アルファ「らああああッ!!」
身体を捩じ切るように両手剣を走らせ、遂に俺の前に立ちはだかった最後の守護騎士を撃破する。俺は勢いを止めることなく目の前にまで迫っていたリング型のゲートへと手を伸ばし……しかし、扉は硬く閉ざされたまま、一向に開く気配を見せない。
その事実に、俺は一瞬の焦りを感じつつも、ふと、扉の左上部に何かを差し込めるような穴が開いていることに気が付く。そこに神代さんから授かったキーカードを入れるべきだと悟った俺は、それをすぐさま実行へと移した。
すると、俺の身体は次第に透過し始め、まるでSAOの転移結晶を使用した時の如く、俺はリングゲートへと引き込まれていった。
アルファ「…」
一瞬の間、意識に空白が訪れ、次に目を開けるとそこは、白色の板四枚で構成されたような、単調過ぎる通路らしきエリアであった。これが、世界樹の内部にあると言われていた、運営側のラボなのだろう。その無機質な空間は、確かに秘密の実験場のような印象を与えてくれる。
ミト曰く、世界樹の先には空中都市なるものがあるらしいが、残念ながらそれはまだ準備中だったのだろう。道理で、グランドクエストの難易度が異常に高いわけだし、ゲートも不正無しには潜れないわけだ。
…装備に異常は無し。五感も良好。さて、左と右のどちらに進もうか。どちらが正解かも分からない二つの選択肢に、俺は一瞬迷ったが、まぁ悩むだけ無駄だろうと、右を選んだその時だ。
不意に俺の目の前に、小さな妖精が出現したのだ。
「アルファ君。お手柄よ」
アルファ「こ、神代さん!?」
俺が驚くのも無理はないはずだ。何故ならば、今し方俺の目の前には、身長が十センチほどに縮んだ神代さんが、二日ほど前に目にした白衣を纏ったまま、背中からライトマゼンタの翅を二枚で宙を舞っているのだから。
恐らく目をギョッとさせているであろう俺に対して、神代さんは特段変わらない様子で俺に話し掛けてくる。
神代凛子「…取り敢えず、彼らのラボには侵入できたみたいね。ただ、何処に証拠となるべきものがあるか分からないから、手当たり次第に内部を探っていきましょ?」
アルファ「…何故に妖精?」
神代凛子「偶々空いていたアバターがこれだったのよ」
アルファ「そ、そう…」
にしては随分と飛翔が上手な気がするが…まさか、俺が世界樹に至るまでの間に、飛行の練習をしていたわけでは無いだろう…そうだと信じたい。
さぁ、ここからが俺のやるべき事なのだ。気合いを入れ直した俺は、延々と続く白い通路を警戒しながら進んでいく。出来れば即座に証拠を見つけて神代さんに何とかしてもらいたいものなのだが、通路が続くばかりで、何も証拠になりそうなものは見つからない。
ふと視界に入ってきた階段部分に、俺は足を踏み入れようとしたのだが……そこから、黒髪を靡かせた少女が、こちらに飛び出してきた。
アルファ「……」
神代凛子「不味いわよ!アルファ君!!}
…白いワンピースを纏い、耳は妖精のように尖っていようとも、その姿はまるでSAOの時と変わらず…いや、妖精となったからこそ、更に可憐に見えた。
神代さんが焦りを募らせた顔でこちらに話し掛けてきているのだろうが、俺には神代さんを気に掛ける余裕などなく、只管に彼女の姿に釘付けとなり、絶句し続けていた。
ずっと…ユウキの温もりを求め続けて、闇の中を彷徨っていたあの二カ月。俺の心の奥底で燻り続けていた彼女への気持ちが、もう耐えられないと、今すぐに爆発しそうになる。
……しかし、先に爆発したのは彼女の方だったようで、俺がユウキに駆け寄る寸前に、彼女が俺の身体に抱き着いてきた。
ユウキ「アルファ!アルファっ!!」
アルファ「ユ、ユウキっ!?何でここに!?」
彼女が俺を求めるように、その柔らかな身体で俺を強く抱き締めながら、甘い香りを漂わせた。…そんな彼女を見て、俺は堪らず彼女を抱き返し、唇を激しく奪おうと思ったのだが──
──そんな暇もなく、ユウキが俺の手を引いて、脇目も振らずに俺が辿ってきた道のりを物凄い勢いで引き返し始めた。彼女の必死な表情に、俺は困惑するも、直後後方から伸びてきた謎の触手を見て、なんとなくだが事態の深刻さを理解する。
アルファ「ユウキ!あれはなんだ!?」
ユウキ「ボクも分からない!だけど捕まったらおしまいだよ!!」
アルファ「神代さん!!何か策は!?」
神代凛子「安心しなさい!!この二日間で、色々準備しておいたんだから!!」
ユウキ「この人誰なの!?」
アルファ「あとで説明する!!」
次々と伸びてくる触手を見て、これは逃げきれないと判断した俺は、迎撃に移ろうと、神代さんに話し掛ける。すると神代さんには何か対抗措置があるようで、ならば迎え撃とうと俺もユウキも逃げることを辞めた。
すると間もなくして、ブルスラッグそっくりのナメクジ型モンスターが、人語で語り掛けてきたのだ。
「…あれ~?君と追いかけっこしてたはずなのに…いつの間にか少年とプライベートピクシーまでいるじゃあないか…」
アルファ「…神代さん。アイツ運営側の人間か?」ヒソヒソ
神代凛子「…恐らくそうね。…アルファ君、このダガーをアイツに刺して。そうすれば、このダガーに内蔵されたウイルスで、アイツは全く身動きが取れなくなるはず…」ヒソヒソ
奴に聞こえないぐらいの声量で、神代さんと耳打ちするように話し合った俺は、神代さんが召喚したらしいダガーをポケットに忍び込ませて、確実に奴にダガーを命中させられる瞬間を、狙っていたのだ。
がしかし、ナメクジ野郎が何気なく右指を動かしたかと思うと、途端に俺の身体に力が入らなくなってしまった。
…この体感覚が失われる心地はまるで…SAOでも一番危険と言ってよかった麻痺毒デバフか…!?
