「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます──」
例によって、校長先生の有難くも長いお話が始まってしまった。俺達はこの二年間、SAOという世界に囚われ、現実世界での日常という物から、随分と遠ざかってしまっていた。
故に、このいつもなら苦痛にしか感じないはずの入学祝辞も、今日だけは、まるで初めて小学生になった時の日のように、新鮮なものに感じていた。この濃いグリーンを基調とした、白のラインが走るブレザーを纏うという行為さえ、今の俺には心躍る体験でしかないのかもしれない。
…だが、こんなにも学校生活という物に前向きで居られるのは、きっと、彼女のお陰なのだろう。
ふと、視界を左に移すと、そこには数名の学生が、わざわざ用意された椅子に腰かけていた。あそこに座っている生徒は、つい二カ月ほど前にようやく意識を取り戻した、世に言うALO事件に巻き込まれていた三百名のプレイヤー達で、この学校に入学してきた者らしい。
何故俺達とは違う場所に座って居るのかというと、彼らはまだ、身体の筋力が回復し切っておらず、歩行器具を利用していることから、特別の対応を取ってもらえているという訳である。その中には、勿論俺の最愛の人アスナ…こちらの世界では、結城明日奈が凛とした表情で座って居た。
アスナ「…」ニコッ
こちらに気が付いたのか、アスナは微かに微笑みを向けてくれた。俺も同じように微笑しているうちに、校長の式辞は終了してしまったらしい。
それからはとんとん拍子の速さで、色々な連絡事項なりなんなりが俺達に知らされ、そこでようやく俺も、今日から自分が剣士ではなく、一学生として生きていくのであろうことを実感した。
やがて、簡易的な入学式も終了し、生徒たちはそれぞれが割り当てられたクラスへと戻って行く。俺も同じように、今日から俺のクラスを担任してくれるらしい先生の指示を受けて、列を為してついて行く。
教室についてからは、近くの席の生徒と軽く話してみたり、遂に始まってしまった二年ぶりの授業を受けてたりしているうちに、早くも昼休みがやってきた。案外、俺があの世界で仲良くしてきた友人たちは、俺とは年が離れていて、本日はカフェテリアにて待ち合わせる予定となっている。
リズベット「キーリトっ!なにボーっとしてんのよ!」バンッ
キリト「うわっ!?」
アスナ「キリト君。お待たせ」
シリカ「お待たせしました!キリトさん…じゃなくて、和人さん?」
カフェテリアを追加で三席分ほど確保しておいた俺は、リズベットの言う通りボケーっと空を眺めていたのだが、するとリズベットの奴が、突然俺の背中をバシンと叩いて来るではないか。
それに驚いた俺が頓狂な声をあげていると、いつの間にか、アスナもシリカもこの場に集合していたようだ。取り敢えず席に着いた三人に、俺は口を尖らせる。
キリト「シリカ…じゃなくて、珪子の言う通りだぞ。こっちじゃキャラネームを出すのはマナー違反なんだから、俺のことも和人って呼んでくれよ」
リズベット「んなこと言われても、アンタはキリトって感じでしょ。気が向いたら、変えてあげようかな」
キリト「…んな滅茶苦茶な…」
アスナ「私も、和人君って呼ぶの、なかなか慣れないかも…」
シリカ「…和人さん、あの…シリカでお願いします…なんだかキリトさんに珪子って呼ばれるの、違和感あるので…」
キリト「…確かに、俺も違和感マシマシだったな。まぁアスナに至っては、全く同じなんだけどな」
アスナ「仕方ないでしょ。わたし、ゲーム初心者だったんだから」
そんな感じであの頃と変わらず、気兼ねなく会話を続けながら、それぞれが食べたいものを購入して、もう一度席に着き直した。昼食を頂きながら、暫く会話を続けていると、リズベットが思い出したように、俺に訊ねてきた。
リズベット「…あ!そう言えばなんだけど、あたし、まだアルファとユウキの姿見てないのよ。誰か知らないの?」
