十月下旬。霜降へと突入しようとしている今日この日。俺はようやく手にしたプレイヤーホームにて、ソファーに並んで腰かけながら、ユウキと二人、勉学に励んでいた。
ALOは暦にも律儀なのか、朝晩は段々と肌寒い時間が増えてきている気もするが、長時間燃え続ける魔法の薪を燃料とするストーブのお陰で、この空間はほんわかとした温かさが保たれている。…いや、そればかりではない。きっと、こうして隣に君が居て、またこの家で暮らせているからこそ、心の温度もまた、心地良い温かさに保たれているのだろう。
アルファ「…そういやユウキって、俺達が学校行ってる間も、こうやって自主勉してるのか?」
そう思うと、途端に君を意識してしまい、目の前のウインドウに広がる宿題プリントに集中出来なくなった俺は、隣で難解そうな古文に手を付けているユウキに声を掛けたのだ。すると彼女は暫し古文を眺め続け、一問解いたところで、こちらに顔を向けてくれる。
ユウキ「ん~…そういう日もあるけど、ネットサーフィンしてたりする日もあるし、色々かな」
アルファ「ネットサーフィンか…そんな授業があったらいいんだけどな…」
ユウキの一言に思わずそう呟くと、彼女からは呆れ顔で「そんな授業あるわけないでしょ。アルファはすぐに授業嫌がるんだから」とお叱りを受けてしまった。全くもってその通りであったが故に、俺は何も言えないでいると、ユウキは思い出したように言った。
ユウキ「…あ、でも、ボクも学校に行くことだってあるんだよ?」
アルファ「…どういうことだ?」
彼女の突発的な一言に、俺はその意味を解せず訊ね返す。
…彼女は現在、クリーンルーム内…いや、メディキュボイドの中で生活しており、そこから脱出することは叶わない。それ故にユウキは、俺の話す学校での日々を、憧憬の籠った表情で聞いてくれているのだろう。であればどうして、彼女は学校に行ってると言えるのだろうか。
するとユウキは、すぐに答えてくれた。
ユウキ「えっと、ボクが行くことがあるのは、仮想世界の学校なんだ。ボクみたいに学校に通えない人達の為に、時々学校が開かれるんだよ。ボクはさ、ほら、メディキュボイドを使ってログイン出来るからね。偶に行ってるんだ」
アルファ「へぇ、仮想世界にも学校か…人類も来るところまで来ちまったって感じだな」
ユウキ「ホント、一昔前だったら考えられなかったよね~」
曰く言い難い感慨を込めながら俺がそう言うと、彼女もまた同じような表情で俺に共感を示した。
…バーチャルワールド。それは間違いなく、ナーヴギアの開発に尽力した狂気の天才によって、一気に興隆したものなのだろう。そして彼は自らの内なる欲望に従い、恐怖のゲームを開催した。
そのゲームは世界観自体は美しくとも、その内情は負の感情に満ち溢れたものであった。俺はそのデスゲームに巻き込まれ…いや、自らその道を選び、こうして今がある。彼が世界に台頭しなければ、俺はユウキと出会うことは無かったのかもしれない。
あの世界があったからこそ、俺はこうして、ユウキと共に道を歩けるのだ。それはどうしようもない程に幸せな事なのだと思う。だが一方で、俺はあの世界で、確かに大切なものを失った。甘さと苦さの入り混じったあの世界は、俺を大きく変容させたのだろう…。
ユウキ「…でもね…仮想世界の学校は、とっても静かで綺麗なんだ。…来る人みんな、お行儀が良すぎてさ、あんまり学校らしくないんだよ~…」
ユウキはその表情に苦笑いを浮かべながら言葉を続けると、ほんの少しだけ悲しそうな笑顔で、俺に言った。
ユウキ「…あと一回ぐらい、アルファが通ってるみたいな、元気で騒がしくて、学校らしい学校に行ってみたかったな…」
アルファ「…」
ユウキ「あ…ごめんね。別にアルファがそんな顔しなくてもいいんだよ。ボクはアルファ達から学校の話を聞けるだけで、十分満足してるから」
そう言った君に、俺は何も言えなかった。言葉に迷っているのか。それとも掛けるべき言葉でさえ見つけられていないのか。その時の俺がどんな表情を浮かべていたのかまでは判らないが、兎に角俺は、ユウキの顔を黙って見つめていた。
そして彼女はそれに気が付き、済まなそうに謝る。そんなユウキに対して、俺はまた何も言えないまま、ただ君の頭を撫でることしか出来なかったのだった。
だが今の俺なら、胸を張ってこう答えよう!
