「歩夢!飯行こうぜ」
「早く行かねぇと、食堂の席埋まっちまうぞ」
帰還者学校に通うようになってから、一カ月ほどの月日が流れた。もう早くも、六月という一年の折り返し地点にまでやって来てしまったのだが、兎に角、クラスメイトは俺に良くしてくれていた。
一カ月遅れて学校にやってきた俺を、クラスに馴染めるよう色々気を遣ってくれたし、そのおかげで俺も今、こうしてクラスに打ち解けることが出来ているのだ。授業が終了するや否や、学友にそう声を掛けられ、こいつらは飯のことしか考えていないのかと、俺は思わず苦笑してしまう。
がしかし、今日は別件があったので、俺は彼らに断りを入れた。
アルファ「悪い。今日は先約がいるから、また明日だな」
「おー、そうか。んじゃまたあとでな!」
俺に返事をすると、すぐに食堂へと急行して行った彼らを見送りながら、俺はゆっくりと廊下を歩き始めた。廊下を歩いて行く途中に、アスナとリズベットが小走りに食堂へと向かって行くところや、俺とは別のクラスに配属されたユナとノーチラスが、学友と共に教室でお昼ご飯を食べている様子を目にする。
本日、俺が昼休み一番から学友と共に食堂に駆け込めなかった理由は、昨晩…とは言っても、メッセージが届いたのは午前一時で、既に俺は眠りについてしまっていたのだが…キリトから「明日の昼休み、アルファに話したいことがあるから、屋上で待っている」とメッセージが送られてきていたので、俺も今日の朝目覚めてから、「了解」とメッセを返しておいたのだ。
…話したいこととは、一体何なのだろうか。トークアプリなり通話なりで済ませられないということは…何か、面と向かって話さなければならない程、大切なことなのだろうか。
一体キリトが、何を伝えたいのか、それが全く見当のつかないまま、俺は屋上へと続く階段を登って行く。やがて俺は、階段を登り切り、屋外に出るための扉を開けた。
アルファ「よお、キリト」
キリト「アルファ、やっと来たのか」
コンクリートの灰色剝き出しの屋上には、キリト以外には誰も居ない。実は意外とカッコつけな彼は、空気循環用のパイプに寄りかかりながら、俺を待っていた。
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アルファ「おい、何呼び捨てにしてんだよ。一井先輩って呼べよな」
キリト「絶対に嫌だな。それだけは」
顔を合わせること二言目に、軽いジョークを交えてくるアルファに、俺は辛辣な返事をしつつも、さて、この話はどうやって切り出した物かと…或いは、本当に切り出すべきなのかと、心の中で思案を再開する。
俺は彼より一足早く屋上に辿り着いたのだが、彼を待つこと僅か三分ほどで、こうして彼が屋上にやって来てしまったので、俺もあんまり考えが纏められていないのだ。
キリト「そう言えば、アルファは学校の授業、どうなんだ?」
アルファ「ん~…前はかなりのアホだったんだが、地元の友達が鍛え上げてくれたおかげで何とか」
キリト「どうだ、俺と一緒にメカトロニクスコースを受講する気にはならないのか?」
アルファ「…この学校ってさ、なんでこんなに専門的なコースが多いんだよ。お前らがハイスペック過ぎるせいで、俺がやっぱりアホみたいな生徒じゃねぇかよ」
キリト「元はアホなんだろ?」
アルファ「ハッ、違いねぇや」
こうして気安い会話を交わす中で、俺はやはりそれに気が付き、胸の奥がチクリと痛む。
…まただ。またアルファの表情に、俺は違和感を覚えた。アルファとこうして下らない会話を交わしている時、どうにもあの世界での二年間と、帰還してからの数カ月では、些細な差を感じることがあったのだ。
しかも最近に至っては、ほぼ毎回彼に違和感を覚え、故に俺はその正体をよく吟味してみたところ…そう、彼の笑顔に、何処か陰りを感じていることに気が付いた。彼の笑顔が、悲しさを帯びているように見えるのだ。
…こんなことを言うのも悔しいし、あんまり図に乗らせないよう決して言葉にすることは無いのだが、ハッキリ言ってコイツの笑顔は、かなりの魅力を孕んでいる。それに本人が気づいているのか否かは分からないが兎に角、アルファの笑顔は、それはもう凄く人としての魅力に溢れているのだ。
