結婚前夜 LASt Night ~貞本エヴァより 作:しゅとるむ
「ごめんね、結婚式前夜なんかに約束させて……でもこういう風に逢えるのはもうこれが最後だから」
高級ホテルの一室で、いかにも式や披露宴の出席者風に見える赤いモックネックのドレスに身を包んだアスカは、ダークスーツをようやく脱いでYシャツ姿になってくつろぐシンジに向かって言った。
「しかも、誰かに見られるのはまずいから、知り合いを見かける度に陰に隠れてやり過ごしたりで、うんと遅くなっちゃった……」
ちょっとした
「僕も逢わなくちゃと思ってたし、連絡くれて良かった。……アスカだって色々忙しかったんじゃないの?」
「まあね。でも……あたしたち、ちゃんとこの関係を精算しないと、人生、先には進めないよ。きっと引きずっちゃう。だから、ちゃんとしなくっちゃ、ね?」
あえて明るい表情を作って、アスカはこのシンジとの最後の逢瀬を迎えている。
─あんた、明日結婚するんでしょ?だったら今晩、こんな不道徳な関係には決着を付けなくちゃ。アスカは優しく諭すように言うのだ。
そう、アスカとシンジにはずっと身体の関係があった。いや、身体の関係だけだとさえ言えた。しかし、そんな関係ももはや終わりを迎える。明日、人生の転機がやってくる。もう今までの二人では居られなかった。
「あたしは加持さんが好き。あんたは綾波レイが好き。……でも人類補完計画を阻止して、生き残ったあたしたちの前には、その二人はもう居なかった」
二人にとっては自明の話だが、まずそこから二人の想いを解きほぐしていく。
「うん……だからこんな関係を求めちゃったんだよね……」
エヴァに乗って戦い続ければ、苦しくてもその先には明るい未来があると信じていた。シンジはアスカを量産型エヴァの包囲から救い、返す刀で、補完計画さえ阻止した。それで、全てが美しくめでたしめでたしと終わる……とはならなかった。
だって、シンジが一番好きな人も、アスカが一番好きな人も、もうこの世には存在しなかったから。二度と会うことも、抱きしめることも、思いを伝えることさえも最早出来なかったから。
それで二人の想いは行き先を喪い、漂ってしまっていた。その後、ネルフの後援もあって、二人は同じ高校に通った。使徒もエヴァもなくなった凡庸で退屈な日々を二人は緩慢にやり過ごしながら、いつも心の中に何かが、誰かの存在が、欠けていると感じていた。
いつからだろう、そんなそれぞれの虚しさと寂しさを埋めるために、今、生きている人間の中ではもっとも近しい存在である互いを……互いの身体を利用することを始めたのは。その浅ましい求め合いは、互いを一層傷付けるだけだと分かっても良かった筈なのに。しかし、二人はそうやって求め合ってしまった。
「ねえ、あんた……エッチってしたことある?」
そう。確か、高校一年生の時、そんな風にアスカの方からシンジを誘ったのだったか。もちろん、シンジにもそんな経験はなく、誘ったアスカにだってなかった。だからその時の誘惑は、背伸びをするように痛々しく、そして、アスカにとっては物理的な痛みさえ伴うものであった。
シンジはなぜ誘いに乗ったのか。
「代わりが欲しかったんだ。アスカを綾波の代わりにしてたんだ。僕は、卑劣だったし、卑怯だった」
アスカはなぜシンジを誘ったのか。
「それはあたしもおあいこ。永遠に加持さんに抱きしめて貰えないからあんたで妥協してた。あんたに抱かれながら、加持さんの名前を呼んだ事もあったかも知れない。別に謝らないよ……そういうの、もう今日で終わりになるんだし」
そう。高校から続けてきたそんなお互いを利用しあうだけの関係は大学、就職を経て、遂に今日で終わる。長い期間だった。長く間違え過ぎてきた、二人の道のりだった。
だからこうして二人は今晩、ホテルで隠れるように逢瀬を持った。明日このホテルで開催される結婚式の参列者たちに見られる訳には行かない。しかし、そのリスクを犯してなお、お互いの気持ちの中に残る、引っ張り続けている想いにさよならを告げるための最後の夜が必要だった。そのための最後の逢瀬だった。
「確かにそうだね。本当はもっと早く訣別が必要だった。それなのにこんなにまで引っ張ってしまって……悪かったよ、ごめん、アスカ」
本当に、もっと早く区切りを付けて置くべきだったのだ。こんな結婚式の前日にまで引っ張って良いことではなかった。
