里見蓮太郎は熟睡していた。しかし熟睡している時間と場所が悪かった。授業中の教室で机に突っ伏して熟睡しているのだ。延珠に肘打ちで起こされたのと、昨日の疲れが抜けていなかったことが原因だった。これでも三時限目の授業中までは辛うじて起きていたのだ。
しかし四時限目が問題だった。温和なおじいちゃん先生の古典の授業である。蓮太郎以外にも寝ている生徒がいる。古典の先生ははじめのうちは注意していたのだが、効果が無かったので注意は無くなり、睡眠時間となった経緯があったりする。
──プルルルル
(うるさい)
四時限目が終わりそのまま寝ていたい蓮太郎は、携帯電話の着信を無視した。火急の用事は無いということを蓮太郎は把握していたのだ。どうせ、木更の買い物命令だろうと高を括っていた。
蓮太郎がそのまま睡眠を続けていると、クラス内がざわついた。蓮太郎は睡眠を邪魔されたので少し不愉快だった。興味が無かったのでそのまま寝続けようとした時に、耳元に生暖かい吐息を感じてしまう。
「ひゃん!!」
「どーして電話に出ないのかしら?」
「しゃ、社長!?」
「話は移動しながらするわ。一緒に防衛省まで来て」
「はぁ?防衛省??」
蓮太郎の所属する民警事務所、天童民間警備会社の社長である女子高生、天童木更がそこにいた。随分とお冠な様子で端正な美貌を歪ませている。蓮太郎はわけも分からぬまま木更に手を引っ張られて、校門を出た。
「木更さん。俺どこに連れていかれるんですか?」
「さっきも言ったじゃない。防衛省よ」
「えっ??なんでですか??」
「火急の案件が出来たの。防衛省が動くくらいのね」
木更と蓮太郎は駅から人気のない電車に乗り込んだ。疲れが出たのだろう電車の揺れに合わせて木更がこくりこくりと船を漕ぐ。それから蓮太郎の肩に頭を乗せ眠り始めた。
「木更さん……あっ、駄目だねむい……」
蓮太郎と木更は完全に降りるはずの駅を寝過ごした。
「里見くん。起きて!」
「う~ん。夢か?」
「いいから!」
木更は容赦なく蓮太郎の頬を抓った。
「いた。痛い。木更さん痛いって」
「里見くんが起きてないからでしょ」
「えっ?寝過ごしたってことか?」
「そうよ」
「マジ?」
「マジよ。降りるわ」
電車を降りた先で、木更は悲痛な表情を浮かべて防衛省へ電話を掛けている。防衛省に遅刻した民警のその後は容易に想像できる。しかし相手の返事は思っていたのと違ったようで、驚愕の表情が木更の顔に浮かんだ。劇的な表情の変化に蓮太郎はあんぐりと口を開ける。
「木更さん。どうしたんだ?」
「防衛省が襲撃されたの」
「は?」
呆気にとられる蓮太郎に木更が説明をする。今回防衛省に民警が招集されたのは、“七星の遺産”と呼ばれるものを取り返すためだった。七星の遺産は、蓮太郎と延珠が昨日駆除したガストレアの感染源となった個体が、取り込んでいるという。
「それって防衛省が絡む案件じゃないだろ?どこかの民警がすぐに発見するだろ」
「そうね。でも今回の懸賞金は凄いわよ」
木更が蓮太郎に告げた金額は本来の相場の百倍以上だった。はっきり言って異常である。
「木更さん、もしかしてこの依頼ってヤバイんじゃないか?」
「ええ。きっとそう。でも断れないのよ。里見くんが一年以上無給で働いてくれるなら断ってもいいんだけどね」
「酷くない? 木更さん酷くない?」
「じゃあ、受諾しちゃうわ」
木更は携帯電話で電話を掛ける。電話先は防衛省だろう。
「で、里見くんには何か案があるのかしら?」
「ああ。昨日先生にアドバイスをもらった」
「それはどんなものなの?」
「蜘蛛の生態を調べろってさ。延珠の迎えと自転車の回収しなきゃならないからこの話はあとでいいか?」
「じゃあ、私も一緒に行くわ。あの死体好きの先生は苦手だけど延珠ちゃんとも情報共有したいから」
