その夜……私は窓辺に腰かけて一人ぼんやりとしていた。
沙都子はすでにぐっすりと眠りについていたが、私はまたも寝つけずに、秘蔵のワインを出してちびちびと
虫の声を聴き、夜空にぽっかりと浮かんだ月を見上げていると、何度目かの溜息が洩れた。今夜の物思いの種は、週末に迫る『綿流し』のことだった。
お祭はみんなにとっての一大イベントであると同時に、私にとって運命の分岐点とも呼べる重大な折り返し地点でもある。毎回、綿流しの日の早ければ二日後――遅くとも一週間やそこらで私の命運は尽きるのだ。
この『七の目』を取り逃した世界で、何も対抗策も準備できていない以上、きっと私は今回も死の運命を避けることはできないだろう。けれどこの時の私は、秒読みの始まった自身の死に対し、これまでのような嫌悪も諦めも焦りすらも抱いていなかった。怖くないと言えば嘘になる、けれど……今までがそうだったように、これからもそうなるというだけのことだ。それは達観に近い心境だった。
ムダに愚かに慌てふためき、このささやかな幸せに満ちた日常を自分から破壊することの方が怖ろしかった。だから受け入れようと思った。たとえこの世界では無理だとしても、きっとチャンスはまた巡ってくるはずだから……。
草木も寝静まる頃合になって、そろそろ床につこうかと思い始めた時だった。私の隣にふっと気配が生まれた。
「……梨花、お話があるのです」
飲み干した後のワイングラスを窓辺の段に置き、私は神妙な顔をしている羽入に目を向けた。
「あら。いたの。あんた、なんだかこの頃ちっとも姿を見せないのね。――話って?」
「決めたのです。ボクは今回、『眠り』につくことで『力』の回復に努めようと思います」
「……どういうこと?」
羽入のいつもはふにゃっとした顔には今、
「梨花も薄々は気づいていると思います。この百年という時間の繰り返しの中で梨花の魂が少しずつ磨り減っていくのと同様に、ボクの『力』も確実に弱まっているのです。そして新しい世界での期間が徐々に短くなっているのは、梨花よりもボクの『力』の占める割合が大きいと言えるでしょう」
それは――たしかにその通りだ。
私たちは何度も世界をループし続けてきたが、その『力』は羽入いてこそだ。羽入にとっては私の意志と魂あってこそという意味では、二人の『力』とも呼べるかもしれない。だが実際に私が起こしている現象ではない以上、このループの間隔が徐々に短くなっているのは直接的に羽入の『力』の減衰を意味している。
「……梨花には黙っていましたが、この数日間、ボクは祭具殿の中にこもって『眠って』いたのです。本来のボクは眠る必要などないのですが、それで『力』をどの程度回復できるのか試してみたのです。結果は――良好でした。けれどまだ絶対的に足りません。もっともっと眠り、『力』の回復を待たなければならないのです」
「寝てれば回復なんてとても楽な話じゃない。おおげさに言うのね」
肩透かしをくった気分になったが、羽入はどこか哀しそうな……いや、つらそうな顔をしてゆるゆるとかぶりを振った。
「いいえ、簡単なことではありません。それは梨花が自分の魂を保護するために無関心・無感情に徹するというつらい体験をしなくてはならないのと同じです。ボクにとっての『眠り』とは……そういうことなのです」
私はハッとして言葉を飲みこんだ。
ほろ酔いの頭がようやくその意味を理解するに至り、自らの失言を悟ったのだ。
「ボクは眠っている間、自分がこの世界にまったく干渉できないという孤独に耐えねばなりません。梨花と離れるということはすなわち、ボクはいないのと同じ空気のような存在に戻ってしまうのですから……」
「……ごめんなさい。失言だったわね」
孤独――『孤』は『毒』のように心を蝕む。千年を一人きりで存在し続けた彼女だからこそ、それを誰よりも強く思い知っているのだ。それは神たる羽入ですら畏れる最悪の毒なのだ。
「この世界の残された時間のほとんどをそうしていなければならないのは、考えるだけで嫌です。……ボクは怖いのです。たとえ一時期のものだとわかってはいても、怖いものは怖いのですよ。だって誰も『私』を見つけられない、話しかけても気づいてすらもらえない、誰かのそばにいることもできない……。思い出すだけで寒気がするのです。だから嫌で嫌で嫌で、怖くて怖くて怖くてしかたがない! もう二度と私は、あんな世界だけはっ……!!」
哀しそうに、寂しそうに――なによりも苦しそうに絞り出される言葉。
