(待て、待て!
カエデ、一旦落ち着きましょう)
此度の小話の主人公のひとり、チョロインこと五十嵐カエデは、タカトシがいるであろう2‐B教室の手前で立ち止まった。
早く返事をしなければ! なんて勢いよく進んできたものの。
考えてみれば、朝のホームルームも近い時間。
教室からは何人もの生徒の、話し声や笑い声が聴こえてくる。
そんななかで愛の告白とは――ハードルが高い気がする。いや、現実に高過ぎるだろう。
そして、
きっとそれはタカトシにとっても本意ではあるい。
(焦らない、焦らない……
まだ時間はたっぷりあるんだから)
タカトシとカエデは、見ず知らずの赤の他人ではない。
ここ桜才の先輩と後輩。共通の友人を何人も持ち、連絡先も交換済み。
加えるに、相思相愛の仲らしいのだ。
そんな二人に、今日や明日などの些細な時間なんて関係がない。
返事をするのは、別にいますぐ、でなくても良いのだ。タカトシがカエデを好きでいてくれているならば。
そう考えて、カエデは踵を返した。
心に余裕が出たからか? 表情は赤らんでいるものの、笑みさえ見られる。
すぐにタカトシの顔を見られないのは残念だが……たぶんこれから何度も見るのだ。楽しみは後に取っておいても、問題はない。
「ふふふ……」
無意識に笑いが漏れる。
口元の弛みを抑えられない。
すぐにでも走り出して、大声で、この気持ちを吐き出したい。
そういう欲求は、流石に抑えてはいる。ただカエデの心中は、いまや津田タカトシという人物への気持ちで燃え上がっていた。
程なくして自分の教室に着くカエデ。
生徒の姿はまばらだ。もうすぐホームルームが始まるというのに。
それもそうか。
卒業生たちはこの時季、専ら自由登校になる。午後の卒業式のリハーサルには多くが参加するだろうが、自由登校なのに、律儀に朝から登校する生徒は少ない。
カエデの教室も、いるのは半数ほど。
いまいるのは、みな部活動や委員会の最後の引継ぎを行うため。また、友人との最後の絡みをするために集まったようなものである。
「おはよう、五十嵐さん――どうしたの、嬉しそうな顔して?」
「ふふ。なんでもないよ」
教室に入るなり、常とは違った表情をするカエデに、クラスメイトが声をかける。
それを軽くあしらって、席に着いた。
時計を見れば、あとほんの数分でホームルームが始まる。
そのあとは、卒業式のリハーサルまで自由時間。いまさら勉強もなにもないだろう。
カエデは当初、風紀委員や所属していたコーラス部員との別れに時間を割くためこの時間に来ていたのだが――残念、タカトシとのあれこれに思考の大半を占拠された彼女には、世話になった委員や部活のことは、既に念頭になかった。
席に座った後で、誰にも見られぬよう、机の下で件の手紙をそっと広げる。
『ずっと好きでした。お付き合いして下さい』
そんな内容で前半を埋める、タカトシからの手紙。
まだまだ最後まで読んではいない。読めば読むほど、カエデの方が恥ずかしくなるような言葉が書き連ねてあるからだ。
どこに他人の目があるか分からぬ学校の中。その手紙を読んで、喜びに悶える姿を見られるのは、できれば避けたい。
――でも、繰り返し読まずにはいられなかった。人生で初めてもらった
彼女の尋常ならぬ様子に、周りのクラスメイトは目を見張ったものだが。
なんとなく事情を察し、話し掛けるものはなかった。カエデのクラスメイトは、実に気配りのできる面々らしかった。
「分かっているとは思いますが、3月31日までは、皆さんは当校の生徒です。ハメを外しすぎて、大学や就職に影響が出ないよう、慎んだ行動を心掛け――」
じきに始まったホームルームも、カエデは上の空。
一応は視線を手紙から外し、担任の教師を向いてはいるが。
頭の中は、タカトシとのこれからを妄想していた。
そこで、はた、と。思考が停止しそうになった。
先ほどまでの紅潮した顔色が、途端に青くなる。
五十嵐カエデの進路は、大学。
受かったのは本命の国立の女子大。進学校である桜才の、学年三位の実力とはいえ、決して安全圏でない大学。
次いで、第二志望の私立の女子大。こちらも卒業するだけで箔が作く、有名校である。入試で確かな手応えがあり、早々に合格通知が来た大学だ。
あとは滑り止め。そこそこ有名ではあるけれど、前述のふたつに比べるとやや格の落ちる大学。そこは推薦で入学を確実にしていた。
第二志望の合格通知が家に届いたとき、カエデも、両親も喜んだ。
本命の国立大の試験が奮わなかったと自覚していたカエデは、『もうここで良い』なんて思っていた。
事実、住む場所までほとんど決めていたのだ。
そこは自宅から通うには遠すぎるキャンパス。しかし男子禁制の、門限に厳しく、格安な寮がある。
男性恐怖症を患う身にとっては、この上ない好条件に見えた。
既に姉を大学に送り出していた両親も、その決定を少なからず喜んでくれた。
もし本命が受からず、そこに決めていたら――タカトシとの時間が、大幅に制限されていたに違いない。
両想いだから大丈夫、なんて高を括っている間に、手軽に会える身近な女性に乗り換えられる。
タカトシに限ってそんなことはない?