「お互いに狡かったわよね。相手の気持ちが他人に向いてるのに、お互いを利用して。情欲に溺れれば、寂しさがなくなるかと思ってた。手近にあんたがいたから都合よく利用した」
勿論、そんなものでは決して二人は救われなかった。だけど、楽にはなれた。どんなに大切な想いであっても、代わりになれそうなものを見つけられるのだ、と悟れた。そういう大人ぶった小賢しさの裏付けを二人はその関係の中で手に入れる事が出来たのだ。でも、それはあくまでも代わりに過ぎないのであって。そんな関係をいつまでもだらだらと続けて良いはずが無かったのだ。
「でも手遅れになる前に気付けて良かったよ」
「うん。ね……、あんたは幸せになれそう?」
アスカは恐る恐る、シンジの表情を伺うようにして尋ねる。シンジがちゃんと幸せになれるのか、それはアスカにとって今一番、気掛かりな事柄だった。シンジがちゃんと幸せになってくれないのであれば、アスカだって自分自身の幸せには足を踏み出せる筈がなかった。
「分からない。でも幸せになるために努力しなくちゃ、そう思ってるよ。」
その言葉にはシンジの成長がしっかりと感じられた。いつも世の中に対して斜に構え、どこか人生に投げやりだった少年が、自分の幸せのために努力をすると言っている。それには当然、少年のパートナーとなる女性の幸せへの努力も含まれているのだろう。シンジは自分や他人を思いやれるようになったのだ。
─よかった、よかったね。シンジ、ちゃんと大人になったね。安心したよ。これであたしも安心して前に踏み出せる。
「そうだね。人間、みんな幸せになるために生まれてきたんだから。……しっかりやんなさい」
アスカはシンジの背中を叩いた。もうこんな風にシンジを励ますことはないかもしれない、と思うと少しだけ寂しくなる。
二人は、それぞれの想いを卒業して、お互いをその実らなかった想いの代替物として利用する欺瞞も捨てる。二人はもう、それぞれにとっての新しい想い、新しい相手を見つけていたから。
「今まで、ありがとう。アスカ。今までごめん、アスカ」
「あたしはあんたには御礼も謝罪も言わないわよ。それより最後に一回だけ」
とダブルベッドを見る。
「もう一度だけ……しよう。それでお互いの中にある未練を断ち切ろう。そうすれば、きっとそれぞれ、幸せになれるわよ」
「うん、そうだね、アスカ……幸せに」
「シンジ。今までありがとう……」
◆
「アスカっ、アスカっ、アスカっ……」
シンジの荒い吐息はひたすらに腕の中に抱きすくめ、身体の下に組み敷いている女の名前を呼ぶ。
全てが明日から変わってしまう。シンジの中にはもはや未練はない。踏ん切りはつけている。ただ、明日からは違う人を愛するようになるだけだ。本当はもっと早くそうするべきだったのだ。結婚を決めたその時にでも。それなのに、こんな想いを抱えたままでアスカとの紛い物のような関係を続けてしまった。そんなの、アスカにとってもしんどいだけなのに。アスカにとって失礼で残酷なだけなのに。
「シンジ……シンジ、シンジぃ!」
上に乗っているシンジの律動がアスカの内奥に突き進んでは後退する。アスカの入り口が熱を帯びて、シンジに与えられる快楽を受動する。
シンジと同じように、アスカもまたこの交わりを以て、今までの想いを捨てていく。明日からは別の人を愛する事が出来るようになると確信している。思えば、シンジを誰かの代わりにするのは無理があることだった。シンジは加持さんと全然似てない。似てないけれど、シンジ自身を愛する事は出来たのだ。アスカはもっと早くにその事に気づくべきだったのだ。
やがて、二人の快感が頂上へと到達し、それから脳内に閃光のように
アスカとシンジの初めての恋が、こうして終わろうとしている。明日からはきちんと別の相手を愛するのだ。アスカはシンジにむずがるように頬をすり寄せた。シンジはまだアスカと繋がったままであることを意識しながら、アスカを抱き寄せて、唇を奪った。
◆
時計の針が、遂に零時を回った。
日付が変わったことに気付いたアスカが、魔法の解けたシンデレラのような心持ちで、シンジの胸の中に埋めていた顔を上げる。
「……もう、明日になっちゃったね」
「うん。……これで昨日までの僕らの関係も終わりだ」
「綾波レイのこと、ちゃんと吹っ切れた?」
「うん……もう大丈夫だよ」
「ほんとぉにぃ?」
「綾波とは、元々、単に、好きだとか付き合いたいとか、そんな簡単な言葉じゃ言い表せない、どこか遠い昔に引き裂かれた自分自身の一部のような気がしていて」