短い沈黙の後、顔をあげた羽入はもとの決意に満ちた顔つきを取り戻していた。
「でもこれはきっと必要なことなのです。ボクたちがずっとボクたちであるために、必ず通らねばならない試練なのです。梨花もどうかわかって欲しいのです……。この世界のことは、梨花がこれからも運命に抗うための準備期間だと考えてくれませんか?」
羽入はけなげだった。彼女のスタンスとして、運命はけしてひっくり返ることのない絶対的なもののはずなのに、私を納得させるためにあえてそんな方便まで使ったのだから。そこまで言うからには、その眠りというやつの重大性に私が気づかないはずがない。
こちらが無言でいたからだろう、羽入は困ったような顔で今度は『眠り』の安全性などを説明し始めた。
「えっと――だけど眠りはしょせん眠りであり、二度と目醒めることのできない『死』に比べれば安易なものではあります。もし何か異常があればすぐに起きだしてこれるのですから、危険はありませんし、心配もいらないのですよっ!」
こちらをなんとか説得しようとする必死な姿がおかしくて、くすりと笑ってしまう。私は初めから否定も何も口にしていないのに。
そもそも彼女の『力』に絶対的に依存している私が、その衰退による影響を責めることなどできるはずがないのだ。その『眠り』とやらは私にとっても死活問題である以上、むしろこちらからお願いしますと頭を下げてもいいくらいの話だった。
「いいわよ。そういうことなら私にも異論はないわ。べつにあんたなんて眠ってようといまいと変わらないし。くすくす……むしろ一人になれてセイセイするかもね」
「あぅあぅあぅっ……」
こんなふうに少しいじめただけで、羽入はすぐに泣き出しそうな顔をする。彼女は私の百年などとは比べ物にならないほどの長い時を孤独に過ごしてきたらしいから、唯一の存在知覚者である私に突き放されるとトコトン弱いのだ。
私は少し反省し、そっと彼女の髪を撫ぜるフリをする。……実体のない羽入には触れないから、フリだ。
「うそよ。少しは寂しいわ。私たちはずっと一緒だったものね。これからも一緒、ずっと一緒よ――」
あぅあぅはパッと表情を輝かせる。なんて単純な奴。でもそんな彼女のことを可愛いとも思う。
百年の間にこんなにひねくれてしまった私なんかよりも、羽入はずっと無邪気で可愛らしかった。それが少し妬ましくもあるが……。
もしかしたら、私も千年を数えれば彼女みたいに可愛くなれるのかな……。
そうしたらもっと色々なことに……素直になれるのかな。
「梨花、ホントに嬉しいのですよ」
羽入は照れたようにニッコリと笑うと、意気込みを表すように片手を高々と掲げた。
「よぉし、ボクは頑張りますです!」
私は夢想に沈みかけていた意識を取り戻し、それからこくりと頷いてみせる。
「それじゃあ『力』のことはよろしく頼んだわよ。私は――そうね。この世界では情報収集に徹して、次のセカイに備えるとするわ。それでいいのよ、この世界の圭一が記憶の継承に失敗したという時点で、最初から半分以上は諦めていたのだから」
そう、この失敗作の世界に未練なんてない。
――本当に?
……ほんとうよ。
誰かの声が聴こえた気がして、私は小さくかぶりを振る。羽入は気づいていないのかずっと笑顔だった。しばらくの別れの前にと私のことを色々と気づかっておきたいらしい。
「ボクが眠っている間は感覚の共有は途切れますから、梨花は好きなだけお酒も辛いものも飲んで食べていいのですよ。もちろん、だからと言ってハメをはずしすぎたらメッなのです。それから頑張ってるボクのためにも甘いものは控えておいて、再び感覚の共有ができるようになった時にまとめてたくさん食べるとよいと思いますですよ。にぱー☆」
「ははぁん。ワインが毎晩飲み放題ってのは魅力的ね。あんた、やっぱりずっと起きてこなくていいわよ? くすくす」
「……あぅあぅあぅ、あぅあぅあぅあぅあぅぅぅぅぅっ……!!」
こうして気軽にいぢめて可愛がってあげる相手が明日からはいない――それを想像するとやっぱり少し寂しいのかな、なんて思う。また羽入がいないということは、この世界で私は一人で頑張らねばならないということでもあった。
ほんとうを言うとちょっと心細い。たとえほとんど役にたたないような奴だとしても、ただそばにいてくれるというそれだけでずいぶんと助けられてきた気がするから。
けれどこれからはそんな甘えを捨てて、私は一人で未来に立ち向かわねばならないのだ。
もうすぐそこに――綿流しが迫っていた。