翌日、朝……。
まだ誰も登校してきていない早朝の教室に、予想通り圭一の姿があった。
今回もまた登校中に白いワゴン車に当て逃げされそうになったと思いこんだのだろう、田んぼに一人で勝手に転がりこんでドロまみれの圭一は、必死の形相で教室のロッカーを漁っていた。きっと身を守るための武器を探しているのだ。
そして彼は……『それ』を見つけてしまう。
「……そのバット、なくさないでくださいね、です」
私の声におおげさに驚いたらしい圭一がハッとした表情で振り向いた。私の姿を視界に認めると、今にも泣き出しそうな顔で弱々しい
「なんだ、梨花ちゃんか……」
「……おはようございますです」
やはりもうダメなのか……圭一はこんなにも怯えている。その様子は明らかに異常だった。病魔によって過敏になり過ぎた神経は、病状の重さに比例しているのだ。
しかし一つだけ確認できたことがある。圭一はまだ、魅音とレナほどには私のことを恐れていない。それはたぶん私が彼女たちよりも幼い子供という見た目的な理由が大きいのだろうが……
遅れて沙都子が教室に駆けこんできて、圭一の姿を見るとすっとんきょうな声をあげた。
「け、圭一さん? どうしたんですのっ、泥だらけじゃありませんのっ!?」
「……ちょっとあってな。それより、俺はこれから校庭で素振りの練習をするから邪魔すんなよ。このバットは借りてくからな」
「はぁ? それはべつにかまいませんけど……」
沙都子が不可解そうな顔つきでこちらに目配せしてきたが、何も言うべき言葉を見つけられなかった。教室を飛び出していく圭一の薄汚れた背中を見送りながら、私は昨晩から思い描いていた『計画』を頭の中で再び練り始めた。
***
動き出したシナリオを止めることは誰にもできない。
個々の登場人物たちはそれぞれの想いのままに行動し、やがて交錯し、大きな悲劇を紡ぎ出す。それはもう決まっていること……シナリオが選択されたことは動かしようのない運命であり、私たちはそれに甘んじる他ないのだ。
以前の私はただ諦めるに任せ、惨劇を食い止めるつもりはなかった。運命に抗うこと自体にもはや疲れて果てていたのだ。
だが、その映し鏡であるこの世界の私は違う。
私は誓った、かつてありえない『奇跡』を体現してみせた勇敢な仲間の言葉に、熱い涙に――戦い続けることを。
未来はきっと変えられる。
この手で必ず変えてみせる!
そして夕刻、沙都子に留守を頼んだ私は、強い決意を胸に家を出た。
宵闇の迫る空に不穏な暗雲がたちこめていた。雨を呼び寄せようとする湿った風が吹きすさぶ中、私はひた走った。
圭一の住む前原屋敷の前についた時、そこには先客がいた。
彼女は打ちひしがれた様子で、呆然と二階の窓を見つめていた。カーテンによって遮られた向こう側にいる誰かのために、何かを小声でつぶやき続けながら。
……ごめんなさい。……ごめんなさい。……ごめんなさい。
竜宮レナは、暗闇の中で一人立ち尽くし、泣きながらずっと謝り続けていた。
「――レナ」
すぐに大よその状況を理解した私は、ひざまずいて彼女の足元に散らばった容器を集め始めた。それは両親の不在のため夕食の用意がない圭一のために、彼女が心をこめて用意してきた惣菜や汁物の入ったものだった。
レナは今朝、いつものように圭一を迎えにきた際、圭一の母から彼がすでに学校に向かったということと、今夜出張で夫妻がいないということをあらかじめ聞いて知っていたのだ。だが圭一は両親の不在をレナが知るはずがないと思い、そこから疑心を膨らませて彼女を『刺客』だと思いこんだ。
両親は在宅していると嘘をつく圭一……
圭一がなぜ嘘をつくのかわからないレナ……
二人のすれ違いはそして、最悪のカタチで結実した。
レナの細くたおやかな指――それは今、硬いドアの隙間に何度も強く打ちつけられ、痛々しく腫れあがり血が滲んでいた。
ああ……なんて、なんて愚かなッ……!!
「……梨花ちゃん?」
レナは私の登場に驚いていたが、今はこれ以上彼女にかまっている場合じゃない。私は拾い集めた容器をすべて風呂敷に包みこむと、それを彼女の方につき出しながら冷たい声で告げた。
「帰りなさい。ここはあなたの出る幕じゃない。……今のあなたには圭一は救えない」
レナは涙目を大きく見開いた。傷だらけの両手の指先が、こまかに震えていた。
「……その手、ちゃんと手当てするのよ」
あまりの痛々しさに見かねて言うと、金縛りが解けたようにレナは無言で風呂敷包みを受け取った。せっかく用意してきたのに結局食べられることのなかったそれを手に下げ、まるで幽鬼のような足取りでフラフラと歩き出す。
その背中を見送ってから、私は眼前の前原屋敷に向き直った。
今頃圭一は自室で震えながら大石と電話しているはずだ。しかし圭一が唯一のよりどころとする大石の言葉は、それ自体があることないことが入り混じり、とうてい信用に値するものじゃない。それは圭一にとって救いになるどころか、よけいな疑心を招き暗鬼を呼び寄せるものでしかなかった。しかしそれは私にだからわかることであって、今の圭一がそれに気づくことは不可能だ。
ならばどうするのか……
私はポケットに忍ばせていた黒いプラスチックのケースをそっと手で撫ぜた。
決まっている、方法は一つしかない。
圭一はおそらくもう、救われない。彼の症状は現時点でもL5に至る一歩手前。今の圭一にとってはレナや魅音の優しさも温かなも気づかいも、すべてが逆に映り心の堤防に対する攻撃にしかならない。そして堤防が完全に決壊した時、そこから溢れ出した心は激しい狂気となり彼の精神を覆い尽くす。そして常人の目には異常としか思えない凶行を繰り返した後、自らの喉を掻き破って自害するという悲劇の結末を迎えるのだ。
……これまで様々の世界があった。
その中には『つらい』お話もあり、『痛い』お話もあり、『苦しい』お話もあった。数多の悲劇がいつも私のそばにあった。
それらをすべて体験してきた私だから知っている。
この世界こそが、もっとも『哀しい』お話であることを知っている。
そして、この世界で初めて見つけたカケラ――これまでは気づかないでいた想いの数々があるからこそ、『哀しい』お話はそれ以上の悲哀を帯びて私の前に立ちはだかっていた。
頬をそっと涙の雫が伝い落ちた。
だってこんなのは、あまりに哀し過ぎる……。
私は思い出す――思い出してしまう。
最愛の兄の面影を重ね、憧れと恋とを混同しながら彼のことを見つめていた彼女のことを……
頬を赤らめ、なけなしの勇気を振り絞って、彼のことが好きかもしれないとつぶやいた彼女のことを……
みんなのことを誰よりも思いやりながら、密かに小さな恋心を温め続けていた彼女のことを……
彼女たちだけじゃない、私だって……
そう、この世界の中で、古手梨花もまた見つけてしまった。ほんとうの自分のきもち――大切な想いを。
けして届かないという、閉ざされた未来とともに――――
「だから梨花が……圭一を止めるというのですか?」
世界が一瞬、真っ白に染め上げられた。
カッと雷鳴が轟く直前、その静かな声は私のすぐ背後で聴こえた。