ユウキの望みを叶える時が来たのだと!!
四限目のチャイムが鳴り響き、数学の授業が終わりを迎える。
この学校では、四限目終了の鐘音それすなわち、学生のオアシスたる、昼休みの始まりを告げる希望のゴングである。教室内で大人しく授業を受けていた誰彼もが廊下へと飛び出し、食堂の席争奪戦に参戦したり、単に他教室へと赴いたり、或いは少数は教室に残ってお弁当を取り出したりと、各人が選ぶ行動は様々であった。
そんな中俺はと言えば、カフェテリアでも他教室でもトイレでもなく、一直線に目的地を目指していく。昼食については三限四限の合間の十分休みに済ませていたので、残りの授業中に空腹地獄を味わうことも無かろう。
地に足つかない心豊かな気持ちのままに、俺は廊下を歩いて行く。渡り廊下を通り抜け、第二校舎の階段を一つ昇り、そしてその教室前に辿り着く。
がしかし、俺は余りにウキウキしているのか、一番最初に到着してしまったようだった。なので律儀に秒数でも数えながら、彼の登場を待つことにする。一分後、階段から足音が響き、俺がそちらに顔を出すと、やはり彼がここにやって来ていた。
キリト「アルファ、早かったな」
アルファ「早い方が良いだろ?サッサと準備しようぜ」
キリト「準備するのは俺達なんだけどな」
アルファ「いいからいいから」
待ち人であったキリトと、その仲間であろう男子生徒二名。彼らに案内されて電算機室に入った俺は、暫くは手持ち無沙汰に、彼らの行く末を見守ることに徹していた。
三人はあれやこれやと専門用語を交わし合いながら、半球のメカを取り囲んでいる。それの基部は単なるアルミの削り出し材だが、ドーム状の部分は透明なアクリル板が張られており、半球内側のレンズが見て取れた。
形はまるっきりUFOそっくりだが、大きさは直径七センチ程であろう。基部のソケットからは二本のケーブルが伸びており、一本は小型デスクトップPCに、そしてもう一本は、俺の携帯に接続される予定である…予定ではあるのだが、果たしてそこまで行き着いてくれるだろうか。そう思わせてくれるぐらい、彼らは一向に意見交換を辞めようとはしない。
まぁ、その間にこの機械の説明でもしておこうか。そう、このメカこそが、キリトがこの学校に入学し、メカトロニクス・コースの1グループで模索し続けていたという、<視聴覚双方向通信プローブ>である。
そして本日、遂にこの通信プローブを試運転しようという段階にまで来たわけで、その試作機をユウキが使えるよう、キリトが計らってくれたのだ。
事の発端は、一昨日のことだった。夜も更け始めた頃にキリトから電話がかかってきたかと思うと、「視聴覚双方向通信プローブが一旦完成したから、ユウキに使ってもらわないか?」と彼は申し出てくれた。
勿論それを二つ返事で了承したい俺ではあったが、一応形式的に、「ユイちゃんの為に開発したんなら、ユイちゃんに使ってもらわなくてもいいのか?」とは訊ね返したものの、恐らく俺の表情には、「是非ともユウキの為に使わしてください!」とでも現れていたのだろう。
それが電話越しにでも伝わっていたのか、俺の望み通り、彼はユウキを通信プローブの第一使用者として認めてくれた。
そして件の通信プローブが完成したこと、それを使えば学校にだって疑似的とは言え訪れることが出来ることを、その日眠る前にユウキに伝えると、彼女は大層嬉しそうな表情を浮かべてくれた。
昨日はキリトと共にユウキの病室を訪れ、倉橋先生に通信プローブについて説明し、ユウキの使用するメディキュボイドとそれを接続しても構いませんかと伺うと、彼はそれを快諾してくれた。
そんなわけで本日、後はもう、プローブの最終微調整さえ終えてしまえば、ユウキの望みを叶えられるその時が来るのだ。がしかし…。
「だからさ、これじゃジャイロが敏感すぎるんだって。視線追随性を優先しようと思ったら、ここんとこのパラメータにもう少し遊びがないと…」
「でもそれじゃあ、急な挙動があった時にラグるんじゃないか?」
「そのへんは最適化プログラムの学習効果に期待するしかねぇよ、カズ」
