何故に151話?って思われた方は、このお話を読んだ後に、タグと目次を確認して頂きますと、その理由が分かるかと思います。
第151話 二人の奇跡
薄暗い部屋の中に、不規則だが一定のリズムで音が響く。二人の身体が引っ切り無しにぶつかり合い、酷く乱れた吐息と共に、よがり声が口から洩れ出す。お互いに頂きに達しようとしていることを悟ったボクは、両腕を背中に回し、足で彼の身体を縛り付けた。
ユウキ「アルファ…アルファっ…」
自分でも自覚できるほどに甘い声で君の名前を呼び続けると、彼は一層切なそうな表情を浮かべ、ボクに言う。
アルファ「っ…ごめん…もう無理かも…」
ユウキ「…ん…いいよ…きてっ…」
そこで一度、お互いに肉体的な気持ち良さを共有したボク達は、ふっと力を抜きベッドに倒れ込んだ。そのまま唇を重ね合わせ、舌を転がし合う。一体何分の間、そうしていただろうか。仮想世界だというのに、酸素を求めるように唇を離したボク達は、一度呼吸を挟んだ。そしてボクは、また君に言うのだ。
ユウキ「アルファ…もっかい…もっかいしよ…」
アルファ「…おう…」
そうして再びボク達は、その行為に耽り始める。現在、外の世界は暗がりに包まれているが、現実世界ではお昼時になったばかりだ。今日のボク達はこうして、朝から…いや、昨晩から断続的に、ベッドの上で動き続けている。
…ううん、そんなことを言ってしまえば、ボク達がこんな風になってしまったのは、一体何日前からだろうか。徐々に徐々に、ボク達が普通に生活を続けている時間と、ベッドの上で絡まり合い続ける時間の比重が移り変わって来ていることは、ボクも分かっていた。もう何日前からか、ボク達は外に出ている時間の方が短くなってきている。
……こんなのダメだって、ボクもそれぐらいは分かっている。でも、やめられない。ボクの心の中に巣食う不安心が、彼との関係を堕落させていく。
いつからかボクは、彼の心に秘められた一抹の不安を見抜いた。終わりの時が来ることを怯えている君の心に、ボクは気が付いたのだ。
そしてそれを……利用した。曲解でも歪曲でも何でもない。文字通りボクは悪心を以て、君の心に付け入った。終わりの時が訪れることで、もう君の隣を歩いていられないことを酷く恐れるボクは、また同じく、終わりの時が来ることに不安を覚えている君に付け込み、その心の揺らぎを悪用し始めた。
少しでも、君の心に爪痕を残したかった。もう終わってしまうことが避けられないというのならば、せめて君の心の中に、ボクの記憶をこびり付かせたかった。
だからボクはこうして、君との肉体関係を求め続ける。これが一番、ボクが…そして君が、お互いを深く感じ取れる方法であることを知っているから。この行為を続けていれば、彼の記憶に嫌でもボクのことがインプットされるだろうし、またこうして、獣のように本能に突き動かされている間だけは、ボクも君も嫌なことは全て忘れられていた。
ボクも君も、お互いの不安を埋めるために、今日もこうして長い間、身体を繋げ続ける。最早二人は、お互いに甘え、縋り、どちらかが未来へと歩き出さないよう足を引っ張り合い続けるだけであった。そこには、ボクと君が相手に信じ続けていた強さなど、微塵も在りはしなかった。
ボクの大好きな君との関係が、純粋な恋愛関係から、腐りゆく未来しか残されていない依存関係へと移行していることも、充分に分かっていた。それでも、ボクも君も、それを止めることはやはり出来なかった。
…ボクはもう、なんでも良かった。例え破滅しか待っていない関係性に突入しようとも、どうせ終わりの時が先に訪れるのだから。であれば、人としての気品を失い、こんな生温いだけの関係性に枯れていこうとも、ボクが彼の心に残り続けるのであれば、それで良かったのだ。
──一月下旬、ボクとアルファの関係性は、堕ちるところまで堕ちていた。
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チチッ、と短い電子音が耳元で鳴り響く。徐にアミュスフィアを取り外そうとした俺は、熱の籠った布団から腕を伸ばした。瞬間、冬の厳しい冷気が腕に纏わりつき、だが今はそれが心地良かった。