しかし、それが最近はどうかと言われると、魅力が無いわけではないが、かなりパワーが落ちているように感じる。差し詰め半減といった所だろうか。
…あの世界での二年間と、こっちでの数カ月。そこにある大きな違いは…彼の恋人が、音信不通であること。…ならば、もしそうだとするのならば…俺は、「それ」を彼に伝えなければならないのだろう。
結局、「それ」を伝える決心をした俺は、彼との雑談を切り上げて、真剣な眼差しで彼を見据えた。
キリト「アルファ」
アルファ「なんだ?」
俺の表情の変化に気が付いたのか、アルファは不思議そうにこちらを眺める。そんな彼に、俺は変わらず極真剣な表情で、ハッキリとそう告げた。
キリト「──ユウキに、会いたいか?」
アルファ「…っ…」
俺の一言で、彼の表情は決定的に変わった。その驚愕した表情が何を意味するのかは…勿論、俺がかつてアスナを探し求め、無我夢中でALOの世界にまでやって来た時と同じように、ユウキに会いたいという一心なのだろう。
だからこそ俺は、彼を焦らさないようすぐさま次の言葉を放つ。
キリト「実は…もしかしたら、ユウキが居るかもしれない場所を見つけたんだ。だから、このメモを見て──」
俺が制服のポケットから、昨晩調べ上げた情報を書き上げたメモを手渡そうと、ズボンのポケットに手を伸ばしたその時であった。彼がそれを遮るように手を伸ばしたかと思うと、その口から、衝撃的な一言が返されたのだ。
アルファ「…いい。会わなくて、いい…」
キリト「な…!?」
それは、全くもって予想だに出来ない展開であった。まさかアルファが、ユウキに再開できるかもしれないという千載一遇のチャンスを、自ら手放すとは思いもしなかったのだ。
俺はその想定外過ぎる彼の一言に、一瞬固まってしまうも、すぐさま訊ね返す。
キリト「なんでだよ!?アルファはユウキに会いたくないのか!?」
アルファ「……俺の役目は、もう終わったんだ…だから…会わなくていい…」
俺の必死の問い掛けに、俺から目を逸らしながらそう答えたアルファの表情は、まるで何かを堪えるように、何かに耐え忍ぶように、胸の中に迸る感情を抑え込んだものであるように伺えた。
それを見た俺は、自然と彼の胸ぐらを掴み、叫んでいた。
キリト「お前は!本当にユウキに会いたくないって言うのか!?」
アルファ「……だって、俺はもうユウキに振られて──」
キリト「そんなわけ無いだろ!!あの時のユウキの表情を思い返してみろよ!!あんなに悲しそうな笑顔、本心からそう言った訳ないだろ!!きっと何か理由があったんだ!!」
アルファ「…んなこと言ったって、それが事実じゃねぇか…」
キリト「俺は!そんなの認めないぞ!!お前はそんな簡単に諦めるような人間じゃないだろ!?それともお前のユウキへの想いは、もう諦め切れるほどだってのか!?お前とユウキの絆は、こんな程度で途切れるものだったのかよ!?違うだろ!?俺が幸せになっても…それだけじゃあ意味ないんだよ!!俺は…っ!お前が幸せになってくれなきゃ…納得できない…っ!」
彼女がアルファの元から姿を消してから、あの世界で常に強くあろうと努力し続けていた彼が、余りに心を弱々しく萎れさせてしまった姿を今この目で見て、俺は自分の中に潜む感情を、爆発せざるを得なかった。
二つの仮想世界で俺を支えてくれたアルファ、そしてユウキ。あんなにも俺の心の支えとなってくれた二人が、こんな救いようのない結末を迎えるなんて、俺には到底受け入れ難い事実であった。
ユウキが最後に見せた表情。俺はあれが本心ではないと信じて、再び二人が出会うことの出来るよう菊岡が残した助言に従って、毎晩ネットで手がかりを調べ続けていた。それでも、何カ月経とうとも、目ぼしい情報は得られなかった。
そして俺が「それ」に辿り着いたのは、極々偶然の出来事であった。偶々俺が、ネットニュースを閲覧していた時に、これも偶々目についた、メディキュボイドなる医療用フルダイブ機器に興味を持ち、詳しく調べていく中で…その臨床試験が、2022年11月6日から2025年1月22日…つまり、SAO開始日からALO事件解決に至るまでの期間にピッタリ当てはまることに気が付き、こんな重大な臨床試験ならば、守秘義務も発生したのだろうと推測して、ユウキがその被験者であったのではないだろうかと、俺は落雷に打たれたような衝撃的な可能性に気が付いたのだ。