三人寄れば文殊の知恵。そうは言ったものだが、これ程にまで意見は飛び交うものだろうか。
俺がのんびりと回想しているこの間にも、遅々として進んではいるものの、通信プローブの試験は一向に始まる気配を見せないまま。実に三十分ほどは経過してしまった。
椅子に座り姿勢を正しく固定し続けるという苦行に耐えかねた俺は、じれったい思いで彼に言った。
アルファ「おいキリト、もう昼休み終わりそうなんだが」
するとキリト及び他二名は納得いかなそうに唸りつつも、ようやくこちらに顔を向けてくれる。
キリト「とりあえず初期設定はこれでOKとしとこう。えーと、ユウキ、聞こえるか?」
キリトが半球の機器に向かってそう問い掛けると、すぐにそれに備え付けられたスピーカーから、彼女の元気な声が応えた。
ユウキ「うん、よく聞こえてるよー」
キリト「よし、じゃあ、これからレンズ周りをイニシャライズするから、視界がクリアになったら声を出してくれ」
ユウキ「りょーかい」
ういいんと、レンズがフォーカスを調整するモーター音が右肩で鳴り響いた。この直径七センチほどしかない機械が、ユウキのリアル世界でのアバターと言う訳である。
いつもよりもちょっとだけ、自分のものでは無い重さを感じる右肩は、彼女が現実世界にやって来た紛うこと無き証なのだろう。ユウキがタイミングよく「そこ」と答えると、その調整音も同時に停止する。
キリト「よし、これで終わりだ。アルファ、一応スタビライザーは組み込んであるけど、急激な動きは避けてくれよ。あんまり大きな声も出さないこと。囁くくらいで十分伝わるからな」
アルファ「おーけー、サンキューな」
色々と注意事項を説明してくるキリトに返事と感謝の言葉を告げながら、暫し強張ったままだった身体を解していく。キリトがPCに繋がるケーブルを抜いたのを確認してから、俺は早速肩のプローブに小声で話し掛けてみた。
するとすぐ耳元から、愛する彼女の声が聞こえてきた。
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アルファ「悪いな、ユウキ。先に学校の中案内しようと思ってたけど、もうすぐ昼休み終わるから、後になりそうだ」
メディキュボイドのVRルームにて、椅子に腰かけていたボクは、目の前に広がるその光景に、ただただ得も言われぬ感動を抱くばかりであった。
この眼下に映る黒っぽい紺色のブレザーは、恐らくアルファのモノなのだろう。聞き慣れた彼の声が、VRルーム内全体に響き渡るように、そして彼の生きる現実世界の雑音が、これでもかと耳に届いて来る。
そして何よりもボクの目を釘付けにしたのは…もう大昔に見たような、学校の教室構造であった。いま彼のいる場所は、恐らく特別教室なのだろう。ボクには見覚えのない空間であったが、それでも、そこが学校である事には疑いは無かった。
アルファ「…ユウキ?聞こえてるか?」
ユウキ「…あ、うん、聞こえてるよ!久しぶりの景色に見惚れてたよ~」
ボクが長らくこの光景を見つめるばかりであったせいか、彼が心なしか心配そうに訊ねてくるので、ボクも慌てて返事をする。
アルファ「…んじゃ、まずは次の授業の先生に挨拶しに行こうぜ」
そう言った彼は、教室を出てゆっくりと廊下を歩き始めた。
…昼日が差し込み陰影の付いたタイル張りの廊下。ちょっと古臭い階段。ガラス張りの続く廊下に、そこから見下ろせるグラウンド。廊下の所々には掲示板があって、そこにはいくつもの張り紙がなされている。
この当たり前であるはずの風景をこの目で見るのは、本当にいつ振りだろう。ボクがそれらを目にする度に、わあっと歓声を上げると、彼は瞬間その場に止まって、ボクにその懐かしの様子をじっくりと眺めさせてくれた。
校内を進んで行き、やがて「職員室」というプレートのついたドアを目にすると、ボクは図らずも黙り込んでしまう。そんなボクを不思議に思ったのか、彼はボクに問い掛けてくる。
アルファ「…どうした?」
ユウキ「えーと……ボク、昔から苦手だったんだよね、職員室…」
