アルファ「先生。今日までありがとうございました」
「いやいや、僕としても、一井君が無事に元気になってくれて良かったよ」
現実世界に帰還してから、約一か月半後。
俺は三月中旬を目の前にして、ようやく退院の時となったわけだ。この一か月半の間に、俺に親身になって接してくれた担当医の先生や、リハビリの先生、看護師さんの方々に、丁寧に感謝の言葉を述べてから、俺は松葉杖を使って、一歩ずつ、一歩ずつゆっくりと病院の入口へと向かって行く。
結局、身体に病気などの異常は無かったものの、やはりまだまだ筋力が完全回復したわけではなく、過度な運動は勿論のこと、松葉杖無しに歩くことさえ、これからの通院で許可が下りるまでは、禁じられているのだ。
俺の歩みの遅さに呆れたような表情を浮かべた彼女は、その表情と違わず俺に話し掛けてくる。
「歩夢も、いつの間にかへにゃへにゃになったなぁ…」
アルファ「うるせぇ。そう言う姉貴こそ、ちょっと太ったんじゃねぇの?」
「…チッ、歩夢が弱ってさえなけりゃ、蹴りの一発でもお見舞いしてやったのに…」
アルファ「流石に今やられたら、病院に逆戻りだからな…」
二年前と変わらず、憎まれ口を叩き合うような距離感の姉弟間でのコミュニケーションを交わしながら、俺は階段をゆっくり降りて、エントランスへと更に足を進める。
俺が彼女を「お姉ちゃん」と呼ばずに、「姉貴」といつの間にか呼ぶようになっていたのは、間違いなくこの姉の口調の粗さから来ているのだろう…もしかしたら、姉貴に影響されて、俺も口が悪くなったのかもしれないが…。
そんな姉貴は、俺が誤って階段から転げ落ちないように、身体をしっかり支えてくれる優しさをも持ち合わせているのだが、如何せん、この男勝りな態度から、彼氏という物は全くできない…という訳ではなく、実は意外にも彼氏は居たりしたこともある。
あぁ、そう言えば、まだ姉貴の名前を紹介していなかったか。彼女の名前は、一井一花、年齢は19歳で、俺がSAOに囚われている間に、大学受験という登竜門を登り切り、今では晴れて大学一年生となっているらしい。
俺が目覚めたその日にすぐ駆け付けてきてくれたことからも分かるが、姉貴は長野県にある国公立大学に通っているようだ。
…俺が入院生活を送っていたある日、姉貴が、自分が国公立大学に進学できたことを自慢してきたのだが、国公立大学とやらの凄さがイマイチぴんと来なかった俺が不思議そうな表情を浮かべていると、「まぁ、東大みたいな感じ」と言われた。しかし、「流石にそれは言い過ぎだろ」と言い返すと、大層不服そうな顔をしていたのは、比較的新しい記憶だ。
アルファ「…ふぅ…」
姉「エントランスに移動するまででそんな疲れて…家まで辿り着けるん?」
アルファ「今日からちょっとずつ…頑張って体力戻してくしかねぇだろ…」
エントランスで一度息を整えた俺は、そこからは姉貴にエスコートされて、病院の駐車場まで案内された。その先には、こちらも二年前と変わらない黒い七人乗りのミニバンが待ち構えており、ナンバーも確かに、俺の家にあった車であった。
車の中には親父と母さんが既に乗り込んでおり、俺は自動で開けてもらったパワースライドドアから一苦労して乗車した。運転座席に座って居る親父と、助手席に座る母さんが、俺に一声かけてくる。
母「歩夢、退院おめでとう!今日は母さんが、腕によりをかけてご飯作っちゃうから!」
父「この車に四人で乗るのも、随分久しぶりだな。父さんも、いつもより張り切って運転しようかな!」
アルファ「一つだけ聞きたいんだけど、二人共、なんで俺の病室まで来てくれなかったんだ?…まさかとは思うが…というか、こんな時にまでそうだとは思いたくねぇんだけど…」
父「ごめんな、歩夢。父さんたち、寒いのが苦手なんだ。だから、一花に行ってもらったというわけだな」
母「感動の再会は、もう一カ月半ほど前にしたからね~」
アルファ「二人共、何年長野県住んでんだよ…そろそろ冬の寒さにも慣れてくれよ…」