俺が溢れ出してくる感情に任せてアルファにそう迫ると、彼は──
アルファ「………だったら…俺に幸せになって欲しいなら、もうそんなこと言わないでくれよ…もう、嫌なんだ…もう悲しみたくないし、辛い思いもしたくない…。…心がずっと、痛いんだ…だから、俺に希望を見させないでくれ…夢を与えないでくれよ…」
キリト「……」
縋りつくような声でそう呟いた彼の表情を見て、俺は絶句した。
…泣き出していないのが、不思議だった。そう思えるほど、彼の表情は歪み、その瞳は凄惨な苦悩で満ちていた。彼は決して、今日まで表にその心の内を明かさなかっただけなのだろう。ずっと独りでその苦悶を抱え続け、俺達の見えないところで、相当に傷付き、苦しみ、もう十分に悩んだのだろう。
そんな彼を見た今、もう俺はどうすればいいのか、分からなかった。だから俺は、彼の胸ぐらから右手を離し、ポケットから取り出したメモ用紙をアルファの前に差し出してから、もう一度口を開いた。
キリト「…アルファの、好きなようにしてくれ。アルファがまだ頑張るなら、メモを取っていいし、もう疲れたなら、メモは取らなくていい。…アルファに伝えたいことは、全部ここに書いてある。このメモに、ユウキが居るかもしれない場所の情報も載っている。…でも、絶対に居るとは限らない。あくまでも俺の推測に過ぎないから…」
俺がそっと差し出した右手に、彼は怖気づくように一歩引いた。……それでも彼は、ゆっくりと俺の右手に挟まれたメモ用紙を掴み、しかしやはり惨痛に苛まれるような瞳を俺に向けながら、恐る恐る訊ねてくる。
アルファ「……なぁ、キリト…俺、まだ諦めなくてもいいのかな…?まだ夢を見ても、いいのかな…?」
キリト「…大丈夫だ。きっとアルファなら、ユウキともう一度出会える」
アルファ「…キリト…ありがとう…」
俺の差し出したメモ用紙を、ポケットに仕舞いこんだ彼は、俺に背を向けたまま感謝の言葉を告げると、屋上から去って行った。
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ガタンゴトン、ガタンゴトン。
電車が奏でる音楽と共に、俺は身体を揺らしながら、目的地へと向けて運ばれていた。俺の目指す先は…横浜港北総合病院。昼休みにキリトから受け取ったメモ用紙に書かれていた、彼女が居るかもしれないという場所である。
…よもや、キリトに胸ぐらを掴まれるとは、思いもしなかった。彼の腕を振り払おうと思えば、出来たのだろう。それでも彼にされるがままになり続けたのは、彼の真摯なる想いが俺の心の奥底を貫き、ならばもう一度、友の為にも彼女を探しに行こうと……いや、それは嘘だ。
俺自身がやっぱり、どうしても彼女にもう一度会いたいと願っているからこそ、俺はあのメモ用紙を掴んだのだ。友の紡いでくれた微かな希望に縋り付き、何度でも心が痛もうとも、俺は彼女を探してしまうのだろう。
…全く、二週間ほど前に、やっと君との決別を果たせたと思っていたのに、実のところは全然そんなこと無かったらしい。俺がこんなにも女々しくて、未練たらたらで、どうしようもない程に君を愛してしまっているとは、想像も出来なかった。
学生の帰宅ラッシュ時だということもあるのか、地元の電車とは違って、停まる駅ごとに行く人来る人が沢山で、実に目まぐるしい。
…そう言う俺も、キリトからメモ用紙を受け取った後、取り敢えず昼食を済ませてから、すぐさまそのメモ用紙に目を通し、じれったい想いで午後の授業を受け終えると、自宅ではなく駅へと向かって、全力で自転車を漕いだのだが。
やがて目的地の最寄り駅に到着し、俺は人混みに紛れながら改札口を出るとすぐ正面に、巨大な長方形の威容が伺えた。俺は畏れる足を一歩ずつ動かしながら、目的地へと近づいて行く。