次いで枕元に置いてあるリモコンを手に取り、エアコンの暖房をつける。まだ部屋は寒さに包まれているであろうが、そのうち温まるだろうと、俺は意を決して布団から這い出た。水分補給をするなり朝ご飯を食べるなり、兎に角朝にやるべきことを済ます為に、俺は行動を開始する。
本日は一月末の土曜日、学校は休みであった。それ故に俺も、朝の時間を幾分かゆっくりと過ごすことが出来る。トイレに行ったり、洗濯物を干しに行ったり、色々とルーティンワークを行っていたその時だ。俺の携帯から、メッセージ着信音が聞こえてきた。
俺はそれを確認するべく、衣類を畳むことを辞めて、携帯を置いているテーブルへと向かう。携帯のホームを確認し、俺にメッセージを送って来た相手がアルゴであることに気が付いた。そこで一気に意識レベルを上昇させ、俺は急いでその内容を確認する。すると──
「目ぼしい情報は見つけられなかったヨ。悪いナ、アー坊」
──と、彼女からのメッセージは、短い文面で綴られていた。
不意に、俺の中には、言葉にならないような溢れんばかりの負の感情が溢れ出す。思わず携帯を床に叩き付けてしまう…ことは流石になかったが、それでもこの感情に歯止めは利かなかった。
机に拳をガンッ!!と打ち付け、このやり場のない気持ちをどうにか腹から吐き出す。
アルファ「…クソッ…!!」
…別に、アルゴは何も悪くない。ただ、俺が苛立ちを隠せないのは、この世界の現状に対してであった。必死になって探せば、どこかにそれはあると思っていた。君の病気を治せる…或いはそこまで行かずとも、もう暫くの間人生を送れるようになるだけの何かが存在しているのだと、訳もなく信じていた。
だが、世界はそう甘くは無かった。俺がどれだけ必死になって調べようとも、俺よりも情報収集が上手いであろうアルゴやキリト達に頼ろうとも、現状を打開出来る方策は何一つ見つからない。
…いや、あるにはあるのだ。HIVに耐性を持つ人から骨髄移植を受ければ、エイズが完治するという実例も、世界には僅かながら残されていた。しかし、そんなピンポイントなドナーが、そう都合良く現れるはずもなかった。
勿論俺だって、その検査はもう随分と前に行った。だが、俺にはそんな特別な力は宿っていなかったのだ。
…無い。無いんだ。君には、もうあと僅かにしか時間が残されていないのだ。終わりの時が刻一刻と忍び寄って来る。なのに俺は、君にしてやれることが何一つとして無い。そんな己の無力感が、俺はどうしようもない程に憎かった。
…何故、何故、何故!?何故俺には見つけられない!?何処かには隠されているはずの光を、俺はどうして探し出すことが出来ないのだ!?そんな狂おしい程の激情が、俺の心に吹き荒れ、ズタズタの生傷を作り出す。
例え俺は万人の勇者足り得ずとも、君の為のヒーローで在りたいと願っているのに、世界はそんな俺の意思を嘲笑うかのように、この現実を突きつける。俺には君を救うことが出来ないという事実が、俺の心を暗雲で覆い隠していく。
そして気が付けば、俺はアミュスフィアを手に取り、また君を求め始めていた。そこではっと気が付き、アミュスフィアを握る手から力を抜く。その場にズサっと尻をつけて、両手で頭を抱える。
……ダメだ。俺がこんな事では、どうしようもないだろう。己の理性はそう告げている一方で、俺はきっと今日も、君の温もりに甘え続けるのだろう。己の非力さに嫌気が差し、変わらない残酷な現実を叩き付けられ、君の温もりを欲する。そんな弱い自分にまた嫌悪感を抱き…それはまるで、負のスパイラルでしかなかった。
…一体、いつからだろうか。俺はそんな弱さを君に吐き出し、また君も終わりの時が来ることに対する恐れを俺にぶつける。二人は決してそれを言葉にすることは無いが、ただ不安心を埋めるためだけに、お互いに欲情に駆り立てられる。
俺と君は何を言うでもなく、次第に関係性を腐敗させていた。身体を繋げ、一時の快楽を共有することで、お互いの心に抱く不安心を慰め合う。暗く淀んだ気持ちを以てして、お互いに深く依存し、傷口を舐め合う。
果たして俺の望んだ君との関係性は、こんなものであっただろうか。勿論、そんなわけが無い。俺は君と、お互いに芯のある人間でありながら、もっと純粋に愛し合える関係性を築き上げたかった。終わりの時が近づき、お互いに恐れる心を相手に隠し通せなくなるほどではなかった以前は、俺も君とそう在れたはずだった。
