黒猫が嗅ぎ付ける罪の臭いは、薔薇の芳香に満たされた園の中心でもはっきりと臭ってきた。新鮮な臭いを全身から放ちながら、朗らかに愛らしく芳野と会話を交わしていた犯人――春木霞が芳野真夜殺害の犯人だと、プルートーが告げた。
「あの犯人、臭いますけど……何で、夫さんのアリバイを積極的に証言したんでしょうね?」
「芳野氏のアリバイはマスターや、他人によって証明されている。つまり、自身のアリバイの証明にもなる」
「3分で真夜さんを殺害して、ホールの反対側にいた芳野さんに話しかけるのは無理ってことか」
皮肉にも、犯人であるはずの春木のアリバイも立香たちが証明してしまっていた。
暫定的な真夜殺害の流れは次の通りだ。
何かしらの手段で『収録室』へ侵入する
↓
二曲目『ラ・カンパネラ』の演奏終了後に現場にあった配線コードで絞殺
↓
理由は不明だが、鍵盤の指紋を拭き取って逃亡
以上のタスクをたった3分ちょっとの時間で消化し、立香の視界に入るのは不可能ではないだろうか。
「そうだ、あの人怪しくなかった? 真夜さんたちに凄く失礼なことを言ってた記者! 腕に「取材」って腕章を着けてました!」
「あと、敷島さん。真夜さんに仕事を断られていたし」
園子と蘭の話を聞いた横溝は、2人の男性を引っ張って来るように部下の刑事へ指示を出した。その他に、容疑者に浮上したのは鍵を手にすることができた第一発見者。
「わ、私も疑われているんですか!?」
「あくまで形式的なことだ。アンタ、被害者と面識は?」
「有名人でしたから、顔は知っていました。でも、実際にお会いしたのは今日が初めてです」
アリバイが証明されてしまっている以上、尾花を始めとした怪しい者を容疑者として疑わなければならないのが警察の仕事だ。
では、探偵は何とかして春木のアリバイを崩さなければ。
「ん、怪しい記者ってお前か、貴船!」
「ん? 横溝のダンナじゃないですか。お疲れ様でーす」
「お知り合いですか?」
「タチの悪いパパラッチ紛いだ。
「その節は、美味しいおこぼれどうもありがとうございます。で、この間、焼鳥屋で一緒だった美女とダンナはどんな関係なんスか?」
「うるせぇ、何もねーよ!」
芳野夫妻を煽って焚き付けるような”取材”を行っていた記者の名は、
「真夜さんが殺されたって……わ、私は違いますよ! 確かに、講師の話は断られましたけど、そんなことで殺すなんて……!」
「私だって! なんで初対面の方を殺さなきゃならないんですか!」
「初対面でも、知らない人じゃなかったでしょ。アンタ、尾花のぞみだろ。昔、天才少女って呼ばれていた」
「っ!」
「国内外のコンクールに度々名前が登場した、天才ピアニストって話題になっていたよな、アンタ。それなのに、海外の音楽学校の受験に失敗してからというもの、ただの凡人に成り下がっていつの間にか音楽業界から姿を消した。嫉ましくないっスか? 自分がなれなかった有名ピアニストで、従順な旦那と青い薔薇という名声も手に入れた芳野真夜が」
「オイ、貴船! その口、塞いでやろうか」
「おっと。俺は噂を口にしただけですよ。それよりも、俺が真夜さんを? 殺したって? そんな危ない橋を渡るはずないじゃないですかー」
容疑者側が混沌と化している。横溝を小馬鹿にするようにケラケラ笑う貴船が発信源だ。
妬み、嫉み……彼女は、それらが原因で殺されたのだろうか。
「おーい、こっちに何かあるよ」
「っ! アマデウス!」
「いつの間に……」
「鑑識さーん、ちょっとコレ取ってくれる?」
「貴様……!」
「落ち着け」
「もがっ!?」
いつの間にか、アマデウスがグランドピアノの側にいてピアノ内部を覗き込んでいた。
今にも慟哭外装を展開しそうなほど沸騰しているサリエリの口へ、ヘシアンがタピオカローズヒップミルクティーを突っ込んだ。沸点が低くなっている。