両親二人揃ってなんとも情けない返事を聞かせてもらった上で、俺も呆れた返事を返しておいた。折角だから、俺の母親と父親についても軽く説明しておきたいと思う。
まずは母さんから行こう。母さんの名前は、一井美紀。性格云々に関しては先述通りで、加えて説明するのならば、料理が滅茶苦茶上手なことぐらいだろうか。その性格に相反するようだが、片付けや掃除などの家事一般に関してはかなりキッチリとしている。俺がまだ中学生の頃はパートに出ていたが、二年後の今となってはどうなのかは知らない。年齢は…秘密ということにしておこう。
お次は親父だ。親父の名前は、一井和義。年齢は多分四十三歳ぐらいだと思う。あんまりちゃんと覚えてない。先述では、親父は理知的ではないとは説明したものの、それは所々で見受けられるおバカ発言がその原因なだけであって、意外とやるときはキッチリとやれる人間ではある。特に、コミュニケーション能力がかなり高いらしく、会社では重宝されているとか自称していた。
二年前は、もうすぐ課長になれるかしれない!と意気込んでいたので、もしかしたら今は課長、更には部長にまで出世している可能性もあるだろう。とまぁ、両親については、ざっとこんなものだろうか。
アルファ「ん?こんなところにコンビニあったか?」
母「一年前ぐらいにね、コンビニが出来たのよ」
アルファ「へぇー、ちょっとは便利になったんだな。この街も」
父「この交差点左に曲がったら、豚骨ラーメン店があるんだ。中々美味しかったぞ」
アルファ「それは、行かざるを得ないな」
姉「因みに、歩夢の贔屓してた味噌ラーメン店は閉店したから」
アルファ「嘘だろ!?」
…と、親父の運転する車に乗せられて、俺は本当に久しぶりに、家族全員で団欒の時をゆったりと過ごす。やがて、病院からちょっとした山間部に向けて車を走らせて三十分以上、前方に、遂に我が家が見えてきた。我が家の外観はあのころと変わらず、黒を基調とした二階建てだ。
…こうして改めて見てみると、色的にも、なんだかキリトの好みそうな家だな。何だかんだで黒の好きな俺の親父とは、趣向が似ているのだろうか…とは言いつつも、我が家の裏手には森が生い茂っており、その自然に包まれたような我が家が、俺もかなり気に入っているのだが。
アルファ「なんか、他人の家に入るような緊張感が…」
姉「何言ってるんよ。ほら、入った入った」
ふと、玄関に向かう前に足を止めた俺は、これを我が家だと認識することに、何処か違和感を感じていた。
…まぁ、そりゃそうだろうな。だって俺は、あの世界で白を基調とした家を拠点に活動していたのだから。そしてその家に一緒に住んでいたのは──
──と、不意にそれを思い出しそうになってしまった俺も、姉に急かされて一度玄関口に入ってしまうと、「あぁ、やっと我が家に帰ってきたんだな」という深い感傷を感じ取り、そんなことは心の何処かへ押し戻していた。
手洗いうがい、靴を脱ぐ等の、以前は無かった作業に手間取りつつも、俺は階段を苦労して登って、早速自室へと向かう。
アルファ「…変わんねぇな…なんにも…」
俺が自室のドアをゆっくりと開けるとそこには、余り出番がやってこなかった勉強机、お気に入りの漫画だけが陳列された本棚、テニスラケットとケース、中学生の頃に通学に使っていたカバン、数本だけのゲームカセット、そしてシングルベッド…まるで、二年前の時間を切り取ったかような空間が、そこには広がっていた。
…だが、確かに二年の時が経過したことを教えてくれるのは、勉強机の上に置かれた、古びたナーヴギアである。
母「歩夢~!家族会議始めるよ~!」
アルファ「了解」
なんとなく、俺は自室をもう少し眺めて物思いに耽っていたい気分であったが、家族会議をするというのならば、致し方がない。俺は階段を下り、リビングルームへと移動してきた。
…しかし、俺が帰って来て早々、一体何を話し合おうというのだろうか。全員席に着いたことで、早速会議が始まる。
父「…じゃあ、早速本題に入らせてもらうんだけど…」