アスナ「わたしはリズと同じクラスだから…うん、入学式の時にも見なかったかな」
シリカ「私も見てないです~」
リズベット「まさか、あの見た目で既に高校生だったって訳ないだろうし…キリト、アンタの学年に居たりしなかった?」
キリト「…いや、見なかったな、俺も。…それより、みんなはこの学校に馴染めそうか?──」
何故アルファはこの学校に来ていないのか。それは俺もアイツから、事情は聴いているし、ユウキに至っては、俺達からすれば、未だ消息不明みたいなものだ。それを彼女たちに話してもいいのかもしれないが、アルファ曰く、余計な心配は掛けたくないとのことなので、俺も白を切らせてもらった。
…だが、皆に話した方が、それこそ要らぬ心配を掛けなくて済むのではないだろうか、と俺は思っているわけだが、まぁ、本人の意思を尊重することにしよう。いずれみんなにも解ることだ。
…でも、やっぱりアルファとユウキの存在は、俺達にとっては欠かせないものなのだろう。俺は彼女たちと会話をしながらも、そんなことを考えながら、またぼんやりと空を眺めていた。
──────────────────
アルファ「…ふぅ」
パソコンに送られて来た課題を終わらせると、姉は大学、母はパート、父は会社と、誰も居ない静まり返った昼間のリビングに、俺は向かった。
そのままキッチンに移動し、作り置きの野菜炒め、そして茹でるだけで簡単に出来てしまうパスタ、更に、日常生活は難なく可能とはなったものの、やはり足りない筋肉を増大させるために用意しているサラダチキンを準備した。
コトコトと、鍋でパスタを茹でる音が、家中に響き渡る。すべての準備を終えると、それらを食卓に並べ、昼食を頂いた。
アルファ「御馳走様でした」
かなりの量を食べ終えた俺は、重いお腹を抱えながら、洗い物を始めた。翔太曰く、今の俺はやせ細り過ぎだから、兎に角太る為に食べろ、と有難いアドバイスを受けているので、それに従っているわけだ。
…もう、四月下旬が近づいている。ふと窓の外から見える山を眺めると、見頃を終え始めた山桜の花が、ひらりひらりと舞っていた。桜に似た花として有名なのが、スモモやらアーモンドやらハナカイドウの花なのだが、それらを見分けることは、俺には出来ない。
だが、流石に梅の花と桜の花ぐらいは、知識のない俺でも見分けられる。これが、田舎者としての矜持なのかもしれない…と、どうでも良いことを考えているうちに、洗い物を終えてしまった。
アルファ「…勉強するか」
一度自室へと戻った俺は、キリト達が学習しているであろう高校生の範囲に取り掛かる。約一時間半ほどかけて、数学と英語の学習を終えた俺は、少し体を動かそうと、素早く部屋着から運動着へと着替えた。ランニングシューズの靴ひもをしっかりと絞めてから、外へと繰り出す。
我が家を出発した俺が向かったのは、我が家から市街地にあるスポーツジムではなく、ランニング用の堤防でもなく、山の中である。自宅の裏手に回って、そこから足を踏み入れれば、木々の生い茂る森の中へと入ることが出来るのだ。
アルファ「…やっぱり、落ち着くな」
山に入って十分ほどで、ようやく立ち止まった俺は、その場で大きく深呼吸を繰り返し、森の息吹を吸い込む。
土地勘のない者ならば、来た道を帰ることは最早出来ず、どちらに進めば良いのか途方に暮れてしまうだろうが、幼少期から、山の中を頻繁に訪れては、友と遊び回っていた俺は、問題なく来た道を引き返すことが出来る。
あともう三十分ほど進んでも、土地勘は残っているだろう。流石にそれ以上進むと、多分帰って来られなくなる。まぁ、万が一にも森で迷ってしまったとしても、ここはまだまだ携帯が圏内だ。誰かに助けを呼ぶことも出来るし、問題無いだろう。
アルファ「さて、始めますか」
山に入る前に、しっかりと準備運動を済ませていた俺は、ゆっくりと森林地帯を走り始めた。凸凹とした地面に足を捕られて、中々上手く走ることは出来ないが、この感覚が大切だ。