……この気持ちは、一体どう説明したらいいのだろうか。俺は今すぐにでも君に会いたくて、ここに君が居て欲しいと逸る心がある一方で、君がここに居るとは思いたくない。いっそのこと君に会えなくとも、君にはここに居て欲しくないという相反する心が、俺の胸中を渦巻いていた。
キリトから受け取ったメモ用紙に記載されていた事柄は、この病院の所在地だけではない。彼が、ここに彼女がいると考える根拠…メディキュボイドなる機器に関する事柄も記載されていた。
メディキュボイド…世界初の医療用フルダイブ機器であり、キリトに言わせてみれば、ユウキはその機器の被験者である。ということはつまり、君がこの大きな病院に居るということは……やめよう。まだ、それが事実だと確定したわけじゃない。変な先入観を持つ必要もない。
やがて病院の出入り口が目の前に迫ってきたその時、突然の土砂降りが俺を襲った。それはまるで、俺がこの病院を訪れることを、何者かが拒んでいるように、或いは、ここまでやって来ておいて、今更逃げ出すなんて手段を俺に選ばせないように、もう賽は投げられたのだと言わんばかりであった。
急ぎ足でガラスの二重自動ドアをくぐり、外が土砂降りになったせいで、採光の取れなくなったエントランスは、人工照明によって明るく照らし出されていた。つい数か月前に嗅いだような、消毒液の匂いが俺の嗅覚を刺激し、少し懐かしい気持ちになる。
小さな子供と母親、学生、お年寄りが、皆急ぎ足な駅とは違って、ゆっくりと行き交う空間を横切りながら、俺はどうするべきかと悩みつつも、面会受付カウンターへと向かった。
窓口横で手に入れた用紙に記入しようと、黒ペンを持ったが、面会相手の名前を記入する欄を見つけて、思わず手が止まる。俺が知っている彼女の名前とは、単なるキャラクターネームであり、それが本名かどうかは分からないのだ。
又もやどうするべきかと散々迷った挙句、それでも俺は、ここで君を諦めることだけは、どうしても出来なかった。意を決して窓口へ向かう。カウンターの向こうに待機していた、白いユニフォームの看護婦は、俺がそちらに近づいて行くと、笑顔で訊ねてくる。
「面会ですね?」
その質問に、俺はぎこちなく頷くしかなかった。一部空欄の申請用紙を差し出しながら、俺は口を開いた。
アルファ「あの…面会したいんですが、相手の名前が分からなくて…そもそも、この病院に居るのかも分からないんですけど…」
「はい?」
当然訝しそうに眉を寄せる看護婦に向かって、俺も懸命に言葉を探す。
アルファ「多分、高校生ぐらい…いや、下手したら大学生なのかもしれないんですけど…見た目はかなり幼くて…中学生って可能性も無くはないんですけど…えっと、名前は<ユウキ>かもしれないくて…VRワールドで知り合ったので、それが名前なのか分からないんです」
俺の曖昧過ぎる抽象的な答えに、看護婦さんはあくまで柔和な表情で、俺に告げる。
「ここにはたくさんの入院患者さんがいらっしゃいますから、それだけでは判りませんよ」
アルファ「…そうですよね。…ええと、ここで試験中のメディキュボイドを使ってる方だと思うんですが…」
「患者さんのプライバシーに関しては…」
アルファ「…だったら…その、言い辛い事なんですが…そのユウキって人は、俺と一緒にSAO事件に巻き込まれているはずなんですけど…」
「…それも、患者さんのプライバシーですから、お答えできかねます…」
俺は、彼女を特定できるであろう事実を思い出し、それを看護婦に告げるも、プライバシーに関しては答えられないとの定型的な返事が返って来る。だったら、元SAOプレイヤーであることを伝えればどうかと思いそれを言葉にするも、やはりこちらも同じ返事が返って来た。
…このままでは、もう二度と、俺は君に会えないのかもしれない。もう目の前に君がいるかもしれないのに、全くもって彼女の居る場所に辿り着けない俺は、そんな焦燥に駆られ始めていた。
それでも、友が俺の為に創り出してくれたラストホープを掴み取らないわけにはいかないので、俺は必死に頭を働かせて、君がここに居るのか否かをハッキリさせられる発言を探していたその時──
「今、何とおっしゃいましたか!?」
アルファ「え…」
