「……かハッ……!!」
ふっと全身から力が抜け、注射器が畳の上に落ちた。酸欠に陥った脳からの信号が途絶え、視界が暗黒に包まれた。
私の体はもたなかったのだ。
あとはもう無我夢中だった。苦しくて、苦しくて……私はめちゃくちゃに腕を振り回して圭一から逃れようとした。
だがムダだった。小さな子供の体格でしかない私が年上の男子をこの体勢から払いのけられるはずがない。それでも酸素を求めて
……ああ――死ぬ。
私はやっと死ぬことができる。なかなか訪れないこの世界の死に怯える日々から、ようやく解放されるんだ……。
もうすぐそこに死の扉が迫っていた。目の前のそれはゆっくりと開く。
その向こう側が――死。
それが開ききった時、私の意識はこの体を離れ、向こう側に吸いこまれていく。
そしていつもその途中、『彼女』が。
ただ
だから、怖くなんてない。
だから、ちゃんと私をつかまえてね……
……………………。
その時ふと、何かが聞こえた気がした。
それは音……?
声……?
それとも祈りだったのかもしれない。
やがて――ぽつり、ぽつりと頬の上に何かが落ちてきて、それは弾けて消えた。温かく濡れた感触だけを残して。
首を絞めつけていた圧迫感がするりと
だけど、どうして……?
心臓はまだ破裂しそうなほどに脈動を繰り返していたが、意識は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。同時に次々と疑問が湧き起こってきて私を戸惑わせた。
その時、圭一の腕が――寸前まで私を殺そうとしていた手が伸びてきて、そっと私の頬を撫ぜた。
「ごめん……梨花ちゃん、ごめんな……ごめんな……」
私は眼前の光景に驚きを隠せなかった。圭一は――泣いていた。
「梨花ちゃんが俺を殺すなんて、ありえないよな……。俺のことを本当に心配してくれて来てくれたんだろ? 今の注射だって、精神安定剤か何かだよな?」
不可解を通り越して異常としか言いようのない事態に混乱してしまう。きっと自分はとっくに死んだか意識を失うかして、おかしな夢を見ているんだとすら思った。その間にも
「……圭一は、なぜ泣いているのですか……?」
潰れかけた喉から掠れた声を出し、信じられない思いで彼の顔にそっと手を伸ばす。
そっと――触れた。
嘘じゃない、幻覚なんかじゃない。
それは現実だった。どんな幻想にも勝る真実だった。
「梨花ちゃんが……生きているから。嬉しくて、俺は……ごめんな、勘違いして、殺そうとして……本当にごめん……」
「圭一……」
彼の流す涙の雫を指で拭いながら、私は自分もまたどうしようもなく泣きたくなった。
私を殺そうとした圭一と、私が生きていたことを喜ぶ圭一……その矛盾を結ぶたった一つの『解』を、ようやく見つけたから。
〝奇跡〟は……起こったのだ。
それはにわかには信じられないこと――いや、ありえないことだった。C120を投与することもなく狂気に打ち克つなんて、入江たちが知ったら腰を抜かすほどの出来事に違いない。
これまで幾つもの世界を繰り返してきた私ですら、一度として見たことのない光景――それこそがこの世界に現れた奇跡だった。
「……怖いんだ、俺はどうしようもなく怖かったんだ。助けてくれよ、梨花ちゃん……」
狂気から解き放たれた圭一の目は、まるで何も知らない子供のように無垢で頼りなげに揺れていた。私が守ってあげなくちゃすぐにでも死んでしまいそうなその儚げな姿は、とても小さかった。
私はそっと、怯えさせないように、彼の頭を抱き寄せた。私の胸の中に抱かれた圭一は、すがるように必死に、その手で抱き返してきた。
その瞬間、とても温かなものが胸の中を満たした。私は自身のきもちに戸惑いながら、彼を抱きしめて、彼に抱きしめられていた。
「おかしいのは俺なのか? それとも周りの連中なのか? わからないんだ……俺はみんなのことを信じたいのに、みんなが俺を殺そうとしているとしか思えなくて……。警察の大石さんですら敵か味方かわからない。なあ、俺はいったいどうしたらいいんだよ……!!」
それはきっと今まで誰にも話せなかった彼の本心だった。そしてそれを私に聞かせるということは、私のことを信じてくれているという裏づけでもあった。
胸にこみあげてくるものがあった。
それはまぎれもない歓喜……。
圭一は今、私のことだけを信じている。私だけが圭一にとっての『特別』だった。
「……大丈夫。私が護ってあげる。安心して、そして私だけは信じて。きっとあなたを救ってみせる。私だけは何があっても圭一の味方よ」
「梨花ちゃん。ありがとう……」
圭一は感極まったように泣き出し、私の胸に顔をうずめながら激しく
私は泣きじゃくる彼の頭を優しく抱き寄せ、少しでも安心を与えてあげようとその背を撫ぜる。そっと、そっと――壊さないように。
ただ彼のことが可哀想で、愛しくて、哀しくて……ここに来るまでの私の決心なんて――偉そうに羽入に語って聞かせた決意なんて、すでに雲散し霧消していた。
だが、けして熱に浮かされてばかりいたわけではない。私は冷静になれと自分に言い聞かせると、今のこの状況を分析しようと努めていた。
……おそらくだが、圭一の精神が回復したのは、鷹野たちの言う〝女王感染者〟たる私の身体が、一般感染者の彼に対し何らかの好影響を与えたからに違いないだろう。そう考える以外、この奇跡を説明する方法はないように思われた。
それはかつてL5を発症したにも関わらず、投薬と私との同居生活によって精神状態が劇的に改善された沙都子のケースにも言えることだが、実際にはまだ入江たちも完全には解明していない不思議な作用だった。
そう、私だけがもつ雛見沢症候群に対しての
もしかしたらその効果は、今の状況のように物理的距離の近さや身体的接触の度合に比例するのかもしれない。だとすると、たまたま私が押し倒される形になったのがよかったのだろう。肌と肌が触れ合うほどの距離での接触がなかったとしたら、今頃この命はなかった。
その仮説が正しいのは、圭一を見ていてもわかることだった。
彼は今、こんなにも私を求めている。私の体に触れることでより深い
私はそんな圭一がどうしようもなく愛しかった。彼に触れられている部分の肌が熱い……。溶けてしまいそうなほど熱くて、たまらなくきもちいい……。
それは今まで知らなかった愉悦――快楽。
もっともっと触れて欲しいと思った。もっともっと重なり合いたかった。
「……好き。圭一、あなたのことが好きなの」
誰にもずっと言えなかったはずの言葉が、自然とこの口をついて出た。
もうけして見失うことはないだろう。
私はようやく自分の大切な想いを、きもちを、つかまえることができたのだから……