こちらの方が、普通に走るよりも筋肉が付くのではないかと、そんな自論の元、俺は山中でランニングをしている。軽く駆けながら、その途中に見つけた手ごろな木の枝を拾い、構える。
アルファ「ふっ!」
それを目の前の樹木に打ち付け、合わせて足を動かす。カンと木と木がぶつかり合う音が、静寂なる森に響き渡った。
樹木が…いや、木をモチーフとしたモンスターが、鋭利な腕をこちらに伸ばしてきたことを想定して、確かな足捌きを、ステップ回避を上手く挟みながら、枝木を剣に見立てて、それを樹木に打ち込み続けた。
だが、十分と経たないうちに、俺の身体にはあの頃には有り得なかった疲労という物が蓄積し、動きは段々と稚拙になりゆき、やがて足を絡ませてしまった。
アルファ「いつつ…」バタンッ
森の中で倒れ込んだ俺は、疲労を感じる全身の筋肉に鞭を打って立ち上がり、しかし息が上がってしまって、もう一度その動作を行おうにもそれは許されない。
…たったあれだけの一連の流れであったというのに、今の俺には、それを簡単に成し得ることは出来ないらしい。自分が余りに筋力を失ってしまったことを嘆きつつも、息を整えた俺は、それから限界が訪れるまで、ひたすら枝木を振るい続けた。
アルファ「ハァ…ハァ…ハァ…今日は…終わるか…」
呼吸が乱れ、ふくらはぎ、太もも、腹筋、胸筋、肩、腕等々、全身の筋肉が悲鳴を上げるほどにまで剣を振るい、足を動かし、身体を捻らせ続けた俺は、覚束ない足取りで森の中を引き返し始めた。
…何故こんな辛い思いをしてまで、傍から見れば意味不明のトレーニングを繰り返しているかというと、その答えはたった一つである。
俺は、あの世界で培った力を失いたくないのだ。それは、小さな子供が、漫画やアニメに出てくるスーパーヒーローに憧れ、同じような修行を行うのと変わらない事なのかもしれない。だが、俺が単に、そんな小さな子供が夢見る「強さ」を得たいばかりにこんな行為をしているのかというと、それは大いに間違っている。
…俺は、あの世界で出会った女性プレイヤー…最後の最後まで、俺を手助けしてくれた彼女…サツキが俺に託してくれた剣術を、失うわけにはいかなかった。どうしても失いたくはなかった。
彼女は確かに、俺にその剣術と流派の名を教えてくれた。現実世界に帰還してきて、まずその流派について調べてみた。だが、ネットには何も情報が無かった。恐らく、ネットに載るほど有名な流派では無いのだろう。もしかせずとも、彼女の話を聞く限り、俺が最後の流派継承者なのかもしれない。
俺と共に、サツキの剣術を模倣し、昇華させたもう一人の人物…彼女が現実世界で尚、その剣術を物にするか分からない以上、俺は現実世界でも、あの流派を…白崎流を会得せねばならないだろう。そんな勝手な使命感から、俺は毎日この森に足を運んでいるのである。
アルファ「ただいま」
森から我が家の裏手へと戻ってきた俺は、根気を振り絞ってそのまま家の周辺を軽くランニングしてから、ようやく帰宅した。一応ただいまと言ってはみるものの、まだ誰も家には居ない。家族からの返事が返ってくるわけでもないし、君から返事が返ってくるわけでもない。
心の淵から滲み出た雑念を振り払うように、玄関のすぐそばに用意しておいたタオルを使って、全身から噴き出した汗を拭き取った。そのまま風呂場へと向かい、シャワーで汗を流して、再び部屋着に着替える。
筋肉痛に苛まれることはもう決定したようなものだが、それを和らげるために、軽くストレッチをしておいた。さて、今からまた古典の勉強でもするかな、と俺が自室へ向かおうとしたその時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
アルファ「はい」
俺が返事を返してから、玄関ドアを開けてみると、どうやら配達物だったらしい。その箱の大きさ及び形状、配達員さんからの説明的に、俺が頼んだものだろう。配達員さんにお礼を告げるや否や、俺が玄関にてすぐさまその箱を開封した。
アルファ「おぉ~…これが…」