──突如として、病院という空間にそぐわない、駆けるような足音を鳴り響かせながら、こちらに接近した後に俺の肩を掴んできたその人物は…小柄で少しに肉付きの良い、医師であろう白衣を纏った男性であった。
恐らく三十代前半だろうか、つやつやと広い額の上で髪をきっちり七三に分け、縁の太い眼鏡を掛けている。彼は戸惑う俺に対して、変わらず急くような表情で訊ね返してくる。
「ですから!今あなたは何とおっしゃいましたか!?」
アルファ「…えっと…俺と一緒にSAO事件に巻き込まれている…?」
「その一つ前!!」
アルファ「ここでメディキュボイドを使っている方…?」
「その一つ先!!」
アルファ「……ユウキ…?」
俺は全く状況を呑み込めないまま、男性医師に促されるままにそれを呟く。対する男性医師は目を大きく見開きながら、やがて俺の肩を掴む力を強めると、静かな一声を俺に掛けてきた。
「…失礼ですが、貴方のSAOプレイヤーとしてのキャラネームを、伺わせてもらえますか?」
アルファ「…アルファ、です」
「…あなたが、アルファ君なんですか…」
アルファ「…?あの世界での俺のことを、知ってるんですか?」
男性医師に迫真の表情で訊ねられて、答えるべきかと思った俺は、まぁ別に隠すことでもないだろうと、しかし周りの人間には聞こえない声量で、自分のキャラネームを伝えた。
それを聞いた男性医師は、そこでようやく俺の肩から手を離すと、俺を知っているような口振りを見せたので、俺もそれに言及してみたわけである。
すると男性医師は、穏やかな表情を向けながら、俺に核心的な一言を放ったのだ。
「直接的には知りませんが…よく聞いていましてね。…プレイヤーネーム<ユウキ>君から」
アルファ「なっ!?」
「…立ち話もなんですので、詳しい話は、上のラウンジでしましょうか」
アルファ「…はい」
…この男性医師は、ユウキのことを知っているのだ。その事実と、であればやはり、キリトの推測通り、ここに君がいるのだろうことに驚愕を隠せなかった俺は、男性医師の案内に素直に従って、広々とした待合スペースの奥まった席に移動した。
男性医師と向かい合って座ったすぐそばの窓からは、病院の広大な敷地が広がっており、晴れてさえいれば、周囲の緑を遠く望むことが出来るのだろう。周囲に人影は少ない。この場に来るまでに沈黙を貫き通していた二人であったが、先に沈黙を破ったのは、男性医師であった。
「まずは、自己紹介をしましょうか」
アルファ「そうですね。…俺は、一井歩夢って言います」
「僕は倉橋と言います。紺野さんの主治医をしております」
アルファ「こ、こんの…さん?」
聞き慣れない言葉に、俺は自然とそれを訊ね返した。すると男性医師改め倉橋先生は、若干垂れ気味の眼をにこにこと細めながら、俺の問いかけに答えてくれた。
倉橋「ええ、フルネームは、紺野木綿季さんです。ユウキは、木綿に季節の季と書きます。僕は木綿季くん、って呼んでますが…」
アルファ「…こんの、ゆうき……それが、ユウキの本名…」
思わぬ形で、君の本名を知った。決してそれは君の口から語られたものではないとしても、大好きな君の名前を知れただけで、俺は凄く嬉しかったんだ。だから俺は、君の名前を確かめるように、ゆっくりと呟いた。
そんな俺を、変わらずにこにこと眺める倉橋先生は、また口を開いた。
倉橋「木綿季くんは、あの世界から還って来て毎日、アルファ君の話ばかりしていますよ。あ、すいませんつい、木綿季くんがあなたのことをそう呼ぶもので」
アルファ「あぁ、構いませんよ。俺もその名前、結構気に入ってますし」
倉橋「ははっ、そうですか」
俺がそう答えると、倉橋先生も朗らかに笑っていた。
倉橋「アルファ君は、木綿季くんとSAOで知り合われたんですよね?…でも、木綿季くんの様子を見る限り、彼女がアルファ君にこの病院のことを話したようには思えないんですが…」
アルファ「…そうですね。ただ、俺の友達が、ここに居るんじゃないかって…単なる推測で…」
倉橋「ほう、それでよくここが判りましたね。もしあの時僕がアルファ君を見つけられなかったらと思うと…かなりゾッとするねぇ」