…なんだかこの感じ、攻略会議を思い出すなぁ、とそんなどうでもことを懐かしんでいた俺であったが、次の瞬間、そんな気持ちが吹き飛ぶほどの衝撃的過ぎる一言が、親父の口から発せられた。
父「父さんの会社が、倒産しそうです」
アルファ「……は…?…親父ギャグ?」
父「そうであってほしかった。本当の話だ」
アルファ「何で二人共無反応なんだよ!?」
姉「私らはもう知ってたんよ」
…会社が倒産?お先真っ暗?…あれ?もしかして俺の人生詰んでるんじゃねぇの?なに?今から俺のフリーター物語が始まるのか!?
親父のまさかの言葉に、俺は青い顔を浮かべていたのだと思う。すると親父は、まぁ落ち着けと、冷静に話を進めだした。
父「実は、歩夢がSAO事件に巻き込まれて一年後ぐらいに、父さん会社を辞めたんだ」
アルファ「は?何してんの?」
母「辞めたとは言っても、出張先の顧客と仲良くなった挙句、その数人で新しい会社を立ち上げたんだけどね」
アルファ「…要するに、ベンチャー企業を立ち上げたってことか」
父「そう言うことだ。それで父さんは、新たな仲間たちとVR関連の事業を展開し、見事大成功した。父さんは一夜にして、ちょっとした金持ちになったんだ」
まさか俺の眠っている二年間の間にそんなことがあったとは。この一か月半の中で俺は今、一番驚いているかもしれない。…だけど、決して言葉にはしないけれども、実の息子がVR犯罪に巻き込まれたというのに、それを利用してお金稼ぎをしてしまうとは…こう、なんというか、怖れ知らずな気がする。
…がしかし、今のところはしがないサラリーマンが才能を開花させて経営者に成り上がってしまったという良い話でしか無いのだが、ならば何故、倒産の危機に追い込まれているのだろうか。
父「そのVR関連の事業という物が…主にVRゲームを開発及び運営するものだった…あとは、分かるな?」
アルファ「あぁ、そう言うことか…」
茅場晶彦の巻き起こしたSAO事件、そして須郷信之が主導したALO事件。この二つの事件のせいで、今の社会には、VRゲームという物が犯罪に利用される危険な存在であるという社会的批判が高まっているのだ。
事実、ALO事件の発端となったレクトという一流企業の本社は大打撃、実際にALOを運営していたレクトプログレスは解散という結果に終わっている。
ならば親父の言う通り、VRゲームを主要顧客としている会社や、VRゲームを運営している会社は、今後のその社会的批判に耐えられず、市場自体が縮小していく未来は殆ど確定したようなものだろう。
父「まぁ、一応倒産しても構わないように、コツコツとお金は貯めてきている。なんとか当面…贅沢しなければ三十年ぐらいはその金で生活できるだろうから、何も心配は無いんだけどな」
アルファ「…なんだ、ただのお騒がせかよ」
思いの外ガッポガッポ儲かっていたらしい親父に呆れつつも、俺がそう言い返す。だが、対する親父は真剣な表情で、俺に告げる。
父「いや、そんなことは無い。これは歩夢の進路に関わってくる話なんだ」
アルファ「俺の?」
姉「なぁ、これ私って関係なく無い?ちょっと部屋行ってきていい?」
父「好きにしていいぞ。確かに一花には関係ないからな」
母「母さんは?」
父「残留してください。歩夢の答えを聞いてもらわないとだから」
家族会議とは名ばかり、俺の話しかしないことに気が付いたらしい姉貴は、そそくさと二階へ上がって行ってしまった。母さんもそれに合わせて炬燵に入ろうとしていたが、それを親父に制止され、露骨に面倒臭そうであった。
アルファ「…それで、俺の進路って?」
父「…歩夢も、病院に来た役人さんから聞いたんだろう?SAO事件に巻き込まれた学生たちに、教育の機会を保障するために設立されるという学校のことを」
アルファ「…あぁ、聞いた」
父「なんでもそこは、入学試験も入学金も無くて良くて、しかも卒業すれば、大学受験資格も得られるらしいじゃないか。西東京市に作られる予定らしいな」