だが今となってはもう、俺達は何処までも何処までも、ぬるま湯のように堕落した関係性へと突き進んでいた。きっと俺達は、元に戻ることは出来ないのだろう。あとはもう、底無し沼のような暗い闇に沈むことしか出来ないのだろう。
その証拠に俺は、いつの間にかまたアミュスフィアを手に取っている。そんなどうしようもない自分がいることに気が付き、ハハッと涸れた哂い声を部屋に響かせた。そして俺はやはり、アミュスフィアを被り、君に依存しに行くのだ。
…だけど、心の何処かでは、それでもまだ諦めたくないのだと、そんな変わらない意志を持った俺も、確かに存在していた。
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来る日も来る日も、ボクは君に依存し続けた。君が学校に行く日は、君が学校から帰って来るとすぐに、君を寝室に引き込んだ。平日はそのまま、一歩も家から出ない日だってあった。
一秒たりとも、ボクは君をこの泥沼から逃がすつもりは無かった。ボクを置いて行って欲しくなかった。ボクと一緒に何処までも沈んでいって欲しかった。そんな浅ましい心が、君を縛り続けた。
多分、こんな関係の端緒を作り出したのは、先に恐怖と苦痛に屈服したボクの方なんだ。だから君も初めは、こんなことに何処か違和感を感じていた。でも、そんな君も次第に、色の無い瞳を浮かべるようになって、今じゃ何も言わずにボクに依存し続けてくれるようになった。
きっと君も、限界だったのだろう。例えそれが本心を隠し通した上辺だったのだとしても、死を恐れぬ自分を演じることをやめ、怯えを露わにし始めたボクを目の当たりにした上で、その胸の中で燻る心痛を独り抱え続けることは、最早不可能だったのだろう。
…ううん、ホントは、そんなことはないのだと思う。アルファは、ボクとは違って強い人だ。そして同時に、優しい人だ。だからこそ君は、君に対して依存しようとし、また君を引き摺り込もうとしているボクを見捨てられず、同じくこの先の見えない世界に足を踏み入れてくれたのだろう。
だからボクは、そんなアルファの為にも、なんとかしてこの現状から這い出なければならないはずだった。なのに結局、情欲と恐怖に苛まれ、君を求めてしまう。どんどんと二人で深い闇に堕ちていくこの感覚は、何処か心地良いものとさえ思えた。
…でも、ホントにこれでいいのかな?ボクはアルファと、こんな関係を創り上げたかったのかな?ボクはアルファと、もっと綺麗な恋愛をしたかったんじゃないのかな?今からでも、立ち直れないのかな?
そしてその度に、何でも良かったはずなのに、知らず知らずのうちに、そんな気持ちがボクの心から湧いて出てきた。
けれども、何度ボクがそう思ったって、もうどうしようもなかったんだ。この関係を持ち直そうとするだけの気概が、ボクには残されていなかった。だからこそボクは、君の温もりをより深く感じ取る為に、その選択肢を選んだのだろう。
…いや、本当にそうなのだろうか。最後の最後は、アルファともう一度、以前のような純愛を描きたかったからこそ、ボクはあのような行動に出たのかもしれない。それは結局、いつまでも分からず仕舞いなんだろうけれど、兎に角ボクは、二月の初め頃に、君に一つ伝えたのだ。
ユウキ「ね、アルファ」
アルファ「ん?」
その日ボクは、アルファがソファの上で学校の宿題に励む様子を、ぼんやりと眺めていた。だけど頭の中では、それを君に言うべきか、それとも心の底に仕舞っておくべきか、散々迷いに迷っていた。
でもとうとう、ボクはそれを伝えるために、古文の予習をしているアルファに呼び掛けたんだ。すると一度本文を読むことをやめて、こちらに視線をやってくれた君に、ボクは言った。
ユウキ「一つお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
アルファ「おう、いいぜ」
ボクが控えめにそう訊ねると、君は即応してくれる。そんな彼の様子を嬉しく思いつつも、ボクは続けた。
ユウキ「ありがと。えっとね、ボクがお願いしたいのは、リアルでのことなんだけど…」
アルファ「あぁ、行きたいところがあるなら、何処でも行くからさ。何でも言ってくれ」