アルファ「あの……ユウキは、俺のことを先生に話したんですか…?」
先生と交わす会話の中で一番知りたかったことが、それであった。一体彼女は、どんな風に俺のことを先生に伝えたのだろう。何を思って俺の話をしたのだろう。それがどうしても、気になったんだ。
俺がそれを訊ねると、倉橋先生はニ、三度大きく頷いた。
倉橋「木綿季くんは、SAOでの冒険譚を沢山話してくれるんです。アルファ君以外にも、アスナさんだとか、キリト君という人物だったり…それはもう、本当に沢山ですよ。ただね、木綿季くんはSAOでの日々を僕に話すと、良く涙を流して…そしてアルファ君の話をすると、決まって最後は大泣きしてしまってね。木綿季くんは、自分のことでは決して弱音を吐かない子なんだが」
アルファ「えっ…な、なんで…」
確かにユウキは、自分のことでは弱音を吐かなかった。寧ろ直ぐに後ろを向きたくなる性分の俺が、いつだって前を向いていられるように、彼女は常に俺を支えてくれた。だからこそ、倉橋先生の発言の後半は、深く理解出来た。
だが、どうしても前半が……俺の話をして大泣きするという理由が、全く見えてこなかった。俺の純粋な疑問に、これまでは微笑を絶やさなかった先生は、僅かに沈痛な表情を見せてから、俺に続けて語り掛ける。
倉橋「もっと一緒に居たかった、でも居られない。今すぐアルファ君に会いたい、けどもう会えないと言うんです。その気持ちは…判らなくもないんだが…」
ますます、意味が分からなかった。先生の口から語られるユウキの姿は、俺の想像しているユウキの像とは大きく食い違っていたのだ。
ユウキは確かに、俺に別れを告げたのだ。ならばその張本人であるユウキが、そんな俺みたいな未練だらけの発言をするわけが無いのだ。
……解らない。君の心が解らない。だからもう俺は、直接君に心の声を聞くしかないんだと思う。
アルファ「…なんで…なんで会えないんですか!?」
…そんなわけが無い。そんなこと、あっていい筈がない。君に限って、そんなの無いだろう!?胸の奥からジワジワと膨らみつつある、その悍ましい可能性を押し殺すように、俺は少々声を荒げてしまう。
対する先生は、俺に落ち付くよう丁寧に求めてから、しばらく無言のままテーブルの上の両手に視線を落とすと、やがて静かに答えた。
倉橋「それでは、まず、<メディキュボイド>の話から始めましょうか。アルファ君は、もちろんナーヴギアの元ユーザーだったんですよね?」
アルファ「…は、はい、そうです」
倉橋先生は、一つ頷くと顔を上げ、思いがけないことを口にした。
倉橋「あなたにこんなことを言うのは何ですが、僕は、フルダイブ技術がそもそもアミューズメント用途に開発されたことが残念でならないのです」
アルファ「…は、はぁ…」
倉橋「あのテクノロジーは、政府がしっかり出資して、最初から医療目的に研究されるべきでした。そうすれば、現状後一年、いや二年分は進んでいたはずです。考えてみてください。アミュスフィアのもたらす環境が、どれほど医療の現場で有効に機能するか。たとえば、視覚や聴覚に障害を持つ人達にとっては、あの機械は正に福音なんです。先天的に脳に機能障害がある場合は残念ながら除外されますが、眼球から視神経に異常があっても、アミュスフィアなら直接脳に映像を送り込めるわけです。聴覚の場合も同様です、光や音を全く知らずに育った人たちでも、今やあの機械を使うことで、本物の風景という物に触れられるようになったのです」
アルファ「…なるほど」
熱っぽく語る先生の言葉に、俺はこくりと頷いた。確かに彼の言う通り、フルダイブ技術は政府が研究すべきだったのかもしれない。
だがそうであれば、自動的に俺もユウキと出会うことすらできなかったわけで…俺から見れば、その点に答えは出ないのだろう。
倉橋「また、有用なのは信号伝達機能だけではありません。アミュスフィアには、体感覚キャンセル機能もありますよね。うなじに電磁パルスを送ることで、一時的に神経を麻痺させるわけです。つまり、全身麻酔と同じ効果がある──」