「でもねぇ…男はお呼びじゃないんだよ!!」
アルファ「ガァッ…!?」
微塵も動かなくなった俺の身体に、ナメクジ野郎の触手が襲い来る。麻痺毒のせいで勿論回避できなかった俺は、そのまま通路の側壁に圧し潰されるように、吹っ飛んだ。
…だが、この全身に感じる痛みが、余りに酷過ぎる。それは最早、骨折、捻挫とまでは行かずとも、軽い打ち身にあったような重い鈍痛であった。だが鈍痛とは言えども、身体がジンジンと痛み、痺れるような不快感が俺を襲う。
現実世界でも中々味わうことの無い強烈な痛みに、俺がその場で蹲るように悶えたい気持ちに駆られる。だが、麻痺状態で身体は動かず、その場で苦痛を喘ぐばかりだ。
ユウキ「アルファ!?」
俺の異常な様子を見かねてか、ユウキがこちらへと駆け寄ろうとしてきたが、意識をこちらへと集中させ過ぎたのか、彼女は呆気なくナメクジの触手に捕らえられてしまった。
「はい。鬼ごっこは僕の勝ちだね。…僕の名前を呼ぶ前に、あの少年の名前を叫ぶなんて…これは少しお仕置きが必要かな?」
ユウキの顔を見ながらそう呟いたナメクジは、欲望で表情を歪めてから、次いで蔑むような目で俺を眺めてきた。
「随分と、痛いみたいだねぇ…ま、なんせ君のペインアブソーバーはレベル八だ。レベルを三にまで引き下げると、脳に障害が生じる可能性もあるらしいけど…研究の一環がてら、試してみようかな?」
ユウキ「やめろっ!!アルファは関係ないっ!!」
「へぇー、それじゃあ、君とのお楽しみタイムと行こうか」
ユウキ「っ…」
俺に更なる追撃を仕掛けようとしていたナメクジに対して、ユウキが激昂するように叫ぶと、ナメクジは標的を変更して、触手で捉えたユウキの方へと進んで行った。ナメクジはそのまま、全触手を彼女の身体に捲き付け、まさぐるように彼女を縛り上げ…そして今まさに彼女の首筋に紫色の舌を伸ばそうとしている。
神代さんは、俺と同じように麻痺状態で動けず、俺も同様に指一本さえピクリとも動かない……いや、動かないのではない。俺が意志力を振り絞り、動かそうとしていないだけだろう。
…この状況は、まるで俺が初めて殺人を犯したあの日とそっくりではないか。俺はあの時、確かにシステムの規定を越えて、麻痺毒を無効化した。……ならば、嘗て成し遂げた事が、今の俺に出来ないはずが無いのだ。さぁ、立ち上がれ!俺!!
アルファ「…う……おおおおお…ッ!!」
今立ち上がれなければ、きっと、ユウキに辛い思いをさせてしまう。一度はヒースクリフに敗れ去った俺を、自分の命を投げ出してまで救おうとしてくれた彼女をここで見殺しにするなど、あってはならないことのはずだ。
俺は全身に雄叫びを張り巡らせるように、再びシステムによる拘束を打ち破った。やはりシステムを無理矢理強行突破すると、身体に痺れるような痛みが走るが、俺は気にせずポケットに入れておいたダガーを引き抜く。
だが、ナメクジ野郎は無駄に勘が良く、俺が奇襲に成功する直前で、触手による滅多打ちを俺の全身に打ち込んでくる。
「僕の邪魔をするなんて、良い度胸じゃないか!!」
アルファ「ガアアアァァッ!?」
俺がダガーを振り切る前に、俺は触手に打ちのめされ、これまでの人生で、ついぞ味わうことの無かった全身打撲と呼ぶべき激しい鈍痛が、俺の身体を襲った。まるで骨を圧し潰されるような圧迫感と、体感覚が麻痺するような熱い痛みに、俺は堪らず痛みを絶叫した。
その強烈過ぎる痛みが、俺の意識をチカチカと反転させ、闇へと誘おうとするが…俺は、その時を待っていた……ナメクジ野郎が俺を痛めつけることに夢中になり、ユウキがノーマークになるこの瞬間を!!
アルファ「ゆ、ユウ、キ…ッ!!受け…取れッ!!」
「何っ!?」
ユウキ「ハアアアアァァァ──ッ!!」
俺が全身を支配する痛みを無視して何とか放り投げたダガーを、確かにその右手で受け取ったユウキは、流れるように背中を見せていたナメクジ野郎に接近する。遅れて彼女の身体を目掛けて繰り出された二本の触手は、俺の比にはならない程華麗なるステップで回避し、奴の脳天にダガーをぶち込んだ!