ボクの記憶に残る学校での思い出。それは小学生の頃、ちょっと怖い先生が職員室に入ってすぐの所に座って居たせいで、ボクが職員室に入った時に、他の生徒がそれはもうこっぴどく怒られている現場に出くわしたことがあるのだ。
それ以来ボクは、職員室という場所に少なからずの抵抗感を抱いているのだが…ボクがおずおずとそう言うと、彼は何故だか笑い声を上げた。何だろうと思ったボクが視線をそちらにやると、恐らくカメラが動いたのだろう。彼がそれに気が付き、笑顔で答える。
アルファ「いや、ユウキにも苦手なもんとかあったんだなって」
ユウキ「そりゃそうだよ。ボクにも苦手な物の一つや二つあるもん」
そんな彼の笑顔は、何かボクの弱点を見つけたかのような憎たらしい笑みであり、ボクも自然と口を尖らせて反論してしまう。
アルファ「ま、この学校は先生っぽくない人ばっかだから、大丈夫だと思うけどな」
レンズに目を合わせることで、メディキュボイドの中に居るボクとも目を合わせてきた彼は、ボクにそう告げたと思ったら、そのまま勢いよくドアを開けてしまった。
まだ心の準備が出来てないのに!?と思いつつも、こうなってしまっては仕方がない。彼が挨拶すると同時に、ボクもたどたどしく後に続く。
アルファ「失礼します」
ユウキ「し、失礼しまぁす」
彼は慣れた様子ですたすたと机の列を横切り、見事な白髪白髯の男性教師の元へ辿り着くと、丁寧にボクの事情を説明してくれた。
ふとアルファの表情を確認してみると、彼は何だか少し緊張しているみたいだったけど…なんだ、アルファって思った以上に、学校の中ではしっかり出来てるんだね。何だかボク、ちょっと安心したよ…。
…学校見学、授業見学に来たというよりは、どちらかと言えばアルファのママとして授業参観に来たみたいだなぁ…と、ボクが保護者的な視点に立とうとしていると──。
「うん、構わんよ。ええと、君、名前は何と言ったかね?」
彼の話を聞き終えたその先生は、一つ頷いてボクに話し掛けてきたのだ。一気に親御から生徒へと立場が舞い戻ってきたボクは、噛まないよう気を付けながらすぐに言葉を返す。
ユウキ「あ、はい……ユウキ──紺野木綿季です」
流石に、このプローブから即時の返答があるとは想像していなかったのか、教師は少々驚いたようだったが、すぐに口元を綻ばせた。
「コンノさん、よかったらこれからも授業を受けに来たまえ。今日から芥川の「トロッコ」をやるんでね、あれは最後まで行かんとつまらんから」
対するボクも、まさかこんなにも簡単に授業見学の許可が下りるとは思っていなかったわけで、少々驚きつつも、全力の感謝を言葉にした。
ユウキ「……はい、ありがとうございます!」
ボクに続いてアルファもお礼を述べたところで、これまた懐かしい予鈴が鳴り響いた。しかしこの予鈴が、何処かアインクラッド第一層・はじまりの街のチャペルに似ているように思えるのは、ボクの気のせいであろうか。
職員室から出ると、大丈夫だとか言っていた当のアルファ本人が、同じくふぅと安寧の息をついたことに、ボクは大きな笑い声を上げてしまった。
そして彼はまた廊下を歩き出し、今度は自分の教室へと舞い戻ったようだ。彼が教室に入った途端、もう五年以上も目にすることの無かったその光景が、ボクの視界に飛び込んできた。
教壇、教卓、机と椅子が、あの木と金属で作られた単純な造りである事には変わりがなく、教室の両端中央には一本の支柱が通り、そのサイドには沢山の窓ガラスが張られていた。教室前方には黒板と電子黒板が、後方には各人のロッカーが設置されていて、それは本当に本当に、ボクにとっては懐古的な風景であった。
そして何よりも、一番胸に込み上げてくるものは…その教室内の喧騒だった。多くの生徒たちがあれやこれやと喋り合い、笑い声を上げ、大声も響かせる。ボクにとってはその様子が、何よりも学校を学校たらしめている物であると思えたのだ。
ボクが暫く黙り込んでいると、彼はそのまま自分の席…殆ど中央に座った。すると途端に、周囲の生徒たちがこちらへゾロゾロと近づいて来るではないか!その中には、恐らく学校でもファンクラブが結成されているであろうアスナにリズまでもだ!