父「ただ、ここから東京まで通うことは、勿論できない。だから、もし歩夢がその学校に通うつもりなら、お前は下宿する必要が出てくるんだ。だけども、流石にその下宿先での生活を援助できるかどうかは、また別の話だ。歩夢には、向こうでバイトしながら、生活費を稼いでもらう必要がある。代わりに、大学受験まで確実なペースで漕ぎ付けるんだ。悪くはない話だとは思う」
父「一方、ここに残って自学自習しながら、高認に合格して、大学受験してくれても構わない。…と言うか、大学に行くかどうかは個人の自由だが、父さんとしては、出来るだけ行って欲しい」
母「どっちを選んでも、良いのよ。歩夢の選びたい方を、選びなさい」
アルファ「……」
──迷う。
これ程にまで迷う選択は、これまでの人生にも中々無かった。郷土愛のあるこの地に残って、旧友たちとまた以前のように仲良くしながら、普通の学生として過ごしていくのも、今の俺にとっては魅力的な未来だ。
だが他方で、あの世界で濃密な二年間を共に過ごしてきた彼らが通うであろう学校に俺も入学し、地元を離れて生活するというのも、まぁ悪くは無いだろう。
でも、もしもその学校に通えば、きっと俺は……いや、寧ろ……そして、俺が長考の末に、提示した答えは──
アルファ「……俺は──」
────────────────────
「──アルファ」
誰かが、俺の名前を呼んでいた。それに気が付いた俺はすぐさま、声の主を探し回った。暗い森の中を、走って走って走り抜けた。
そして遂に辿り着いた、朝焼けが輝く背の高い野草が生い茂る草原に、俺が最後に見た時と変わらず、黒髪の少女がそこには居た。
「どーしたの?」
もう二度と手放したくはないのだと、一心不乱に力強く彼女を抱き寄せた。すると彼女は、甘い、甘い声色で、俺に訊ね返してくれる。
……でも、彼女は決して、俺の抱擁には応えてくれなかった。彼女の身体が、俺の腕から零れ落ちたかと思うと、いつの間にか俺の目の前に居た彼女は、やがて口を開こうとしていた。
嫌だ。
言わないで欲しい。
その続きは、言葉にしないでくれ。
俺の心が叫ぶ。その言葉を聞きたくないと、必死に叫ぶ。でも彼女は、あの時と同じような表情で、俺の瞳を見据えながら、ハッキリとその言葉を発した。
「さようなら、アルファ」
朝が、やって来た。
目が、覚める。
夢から、意識を取り戻す。
不意に、一筋の雫が、瞳から溢れ出てきた。
アルファ「……」
涙を拭った俺は、ふと、俺の隣に視線を向ける。でも、そこにはやっぱり、君の名残はもう無くて、君が隣で眠っているわけでもない。俺はベッドの中で一人で眠って、一人で目覚める。嘗ての日のように、俺の隣から、君の温かさを感じ取ることは、無い。
そこで俺は、夢の出来事を思い出した。ほろ苦いあの夢に、俺は堪らず右手を、何処にいるとも分からない君に伸ばしながら、寝起きで枯れた声を絞り出した。
アルファ「…ユウキ…」
君の名前を呟くだけで、ズキンズキンと胸が痛い。息が詰まったように、苦しみ藻掻く。君は、答えない。俺の呼び声には、応えてくれない。
アルファ「……」
…分かっては…いる。二カ月も経てば、俺でも分かる。最初は、それを認めたくなくて、君のことを考えないようにしていた。だけど、やっぱり君のことを考えることは辞められなくて、気が付けば、そこまで辿り着いた。
君は、俺に別れを告げた。
俺は、君に振られた。
ただ、それだけだ。
でもその事実が、どうしようもない程に、俺の胸を締め付けるんだ。痛くて痛くて苦しくて、切なくて辛くて悲しくて仕方がないんだ。
──失恋。それがこんなにも苦しいものだなんて、知りたくなかった。ずっと、君との甘い恋に溺れていたかった。君がくれた痛みが、俺を苦しめるんだ。でも、初めてのこの気持ちが、君から貰えて良かった。
それでも、俺はやっぱり君と好き合っていたかった。だけど、もう温もりを求めているのは、俺の方だけなんだ。君はもう、俺には何も求めていないんだ。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに辛いの?痛いの?