…シンと静まり返った静寂が、この場に訪れた。…いや、その場には、俺の痛みに喘ぐ乱れた息が響き渡る。俺はズキズキとした痛みで、仮想の筋肉が硬直した様に固まり、身体を動かせない。ユウキはダガーを握ったまま、その場を動かない。
そしてナメクジ野郎は……ダガーが効力を発揮してくれたようで、不自然に身体を強張らせていた。
「ど、どういうことだ!?僕の身体が動かないじゃないか!?」
神代凛子「貴方のアバターを動かしている脳のシグナルを、そのダガーに内蔵されていたウイルスで少しばかりハッキングさせてもらったわ。これであなたは、私の許可なく身体を動かすことは出来ない」
ナメクジ野郎が怒りを抑えられない様子で叫ぶと、どうやら麻痺状態から回復したらしい神代さんが、冷静にその問いに回答していた。
「そ、そんなバカな話があるか!!」
神代凛子「これが現実よ。あなたは今から、私の作成したインスタントマップで、警察が来るまで拘束させてもらうわよ。SAOサーバーから、貴方達が三百人のプレイヤーを盗んだんでしょう?何か物証があるなら、出して欲しいのだけれど」
「誰が教えるか!そんなことを!!」
神代凛子「あら残念。それじゃあ、貴方はここでさよならね」
「僕のアメリカン・サクセス・ストーリーが!?こんなところで──」
望んだ回答を得られなかったこともあってか、神代さんが小さくため息をついてから、ナメクジ野郎を何処かへ転送させてしまった。ナメクジ野郎は最期まで何かを喚いていたが、もう俺が気にする必要も無いだろう。
少しばかり痛みが引いてきた…と言うよりは、もう痛みを感じる感覚が麻痺してしまった俺は未だに「は…はっ…」と浅い呼吸を繰り返しながら、よろよろとその場から立ち上がる。いつの間にか異常にまで汗が噴き出していたようで、身体は汗でぐっしょりとしていた。
それでも俺はユウキに対してニカっと笑みを浮かべながら、拳を突き出したのだ。
アルファ「…ユウキ…な、ナイス連携だった。サンキューな…」
ユウキ「…バカっ、無茶し過ぎだよ…そんな辛そうな顔で、無理に笑わなくてもいいのに…」
俺に対してそんなことを言って来たユウキだが、そういう彼女も俺と似たようなものだろう。ユウキは今にも泣き出しそうな表情を浮かべながらも、その顔に笑みを浮かべ、俺と拳を突き合わせてくれた。
…ユウキにとっては、これも無茶だったのか。…俺は、いつも独り善がりの選択肢ばかり選んで、その果てに周りの人の心を傷つけ、更には死をも呼び寄せた。真の意味での悲劇をもたらしてきたのだ。
それは、二十五層のボス戦然り、ラフコフ壊滅戦然り、ヒースクリフとのゲームクリアを賭けた闘い然りである。あの日、俺は一度ユウキを死なせてしまったことで、やっとのことで俺の持つ、一人じゃ何もできない癖に、身勝手な判断を下しやすいという欠点を理解していたはずなのに、結局この世界に来ても、ミトを置き去りにし、キリトのように大勢の人間からの助け募ることの無いままに、独りグランドクエストへと無謀な挑戦を仕掛けてしまった。
そこでようやく、遅まきながらも自分の弱さを再認識出来た俺は、この土壇場に置いて、俺一人だけの力で運営側の人間を打倒するのではなく、ユウキを信じることにしたのだ。結果、それは正解だったし、恐らく俺一人で何とかしようと視野の狭い思考を続けていたのならば、待っていたのはやはり惨い悲劇だったのだろう…。
…ユウキが無事で良かったと、俺はまた途端に強烈な痛みを感じ始めた身体に鞭打って、ゆっくりと彼女に近づく。そして俺は今度こそユウキを固く抱き締め、その背中に腕を回した。するとユウキも俺と同じように、ギュッと俺の身体を抱き寄せてくれる。
…それだけで、未だに身体の内に残る鈍痛が、彼女の抱擁によって緩和されていく気がした。一頻り二人で再会を懐かしんだ俺とユウキは、置いてけぼりにしてしまった神代さんと、三人で会話し始める。
ユウキ「…それで、そのコージロさんって人は誰?」
アルファ「一から話すとかなり長くなるから…俺達の味方ってことだけは把握しておいてくれ」
神代凛子「そうね。貴方を含む三百人のプレイヤーを現実世界へと帰還させるために、私は彼と一緒に動いているの」
ユウキ「…やっぱり、ボク生きてるんだ…ってことは、アルファも?」
アルファ「そう言うことだ。…兎に角今は、その証拠を探してるんだけど…ユウキは階段の下から来てただろ?何かなかったか?」
ユウキ「…ボクが目を覚ました場所は、仮眠室みたいにベッドが沢山あっただけで、他には何も無かったと思うな」
神代凛子「なら、このまま左側の通路を調べていましょう?」
アルファ「了解」
手短な会話の中で、今後の方針を定め直した俺達は、ユウキが向かおうとしていた方へと続く通路を、再び歩き始めた。
その道中に、ユウキに俺の装備の一部を譲渡したり、この世界では左手でウインドウを操作することを教えたり、そもそもこの世界がALOと呼ばれるVRMMOである事や、今俺達が置かれている状況の説明等々をしながら、慎重にゆったりと歪曲した円形の通路を進んでいく。
幸いにも、さっきのナメクジ野郎のようなマッドサイエンティストらしき人物とは遭遇せず、しかし一向に証拠らしきものも見つけられないまま、白い通路だけが広がり続けた。
…だが、変化が訪れた。通路の外周側の壁に、四本線で形作られた長方形が、視界に入ってきたのだ。俺達が恐る恐る、そちらへと近づいて行くと──
ユウキ「…え、エレベーター…?」
神代凛子「…そうとしか、思えないわね…」
アルファ「…進むしかないよな」
ユウキが調子はずれな声を上げるのも、当然のことである。だってそこには、剣と魔法の妖精世界に存在するはずの無い、上下二つ並んだ三角のボタンがあったのだから。まるで世界観と乖離するその物に、俺は強烈な違和感を覚えながらも、三角ボタンに触れた。
暫くすると、ポーンという効果音と共に扉がスライドし、中にはやはりエレベーターと思われる四角い箱型の構造が広がっている。一瞬、また研究員に出くわすのではないかと不安感を抱いたが、運が良かったのか、そこは無人であった。