「……(スポポポポ)」
「ほら、ハンマーの隙間に何かが引っ掛かってる」
「本当だ。気付きませんでした」
鑑識官がピンセットを手に、細心の注意を払いながらアマデウスが見付けたナニかをピアノから取り出せば、挟まっていたのは華奢なネックレスチェーンだった。引き千切られているが、銀のシンプルなリングが通っている。
このリングは見覚えがあった。サイズこそ違うが、芳野が左手の薬指に着けているリングと同じデザインだ。
「それは、私たちの結婚指輪です」
「やっぱり。何でこんなところに」
「真夜はいつも、指輪をネックレスにして首から下げていました。ピアノを弾く時に、邪魔になってしまうので」
「ふーん……彼女は指輪をしていなかったのか」
ピアノ近くのサイドテーブルには、真夜の私物と『収録室』の鍵、園内放送用のスタンドマイクが乗っている。マイクのスイッチをONにすれば、ピアノの演奏を園内に届けられる仕組みだ。遺体発見当時からスイッチはOFFになっている。
いつの間にか、アマデウスは椅子を自分の高さに調節していた。鑑識官の「あ!」という制止も聞かず、指紋採取が終わった鍵盤に指を乗せると、甘い音色が奏でられたのだ。
足取り軽く、恋を知った乙女のように甘酸っぱい序盤がだんだんと情熱的な盛り上がりを見せる。が、それはすぐに胸を劈く悲愴なメロディに変わってしまう。甘酸っぱさはどこへやら、胸が締め付けられるほどの哀しみで涙が零れてしまう……誰も彼もが止めるのを忘れて聞き惚れてしまった。
やはり天才なのだ。何を弾いても名曲になってしまうのである。
「っ! びっくりした」
「すご~い! 何だか、激しく胸を叩いたわ。アマデウスさんもピアニストなんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ? 僕は『捜査解明機関カルデア探偵局フランス支部』の者さ。普段はまあ、音の解析とかそういうことをやりながら音楽をやっている。ってか、ピアノ弾けたら誰だってピアニストになれるさ。僕を基準にされちゃあ誰も下手すぎてなれやしないよ」
「そういうとこだぞアマデウス」
「ちなみに、今のはさっき
通りで胸が締め付けられるはずである。さっき目撃したのか。
「ところでさー……あの『ラ・カンパネラ』、本当に彼女が弾いたのかな?」
「っ、どういう意味だ音楽家」
「そのままの意味さ。サリエリ、君も気付いただろ。もしかしたら旦那も」
「……」
「……今日の『ラ・カンパネラ』は、真夜のピアノではない気がしました」
「ミス芳野のピアノは何度か拝聴した。彼女の演奏にしては、余りにも稚拙だった。それに」
「一音、多かった」
アマデウスの一言に、サリエリは頷いた。
音楽家2人だけではなく、芳野までもが感じていた違和感。つまり、彼らが言いたいのは、あの『ラ・カンパネラ』は真夜が弾いたものではないということだ。
「それって!」
「真夜さんは、一曲目の『乙女の祈り』を弾き終わった直後に殺されたってこと?!」
「さあ、そこまで分からないよ。逆に訊こうか、小さな探偵クン。もしそうだとしたら、犯人は
ピアノの鍵盤から指紋が拭き取られていた。犯人――春木がピアノを弾いたから、自分の痕跡を消すために真夜の指紋ごと拭いた。それなら説明が付く。
しかし、
「っ! そうだ! 確か、ホールの正面には監視カメラがあったはず。私は、犯行の時刻の頃にホールに出入りしていません。それは証拠になりますよね。私がホールに近付いていないって証拠に」
「監視カメラか。確認しろ」
「はい!」
「私は、10時過ぎにホールを出てから一切近付いてませんからね!」