初めての恋、成就、そして喪失。誰もが経験する、ありふれたお話。寧ろ成就しただけでも、俺は幸せ者だった。だったら、みんなこんなにも胸が苦しいのだろうか。そんなはずはないと、俺と君が創り上げた物語は特別だったのだと、そう思いたい。例え君にとっては数ある恋物語の一つになるのだとしても、俺にとってはたった一つの宝石であったのだと、そう信じていたい。
──さようなら、アルファ
君のことを思い出す度に、その言葉が脳裏に浮かび上がってくるんだ。その度に俺の心が、錆びた短剣で抉られたように鋭く痛むんだ。SAOの世界で剣を斬り刻まれた時よりも、ALOの世界で殴り倒された時よりも、君のその一言が、俺を一番深く傷つけた。
君と別れて、気が付いたことがあるんだ。君は俺にとって、太陽だった。君が俺を照らしてくれるから、何度でも前に進めた。でも、君が居なくなったこの世界では、俺はもう前に進めない。一歩も歩き出せない。歩き出そうとしても、君と生きることが、俺にとってのたった一つの生きる意味だったから、君が居ない今、もう足を踏み出す力が出ないんだ。
…でも、なんでなんだろうな。俺が君に誓ったことは、君を現実世界へと、無事に帰還させること。それが達成出来た今、俺の心は喜びで満たされるはずだったのに、どうして今の俺の心は、こんなにも空っぽなんだろうな。教えて欲しい。君ならその答えを持っているはずなんだ。
君が俺の隣に居てくれたから、傷付いた心も癒えた気がした。でも、本当は癒えてなんかなかった。君が俺の心に寄り添っていてくれたからこそ、俺は傷を傷と認識していないだけだった。
独りになって、やっとわかった。俺の心は、人殺しの茨で傷付いてるんだ。ズタズタのボロボロで、きっと、傷が癒える日は来ないんだと思う。でも、そんなことになってでも、俺は君を救いたかったんだ。君に悲しい思いをさせたくなかったんだ。この罪の重さが、確かに君を救い出した証ならば、いっそ、ずっと痛み続けててもいい。
アルファ「……」
ナーヴギア。もう使うことがないそれを、どうして廃棄せずに、無理言ってまで大切に持って帰ってきたのか、ようやく最近分かったんだ。君と俺が出会った世界、それを繋ぎ止めてくれた物が、ナーヴギアだったからなんだ。ナーヴギアだけが、君が確かにあの世界に居たことを、教えてくれるんだ。
……でも、そろそろ、いいのかもしれない。君と生きた二年間は、甘美なる幻想でしかなかったのだと、もうそう思い込んでしまった方が、俺もこれ以上、苦しまなくて済むから、それでいいのかもしれない。
…あぁ、そうだとも。あれは夢だったのだ。俺が仮想世界で見た、夢想であったのだ。…だからもう、君のことを考えるのは辞めよう。忘れてしまおう。何もなかった。それでいい。それでいいんだ。
アルファ「……忘れたい…忘れろ。もう…何もかも」
また、唱えた。君との記憶の全てを忘却するための言葉を、口にした。両目からボロボロと溢れ出してくる無数の星屑の中には、君との沢山の記憶が詰まっている。その一つ一つが、俺が目に焼き付けた君を映し出している。いつか目から何も零れ落ちなくなったその時が、ようやく俺が君を忘却できる時なのかもしれない。
……でもきっとまた、ふとした時に、夜が来た時に、眠りにつく前に、夢の中で、朝が来た時に、俺は君を思い出すのだろう。だからその度に、俺は言い聞かせ続けよう。君はもう、俺を好いては居ないのだと。君と築き上げてきた日々は、幻想でしかなかったのだと。