俺達三人は迷わずエレベーターに乗り込み、ドアの脇にあるボタンの一番上を押す。するとすぐにドアが閉まり、長年味わうことの無かった上昇感が俺を襲った。
アルファ「…適当に一番上押したけど、良かったか?」
ユウキ「まぁ、いいんじゃない?一番上から順番に確かめていくのも」
再び効果音が鳴り響き、スライドしたドアから見えた光景は…やはり、変わらず白い通路だ。通路を歩き続けると、遂に内周に並んだドアを見つける。
そこに何かがあるのではないかと、若しくは誰かがいるのではないかと、緊張感を高めながら扉を開き、戦闘態勢に移るが……広がっているのは、何もない小部屋だった。
それを何度か繰り返し、再度何もない白色の通路を歩き続けていると…不意に、神代さんが立ち止まった。
神代凛子「待って!…ここに、隠された通路があるわ!」
アルファ「…押しても何も無いぞ?」
神代凛子「…システム的にロックされてるようね…でも、この程度なら…」
真っ新な壁に向かって、せわしなく指を動かしていた神代さんが手をかざすと、俺がリングゲートを通り抜けた時のような青白い光が四角く壁を区切り、その奥へと続く隠し通路を出現させた。
…こんなに厳重に隠された通路なのだ。きっとこの先には、何か決定的証拠となるべき大切な資料なりデータなりが保管されているはず…。そう思った俺を含む三人だったが、意外にも通路が続くだけで、何も見つからない。ラボに潜入して以来、何も証拠を見つけられないことに焦りを抱きつつも、やがて通路を進み続けると、前方にドアが一つ出現した。
…さぁ、鬼が出るか蛇が出るか。そんな気持ちで扉を押し開けると、その向こうからは──
ユウキ「……外…?」
その大部分を地平線の下に沈ませてしまった真っ赤な太陽が、俺達の前に出現した。
まるで太陽と対等な立ち位置に居る気がして、俺はふと周囲を見渡すと、いつの間にか俺の足を支えていたものは白い板ではなく、巨大な木の枝……その異常なまでの高度と視界に広がる数多の枝葉を見て、俺はようやく気が付く。
アルファ「…ここは、世界樹の外側なのか…」
こんなところに資料が保管されているわけが無いと、俺はその場から引き返そうと思ったが、しかし確かにその先には、俺とユウキが二人並んで歩いても随分と余裕がある太い枝に、まだ人工的な小道が刻まれていることを発見し、俺とユウキは顔を見合わせた後、導かれるようにそちらへと足を運んで行った。
神代さんも俺達を引き留めることなく、黙って付いて来る。世界樹の生い茂った葉を潜り抜け、枝のうねりで自然生成された短い階段を登り、下る。
そして、やがて小道が終わりを迎える頃には、俺達の目の前に、金色の鳥籠が見えた。
────────────────
「逃げ出すのか?」
妖精世界の王に蹂躙され、最も愛する彼女が辱めに遭う姿を目に焼き付け、俺は愚鈍な己の選択を今更ながらに後悔し、しかし闇の中で、目の前に広がり続ける残酷な現実を受け入れられないまま、俺は思考を放棄しようとしていた。
だがその時不意に、俺の意識の中に、錆びた声が響いたのだ。
──そうじゃない、現実を認識するんだ。
俺は心の中でソイツに返答しながら、とうとう頭まで可笑しくなってしまったのかと、自嘲する。
…何が、「逃げ出すのか?」だ…。
…俺は唯、仮想世界という偽りの世界の中で、誰かから与えられた虚構の力に溺れ、盲目のままにそれを真の力であると信じて疑わなかっただけだろう。やるべきことを行わず、寧ろその幻想の力をひけらかすことで、またあの世界と同じように、誰よりも強く在りたいという醜いプライドを満足させていただけじゃないか。
ならば、この世界の王が、俺を愚劣であると蔑んだのにも、納得せざるを得ない。
「屈服するのか?君の友がかつて否定した、システムの力に」
──仕方ないじゃないか。俺はプレイヤーで、奴はゲームマスターなんだよ。
「それは、あの闘いを汚す言葉だな。私に、システムを上回る人間の意志の力を知らしめ、未来の可能性を悟らせた、我々の闘いを」
──そんなことは知るか。…あれは、アイツにだからこそ出来た事なんだ。…何ら特別な力を持たない俺には、決して成し得ない──
「──彼は、君にも出来るはずだと、そう言っていた。君にも勇者足る素質があるのだと、私にそう言い切っていたぞ。君は、己を認めてくれた友まで裏切るというのか?…そうでないというのならば、さぁ、立ちたまえ。立って剣を取れ」
「──立ちたまえ、キリト君!!」
その声は雷鳴のように轟き、稲妻の如く俺の意識を切り裂いた。遠ざかっていた感覚が、一瞬で全て接続されたようだった。
……そうだ。そうだとも!不甲斐ない俺のせいで命を散らしたアイツが、確かにそう言ったのならば、俺が今立ち上がれなければ、彼の尊厳の全てを俺が汚してしまうことになるのだ!!
アイツが、俺にも出来るはずだと、そう言い残したというのならば、俺はそれを証明しなければならない!!だからこそ、俺にはまだ、諦めることは許されないだろう!?
過去の悔恨と彼が残した言葉。それに後押しされた俺は、再び絶望の底から這い上がった!
脳の奥で響いた一連の言葉を唱えた俺は、この妖精世界の王…いや、正しくは泥棒の王との押し問答も程々に、アスナを幽閉し、虐げ続けたというこの言葉に出来ないような激憤と共に、怒り狂う感情のままに奴に制裁を加えてやった。
奴の姿が消えたことで、遂に彼女を救い出したのだと、俺が求め続けていた結末へと辿り着いたことを悟ると、その両目から途端に涙が溢れ出した。その涙を止めようと、彼女は優しく手を伸ばしてくれる。
……きっと、アスナのヒーローになってみせる。そう彼女に言葉を返した俺は、アスナを固く抱き締め続けた。そしてアスナを縛り続けていたこの世界から、彼女をログアウトさせた。
キリト「そこにいるんだろう、ヒースクリフ」
俺がふと、闇の中でそう問い掛けると、彼は変わらず錆びれた声で返事を返してくれた。
…何とも情けない話だが、ヒースクリフが俺を咤激励してくれなければ、この結果に行き着くことは出来なかったのだろう。