…ま、まさかアルファって、学校だとこんなに人気者なの!?とボクが思ったのも束の間、如何やら彼らは皆、通信プローブに興味を引いているらしい。アスナやリズには、今日学校に行くかもしれないことは伝えてあったので、然程驚いたりはしていなかったが、残りの数十名の生徒は違った。
ボクは自分が入院しているから、こういう形で学校見学に訪れているのだと彼らに簡単に説明し、ボクがそれに続いて軽く自己紹介をすると、彼らは我先にと自己紹介を始めたのだ。
その時のボクはそれはもう、聖徳太子にでもなったのかと思うくらい忙しかったけど、またこういうのが、学校の楽しい所なのだ。ボクは笑顔を綻ばせながら、彼のクラスメート達の自己紹介を聞き続けた。
その途中に、今のボクってアルファの肩に乗せられてるけど、みんなから見たらボク達ってどういう関係に見えてるのかな、だなんてことが脳裏によぎったが、余り深く考えると恥ずかしくなっちゃいそうだったので、適当なところでそれを考えるのは辞めておいた。
みんなの自己紹介が一段落したところで本鈴が鳴り、さっきの国語教師らしい先生が前のドアから姿を現す。日直の男子生徒が起立礼の号令を掛けると共に、ボクもVRルーム内で立ち上がって、軽く頭を下げる。
そして授業が始まった。老教師が今日から始まるトロッコの概説を続けていく中で、アルファはボクにテキストが見えるよう、しっかりとタブレットを持ち上げてくれる。…やっぱり、授業中はみんな真面目にしてるんだなぁと思っていたその時だ。
「──では、最初から読んでもらいましょう。紺野木綿季さん、お願いできるかな?」
アルファ「ぬっ!?」
ユウキ「は、はいっ」
それは余りにも不意打ち過ぎる。まさか先生が、授業見学に来たボクを名指しで呼ぶことなど、誰が想定出来ようか。その証拠に、メディキュボイドの中でソファに座って居たボクは、思わず身体を強張らせた。そしてボクもアルファも同時に頓狂な声をあげたし、教室内がざわつき始める。
でも同時に、嬉しかった。例えこんな形であろうとも、ボクを一生徒として扱ってくれる先生の意向が、ボクにとっては喜ばしい限りであった。故にボクも、その気遣いに全力で沿おうと思う。
ユウキ「よ、読めます!」
ちょっと大きめの声で先生に返事をすると、如何やらこれぐらいの声量であれば、教室中にボクの声が響くことを確認出来た。ボクの考えを読み取ったアルファは、すぐに席を立ち、ボクにテキストを見せてくれる。
そしてボクはひとつ間を置いてから、懸命にテキストを朗読し始めた。一体、教科書を読み上げるなんて、いつ以来だろう。この五年ほどの間、ずっとボクの心の何処かに溜まっていた、もう一度楽しく学校へ通いたいという欲求を余すことなくぶつけるように、ボクは力いっぱい前世紀の名文を読み続けた。
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あれからユウキは五限目だけでなく六限目の授業をも見学し、本日はそこで放課となった為、そこからはユウキに学校中を案内して回った。
とは言え、俺にクラスメートが十数人一緒についてきて、我先にとユウキに話し掛け続けてくるとは流石に想定外であった。しかし当のユウキは本当に嬉しそうな声色で皆と話していたので、俺もまた同時に温かい気持ちを抱かされたりした。
…だが、この学校はSAOサバイバーの受け皿であるということもあって、男女比はそれなりに偏っている。それがどちらに偏っているかは明白であるのだが、となると、当然俺についてきた奴らは、野郎どもが大半であったわけだ。
中には女子生徒も居たが…そう言う問題ではない。まさかアイツら、ユウキに惚れたんじゃないだろうな。通信プローブからはユウキの姿形は見えずとも、その声と喋り口調だけでも、彼女が滅茶苦茶良い子なのは伝わるだろう。うん、ユウキの魅力を考慮すれば全然あり得る。
…ユウキは俺のもんだ!!テメェらには指一本触れさせる気はねぇんだよ!!誰にも渡さねぇからな!!と叫びたくなる気持ちを抑えつつ、何だかんだでみんなで楽しく学校回りをした末に、俺達は最後には二人だけとなって、色とりどりの花々が白光に照らされる中庭のベンチに腰を下ろした。