アルファ「……ゆ…うきぃ……」
最早、声をあげて泣くことさえ出来なくなった彼は、いつの日か勇者と呼ばれた見る影もなく、子犬のようにベッドの上ですすり泣き続けた。
───────────────────
母「歩夢。気を付けて行ってきなさいよ?」
アルファ「解ってるって。運動がてら安全に行ってくる」
午後一番、午前中は自宅で学習を終えた俺は、遂に本日で最後となるリハビリの為に、杖をついて自宅を出発した。本日の補助器具無しでの歩行試験?みたいなものに、リハビリの先生から合格を貰えれば、俺は晴れて今日から普通に歩くことが許されるとのことだ。
しかし、俺としては、それはもう十中八九で確定事項であるので、こうして数日前から母さんの送迎ではなく、運動の意味も込めて、自力で病院まで徒歩と電車を駆使している。
杖をつきながら街を歩いて気が付いたことが、一つあった。それは、周囲の人の俺を見る眼が、不思議なものを見る眼や、哀れみを向ける眼など、兎に角、向けられていて決して愉快にはならないものであるということだ。
全く、この年で杖をついて歩いている人間がマイノリティであることは理解できるが、不思議そうに見るのは兎も角、哀れみを向けるのは是非ともやめていただきたい。俺は単に筋肉が弱っているだけで、回復の見込みが十分にあることから、あまり気になりはしなかったのだが、もしこれが、決して回復の見込みのない怪我によるものだったりすれば、その本人のメンタルが耐えられないのだろう。
家から病院まで通うだけでもかなりの運動で、病院に辿り着いた頃には、俺もかなり疲れてしまっていた。受付で、診察カード、身分証明書、保険証などを提出し終えると、すんなりとリハビリの先生の元への切符を頂けた。
こんにちはの挨拶も程々に、歩行器具無しで外の街を歩くというリハビリ最終試験を始めた俺は、それに見事合格し、今日から二本脚だけで歩くことを許可された…が、流石に負荷の多い運動類はダメらしい。
先生に感謝を述べてから、この周辺でやりたいことも無かったので、今日の所は真っ直ぐ家に帰ろうかと、俺は病院を後にしようとしたのだ。するとその時、不意に後ろから呼び止められる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
アルファ「…俺に、何か用ですか?」
恐らく俺に声を掛けてきたのだろうその人物は、俺がついこの前までしていたように、両手松葉杖をついている痩せすぎな男であった。少し皺が目立ってきていることを考慮すると、大体四十代ぐらいであろうか。
「君が一井くん?」
アルファ「…そうですけど」
「…君、元SAOプレイヤーやろ?」
アルファ「なッ!?」
この男が何者なのかは分からないが、その俺の核心を突いてきた質問に、俺は思わず驚愕と共に身構えてしまう。対するオッサンは朗らかに笑いながら、俺に告げてきた。
「そんな警戒せんといてくれ。自分も元SAOプレイヤーとして二カ月前ほどに目覚めたばっかりでな。自分と同じ境遇の人間がもう一人おるとは聞いてたから、それで勘づいただけや」
アルファ「…そう、ですか。それで、何の用なんです?」
「…こっちの世界やと中々、あの世界でのことを話し辛くてな。ちょっとおっちゃんの愚痴に付き合って欲しいんや。そこの自販機で缶ジュース奢ったるから」
アルファ「まぁ、それぐらいなら…」
オッサンの言う通り、確かに俺も、もう一人この病院に、ALO事件に巻き込まれた三百人の内の一人が入院しているとは小耳に挟んでいたが、よもやこんなオッサンだとは想像もしなかったわけだ。