暫しの彼との会話の末に、世界の種子なるものを託されたかと思うと、闇の空間に、オレンジ色の陽光が差し込み、その眩しさに目を閉ざすと、次の瞬間に俺を待っていたのは、今まさに最期の輝きを放っている真っ赤な太陽と、彼女が囚われていた鳥籠…そして、愛らしい我が子である。
アスナが現実世界へと帰還出来たことを伝えてから、ユイの頭を強く撫でて、親子愛を確かめた後に、ユイは何やら、俺のナーヴギアのストレージに転送された大きなファイルを確かめるらしく、一足早くこの世界からログアウトしていった。
キリト「……」
焼けるような太陽は沈み、昼と夜の境目である片割れ時へと移行したこの空間で、俺は徐に、ここまで俺を支えてくれた、背丈ほどにもある大剣を空へと掲げると、目を閉じながら静かに呟いた。
キリト「……これで、良かったんだよな。…アルファ…」
……彼は、死んでしまった。あの世界から俺達を解放する為に命を燃やし…だが、彼はその過程で、最愛の人を亡くし、底知れぬ絶望に打ちひしがれ、それでも尚剣を取り、その壮絶な闘いの果てに、ヒースクリフとの相打ちという形で、ゲームクリアを成し遂げたのだ。
……全ては、システムによって勇者と決定づけられていた俺が決着をつけるべきことだったのに、俺がヒースクリフに敗北したばかりに二人は……いや、そもそも、あの時俺がヒースクリフの提案に乗らなければ、きっと二人は死ぬことなど無かったはずだろう。
つまりは俺の傲慢さ故に、親友とも戦友とも呼ぶべき彼と彼女を殺したのである。現実世界へと帰還してからも、俺はその事実に深い絶望感を味わい続けていた。いつまで経っても現実世界に戻ってこないアスナの身を案じる一方で、二人の死が、俺の心の一部が凍り付けたのだろう。
過去の選択を悔いることは、精神的リソースの浪費他ならないと分かっているはずなのに、俺はもしかしたらを考えることを、今日という日まで一度たりとも辞めはしなかった。
……もしも、ヒースクリフの言った通り、アルファが最期に、俺にも勇者足る資格があると、そう言っていたというのならば、それを証明した俺も、少しはアイツの魂に安らぎをもたらすことは出来ただろうか。
アルファが、俺も勇者になれると言ってくれたからこそ、俺は鍍金の勇者を名乗り、偽りの王を殺した。だけど、俺はあくまで鍍金であり、俺にとっての真の勇者はいつだって、アイツなんだ……。
「呼んだか?キリト」
ふと、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。しかしそれは、今は亡き友の声色だ。
だが、ここは俺が創り出した夢想の世界ではない。俺が夢の中で何度も見た、彼が生きている世界ではないはずだ。こんなものは、俺の作り出した幻聴でしかない。そうとは分かっていても、俺は振り向かずにはいられなかった。
そして俺が振り返った先で見たものは、あのころとは違って黒髪が銀髪に変わっているけれど、見ただけで分かる彼…そしてその隣には、彼の恋人であるユウキが、あの時と変わらない姿で俺の目の前に居るのだ。
その事実を認識した俺は、途端に胸の動悸が激しく鳴り響く中で、震える声で訊ねる。
キリト「……アルファ…ユウキ…?…お、お前ら、死んだはずじゃ…」
アルファ「俺もそう思ってたんだけど、ヒースクリフがゲームクリアの報酬に、生存させてくれたっぽいな」
ユウキ「まさかキリトも、この世界に閉じ込められてるの?」
俺の心情など、全く知るわけもない彼らは、ケロッとした様子で俺に言葉を返してくるではないか。ユウキの発言から、二人がこの世界に閉じ込められてしまった多くのプレイヤーの内の二人であることが見え隠れしていた。
でも、今の俺にはそんなことはどうでも良くて、二人が生きていていたという事実が、ただどうしようもなく嬉しくて、アスナの前で涙を流したように、俺はその両目から、とめどなく涙を溢れさせたのだった。
────────────────
アルファ「おいおい…いつまで泣いてんだよ」
キリト「…だって、俺…俺のせいでぇ…アルファとユウキが死んだと思ってたから…あの時は本当に…ごめんなぁ……」
アルファ「結局、俺もユウキも生きてたんだから、そんな謝る必要なんてねぇって…なぁ、ユウキ?」
ユウキ「…そうだよ。終わり良ければ総て良しってことだろうね…」
キリトが大泣きする姿なんて、SAOで過ごした二年間でも終ぞ見なかったわけだから、俺は少々それに動揺しながらも、彼を慰め続けていた。
…どうやらキリトは、俺とユウキがあの時に死んでしまったのだと思っていたらしい。まぁ、無理も無いだろう。一度死亡した俺達が命を取り留めたのは、紛れもなくヒースクリフの恩情によるものなのだから。
…金色の鳥籠を見つけた俺達は、そちらへと近づいてみると、その中に妖精の姿をしたキリトが剣を掲げているのを見つけて、早足にそちらへと向かったのだ。
彼に近づくにつれて見えてきた、そのやり遂げたような達成感を感じさせる表情を目にすると、あぁ、キリトが全てを終わらせたんだなと、俺はそんな感慨を抱かされた。
キリト「…お前ら、アスナみたいにこの世界に囚われてるのか?」
アルファ「そうだけど…って、アスナも幽閉されてるのか!?」
キリト「あぁ、俺もついさっき、アスナを助け出したところだ」
ユウキ「助け出したって、どうやって?」
キリト「システムウインドウを使って、アスナをログアウトさせた」
しばらくして泣き止んだキリトが、トンデモ情報を付随しながら俺達にそう訊ねてきたので、俺とユウキが慌ててそれを訊ね返すと、またまたキリトはトンデモナイことを言ってくれる。
何が何だか状況が呑み込めなくなった俺は、そこで黙り込んでしまったのだが、それに喰い付いたのは、これまで無言を貫いていた神代さんだ。
神代凛子「システムウインドウって、貴方運営側の人間なの!?」