「死体好きな先生に苦手意識がない方が珍しいだろ。延珠が悪影響を受けてる気がするんだ」
木更は何の気なしに蓮太郎の手を握った。そしてそのまま、蓮太郎を引っ張って下り電車のホームへの階段を上る。蓮太郎は木更に手を握られているという事実に今更ながらどぎまぎした。そんな蓮太郎の動揺をよそに木更は蓮太郎の手を引っ張る。もしも蓮太郎が冷静であったならば木更の頬に僅かに朱が差していることに気が付けたかもしれない。
蓮太郎は、木更が自分に恋愛的な意味での好意を向けていないと誤解し、内心傷ついていた。
「大家さんに自転車返さなきゃな。木更さんはどうする?」
「私が返してくるわ。里見くんは乗り捨てした自転車を回収してきなさい」
「ああ。助かる。じゃあ、先生のところで集合ってことで」
蓮太郎は無事に自転車を回収し、勾田公立大学付属病院に向かった。昨日のこともあって少し憂鬱になりながら悪魔の彫刻がされた扉を開く。
「意外と遅かったじゃない里見くん」
「蓮太郎ちゃん、今日は替えの下着はちゃんと持ってきているのかな?」
「…………帰りたい」
良い遊び道具が来たとばかりにチェシャ猫のような笑みを浮かべる菫。延珠は菫の蔵書から虫についてのものを漁っている。
「木更さん、先生の言葉に耳を貸しちゃ駄目だ。延珠に事情を説明したんだろう? さぁ、延珠帰ろうか」
「む、妾は蓮太郎の役に立ちたいぞ。それに一番に奴を見つければご飯のグレードが上がるんじゃろ。帰る理由がない」
「分かったよ。頼むから先生は、余計なことを言わないでくれ」
「ふむ。蓮太郎ちゃんに泣かれると困るから今日はやめておくよ」
「泣かないからな」
木更は三人のやりとりを馬鹿馬鹿しそうに見ていた。
「むっ、蓮太郎。これとかどうじゃ?」
「なんだなんだ? 空を飛ぶ蜘蛛? ああ。あれか。まさか、ガストレアにそんなのが発現するのか?」
「何やら、面白そうなことを言っているね。おっと、延珠ちゃんの案がまさかの当たりかもしれない」
菫が蓮太郎に示したのは、SNSの不鮮明な画像だった。白い凧のようなものが空中に漂っている。
「おいおい、まさか……」
「ふふーん。妾は天才じゃったな」
様子を見ていた木更がおもむろに携帯電話を取り出した。
「もしもし、ヘリのチャーターをしたいのだけれど」
「木更さん!? そんなお金ウチに無いですよね?」
「学費を代金に充てるわ」
「木更さん、考え直したりは……?」
「無いわね」
木更の思い切りが良すぎる行動に蓮太郎は眩暈を覚えた。根拠が薄弱すぎると言ってもいいだろう。しかし、民警の勘というものは存外信用するに足りえたりもする。
「明日の9時に予約できたわ。場所はここ」
「これでもし見つからなかったら……」
「私がミワ女をやめることになるわ。里見くんのせいでね」
「俺のせい!? いやおかしくないですか? 俺別にそんなこと」
「寝過ごした里見くんが悪いのよ。全部里見くんのせいだわ」
木更の理不尽な言葉に蓮太郎は溜息を吐きたくなった。男だったころには木更を木更の兄たちの苛めから庇ったこともあったのに。
「里見くん? 聞いてるの里見くん?」
「そろそろ帰ったらどうだ蓮太郎ちゃん?」
「あ。ああ」
「私も里見ちゃんって呼んだ方がいいかしら?」
「いや、木更さんにちゃん付けされたら立つ瀬が無くなる」
冗談めかして言われた木更の言葉を蓮太郎はすぐに否定した。恋愛対象の少女にちゃん付けされるのは辛い。辛うじて残った蓮太郎の男としてのプライドが、木更のちゃん付けを何としても回避させようとした。
「里見ちゃん?」
「やめてくれ木更さん……」
「分かったわ。じゃ、帰りましょう里見くん」
蓮太郎たちは研究室を後にする。この後木更も蓮太郎の家に付いて来て夕食の相伴にあずかるのは別の話である。