要するに、母親のクローンだったんでしょ、などとアスカは混ぜっ返したりはしない。きっとシンジの綾波レイへの想いは、そんな事ではなくて、やっぱり純粋にひとりの女の子に対する想いでも、あったわけで。
「だから、好きとか付き合いたいとか、そういうのはこれまでアスカで満たされてたし……だから綾波からは卒業できると思う。アスカも加持さんのことは……?」
「ええ、それはもう昨日限りの想いだから。もうあたしには新しい相手がいるんだから」
その新しい相手は、加持リョウジに比べれば幾分子供っぽい相手かも知れない。アスカと同い年なのだから。でも、加持リョウジはもう決して歳を重ねることはないのだから、アスカとその相手はいつか追い付いていく。加持を追い越して大人になっていける筈だ。
「そうだね……」
二人はベッドの上で身体を起こす。シンジは少し寂しげに笑って俯く。
「ちょっと……何よその薄い反応。新しい相手、当然あんたの事なんだけど。ちゃんと、わかってるの」
「あ、当たり前じゃないか!」
二人はお互いをかつての初恋の想い人の代わりにするのを止めようと決めたのだった。お互いを冒涜し、傷付ける虚しい交わりを捨てて、ちゃんと、長い間にわたり交わり続けてきた、リアルなお互いを新しい恋の相手にしよう、と。そう決意して交際を仕切り直して、およそ一年。
いよいよ二人、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーは明日、ゴールインする。
でも、その前に二人はどうしても、過去の想いに別れを告げ、またお互いを代替物にし続けてきた誤った関係に終止符を打つ必要があった。
なぜなら、二人は誰かの代わりではなく、お互いにとって、掛け替えのない夫と妻になるのだから。
「ったく、初恋の相手のことを引きずり続けると新婚生活に支障があると思って、式の前日で忙しい合間を縫って、逢うことにしたのに!……まだ自信が持てないのかしら、シンジは」
新郎新婦の式前日の婚前交渉など、あまりみっともいいものではない、だからアスカはわざわざ出席者風のドレスで目立たぬよう「変装」し、シンジの部屋に忍んできたのだった。それなのにシンジと来たら。
「だって、ライバルはあの加持さんだからね。対抗するのは大変だよ」
と、シンジは頬を掻いた。それにいくら頑張っても初恋の人─それも亡くなった人には勝てないのではないか、という想いもなくはない。それがつい、寂しげな笑みになった。
「そうでもないわよ、最近のあんたは結構かっこいいんだから」
「えっ」
「そう何度もは言わないわよ。でも、ちゃんとかっこいい。もしかしたら、加持さんよりも。あたしにとっては、だけど」
「ちょっと恋人としての欲目が過ぎるんじゃない?」
「……ばか。茶化すな。どんくさいわりにはよくがんばってるって言ってるのよ。欲目じゃなくて、ハードルを下げてやってるの!」
シンジの頭を軽くはたくと、アスカは言葉を続けた。
「結婚を決める過程で、あんたが、今までの間違った付き合い方を
間違った関係に誘ったのはアスカで、その関係を糺そうと声を上げたのはシンジだった。まるで女から声を掛けて失敗して、もう一度やり直す事になった、古事記の中のイザナギとイザナミの国生みの神話みたいな話だが、シンジが男らしく、真っ当な男女関係をリードしようとしてくれたことはアスカにとって本当に驚くべき嬉しい誤算だった。お互いを誰かの代わりにするのではなく、お互い同士とちゃんと向き合おうと言ってくれたのは、アスカの心を今でもドキリと疼かせる、シンジ一生の大金星みたいな振る舞いだろう。
「……だって、アスカのこといつの間にか好きになってたからね。誰かに取られたりはしたくなかった」
「やっぱりシンジは大人になったよね」
昔から少しひねくれていて、すかした奴だったが、それだけに自分の弱みや感情をさらけ出すような本音を見せた事はあまり無かった気がする。だから、コイツの方から、さらっと好きと言ってくるなんて、とアスカは感慨深い。
「エヴァに乗った僕らなんだ……いつまでも子供ではいられないよ。それこそ、生き残れなかった加持さんや綾波、トウジたちに顔向け出来ない。加持さんが昔言ったんだ、加持さんとミサトさん、それに僕は幸せになってはいけない運命なんだって」
「えっ、加持さんが……そんな事を?」
加持リョウジは弟の、葛城ミサトは父の、碇シンジは親友であるトウジの死に責任を負っている。その事を加持は指摘していた。誰かの死に責任を負っている人間が幸せになってはいけない、と。