キリト「いや、そうじゃなくて…色々あって管理者権限を行使できるようになった俺が、この世界を運営すると共に、ここで非合法な実験を行っていた主犯格の須郷信之って男を俺が倒したことで…一応の決着をつけたってことかな。…それより、この人誰なんだ?」
神代凛子「まぁ私のことは、三百人のプレイヤーを救い出そうとしていた人とでも思っておいて。…須郷君がそんなことをしてたなんて…聞きたいことは山々だけど、取り敢えず、貴方に三百人のプレイヤーをログアウトさせることは可能かしら?」
キリト「ちょっと待ってくれ……あぁ、行けそうだ」
神代凛子「本当!?…良かった…これであの人との約束を…。ねぇ、その管理者権限を使って、何かその非合法な実験の証拠みたいなものは見つけられないの?」
キリト「…ええっと……これじゃないか?」
神代凛子「…思考・記憶操作技術実験結果NO.1…その内容、複製させてもらってもいいかしら?」
キリトがシステムウインドウを可視化し、タイトルが如何にも危険な匂いを醸し出しているそれを俺達に見せると、神代さんは素早く転写作業に移った。
俺もユウキも、神代さんがこの事件の黒幕らしい須郷信之なる人物を知っている理由は何故なのか。どうしてキリトがシステムウインドウを使っているのか。そもそも、キリトは如何にしてここにアスナが囚われていることに気が付いたのか…等々、聞きたいことは山々だが、まぁ、もう全ては解決したのだから、あとは現実世界へと帰還してから、ゆっくりと話せばいいだろう。
実験データを複製し終えたらしい神代さんは、顔を青くしながら、俺に話し掛けてくる。
神代凛子「…こんなの…余りにも酷過ぎるわ…。アルファ君、私はこのデータとさっき捕まえた人を警察に突き出すから、ここで解散しましょう。…私の無茶に付き合ってくれて、本当にありがとう」
アルファ「おう。俺もしっかり働いたんだ。後のことは任せたぜ?」
神代凛子「えぇ、あれだけ証拠があれば、言い逃れは出来ないはずよ。…それじゃあ、また機会があれば」
そう言い残した神代さんが、何処かへと転移していく様子を、俺達は無言で見送った。
遂に三人だけとなったこの空間から、ふと空を眺めると、そろそろ逢魔が時も終わりを迎え、世界には闇夜が近づき始めている。そんな中、キリトがシステムウインドウを操作すると、俺とユウキに話し掛けてきた。
キリト「…よし、これで二人共、ログアウト出来るようになったはずだ。確認してみてくれ」
ユウキ「…あれ?ウインドウが出ないんだけど…」
アルファ「さっきも言ったろ?この世界は左手でウインドウを操作するって」
ユウキ「…そうだったね。ボク忘れてたよ」
アルファ「しっかりしてくれよな~」
懸命に右指を振り続ける可愛らしいユウキの様子を見て、俺が吹き出しそうになるのを抑えながら、そう告げる。俺もウインドウを確認してみると、確かにそこにはログアウトボタンが存在していた。
……ようやく、この長い長い旅路も終わりを迎えるのか……いや、きっと、ここからが始まりなのだろう。現実世界に戻って、向こうでもユウキと出会って…そうだな。特別なことは、何も無くていいんだ。ただ、放課後に寄り道したり、一緒に学校に登下校したり…そんなんでいい。そんな、在り来たりな毎日で良いんだ。それが一番いいんだ。
俺は、この先待っているであろうユウキと送る幸せに包まれた日々を思い浮かべ、胸が急激に高鳴る。…他にも、他にももっと君といろんな所に行って、いろんなものを見て、いろんなことがしたいんだ…。
俺はそんな沢山の輝かしい未来を想像し、堪らずユウキの両手を包むように握り締めた。少し驚いているユウキに、俺は訪れた夜の闇を払ってしまう程の満面の笑みを向けて、彼女に訊ねたんだと思う。
アルファ「…なぁ、ユウキ」
ユウキ「…どーしたの?」
アルファ「…ユウキの本名って、なんなんだ?」
ユウキ「え?」
アルファ「いや、だって、現実世界に帰ったらさ、俺、すぐにユウキに会いに行きたいから。…もっともっと、ユウキのことを知って、ユウキと毎日を生きて、ユウキと笑い合っていきたいんだ…。だからせめて、名前ぐらいはいますぐにでも知りたいな、って…」
ユウキ「……」
俺の問いかけに、彼女は目線を落とし、すぐには答えなかった。ついさっきまで、俺と見つめ合っていた彼女の笑顔が嘘のように、その表情は真剣味を帯びている。
……しかし、やがてユウキは真面目な表情のまま顔を上げ、そしてそれが彼女の出した答えであるかのように、ふっと、俺が結んだ両手から、彼女の小さな手が零れ落ちた。
アルファ「…どうしたんだ…?」
ユウキ「……」
俺がそう問い掛けるも、彼女は俺に掛ける言葉を見つけられないのか、暫くの間、口を閉ざし続けた。だけど、ユウキが俺に向けるその瞳は、彼女が稀に魅せる、俺に有無を言わせない強い信念を抱いたものであることだけは解る。
……そしてようやく、ユウキはその口を開いた。
ユウキ「………アルファ…ボク達…ここで終わりにしよう…」
アルファ「……ぇ……?」
彼女の言葉が、一体何を指しているのか、俺には分からなかった。…でも、今ユウキの手を掴まないと、もう二度と彼女の姿を見られない気がして、俺は無意識のうちに彼女に右手を伸ばしていたんだ。
だけど、彼女は俺の右手を掴むことは無く、代わりに儚げな笑顔を俺に向けて、言葉を続ける。
ユウキ「……きっと…きっとそれが、アルファにとって…一番幸せな選択だから…だから──さようなら、アルファ──」
それだけ言い残した彼女は、左人差し指で素早く虚空を叩いた。次の瞬間には、彼女の身体を鮮やかなブルーが包み込み、彼女はこの世界から居なくなってしまう。
アルファ「……ユウキ……?」
俺のか弱き囁きに、彼女がもう返事を返すことは無く、ただそれは、訪れた闇夜に吞み込まれていくばかりであった。
その日を境に、君は俺の前から姿を消した。
────────────────
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
その音のリズムに合わせて、電車が揺れる。