敷島が必死になって弁明している。貴船もそれに乗っかり、自分だってカメラに映っていないはずだと主張した。
裏口が駄目なら、犯人は正面入口からホールに入ったことになるが……。
「マスター。やっぱり春木は、どうにかして裏口のパスワードを手に入れたんじゃないの? だって、監視カメラのある正面よりもずっと安全に侵入できるもの」
「設定したパスワードが誕生日や何か意味のある数字だったら、ある程度の予想もつきますし」
「……あれ」
ジャンヌが持っている園内地図を見ていて気付いた。ホールの裏口のすぐ近くには、関係者以外立ち入り禁止のビニールハウスがある。そして、そのビニールハウスを抜けた先は、立香が芳野と春木を目撃した地点だったのだ。
「裏口から出て、ビニールハウスを通り抜ければ大幅なショートカットになる」
「監視カメラの目を盗むこともできる。調べるぞ」
「うん。慶君とアンリは、刑事さんたちに頼んで監視カメラの映像を確認して」
「はい」
「……」
「ニャア」
園内に何か所か点在しているビニールハウスは、病気になった薔薇やこれから植える株を隔離しておくための場所だ。鍵はかかっておらず、三角コーンとポールで簡易的なバリケードを張っているだけなので侵入は容易い。
「ボクも行く!」とついて来たコナンや蘭と園子も加え、ビニールハウスを調べに向かった。春木がここを通ったという証拠を発見するために。
・芳野真夜(42)
フランツ・リストを敬愛するピアニスト。かつての『カルデア探偵局』の依頼人。多くのアーティストたちとコラボしており、知名度も高い。
『横浜ロゼ・ガーデン』の園内放送でピアノを披露中に絞殺された。
ちなみに、夫婦の間に子供はおらず、20年ほど前にそれが原因で離婚も考えたこともあった。
名前の由来は紫の薔薇『真夜』
・芳野正雪(48)
真夜の夫で薔薇のブリーダー。副業で小さな学習塾を経営している。
交配の末に新しい青い薔薇『空の鐘』を作り出して一躍有名人になった。が、良くも悪くも真夜の知名度に左右されてあらぬ醜聞やら好き勝手メディアに書き立てられている。
芳野本人は特に気にしてはいないが、波風立てないようにと憤慨しない彼に真夜は腹を立てていた。
名前の由来は白い薔『正雪』
・敷島耕次(37)
関東地方を中心に音楽スタジオ等を展開している実業家。
新しく音楽教室のチェーン展開事業に着手するに当たり、講師をして真夜を誘ったがいらぬデマを吹聴して彼女を怒らせた。
大衆の噂を鵜呑みするタイプだが、根は小心者かと思われる。
名前の由来は白い薔薇『敷島(カイザリン・オーガスト・ビクトリア)』
・春木霞(23)
大学院生。かつては芳野の経営する塾に通っていた元教え子。
芳野の祝いに駆け付け、彼と同じ名前の薔薇で胸を飾るなど芳野を敬愛している。左手の薬指には銀のリングがある。
芳野が容疑者として疑われると、彼のアリバイを証言したが……犯人?
名前の由来はピンクの薔薇『春霞』
・貴船友弥(27)
パパラッチ紛いのゴシップ記者。神奈川県警の周囲をうろうろしておこぼれを拾おうとするなど、タチが悪い。
青い薔薇の取材を申し込んだはずだが、真夜に従順な夫の逆襲のような構図を撮ろうとして真夜を怒らせた。タチが悪い(大切なことなので二回言った)。
横溝警部(弟)と美女が焼鳥屋でサシ飲みしていた現場を目撃している。
名前の由来は赤い薔薇『貴船』
・尾花のぞみ(25)
『横浜ロゼ・ガーデン』の職員で、真夜の遺体の第一発見者。二本ある現場の鍵の内の一本を使用できる立場にある。
かつては天才少女と謳われたピアニストだったが、挫折が切っ掛けか才能の限界を感じたのか、消えるように音楽業界から遠ざかった。
真夜のことは知っていたが初対面とのこと。
名前の由来はピンクの薔薇『のぞみ』