ユウキ「アルファ…今日はほんとにありがとう。すごく楽しかった……ボク、今日のこと、絶対忘れない」
不意にユウキが真剣な様子でそう言うものだから、俺は反射的に明るい声で答えた。
アルファ「何言ってんだよ。先生も、毎日来て良いって言ってただろ。明日の現国は三時間目だからな、遅刻すんなよ?……それよりも、もっと他に見たいものとか無いのか?校長室は無理かもしんねぇけど…いや、その気になったら侵入も出来る」
ユウキ「そんなことしたら大目玉なんだから、ダメに決まってるよ」
俺の馬鹿げた発言に、ユウキはいつも通りの朗らかな様子で笑ってくれた。俺は少しだけ心をホッと落ち着けた。ユウキはしばし沈黙した後に、遠慮がちに答える。
ユウキ「あのね……一箇所、行って欲しい所があるんだ」
アルファ「どこだ?」
ユウキ「…学校の外なんだけど、大丈夫?」
アルファ「外か…」
彼女の意外な発言に、俺は一瞬言葉に詰まった。がすぐに、プローブのバッテリーに余裕があること、接続している俺の携帯がネットに接続できる場所であれば、何処にだって行けることを思い出す。
アルファ「携帯が繋がる場所だったら、どこでも行けるぜ」
ユウキ「ほんと!?あのね……ちょっと遠いんだけど……横浜の、保土ヶ谷区、月見台ってところまで、お願いしていい?」
アルファ「任せてくれ。保土ヶ谷の月見台だな」
ユウキの口から零れ出た聞き慣れない住所を復唱しながら、俺は携帯でそこへと至る為のルートを検索し、今からユウキと共にそちらへ向かうことにする。
キリトには急な動きを控えるように言われていたので、チャリはいつもよりもゆっくり漕ぎながら、一旦家の最寄り駅に立ち寄った。自転車から眺める景色をユウキは大変気に入ったらしく、またして欲しいとお願いされてしまったりしながらだ。
勿論それを了承した俺は、電車を何度か乗り継ぎ…その間、ユウキとは何度か車内で、「この時間はこんなに人が乗ってるんだね」などとひそひそと囁き合ったりしつつ…遂に目的地であった星川駅へと辿り着く。
その頃にはもう世界は夕暮れ時に差し掛かっており、空は真っ赤な朱色に染まっていた。同じ東京であるというのに、ここは近くに木々が多く残る丘陵が広がっているせいか、東京の慌ただしさは欠けているように思える。
アルファ「…良い街だな、ここ。他の東京より、自然が残ってて気持ちいい」
ユウキ「そうでしょ?ほんとに、ボクも良い街だと思うよ」
そんな共感を交わし合ってから、俺は彼女のナビに従って、駅前の小さな商店街を通り抜けていく。ユウキはパン屋や魚屋、郵便局や神社の前を通る度に、懐かしそうに一言、二言呟いていた。
やがて住宅地に入っても、大きな犬のいる家や、立派な枝ぶりの楠などに目を留めては、嘆声を上げる。商店街から住宅地へ、そしてその道中に俺はユウキと所々立ち止まっては、色々なお店を眺める。
その流れは、どうにも俺にあの世界での生活を強く想起させた。だからこそ俺は、ユウキが目指しているその場所を、何となく予感していたのだろう。
ユウキ「…その先を曲がったところの、白い家の前で止まって…」
プローブから聞こえるユウキの声が、微かに震えている。そして俺は彼女に言われずとも、公園に沿って右に曲がるその動きを、長年の癖で取ってしまっていた。
もう分かっているかのように左側に向き直ると、そこには、白いタイル張りの壁を持つ家が、ひっそりと佇んでいたいた。お互いにもう何も言うことは無く、数歩前に進み、青銅製の門扉の前で立ち止まる。
そしてユウキは、長い吐息を漏らした。それが何を意味するのかは、最早明白であった。
アルファ「ここが……ユウキの家なんだな」
ユウキ「…うん。……もう一度、見られるとは思ってなかったよ…」
アルファ「…本当に、よく似てるんだな、俺達の家と…」
ユウキ「……」
その白い壁と緑の屋根の家は、いつか彼女から聞いていたように、俺とユウキがあの世界で購入したプレイヤーホームとそっくりであった。
