『ホテル大森の底』の601号室は、きちんと掃除はされていたが建物の外観に恥じない内装であった。小五郎が冷蔵庫を開けてみると中身は空だ、ビールも入っていない。
ついでに、スマートフォンも圏外だった。不貞腐れて横になる。
「とんでもねーとこに来ちまったな!」
「納田さんは本当に冥婚をするつもりなのかな。結以子さんのために、白群さんたちを花婿にして」
「8年前に死んだ子が、一回会っただけの男をあの世に連れて行くなんてある訳ねえだろうが。娘の夢を叶えてやりたいっていう納田さんの気持ちは分らんでもないが」
5時から式が始まると言っていた。あと30分もないが、高所恐怖症と言っていた指原は六階まで来ることができるのだろうか。
あの様子では、エレベーターも無理をして乗っているように見えた。彼もまた、8年前の事件に傷を刻まれた被害者なのだろう。
「ボク、指原さんの様子を見てくるね」
「あのエレベーターには気をつけろよ」
「うん」
オンボロのエレベーターに乗り込んだコナンは、一階のボタンを押そうとするが高い場所にあって手が届かない。何度か飛び跳ねてみるが指先が掠るだけでボタンを押せない……と思ったら、横から伸びてきた白く細い指がボタンを押したのだ。
「一階でよろしいでしょうか」
「うん。ありがとう、グレイさん」
「いいえ。拙たちも一階へ向かうところでしたので」
「指原さんを迎えに行こうかと思ったんだ」
「ミャア」
コナンの代わりにボタンを押してくれたのは、エルメロイⅡ世の弟子という少女、グレイだった。彼女と立香も、プルートーを連れて指原を迎えに行こうとエレベーターに乗り込んだ。
円柱型の金属のボタンを押すが、鈍い音を立ててしばらく沈黙してからやっとエレベーターが動き出す。三階から六階へ昇る際も途中で止まりかけたりして随分と時間がかかったが、今回は比較的早めに到着した。随分揺れたので、足元がおぼつかない。
「暗い!」
「電球が切れているって言っていたもんね」
「気を付けてください、藤丸、さん」
「ミャー」
一階の廊下は真っ暗だった。電球が切れているだけではなく、廊下の窓を全て板で塞いでいるので外の光が入って来ないのだ。これら全部の窓が割れていると言うのか。
先頭を歩くプルートーと腕時計型ライトなどの灯りを頼りに104号室を探すと、部屋番号のプレートが割れて「04」しか残っていない部屋を発見した。
「指原さん。いますか、指原さん?」
「そろそろ時間だよ」
「ミャー」
「……ちょ、ちょっと遅れます。もうちょっと、心の準備ができてから向かいます」
ドアの向こうから聞こえて来た指原の声は弱々しかった。やはり憔悴しているようである。
結以子に謝るためにやって来たと言っていたが、彼女は本当に指原たちを恨んでいるのだろうか?
それとも、彼らを気に入っているからあの世に連れて行ってしまったのだろうか?
先にあの世に行ってしまった、合城のように。
「まだ無理みたいだね」
「大丈夫かな、指原さん」
「イッヒヒヒ! 怯えてるってことは疚しいことがあるってことだろ!」
「っ!? い、今、誰かの声が聞こえなかった?」
「え、え? 何か聞こえたの? 俺は聞こえなかったなー」
「ミャア」
今、口の悪い男性の声が聞こえた。だが、立香は聞こえないと言う……聞き間違いか。いや、まさか……。
「立香さんとグレイさんは、幽霊っていると思う?」
「もしかしたら、いるかもしれないね。コナン君はどう思う?」
「ボクはいないと思うな。幽霊が人を殺すこともない。だって、殺人を犯した犯人は、生きている人間なんだから」
「ええ、そうです。このホテルに、霊はいません」
グレイが呟いた言葉は、まるでコナンに優しく言い聞かせるかのような声色だった……ところで、マントの中で何やらガチャガチャ音がするが、一体何の音だろうか?