いや、そもそもにして、タカトシが恋文を贈ってくること自体が、彼女にとってみればありえなかった。
なら、そういう事態が起こったとして、なんら不思議でない。
(本命に受かっていて、良かった――!)
蒼白になった表情を、すぐに赤に戻す。目尻には、ほんの少しだけ、涙の粒を溜めている。
つい数日前までの、お堅い元風紀委員長の姿は、最早微塵も感じられなかった。
いまのカエデを無理矢理に例えるなら。
生まれついての盲人が、急に視力を得たように。
人生のほとんどの期間を無音で過ごした聾唖が、突然音を取り戻したように。
恋、なんて未知の感覚が、怒濤のように押し寄せて来ている。
カエデはいま、人生の中で、少なくとも自覚できる限り最高の瞬間を味わっていた。
「――では、卒業まで思い残すことのないように」
いつの間にか終わっていた担任の話。
次いで『起立、礼、着席』なんて聴かれる日直の声。
話を全く聞いていなかったカエデは、慌てて、一拍子遅れながらも礼をした。
こうして、その日のホームルームは終わったのだ。
「――ねえねえ、五十嵐さん。何か良いことあったのぉ?」
「そうだよ。センセイの話も全然聞いてなかったでしょ。
キャーッ、なんて言いながら、カエデの下に集まるクラスメイトたち。
(そ、そんなに分かりやすく顔に出ていたかしら)
いつもの、数ヵ月前のカエデなら『話はきちんと聴く、余所見をしない!』なんて言っていたかもしれない。
ただ今日ばかりは、カエデ自身も話を聞いていなかったのだから、そんなお叱りができようはずもなく。
「べつに。なんにもないよ?」
と、真面目ないつもの凛とした表情を装って応えた。
でも残念。
自分なりに口元を引き締め、きりりとしていたはずの表情は。
端からすれば、頬を赤らめさせ――口はだらしなく弛み――にこにこと眼を笑わせている――恋する乙女に見えていた。
「え、まじまじ? 五十嵐さん、どこの子? 誰? 教えてよ!」
「もしかして天草さん? 委員のときはいっつも絡んでたもんね、なに、ふたりはデキてたの?」
カエデの席の周りで、ワイワイと的外れな予想を口にして盛り上がるクラスメイト。
やはりカエデが、男とあれこれ、なんて光景は思い浮かばないらしい。
そして。
いつもならそんな発言に対し、激しく注意をする姿も見られない。当の本人は、顔全体の筋肉が退化したかのように、ヘラヘラと笑うだけだ。
これはなにかありました、と自白しているに等しい。
クラスメイトたちはカエデの周りに集まって、あれやこれやと好き放題に言う。
どうせ午後のリハーサルまでは暇なのだ。
各人が委員や部活、恩師や後輩への挨拶回りするのも忘れて、ひたすらにカエデへ質問を浴びせる。
カエデはまんざらでもなさそうに、のらりくらりと返事をする。
卒業を間近に控えた和やかな雰囲気が、教室の一角に漂っていた。
しかし。
「五十嵐さーん! お客さんだよ」
不意に聴かれる、自分を呼ぶ声。
カエデは何の気なしに『はーい』なんて返事をしながら、教室の入口へと向かった。
やいのやいのとかしましいクラスメイトを置き去りにして。
未だに弛んだ顔の筋肉を引き締めることもしないまま。
すっかりとだらしない笑顔で迎えた客人は――
「……随分と嬉しそうだな、五十嵐」
背後に、逆鱗に触れられた龍を背負っているかのような、憤怒の顔の元生徒会会長の天草シノと。
「ナニがあったか、詳しく教えてもらえるかしら?」
一見して笑顔であるが、尾を踏まれた虎のような雰囲気を漂わせる、話を聞いて急ぎ合流した、元生徒会書記の七条アリア。
それに。
「…………」
無言で諸手を合わせ、頭を下げる――元新聞部部長、畑ランコの姿があった。
このあと『転』『結』と続きます。
お付き合いできる方は、もうしばらくお待ち下さいm(_ _)m