「その言葉がさ、自分の胸の中にはいつまでもわだかまっていてさ。加持さんはトウジを見殺しにした自分を決して許すなと言っていたんだと思う。でももし僕が、その幸せになってはいけない戒めを破るのなら、いっそ、中途半端な幸せでは許さないってそう、言ってるんじゃないかって。そんな風に僕は勝手に解釈してる」
シンジは照れくさそうに鼻を掻いた。
「まあ、そうとでも解釈しないと、結婚できないしね……」
「うん……加持さんも絶対シンジに幸せになっちゃいけないなんて言ってたんじゃないと思うよ。鈴原だってそんな事を望んではいない筈だよ」
「─だから、アスカなんだよね」
「え?」
「中途半端でない幸せを手に入れるには、相手はアスカしか思い付かなかった。もう綾波が居ないからじゃないよ。今、綾波がここにいても、僕はアスカを選ぶ」
「……あ、ありがとう」
アスカは頬を染めて、俯いた。
「だから精一杯、幸せになろう。幸せになるための努力をしよう。僕らにはその義務がある」
「うん」
「僕はアスカがいつも笑ってくれる毎日を作りたいんだ。そうすれば僕も幸せになれるから。アスカの笑顔が好きだから」
「あたしもだよ─」
「ん?」
「あたしも、シンジが笑ってるのが好き。だから笑いの絶えない家族を作ろうよ。あたしも、そんなに怒らないようにするし」
アスカが怒らないようにする─それはなかなか難しいだろうな、とシンジが鹿爪らしい顔をして考え込んだので、アスカはこらと頭を小突く。
「ま、怒りたい事があっても、あんたがいつもそばにいるのなら、なんとかなる。だって、あんたはあたしのストレス解消の相手にぴったりだから─。これからも引き続き、かわいがってあげるわよ」
「……ま、お手柔らかに頼むよ」
頭を掻きながら、そうだ、とシンジはアスカに尋ねる。
「そういえば、今晩はこのまま泊まっていくの?」
「そうだ、明日は早いんだった。4時起きだから」
「えっ、何でそんなに早く起きるの……もうお互いに準備は終わってるでしょ?」
「ふん、新婦はね、着付けとか髪のセットとかで朝早くから準備があるの!だから4時起きよ。どうせあんたは7時ぐらいまで寝てるんでしょ。ったく、いいわよねー、新郎は楽チンで!」
「そうなんだ、大変だな……でもそれって、僕のせいかな」
女性の準備が大変なのは、男性のせいなのだろうか?とシンジは素朴に疑問を持つ。
「あんたのせいに決まってるでしょ。あんたの花嫁になるんだから。あんたの為に綺麗になるんだから。あたしはそこらのバカな女たちのように披露宴で、新郎をないがしろにしてはしゃいだりはしないわよ。ずっと式や宴の間も、あんたの顔を見ている。よく女が主役とか言うけど、花嫁のコスプレ大会じゃないんだからね!花婿だって重要なのよ!しかも、このあたし、惣流・アスカ・ラングレーの花婿なんだから!」
「ハイハイ、そりゃ光栄だね……」
適当にアスカをいなして、シンジはもう一度確認する。
「で、結局、泊まっていくの?行かないの?」
「泊まる。朝が早いけど、もう一回だけ、する。さっきまでとは違う。想いを断ち切るためのセックスじゃなくて、今度こそあんたの事だけを考えながら、したい」
頬を紅潮させながら妙にしおらしく宣言するから、シンジはちょっとだけ混ぜっ返して見たくなる。
「……ちょっとエッチし過ぎじゃない?さっきだって一回で終わった訳じゃなかったんだから。明日の式や宴に差し支えるのは控えたいな。そもそも明日こそ初夜なんだし」
と言っても、こんな調子なら初夜だからという特別な感慨はもはや、期待できなさそうだけど─
「そんぐらい、まだ出来るでしょうが!若いんだから!」
「男と女じゃ、違うんだけどなぁ……」
やれやれと─シンジは嘆息しながら、それでもベッドの上で、アスカを抱き寄せ、押し倒す。
「きゃっ……」
「したいんでしょ?こちらは準備は出来てるから」
「えっ……まさかぁ……あら、本当だ。もう元気……♡」
シンジの下腹に手をやったアスカは驚きと歓喜を表情に浮かべる。
「見くびらないでよ。アスカを幸せにするって言っただろ」
「ま、これも確かに幸せだけど。うちの旦那になる人は、結構、エロいなぁ♡」
「もう、返品は受け付けてないよ」
シンジはそう言って、アスカに覆い被さっていった。二人の足と足が、交互に絡み合い、唇と唇が触れあう。また夜の時間が始まる。
─そして、明日になったら、二人は夫婦になる。