再びオンボロのエレベーターに乗って六階へ。調子が良いのか、揺れはしたが比較的スムーズに稼働して六階まで移動できた。避難経路図によると、エレベーターを降りて右へ向かえば結婚式が開かれる広間がある。
「指原はどうでしたか?」
「ちょっと時間がかかるみたいです」
「そうですか……」
「白群さん。このまま式が始まれば、あなたは死者の伴侶となってしまうが」
「それはちょっと。結以子さんだって、僕みたいな男が夫になるなんて嫌だろうし……僕も、彼女に頭を下げます」
時刻はそろそろ5時になる。
結婚式が開かれる広間の前には、エドモンとエルメロイⅡ世に付き添われた白群がいた。彼を結以子の花婿にしないために、納田を止めなければならない。それと同時に、彼と指原の不安を解消するために、合城の死の真相を暴かなくてはならないとエレベーターの中で立香が語っていた。
部屋から出て来た小五郎と合流し、一行は広間の扉を開けて結婚式場へと足を踏み入れる……入り口から真っ直ぐ伸びる、紅色の絨毯のヴァージンロードが彼らを出迎えた。
ヴァージンロードの先には、真っ白なテーブルクロスが敷かれた長机がある。古びたぬいぐるみにランドセル、お菓子、18年前が作り年のワイン、点字の本と幼い少女の写真が並んでいる。その真ん中にはイーゼルに置かれた巨大な油絵……写真で見た、花嫁姿の結以子の絵があったのだ。
それはまるで、故人を弔うための祭壇のようだった。
「あの絵……やっぱり、あれが結以子さんだったのか」
「そう。あれは18歳の結以子ちゃんよ」
「うわぁ!?」
「ど、どちら様ですか?」
「あの絵を描いた者です」
広間には先客がいた。参列者用に用意されたパイプ椅子に座っていたのは、腰の曲がった背の低い老婆だった。
「絵を……画家の方、ですか?」
「そんな大層なモンじゃなくてね、ただ趣味が多いだけなのよ。絵も描くし裁縫もするし。廣上さんを通じて納田さんから、亡くなった娘さんが18歳になった花嫁姿の絵を描いて欲しいって言われてちょっとびっくりしたけど、まさか結婚式を挙げちゃうなんてねぇ」
「……あ! あの白杖、もしかしてあの日の」
テーブルの上に飾られた故人に縁のある品の中に、一本の折れた白杖があった。これは事故の日に白群たちが補強し、階段から落ちて亡くなった結以子の側に落ちていた遺品だった。
白いガムテープで補強された部分がポッキリと折れてしまい、踏まれたのか足跡の汚れがこびりついている。持ち手の部分には、指原が貼ってあげたというキラキラしたシールが貼ってあったはずだが、踏まれて剥がれてしまったようだ。ゴミが付着した糊の部分しか残っていない。
飾られた写真に写る結以子は、手束が描いた絵に面影が残っている。唇をポツンと飾るホクロがしっかり描かれていた。
「やっぱり、あの日の白杖だ……曲がったところから、ポッキリ折れちゃってる」
「酷いでしょう。白杖だけではなく、結以子も同じ目にあったんですよ」
「な、納田さん……」
モーニング姿で、花嫁の父となった納田が広間にやって来た。結婚式が始まるのだ。
「指原君がまだ来ていないな。勘次、呼んで来てくれ」
「内線をかけてみる。ちょっと待っててくれ」
「納田さん。8年前のことは、僕も指原も謝ります! どんなことをしても償います……」
「謝るということは、結以子を置き去りにした罪悪感があるということか。そうだ、お前たちが最後まで結以子の手を引いていれば、あの子は死ぬことはなかったんだ!」
「それは逆恨みだ。彼らはショッピングモールの職員に結以子さんを送り届けている。それで役目を果たしている」
「お前に何が分かる! どんなことをしても償うと言うのなら、結以子の伴侶となってあの子に尽くせ……結以子だって喜んでいるはずさ。既に1人を連れて行っているのだから!」
エドモンの言葉に納田は激しく嚙みついた。彼は、結以子の絵――幻の花嫁を描いた冥婚絵の隣に、額に入った婚姻届けを並べる。
妻になる人の名には結以子の名が書かれていた。夫になる人の名には、欄も何もかもを無視して「合城庄太」「指原環稀」「白群空也」の3人の名前が書かれている。
「……彼らに、復讐でもしているつもりか」
「いいえ。これは、父親としての義務だ。花嫁になる娘の手を引いてヴァージンロードを歩き、花婿へと送り届ける。でも、これは逆か。私が、結以子の元へ花婿を送り届けているようなものか……さあ、皆さん拍手を!」
「あああぁぁぁぁぁぁっ!!?」
ぐしゃ――
納田の声を遮るような悲鳴と、卵が潰れるような音が遠くから耳を劈いた。
今の声、指原では……?
「指原!?」
「どうした、今の声は?」
「勘次、指原君は?」
「さっき内線電話をして、すぐに切られたけど……」
「……まさか」
広間から飛び出たエドモンが廊下の窓を開けて外を見下ろした。隣に並んだコナンも窓枠に登って下を覗き込めば……頭から血を飛び散らせた指原が、遥か下の地面に横たわっていたのだ。
「ささ、指原!!?」
「何っ!?」
「一階だ!」
「う、嘘だろ……指原、死んでる……?」
「レディ、君は白群さんについていてくれ!」
「はい!」
コナンがエレベーターに飛び乗って一階のボタンを押すと、小五郎やエドモンを始めとした探偵たちも飛び乗った。腰が抜けて座り込んでしまった白群をグレイに任せ、エルメロイⅡ世や立香も滑り込む。慌てて走り出した廣上を最後に乗せて、ちょっと重量の多くなったエレベーターは探偵たちの焦りを嘲笑うかのようにたっぷり時間をかけて一階へと到着した。
真っ暗な廊下から手探りで非常口を探し出す。ここから鍵を開けて外に出ようとしたが、一階の非常口は内側から板が打ち付けられて開かなくなっていたのだ。
「非常口が塞がれている?!」
「鍵が壊れてしまって。防犯のために、内側と外側から板で塞いでいます」
「どうすれば指原さんが落ちた場所に行けますか?」
「フロントを出た脇に階段があります」
「今度は三階か!」
急ぎエレベーターに戻り、時間をかけて三階へと昇り廣上に教えられた階段を下りて指原へと駆け寄った……既に脈は止まり、呼吸は途絶えている。
頭が割れ、肩がおかしい方向に曲がった指原の遺体は、恐怖に慄いて両目を見開いていた。
「駄目だ、亡くなっている」
「非常口の扉が開いている。あそこは七階か」
「……何故だ」
「ミャア」
見上げると、『ホテル大森の底』の七階の非常口の扉がギイギイと音を立てながら揺れていた。どうやら、指原はあそこから飛び降りたようだ。
本来ならば非常階段に続いているはずの扉は、開いた者を奈落の底へと誘うあの世への扉となっていたのである。
『何故?』
エルメロイⅡ世と同じく、コナンの脳裏にもその言葉が遮った。
何故、飛び降りた?
何故、六階の客室も躊躇するほどの高所恐怖症の指原が、七階の非常口から飛び降りたのだ?
I can’t fly.