…今日は、実に二日ぶりの学校だった。一日学校をサボっていた私に、何かあったのかとクラスメイトが心配してくれたのは、かなり意外なことであった。それでも私は本当のことは話さずに、適当な返事を返しながら、朝から退屈な授業を受け続けた。
…これ程にまで、学校という物は面白くなかっただろうか。…いや、きっと、彼と過ごした二日間が濃厚過ぎただけなのだろう。校内でお昼を迎えたその時だった。私にとって衝撃的なニュースが、携帯に受信されたのだ。
何でも本日から、ALOのサーバーが強制停止されるらしい。そのニュースに付随して載っていたのは、ALOのサーバーを管理していた須郷信之なる人物が、そこで非合法な人体実験を繰り返していたというショッキングな事実であった。そのニュースを見た瞬間、私は思わずにはいられなかった。
……アルファが、きっと何かをやり遂げたのだと、彼が世界樹を目指していた理由は、これだったのだと、そんな確信めいた信頼があった。
それから午後の授業は、私はALOが暫くプレイ出来ない…もしかすれば、もう二度とVRMMOというジャンルが遊べなくなるかもしれないという、ゲーマーの私からすれば、言わば生命の危機的状況であったはずなのに、気分は実に爽快であった。
そして放課となるや否や、私はすぐに電車に乗り込み、しかしいつもと違って一直線に家の最寄り駅まで向かうのではなく、いつもとは違う駅で下車し、改札を出た。
数年ぶりに通るその道筋だったが、しかし私は迷うことなく、確かな足取りで目的地まで辿り着く。震える指でインターホンを押し、中から聞こえてきた要件を求める声に対して、応える。
深澄「…あの、私、明日奈さんの……知り合いの、兎沢深澄と申しますが…明日奈さん、御在宅でしょうか?」
今の私には、口が裂けても明日奈の友達だとは、言えなかった。私がそう訊ね返すと、彼女の住む高級住宅の中からハウスキーパーであろう女性が出てくる。
私がその女性に、中学時代に同じ学友であったことを、生徒証明書を使って説明すると、彼女は親切にも、明日奈はまだ所沢の病院に入院していると、お見舞いならば、この紹介状を持ってそちらへ行って欲しいと、そう教えてくれた。
ペコリと頭を下げた私は、すぐにそちらへと向かって行った。案内通りに、所沢にある幹線道路沿いから外れた丘陵地を登って行くと、やがて前方に巨大な建物が見え始めた。やはり彼女はお嬢様ということもあって、高度な医療機関で身の安全を保護してもらっていたのだろう。
高級ホテル然としたロビーで、受付嬢に紹介状と共に事情を説明すると、すんなりと通行パスを手に入れられた。明日奈の病室は、最上階である十八階にあるらしく、私はエレベーターに乗り込み、一番上のボタンを押す。
深澄「……」
エレベーターの上昇に合わせて、私の中の緊張感も、秒読みで跳ね上がっていく。私が極度の緊張感で爆発してしまう前に、エレベーターはチンと音を鳴らし、十八階へと辿り着いた。
受付で説明された通り、廊下の突き当りまで進んでいくと、薄いグリーンに塗装された扉が見えた。すぐ横の壁面には、ネームプレートに<結城明日奈>と、一語一句違わず彼女の名が刻まれている。
深澄「…すぅ…はぁ…」
その扉を開ける前に、私はその場で深呼吸を挟み、少しばかり緊張を抑えようと試みた。
…今この瞬間だって、私は無責任にこの場から逃げ出したいと、そう思っている。……だけど、私はアルファと約束したのだ。…私のかつての親友に、全てを告白することを。
…だから私は今、現実世界と仮想世界を行き来することで、ようやく見つけ出した一輪の勇気を一歩踏み出し、その先へと往かなければならない!!
私がドアにキーカードを差し込むと、ドアは予想外にも素早く自動で開いてしまった。
…もう、後戻りは出来ない。私が病室へ一歩踏み込むと、視界の一歩先には……深い栗色の長髪を綺麗に伸ばした、肌が透き通るように白い、あの頃となんら変わらない彼女が、そこにいた。
私はその言い表せない美しさと、遂に彼女の前にやって来てしまったのだという事実に、思わず息を吞んだ。対する彼女も、私の姿を認識した途端に、その表情を硬直させた。
暫し無言の時が続いたが、先に口を開いたのは、彼女の方である。
明日奈「……深澄…なの…?」
深澄「……明日奈、久しぶり。私、そんなに変わったかな?」
明日奈「ううん…でも、私の所に来てくれたのが…嬉しくて…」
たった一言会話を交わしただけなのに、私の胸は高鳴り…もういっそ、このまま何も言い出さなければ、彼女とこれからもこの関係を維持できるのではないかと、そんな甘い願望が私を覆い隠そうとしてくる。
だが、明日奈が目尻に涙を浮かべながら、私がここに来てくれたことが嬉しいと、そう言ったのだ。その瞬間に、私はそれ以上明日奈にそんなことを言わせてはいけないのだと、彼女が続けて何かを伝えようとしていたが、それを遮るように言葉を発した。
明日奈「…深澄──」
深澄「──明日奈。……私、明日奈に謝らないといけないことがある…」
明日奈「…どうしたの?」
言わなければならない。だが、先の一言だけでさえ、喉が焼けるように痛くて、次の言葉が出てこない。腹の中に溜まり続ける彼女への陳謝の言葉は、身体の外へと流れ出ることは無く、嫌な熱が体内に蓄積し続ける。
…あぁ、なんて私は弱いんだ。ここまで…やっとここまでやってきたというのに、やはり罪を告白することは出来ないのか。やっぱり、私には、それを成し得ることは不可能だと──
──頑張れよ、ミト。
不意に私の頭の中に、アルファが送ってくれた言葉が甦った。
……そうよね。やらないと、いけないよね…。この期に及んでまだ逃げの姿勢を見せていた自分に気が付き、しかしそんな弱き自分自身さえも、「私」の一部であることをようやく認め、私は畢竟落ち着きを取り戻した。
もうその時には、喉につっかえていた何かは姿を消しており、私は極自然に口を開いたのだ。
深澄「…私、明日奈が死んじゃうのを見るのが怖くて、今日までずっと、明日奈のお見舞いに行けてなかった。…ごめんなさい」
深澄「…私がSAOなんかに誘ったせいで、明日奈の大切な人生の時間を奪って、本当にごめんなさい」