その長い筒状の箱から姿を現した物は、イネの茎を木質化した四枚の板を糸で結び合わせ、柄の部分には湿布のような独特のにおいを放つ白い布が捲かれた剣…いや、竹刀である。
これが噂に聞く竹刀なのかと、俺は初めて見るそれに大いに感動しながら、試しに振り回してみようと、興奮止まぬ心持ちで再び家の裏手に回った。
アルファ「…太陽の戎具に比べると軽いけど…今の俺には、ちょっと重いかもな」
俺の購入した竹刀は、五百グラム程度の竹刀だったはずだ。確か、成人用だったか、それとも高校生用だったか、そこまでは覚えていない。どんな竹刀が良いのか、全くもって分からなかった俺は、まぁ、凡そ一般的な竹刀の使い方はしないだろうと、かなり適当にネットショッピングしてしまったのだ。
その竹刀は、両手剣として想定するのであれば、あの世界で振り回した時よりも、スピードは格段に落ちているものの、なんとか鍛え上げた剣術を実演できる。
対して、これを片手剣と想定し、片手で振り回そうとすると、全くもってコントロールが効かなかった。現在の俺の筋力では、片手で竹刀を振り回すことなど到底不可能らしい。
アルファ「…ま、今日の所は、ゆっくりするか」
実際に竹刀を使って、あの世界で培った剣術を復活させるのは明日からでいいだろうと、俺は自室へと戻って行く。
勉強机に向かって、古典の助動詞を覚えるなり、化学やら日本史やらの勉強をしているうちに、どうやら時はドンドン過ぎ去っていたらしい。気が付けば、母さんがパートから戻って来て、姉貴も今日はバイトが無いらしく、早めに家に帰って来ていた。
もう学校も終わったようで、キリトやら日葵やらから他愛も無い連絡が入っていた。俺も一通り勉強を終えたので、彼らにメッセージを返してから、ネットサーフィンを始めた。
母「歩夢~!ご飯できたよ~!」
ネットサーフィンを続けること一時間程。晩御飯の時間となったらしい。俺はそれを切り上げ、リビングへと向かった。
キッチンから食卓へと食事の配膳を手伝うのも、最早あの世界からの癖であると言えよう。そのことを思い出すと、胸がチクリと痛むが、きっと、気のせいだろう。
親父は仕事の方が忙しいらしく、晩御飯は先に食べておいて欲しいとのことだ。姉貴と母さんと共に合掌した俺は、箸を進め始めた。その中で、俺がふとから揚げに手を伸ばすと、姉貴がニヤリと俺に語り掛けてくる。
姉「どう?から揚げ美味しい?」
アルファ「旨いけど?」
姉「それ、私が作ったんよ!ほれほれ、実姉の作る料理は、歩夢が作る料理より美味しいんちゃう~?」
アルファ「…まぁ、そうだな…」
姉貴が俺を煽り立てるようにそんなことを言ってくるものの、まぁ実際のところ、最近家事について勉強し始めたばかりの俺にとっては、それは事実であったので、俺が姉貴の言葉を肯定すると──母さんと姉貴は、怪訝そうな表情でこちらを眺めていた。
アルファ「…どうしたんだ?」
母「…珍しく、歩夢が素直な反応したからね。母さんも一花も、ちょっとびっくりしちゃった」
姉「こ、こんなに歩夢が素直になるなんて…小学生低学年以来?」
アルファ「俺も年齢的には、もう高校三年だからな。思春期も終わってるんだろ」
姉「じゃあ、昔の中身も外見も可愛い弟に戻る時が!?」
アルファ「それは来ねぇよ」
母「あら、残念」
SAOの中での二年間を知らない二人からすれば、俺が中学のヤンチャモードから、いきなりちょっと落ち着いた人間に変化していたのが、かなり驚くべき出来事であったらしい。俺も成長したのだと、そう伝えると、姉貴がパッと顔を輝かせていた。
がしかし、俺が幼少期のような従順な弟に戻る気はないとの趣旨を伝えると、母さんまでもが残念そうにするではないか。…一体俺に何を求めているというのだ。
それからしばらくして、食事を終えた俺は、後の時間は自宅に舞い戻って来て以来のルーティンワークを行いながら、眠りについたのだった。
────────────────────
アルファ「……」
