その後、何事もなかったようにうちに戻った私はいつも通りの夜を過ごした。
沙都子が寝静まった頃合になってから再び羽入がやって来た。少し驚いたが、きっと私のことが心配で眠らずに待っていたのだろう。
羽入は私が生きて戻ったことにまずはホッと一安心したようだったが、すぐに思い詰めた表情になって問いかけてきた。
「ど、どうなったのですか、圭一は……?」
今にも胸が潰れそうといった様子の羽入に、私はあっさりとこう答えた。
「無事よ。だいぶ落ち着いたみたいだし、今日のところは薬だけ渡して引き上げてきたわ」
おそらくずっと悪い想像ばかりを積もらせていたのだろう、羽入は一瞬きょとんとした顔をした後、パッと表情を輝かせた。
「け、圭一は元に戻ったというのですかっ!?」
「ええ。それが私の『力』みたいよ。発症した感染者の心を落ち着け、癒してあげる力。自分でも驚いたけれど、考えてみればなるほどねって感じよね」
つい自慢げに説明してしまったが、この『力』のことを誇らしげに思うきもちは止められなかった。圭一と抱き合っていた時の感触を思い出し、そっと胸に手をあてる。
「そ、それはすごいのですよ! よかった……ほんとうのほんとうによかったのです」
いかにもお人好しそうな顔をほころばせた羽入に、私は本心を打ち明けることはしなかった。たぶんこいつはそれを知ったら邪魔をするに違いない――そう確信していたがゆえに、彼女には秘密にして『計画』を進める決心を固めていた。
計画……それは私と圭一がこの世界を乗り越えるために必要な処置だ。
圭一はたしかに平静を取り戻したものの、まだ予断の許されない状況であることに変わりはない。念のために渡したC120の注射も三回分――一回はすでに使ってしまったので、明日の朝と昼の二回分しか残っていない。そもそも薬なんかよりも私の存在の方が遥かに効果があるだろうことはわかりきっていた。
ほんとうは私だってもっと一緒にいたかったけど、うちに帰らないと沙都子や羽入に怪しまれるといけない。それに、これからのことについて急いで算段を整える必要があった。準備を万端にし、火急にすべてを片付けなくてはならないのだ。この世界の私にはもう、ほとんど時間が残されていないのだから……
「羽入、あんたは安心して『眠って』なさい。そしてもうすぐこの世界が終わったら、またよろしくね」
「はいなのですよ」
……とは言ったものの、今はせいぜいそうならないことを祈ろう。私はまだすべてを諦めたわけではないし、むしろ今になって、この世界での生存の意志は果てしなく強くなっていた。
「それと――今回の私の死期は、見えてる?」
そう訊ねると、羽入は困ったようにゆるゆるとかぶりを振った。
「……はっきりとはわからないのです。でも今夜はきっともう何もありませんし、まだ数日くらいは大丈夫だと思うのですよ」
「数日って、少なくとも二、三日は安全ってことかしら?」
「あぅあぅ、ただのボクの勘ですから絶対ではないですけど……たぶん」
羽入は申し訳なさそうに言うと、いかにも無理をしたような微笑を浮かべた。
「梨花、どうか思い残すことのないように頑張ってください。それと、今回はぜんぜん力になれなくてごめんなさいなのです。……では、ボクはもう行きますね」
そして羽入は、少し寂しそうな笑顔を残して姿を消した。何か彼女なりに思うところがあったのかもしれないが、今の私にはどうでもよかった。
羽入の勘とやらを信じるならば、まだしばらくの猶予がある。ならば――可能だ。逆転の目は残されている。それだけが今の私にとって重要なことだった。
これからのことを思うと、幾ばくかの不安は拭いきれない。だが、たとえ何が起ころうとも負けはしない――こちらには『奇跡』が味方しているのだから。
私は窓辺に移動すると、暗い夜に閉ざされた外の景色に目を移した。ぽっかりと闇夜に浮かぶ月を見上げ、この胸に咲いた小さな花を両手の中に包みこむように、そっと肩を抱いた。
大切な、大事な想い――その淡い色彩の花弁に、小さく囁きかける。
「もうすぐよ……圭一」