深澄「好きなだけ、私を罵倒してくれていい…」
明日奈「……」
私は明日奈の眼を見てそう伝え終えると、ぺこりと深く頭を下げた。再び、この場に静寂が訪れる。
…彼女は今、何を思い、何を考えているのだろう。…私にぶつけるべき、百通り以上の恨み言が、罵詈雑言が胸の内から溢れ出してきているのだろうか。
もう、明日奈に見限られるのは、分かっていた。明日奈が私を拒絶する結末は、見えていた。だけど、そうとは分かっていても、実際に、私が彼女に否定される未来の訪れを感じ取るのが怖くて、私はギュッと目を瞑り、唇を強く引き締めた。
再三に渡って訪れた静寂…そして、彼女はゆっくりと口を開いた。
明日奈「…深澄…顔を上げて」
深澄「…」
彼女の凛とした声が、この病室に響き渡る。彼女がどれほど私に冷たい視線を向けているのか、どんなに激憤を募らせているのか。それを見るのはやっぱり恐ろしかったけれど、私はゆっくりと顔を上げ、明日奈の顔を見据えた。
……彼女は、意外にも随分と落ち着いた表情を、私に向けている。私の瞳を見つめた彼女は、言葉を放った。
明日奈「…わたしはね、深澄を貶すつもりなんて、微塵も無いわ。…寧ろ、わたしにSAOを招待してくれてありがとう、って言いたい…」
深澄「…な、なんで…?」
彼女が穏やかな微笑みと共に放ったその一連の言葉を、私は全くもって理解できず、思わず声を漏らす。対する彼女は、更に続ける。
明日奈「勿論、あの世界では、辛い事、悲しい事、苦しい事…色々あったわ…。だけどそれと同じぐらい、あの世界で、楽しい事、嬉しい事、大切な事…沢山、沢山、わたしは見つけられた…。今のわたしは、SAOに囚われたことで、人生を無駄にしたとは思わないの…だから、深澄が謝る必要なんて、無いのよ?」
深澄「……」
明日奈が何を言っているのか、よく分からなかった。だけど、彼女のその真っ直ぐな瞳は、とても綺麗で、とても強くて…それは、中学生の頃の彼女には無かった、確固たる芯の強さを感じさせられた。
…彼女は、SAOの世界で、きっと何か大切なことを見つけ出したのだ。…でも、だからと言ってそれが、わたしを責めない理由になり得るのだろうか…?
呪詛の一言もぶつけられなかったことに私が戸惑っていると、彼女は微笑みながら、私に言葉を掛けてきた。
明日奈「わたしね、この二年間で、結構ゲーム上手になった自信あるんだよ?また、鉄拳で対戦しようね?」
深澄「……ぇ……?」
思いもよらない彼女の発言に、私は酷く困惑した。先程以上に、彼女が言っていることが理解できない。全くもって一ミリたりとも把握出来ない。私は文字通り身体も頭も硬直させ、思考停止状態へと至った。
そんな私を訝しむように眉を顰めた彼女は、途端にあっと何かに気が付いたように、その言葉に訂正を入れた。
明日奈「…もしかして、私が居ない間に、深澄は鉄拳辞めちゃった…?」
…違う。そうじゃない。それは、私の求めている答えでは無い…。暫く黙り込んだまま、何も言い出さない私を不思議そうに眺める明日奈を見て、私はもう堪え切れないと、突如として声を荒げる。
深澄「…なんで、なんで明日奈はそんな風に笑ってられるのよ!.…私は…私が!明日奈を傷付けたのよ!?どうして私を憎まないの!?嫌いにならないの!?変わらず接してくれるのよ!?」
彼女に対する無理解をぶつけるように、胸の中のわだかまりを吐き出すように、私はそう強く叫んだんだ。すると彼女は、キョトンとした表情を私に向けてから、やはり変わらず微笑を浮かべて私に言葉を掛けてくる。
明日奈「…深澄。…わたしは深澄のこと、大切な友達だって思ってるのよ?…だから、わたしが深澄を嫌いになるわけが無いじゃない?」
深澄「……とも…だち…?」
彼女が掛けてくれたその言葉に、強く胸を大きく打たれた私は、自然とその言葉を反唱していた。すると彼女は、不思議そうにこちらに問い掛けてくる。
明日奈「わたしは深澄のこと、今も親友だと思ってるけど…深澄は、違った?」
…そんな、わけが無い。夢にまで見た、この結末。だけど、それが現実に起こるなど、思いもしなかった。明日奈は、私がずっと追い求めていた言葉を掛けてくれたのだ。
私はそれを認識した途端に、胸が熱くなり、温かい涙が零れ落ちる。涙で歪んだ視界に映る彼女は、私の様子に少々驚いているようだった。涙は一向に収まらないが、私は今すぐに彼女への想いを伝えるべく、泣き声で叫び返した。
深澄「……私も…明日奈のことぉ、親友だと思ってるに決まってるじゃない…明日奈ぁ…ありがとぉ…」
明日奈「…深澄。これからも、よろしくね」
深澄「うん…よろしく…明日奈…」
私は、暫しの時を、失ったはずの親友の前で、泣きじゃくり続けた。
深澄「それじゃあ、また明日」
明日奈「うん。またね、深澄」
実に二年ぶりの再会を果たした私たちは、長らく再会の時を懐かしんでいたが、そろそろ明日奈の精密検査が始まるということで、今日はお開きとなった。
…明日奈が、私を嫌わないでいてくれたどころか、まだ親友で居てくれた…。その事実が、どうしようもなく嬉しくて、私は胸が躍るのに任せて、病院を後にして行く。
…だけど、この勇気を私にくれたのは…私のもう一人の友人…向こうはどう思っているのかは知らないが、私にとっては親友である、アルファなのだ。…でも、ALOが停止した今、最早彼ともう一度出会い、この感謝の気持ちを伝えることは、出来ないのだろう。
…だけど…だとしても…私は!!
ふと、私は、病院を出てすぐの所で立ち止まる。そろそろ沈み始めた太陽を眺めながら、私は確かな決意を、小さな声で呟いた。
深澄「……絶対に、もう一度アルファを見つける…だから、その時は──」
──また私と、沢山冒険してよね。
私はそっと瞳を閉じて、夕陽に誓いを立てたのだった。
終わりを迎えたのは、覚めること無き悪夢か、それとも、長きに渡った甘美なる幻想か。
これにて、ミト編(ALO編)は終了となります。
次回の投稿日は、一月六日の木曜日です。
では、また第107話でお会いしましょう!