森に住処を構えている小鳥たちの囀りで、俺は目を覚ました。今日も、心地良くも悲しい夢を見ていた気がする。何かに縋って隣を確認してみるけれど、やっぱり君は居ない。
君の身体を抱き締める代わりに、俺は枕を抱き寄せた。でも、温もりが足りない。優しさが足りない。何もかもが足りない。そろそろ、またいつもみたいに涙が滲む気配を感じる。
するとその時、コンコンと、俺の部屋のドアを叩く音がした。だが、ノックをしたというのに、俺の返事を待つことも無く扉を開けるその様子は、何処か既視感があって、俺は馬鹿みたいにほんの少しだけ、そこから君が顔を見せてくれることを期待していた。
姉「歩夢。朝飯出来てる──」
アルファ「…解った。サンキュー姉貴」
姉「…」
まだ涙が溢れ出てくる前だった。だから俺は、姉貴に涙を見せることの無いまま、微笑みながら返事出来たのだと思う。
…だというのに姉貴は、何か居た堪れないものを見るかのような表情を俺に向けながら、やがて俺に告げる。
姉「…歩夢。今日はわたしと、久しぶりに組み手しよか」
アルファ「…は?いきなり過ぎるだろ。しかも俺、組み手とか長らくやってないんだけど」
姉「弟に拒否権なんて無いから。道着は…まぁ、私の中学時代のやつでいけるやろうし…防具とかは中学校で借りればいいか…よし、ご飯食べたら、中学校行こ」
アルファ「ちょっと待ってくれ。流石に姉貴の道着は、俺には小さ過ぎるだろ」
姉「今の身長何センチ?」
アルファ「…165…」
姉「うん、なら中学の頃の私と変わらんな。寧ろ私の方が高かったか」
アルファ「おい、それ以上は怒るぞ」
姉「解った解った。そんじゃ、準備できたら教えて」
アルファ「…りょーかい」
そんな姉貴が、マジでいきなり訳の分からな過ぎることを何を言い出したかと思えば、俺に有無を言わせないまま、颯爽とリビングへ移動していったではないか。
そんな嵐のような出来事に、俺は一瞬放心しつつも……いやいやいやいや、組み手なんて、ホントに何年もやってない事じゃねぇかよ。ぜってぇ姉貴にボコられる未来が確定してるじゃん。なんで今更そんなことするんだよ!?と疑問で頭の中が溢れ返った。
そして同時に、今の俺の身長が、中学生の頃の姉貴にさえ追い付いていないことを知らされ、軽く絶望する。…べ、別に、気にしてないから。俺はただ、二年間眠りについたままだったから、身体に栄養が行ってなくて身長が伸びてないだけだし?病院の先生も、身体の健康が回復していくに連れて、また身長も伸びていくって言ってたから?
……でも、もしも既に、俺の成長期が終了してたら?俺は一生このままの身長なのか?…それだけは、絶対に嫌だ。せめて、日本人平均身長の172だか3までは欲しいです。お願いします…と、心の中で自分の成長期に願いを捧げてから、俺は自室を出る。
だが、姉貴の妙な提案も、俺にプラスの影響を与えてくれたようで、その頃にはもう、俺の心の中からは、喪失の悲しみは姿を隠していた。
アルファ「ここに来るのも、二年ぶりだな…」
姉「でも、二年前と何も変わってないけどな」
朝ご飯を食べたり、寝癖を直したりと朝の支度を整えた後、俺は姉貴と共に自宅からチャリンコを走らせて、姉貴と俺にとっての母校にやって来ていた。…とは言っても、卒業証書を受け取り、晴れてこの学校を卒業したわけでもない俺が、この中学校を母校と呼んでいいのかは疑問だが。
俺の母校は自転車通学可であったので、毎日のように、友と自転車を漕いで坂道を上り下りしていた日々を、今更ながらに懐かしく思う。駐輪場に自転車を止めた俺達は、そのまま姉貴に連れられて、武道場へと向かって行った。
今日は土曜日なので、校内の敷地に学生は余り居らず、それでもグラウンドやテニスコートからは、体育会系の部活動に所属する生徒たちの威勢の良い声が、校内からは吹奏楽部が奏でる様々な楽器の音が聞こえてきた。そんな中でも、一際活気が漲っているのが、ここ武道場であろうか。
姉「お久しぶりです。竹下先生」