とボクが君への願い事を告げようとすると、通信プローブで何処か連れて行って欲しい所があるのだろうと、早とちりしちゃったらしいアルファは、俺に任せろと胸を張ってくれる。見当違いなことに自信を持たれて、ちょっと吹き出してしまったボクは、その表情に笑みを浮かべながら訂正を入れた。
ユウキ「そうじゃないんだよ、アルファ。ボクがアルファに頼みたいことは、何処かに連れて行って欲しいとかじゃないんだ」
ボクがそう言うと、アルファは一層不思議そうな顔をしながら訊ねてくる。
アルファ「え?じゃあ、なんなんだ?」
ユウキ「ん~…取り敢えず、今からボクの病室に来てくれないかな?そこで、先生から説明を受けて欲しいんだ」
ボクがいつもと変わらない表情で願い事を告げると、アルファは途端に気配を張り詰める。いつもと違って少しだけ怖い顔をしながら、ボクの目を見据える。
アルファ「いいけど……何の説明、なんだ…」
アルファが少し緊張した理由をなんとなく理解したボクは、君を落ち着かせようと優しく言葉を掛けた。
ユウキ「そんな怖いことじゃないよ。だから安心して」
ボクが穏やかに笑いながら言い返すと、君も一安心したように気を緩め、一度頷いてくれた。じゃあ今から向かうからと、一度ALOからログアウトする君を見送ってから、ボクもVRルームへと一旦戻ることにする。
…果たしてアルファは、ボクを受け入れてくれるだろうか。今更ながらにそんな不安が思い浮かぶも、きっと、優しさに溢れたボクの大好きなアルファならば、嫌な顔一つすることもないのだろう。ボクはそう理由もなく君を信じて、君が病室に来るのを待つことにした。
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…君が病室に来て欲しいと言うなんて、一体何事なのか。まさか、ユウキの身体に何か異常が起きたのでは…?
一瞬、そんな恐ろし気な想像が頭の中に浮かび上がるも、それは想像の産物に留まってくれた。ユウキがそう言うことじゃないと、そう言ってくれたからこそ、俺は今こうして、不安心に駆られることなく君の待つ病院に向かうことが出来ていた。
本日は土曜日。普段は休日に病院を訪れない俺ではあるが、今日は何やら、ユウキからのお願い事があるらしい。なので俺もこうして珍しく、休みの日に病院にやって来たのだ。
平日とは違った年齢層が集っているエントランスを通り抜け、慣れた手筈で面会受付窓口へと向かい、最上階の警備網を突破するためのキーカードを受け取る。エレベーターに乗り込み、カードを使用してゲートを潜った。そのまま白い通路を右へ左へと移動し、君の病室前に辿り着く。
するとその目前に、倉橋先生が立っていた。俺がやって来たことに気が付いた先生は、声を掛けてくる。
倉橋「やぁ、アルファ君。待っていたよ」
アルファ「こんにちは、先生。俺、ユウキに先生から説明を受けてくれって言われたんですけど…なんの話、ですか?」
倉橋「えぇ、木綿季くんから話は聞いています。取り敢えず、一度階下に戻りましょうか」
アルファ「?…分かりました」
…ユウキの病室に行くわけではないのか?そんな疑問が生じるも、俺は先生に従って再びエレベーターに乗り込み、最上階を後にする。
先生の後ろをついて行き、俺がやがて辿り着いた場所は…病院のエントランスではなく、この病院を初めて訪れた際に、先生から話を聞いたラウンジでもない。そこは、小さな診察室であった。
いまいち状況の掴めない俺は、先生に促されるままに丸椅子に座ると、先生も正面のワークチェアに腰を下ろす。そして俺を見据え、その口を開いた。
倉橋「アルファ君には以前、QOLという単語について説明したことがあると思いますが…覚えているかな?」
先生の問い掛けに、俺はこくりと頷き、答える。
アルファ「はい。生活の質、という意味ですよね」
倉橋「その通りです。治療中の生活の質を如何に高め、充実したものにするか、その観点を表す単語が、クオリティ・オブ・ライフというものです。そして、メディキュボイドの被験者となった以上、クリーンルームから出ることの出来ない木綿季くんにとっては、QOLが十分に満たされているのかどうか…難しいものだともお話ししましたね?」
アルファ「…はい」
それは全く、先生の言う通りであった。
