George Gregory 拙作集 作:George Gregory
『その鋏は、あらゆる想いを断つ』
そんな都市伝説じみた噂が流れている理髪師がいるという。風変わりな彼はなんでも自転車に乗って各地を思うままに放浪し、様々な人の髪を無償で切っては去っていくという。そんな彼が今、この町にいると知り、やってきた一人の女性。長く艶やかな烏羽色をした彼女は、とある想いを断ち切る為に、彼の元を訪れていた。
「如何致しますかな、お嬢さん」
彼は思っていたより歳を取っていた。ロマンスグレー、というのが実にしっくりと来る、携えた立派な髭が特徴的な彼。自転車というのも随分とレトロな、明治や大正を感じさせる旧式であった。それを後押しするのが彼の佇まいである。比喩的な意味でなく、彼は執事然とした風貌をしている。燕尾服にアスコットタイ。どこからともなくコーヒーやスコーンでも取り出してくれそうな気さえする。
閑話休題。椅子に腰掛け、布を巻かれ、鏡を見せられ、彼は落ち着いた声でそう尋ねた。
「ほぅ。貴女の恋心を、断ち切って欲しい」
彼女の心には、とある男性の姿があった。小さな靴屋。親に決められた結婚相手が嫌で逃げ出したあの日、壊れてしまったヒールをなおしてくれた彼の笑顔に、彼女は心を奪われた。しかし、彼と彼女はあまりに身分が違った。跡取りたる人物との婚約を“生きる理由”の一つとされていた彼女にとって、彼への想いは蝕む毒に他ならなかった。
許されざる、しかし振り切れぬ想い。そんな矢先にこの噂。一も二もなく、彼女は縋った。
「畏まりました。今しばらくお時間をいただきます。どうぞ、身をお任せ下さいませ」
取り出したのは銀色の鋏。綺麗に磨かれたそれは鏡面のように白銀を照り返していた。やがて、そっと髪をかき分ける切っ先。優しくそっと、髪の切れる音が鼓膜を擽る。心地よかった。そして、髪が切り落とされていく度に、彼女は心が軽くなっていくような感覚を覚えた。余りの心地よさに、段々と瞼が重くなっていく。
「構いませんぞ。どうぞ、安らかにくつろいで頂いて」
その言葉を皮切りに、彼女は睡魔に身を任せた。体がゆるりと沈んでいくように、四肢から力を抜く。瞬間、心をよぎるのは。
(あぁ、貴方を忘れてしまう私を、お許し下さいませ……)
そんな、淡くほろ苦い思い出の数々であった。
「終わりましたぞ、お嬢様」
自分を揺さぶる振 動に、彼女は目を覚ます。そして。
「如何ですかな? お気に召されましたでしょうか?」
鏡の中に写る自分の髪は、肩口で切りそろえられたボブカット。そこには深窓の令嬢ではなく、一人の女の子がいた。
「ご要望通り、貴方の忘れたい想いは断ち切られました。お代は要りません。後は貴女のご自由に」
それは、咲き誇る華のように可憐な笑顔であった。
布を取られ、椅子から立ち上がり、彼女の足が向いたのは、あの靴屋への道。駆け出す足取りはあまりに軽く、彼女は自分に羽が生えたのでは、と錯覚を覚えるほどであった。
「確かに断ち切りましたぞ、貴女の本当の未練」
彼は今日もどこかで、誰かの髪を切っている。