先生「おおっ!一井か、二カ月ぶりぐらいだな!」
姉「そうですね。わたしも色々と忙しかったので」
先生「それで、今日は何の用なんだ?また中学生相手に指導してくれるのか?」
姉「いえ、今日は弟と組み手をしようと思いまして…」
アルファ「すいません、いきなり押しかけてしまって」
先生「…ん?一井の弟は確か…ソフトテニス部だったろう?」
アルファ「俺のことも、覚えて下さったんですね。…けど、大丈夫です。俺も少しは、空手を嗜んでましたから」
先生「まぁそう言うなら止めはせんが…なんせ相手はアイツだ。危なそうだったら、すぐにやめさせるぞ」
アルファ「えぇ、その方向でお願いします」
一礼してから武道場に入らせてもらうと、そこには少なくない人数の生徒たちが、白い道着に様々な色の帯を結びながら、ある者は型の練習を、ある者は前蹴りや正拳突きなどの基礎的な技の練習を行っていた。その中には、女子生徒も数名見受けられる。
ここの顧問を務めている先生は、二年前と変わらず、竹下先生という空手専門の顧問だった。俺の母校は空手が強く、その為顧問も、空手に特化した先生を招いているとか言う話を、何処かで聞いた覚えがある。
話を聞く限り、姉貴はこの中学で空手部に所属していたということもあって、ちょくちょく顔を出しているようだ。俺は不本意ながらも、サイズがピッタリな姉貴の道着に着替え、借りた白帯を結んだ。
姉「…歩夢の道着姿見るの、何年ぶりやろ」
アルファ「四年ぶりとか?そんなもんじゃね?」
道着に身を纏うことや、素足で道場を移動するこの感覚が、また懐かしい。実を言うと俺は、小学六年生までは姉と共に、空手の道場に通っていたのだ。
それから中学生になって以来、空手を続けずにソフトテニス部に入ったのは、単に俺が他のスポーツもやってみたかったからだ。姉貴とは違って、特段強かったというわけでもない俺は、特に何の迷いもなく空手を辞めることが出来たのだが、当時からかなり強かった姉貴はやはり、高校でもずっと空手をし続けていたらしい。
アルファ「なぁ、姉貴。結局高校では、何処まで進んだんだ?」
姉「インターハイ本選一回戦負け」
アルファ「…全国ってこと?」
姉「そう」
アルファ「…なんで俺と組み手するんだよ」
どうやら俺が眠りこけている間に、姉貴はかなり頑張っていたらしい。全国大会一回戦負けとは言え、かなりの手練れであることには変わりはない。やっぱり俺の勝ち目など微塵も無いではないかと、俺は姉貴が何故俺に組み手を申し込んできたのか、ますます疑問に思う。
そんな中、俺は体操をして、アップがてら身体を温める。姉貴と久しぶりに基礎練をしてから、やがて俺達は、頭や足にサポーターを付けて、組み手の準備を整えた。
お互いに一礼して、定位置につく。主審は先生に、副審は生徒たちにお願いしてもらっている。そして、先生の合図と共に、勝負が始まった。
先生「初めッ!」
姉「…ん?歩夢、構えは?」
アルファ「…気にすんな。これでも構えてる。いつ来てくれても構わねぇぜ」
姉「…そう」
姉貴が、防具付き空手でオーソドックスな構えを見せたのに対して、俺は腕を緩やかに構えながら、膝を曲げた状態で、姉貴の動きを待ち続けていた。
周りの学生たちはざわついているが、気にしない。俺にとってはこれこそが、あの世界での闘いで培ってきた末に見つけた最良の構えなのだから。姉貴や先生は、俺の構えがかなり強いことに気が付いているのか、何も言わず、攻めあぐねているようだった。
がしかし、遂に姉貴の素早い中段突きが、俺の身体目掛けて放たれた──
アルファ「シッ」
姉「ッ!」
しかしそれは、俺がそれを見越して身体を後ろに下げることで、回避される。続けて繰り出される二撃三撃も、俺はたたら足を踏むことなく、華麗な足捌きと身体の捻りで有効打を打たせない所か、姉貴の拳と足技の全てを見事に躱し切った。
だが、対する俺も、姉貴に攻め入れば、カウンターで有効打を貰うことは確実であったので、迂闊に攻め入れない。
