
「…なんだい?」
「お父さんどう思う?…自由気ままで勝手な人で、併走トレーニングと称してスポーツカーと0-400させたり、筋力トレーニングと称して引越し屋のバイトさせたり、挙句の果てに根気入れと称してお尻をひっぱたいたりするような人がトレーナーなんですって。」
「お…おしりを!?…信じられないな…まるであの人みたいだ。」
そういったところで清水ははっとする。
「…もしかして?」
「…私もそう思うの。マーシャルのトレーナーって…大城さんなんじゃないかしら?」
「そんな…ほんとうに!?」
――――――――――――――
娘のお尻をひっぱたいたというのは本当ですか?
「…あ!切られた!」
「ははは!…やっぱりあの人だったのか!」
クラウンの傍らで、新品のきれいな釣り竿を磨きながら、清水は笑った。
「…運命、なのかな。…やっぱり神様はいるよ。ちゃんとあの娘を見てくれている。」
「そうね。まぁ、ちょっと乱暴な人だけど、あの人なら…きっと。」
「僕もそう思うよ。きっと大城さんなら、娘を導いてくれるはずさ。」
「うん…。ところでお父さん?」
「なんだい?」
「その釣り竿、いつ買ったの?」
先ほどの大城へ向けた声のトーンとにたようなトーンが、清水に刺さった。
「え…あ!いや!これは!」
油断していた清水は、はっとそれを背中に隠す。
むろん、そんな大きな釣竿が隠れるはずもないが。
「それ…いくらしたの?」
10万越えなんて言ったら…どうなってしまうのか…。
また別の恐怖が清水を襲った。
「....相変わらずおっかねぇ...ダンナが気の毒だ。」