アルファ「あの、それは無理なんじゃないですか?アミュスフィアもナーヴギアも、体感覚キャンセルの限界がありますし…手術とかで伴う全身麻酔の代用にはなり得ない…」
倉橋「そ…そうなんです」
更に話に熱中し始めた倉橋先生の発言に、些細な違和感を覚えた俺は、完全にキリトからの受け売りではあるが、キリトが垂れ流していた情報を自分の言葉でまとめて先生に伝える。すると彼は驚いたように目を見開いたが、すぐに言葉を続けた。
倉橋「全くその通りです。それにアミュスフィアは電磁パルスの出力も弱いし、CPUも省電力タイプなので、処理速度に多少の問題があります。VR世界にフルダイブするならそれでもいいのですが、綸子と組み合わせてリアルタイムに現実環境と同期させる、つまりARを実現するにはスペックがやや足りない。そこで現在、国レベルで開発が急がれているのが、世界初の医療用フルダイブ機器──<メディキュボイド>なのです」
倉橋「まだコードネームですがね。要は、アミュスフィアの出力を強化し、パルス発生素子を数倍の密度に増やし、処理速度を引き上げ、また脳から脊髄全体をカバーできるようベッドと一体化した者です。見た目はただの白い箱ですが…。これが実用化され、多くの病院に配備されれば、医療は劇的に変わりますよ。麻酔は殆どの手術で不要となりますし、また現在、ロックトイン状態と診断されている患者さんとも、コミュニケートできるようになるかもしれません」
アルファ「ロックトイン?」
倉橋「閉じ込め症候群、とも呼ばれていますね。脳の、思考する部分は正常なのだが、体を制御する部分に障害があり、意思を表すことが出来ない状態です。メディキュボイドなら脳の深部までリンクすることが出来ますからね、例え体が動かなくても、VRワールドを利用して社会復帰できる可能性すらあるのです」
アルファ「…凄い、ですね。メディキュボイドはまさしく、夢のような機械なんですね…」
俺が何気なくそう口にすると、倉橋先生はまるで現実に引き戻されたかの如く、熱が冷めたように口を閉ざしてしまった。
そしてやや表情を沈ませると、眼鏡をはずし、深く長く嘆息する。やがて小さく首を左右に振りながら、彼は何処か悲しそうに微笑んだ。
倉橋「ええ、まさに夢の機械です。しかし…機械には当然限界がある。メディキュボイドが、最も期待されている分野の一つ…それは<ターミナルケア>なのです」
アルファ「終末期、治療…」
自分でその言葉を発しておきながら、俺の心は酷く動揺していた。…今その発言がされるということはそれすなわち……君は……?
そんな俺に、倉橋先生はどこかいたわるような表情を浮かべ、しかし真剣な様子で、次なる言葉を発する。
倉橋「僕は今から…木綿季くんの主治医失格の行為をします。本来主治医という者は、患者さんとのインフォームドコンセント…つまり、患者さんからの同意を得る必要がありまして、医師の独断で事を進めると…最悪、裁判沙汰になることも珍しくありません。…しかし、そうしてまでも、木綿季くんにとっては、アルファ君の存在が不可欠だと、僕は強く思います。木綿季くんがこれからを生きるためには、貴方が支えが欠かせないのです。彼女はよく無意識のうちに、貴方の名前を呟いているほどですから。…ですから僕は、あなたに木綿季くんの全てを、独断でお話ししたいと思っているのです。勿論、あなたが望むのであれば、ここで話を辞めておいても構いません。それもまた、幸せの形の一つでしょうから」
…主治医がここまで言うのだ。もうきっとユウキは、俺が想像する最悪の状況下…いや、その想像すら軽く上回るほどの、俺が想像できないほどの状況に置かされているのだろう。そんなことは、信じたくはない。だけどそれでも、それが真実なのだ。
なればこそ俺は、君に訊ねなければならなかった。言いたいことが沢山あった。聞きたいことが山ほどあった。俺は一度深呼吸を挟み、君の全てを真正面から受け止め、受け入れる決意を固める。
アルファ「…お願いします、先生。俺は…ユウキにもう一度逢うために、ここまで来ましたから」
俺の確かな言葉に、倉橋先生は穏やかに頷いた。
次回の投稿日は、一月十八日の火曜日となります。
では、また第114話でお会いしましょう!