彼が缶ジュースを奢ってくれるということなので、俺もその厚意に甘えて、温かいココアを購入させてもらった。何も、オッサンの愚痴に付き合う気になったのは、缶ジュースを買ってもらえるからではない。彼の言い分も、最もであるからだ。
この世界では、SAOを凶悪な犯罪者茅場晶彦が巻き起こした前代未聞の大事件として認識しており、SAO事件について何があったのかを知ろうともしない者が殆どで、故にこちらも、あの世界での出来事を話そうにも話せないし、何より当事者でない以上、共感も得られないことから、やはり話さないという選択肢を選びやすい。
ということで、俺は少しでも、このオッサンの気持ちのはけ口に役だってやろうか、という暇を持て余した今だからこそ、そう思ったわけだ。
「そう言えば少年。今日から満十八歳以下のSAO帰還者を集めた学校がスタートしたらしいけど、少年は通ってないんか?」
アルファ「…SAO内部での出来事を喋るんじゃないんですか?」
「まぁせやけどや、今のは余談みたいなもんやねんけど…ま、少年が喋りたくないんやったら、やめとこか」
アルファ「別に喋ってもいいんですけどね。…で、オッサンの愚痴を聞かせてくださいよ」
オッサンの病室までついて行く中で、そんな会話を挟んだりしたが、ようやくオッサンの病室に辿り着いた今、最早周りの眼は気にする必要無いだろうと、扉を閉め、オッサンに本題を訊ねる。
するとオッサンは、妙に真剣な表情で、俺に語り掛けてきた。
「…少年は、SAOに囚われて、良かったと思ってるか?」
アルファ「……」
「まずはおっちゃんから答えよか。おっちゃんは、良かったと思っとるで。勿論、二年間眠り込んでる間に解雇されてもうたおっちゃんは、絶賛ピンチやけども、それでも総じて良かったと、そう思っとる」
アルファ「…このココア、いります?」
「ええよええよ!一応国から補助金は貰えてるから、次の仕事見つけるまでは十分に生きて行けるから!…で、少年としては、どないなん?」
解雇だとか無職だとか言われてしまった以上、なんだかココア一本でさえ迷惑だったのではないかと思ってしまった俺だったが、本題の質問をもう一度訪ねられて、俺は暫し考え込んでしまった。
アルファ「…どうなんでしょうね。俺も以前は、SAOでの生活も良かったと、そう思ってました。…でも、今はもう、SAOでの生活は夢だったんだと、そう思い込んでしまいたいですね…」
「…あれは、夢ちゃう。現実や。言うなれば、夢みたいな現実やった。おっちゃんはあの世界で生きて、そう思った」
アルファ「…忘れ去ることは、出来ないんですかね」
「あの日々を忘れるってことは、文字通り二年間の記憶を消すってことやからな。それは無理ちゃうか?」
アルファ「…そう、ですよね…」
「そんじゃあそろそろ、おっちゃんの愚痴に移らせてもらうで──」
…だったら…もしあれが夢ではなかったというのならば、確かな現実であったというのならば、俺はこの気持ちと如何にして折り合いをつければ良いのだろうか。その方法を見つけ出せないまま、俺は暫くの間、恐らく会話の内容からして中層プレイヤーであったのだろうオッサンが繰り出し始めたあの世界での愚痴を、只管一時間以上聞き続ける羽目になったのだった。
もうヤダこんなの書きたくない()
次回の投稿日は、一月十一日の火曜日となります。
では、また第110話でお会いしましょう!