違っている点は、ユウキの家は住宅棟が小さい代わりに、大きなお庭が備えられていることぐらいだろう。芝生の上には白木のベンチ付きテーブルが置かれ、その奥には赤レンガで囲まれた大きな花壇が設けられている。
しかしテーブルは風雨に晒されて色褪せ、花壇もただ黒土に枯れた雑草が、弱々しく生えてきているだけだった。両側の家の窓ガラスからは団欒の暖かなオレンジ色がこぼれているのに、白い家は全ての雨戸が絞められ、生活の気配は全くない。
…この家にはもう彼女の家族は誰一人居ないとは言え…例えば親戚などが、この家を綺麗にしてくれたりだとか、そんなことは無いのだろうか…。
などと言う疑問を抱きつつも、ユウキが一言も言葉を発することなく数年ぶりに我が家を眺め、ただただその懐かしき日々を思い返しているであろうことを悟った俺は、彼女の家の全体像が映るよう公園の石垣に腰を掛けた。
暫く何も言わなかった君は、やがて静かに話し始めた。
ユウキ「この家で暮らしたのは、ほんの一年足らずだったんだけどね…。でもあの頃の一日一には、すごく良く覚えてる。前はマンション住まいだったから、庭があるのがとっても嬉しくてさ。ママは感染症を心配していい顔はしなかったけど、いつも姉ちゃんと走り回って遊んでた…。あのベンチでバーベキューしたり、パパと本棚作ったりしたよ。楽しかった…」
アルファ「…そっか…良い思い出が詰まってるんだな、ここには…」
彼女の語る在りし日の記憶を、俺はよく知らない。だけど君が、本当にその日々を大切に過ごし、今もなお大切にその胸の中に仕舞っていることは、彼女の優しい語り口を聞いていればよく分かることだった。俺は大きく頷きながらそう言い、そして君に訊ねる。
アルファ「…中、入ってみるか?」
もし通行人が俺を見つければ、間違いなく不祥事件となったのだろうが、それでも俺はそう訊ねずにはいられなかった。しかし、ユウキはレンズを左右に振ると、言った。
ユウキ「ううん、これで充分。…これでもう………ちょっとだけ、満足出来たよ……」
アルファ「んな言い方しなくても、毎日ここに来てやるからさ……これからも……ずっと……」
そう言ったユウキの声が、また少しだけ揺れていることに気が付き、俺はそんな君を包み込むように、明るい言葉を掛けてあげた…はずなのに、そんな俺の声もまた、微かに震えてしまっていた。
再び訪れた静寂。その末に、うぃんとレンズが俺の方に向いたかと思うと、君の声が聞こえてきた。
ユウキ「…ありがと、アルファ。そう言ってくれるだけで、ボクは本当に嬉しいよ」
そう言った君の声は、もう震えてなどいなかった。確固たる信念が、そこには宿っていた。そんな君は、言葉を続ける。
ユウキ「でもね、ここに来るのは…今日が最後でいいんだ。だって……ボク達が帰るべき家は、もう一つあるでしょ?姉ちゃん、パパ、ママ…家族と過ごした思い出は、確かにここに残ってるから…。だからボクは、みんなと…アルファと一緒にあの家で、命一杯過ごしたいんだ…沢山、たくさん…」
アルファ「……」
…今日はユウキに、どれだけの幸せを分け与えられただろうか。俺ばかり受け取り過ぎたりはしなかっただろうか。君の言葉に耳を傾けていると、そんな気持ちが湧き出てくる一方で、ユウキのやり残したことを一つでも多く終えられたことに、間に合ってよかったと、そんな安堵感を抱いている俺が居た。いつもの俺ならばきっと、何が間に合って良かっただと、そんな風に自分を責め立てていたのだろう。
でも、今日ばかりは違った。今日と言う日に、君が確かに目一杯の幸せを享受出来たことを、俺もまた確信していたのだ。だからこそ俺は、この日だけは自分を苛むことなく、しばらくぶりに君との幸せな時間を、ただ純粋に噛み締めることが出来た。
ユウキ「…さ、ボクらのお家に帰ろっか」
アルファ「…あぁ、帰ろう…」
まるで導くように囁いた君に、俺はなんとか短い返事を返す。やがて二人は、迫りくる夕闇に追いつかれないよう街から踵を返し始めた。
次回の投稿日は明日となります。
では、また第148話でお会いしましょう!