姉「せいッ!!」
アルファ「うおっ!?」
突如として、姉貴の気合いの籠った叫び声と共に放たれた素早過ぎる回し蹴りを、俺はギリギリで回避しつつ、上段突きを放ってみた。やはり想定通り、俺の拳はあっさりと防がれてしまう。
…どうすれば、有効打を取れるのか。それを考え抜いた俺は、次いで放たれた姉貴の正拳突きを──
アルファ「取ったッ!!」ガシッ
姉「なッ!?」
──両手でしっかりと掴んだ。驚き顔を見せる姉貴のことなど放っておいて、俺は最早勝つためだけに集中されたその脳内で、投げ技に移ろうとする。…このモーションならば、体術スキル<奈落落とし>が発動して──
アルファ「…き、筋力が足りねぇ…」
姉「アホか」
──そうだった。ここは現実世界だった。投げ技の型まで綺麗に作ったのは良いものの、肝心の姉貴を投げるだけの筋肉が無くて、俺は姉貴に背中を見せる形で、その場で硬直した。
俺の心の底から漏れた呟きに、姉貴は大層呆れた声で答えてから、ガラ空きの背中に軽く拳を打ち当てた。こうして、俺と姉貴の組み手は、姉貴の勝利に終わったのだった。
アルファ「…つ、疲れた…死ぬかと思った…」
姉「ええ運動になったやろ?」
あの後、俺達の組み手?に感動してしまったらしい中学生を相手にすること一時間、ようやく解放された俺は、もう既に身体がガタガタになってしまい、最早自転車を漕ぐ気力すらなく、上り坂で自転車を押していた。
因みに俺は勿論、中学生相手に回避しかしていない。というか、ルールの無い戦いではない、組み手という舞台で、一度慣れない攻めをしてみたところ、普通に返り討ちにされたのだ。
なんでもアリなら、色々と彼らの隙を見出せたものの、これはあくまでスポーツであるので、そう言うことは許されないのだろう。
姉「しっかし歩夢。思ったよりやるやん」
アルファ「…ま、俺も適当に生きてたわけじゃないってことだな」
今日はもう一ミリも身体を動かしたくないと、そう思わされるほどあの道場では疲弊させられたが、一方で収穫もしっかりあった。
それは、回避能力というあの世界で手にした力が、こちらの世界でも通用するということである。それはつまり、あの世界でサツキから学んだ剣術も、筋力さえ身に付ければ、いつかは再現できるという証拠である。
姉「…で、ちょっとは気分も晴れた?」
アルファ「はぁ?」
急に姉貴が良く分からないことを言って来たので、俺は思ったままの疑問を呈示する。すると姉貴は俺の顔を眺めながら、こう答えた。
姉「だって最近の歩夢、ずっと情けない顔してたからな。あの表情見る限り、女絡みやろ?」
アルファ「……まぁ、な…」
姉「何があったんよ。日葵ちゃんにでも振られたか?」
アルファ「…なんで日葵が出てくんだよ。……相手は日葵じゃねぇけど…そんな感じだ、な…」
まさか姉貴に、それを見透かされているとは思わなかった。俺は小さいながらも絞り出した声で、その事実を肯定する。
全くの第三者にそれを指摘され、自身がそれを認めるということが、砕け落ちた心に更なるヒビを入れる。それに伴って、またジクジクと辛い痛みを感じる。
姉「…人生の先輩から言わせてもらうと…恋なんて、何ら特別なもんじゃないってことかな。まぁ、その人との恋が、特別なものであったと思い込みたい気持ちも分かるけども」
アルファ「……」
姉「男も女も星の数ほどいる。…今は、勉強やらスポーツやら、兎に角何か別のことに夢中になればいいんよ。そしたら、そのうちブルーな気持ちも薄れていくから」
アルファ「……そんな、もんなのか…」
姉「うん。そんなもんやよ」
そんな会話をしながら、やがて坂道を登り終えた俺達は、無言のままに自転車を漕ぎ始めた。姉貴の教えてくれたことが、唯一の正解ではないのかもしれない。だけど、既に君という指針を失ってしまった俺には、どうにもそれが正しいように思えた。
次回の投稿日は、一月十三日の木曜日となります。
では、また第111話でお会いしましょう!