君はもう二度と、太陽の光を浴びることは出来ないし、外の空気を吸うことも出来ない。その代わりに、メディキュボイドを利用して仮想世界で動き回ったり、或いは通信プローブを使って現実世界を疑似的に体験したりと、様々な代替手段を模索しているわけだが、それがユウキにとっての最高のQOLなのかと問われると、そう断言することは決して出来ないだろう。
先生に説明を受けて欲しいと言われたものの、一体この話が何にどう繋がっているのだろうか。そんな俺の心を見抜いたのか、先生が話の本筋を切り出した。
倉橋「実は、つい一週間ほど前に、木綿季くんに言われたんです。…一度だけでいいから、アルファ君に直接会いたいと」
アルファ「!」
先生の放ったその一言に、俺は無言のまま衝撃を示す。だが次の瞬間には、まだ冷静であった俺が先生に訊ねていた。
アルファ「で、でも…そんなこと、可能なんですか…?ユウキは、被験者としてクリーンルームに入っているわけですし…」
俺の問い掛けに対して、先生は穏やかな表情で答えた。
倉橋「えぇ、実は、メディキュボイドの臨床試験におけるデータ自体は、もう十分に収集出来ているんです。ですから、あとはアルファ君の同意さえあれば、それも可能ですよ」
そう言われて俺の返す言葉など、最早自明であろう。
アルファ「…お願いします。俺も、ユウキに会いたいです」
倉橋「解りました。ではクリーンルームに向かう前に、まずはアルファ君の身体に異常が無いかなど、簡単な検査をさせてもらいますが、よろしいですか?勿論、診察代は要りません」
アルファ「分かりました」
そうして俺は、まずはその場で先生や看護師さんから色々と健診を受け…その時に何故か、口内検査までされたのだが…特段の異常が無い事を確認できた後に、再び最上階へと移動し始めた。
先生から知らされたユウキの願い事を聞いて、俺も最初は、少しでもユウキの為に役立てるなら、俺は何だってしてやると、そんな風に意気込んでいたのだ。
だが今頃になって、俺はそれに気が付く。先生はかつて、クリーンルームには入ることが出来ないと、俺にそう言った。それは、クリーンルームが細菌やウイルスを排除する目的で作られた部屋であるから他ならない。エイズの進行による免疫力の低下を要因とした、日和見感染を極力起こさないよう、ユウキはその部屋に入っている。
そして、人間とはどれだけ健康体であろうとも、身体の中には様々なウイルスを持っているのだ。それがユウキに感染し、彼女の容態を悪化させないよう、部外者は入室を禁じられている。しかし俺は今こうして、なんら特別な装備を付けないまま、無菌室に入ろうとしていた。
…それすなわち、主治医である先生が、もうユウキには完治の見込みが無いと判断し、せめて生活の質を高めるために、彼女の願いを聞き入れたということ他ならないのだろう。
それを意識すると、途端に心も身体も、頭の中でさえも、黒い泥が詰まったように酷く重く感じてしまう。でもせめて今日だけは、君の前でもそんな弱さは見せたくなかった。道化でもなんでも構わない。俺は決してそれが表情に出ない様に、元気で明るい自分を何重にも塗り重ねておいた。
やがて俺は、いつものモニタールームへと辿り着き、しかしそこで足を止めることはなく、更に奥のドアの前に足を進める。如何にも厳重そうに、この先立ち入り禁止と大書してある無菌室のドアノブに、先生は手を触れると、後ろに控える俺に言った。
倉橋「無菌室には、アルファ君一人で入室してもらうので、何か困ったことがあれば、中から呼び掛けて下さい」
アルファ「はい」
俺が大きく首肯しながら短く返事をすると、先生はごく簡単にその扉を押し開け、俺に中へと踏み入るよう促す。俺は何故だか異常に強張った身体で、足をゆっくりと進める。俺がクリーンルームに身体を入れると、後ろのドアがぱたんと閉まった。
青白い人工照明に照らし出され、白一色に染まったその部屋には、大小さまざまな機械類が点在している。そしてその中央には、大きなジェルベッドが設置されていた。もう何カ月前からか、君の身体全体を覆い隠していたメディキュボイドは、今日ばかりは、使用者が外に出られるように展開されていた。
──そして俺は見たのだ。ベッドの上に横たわりながら、俺に微笑みかける…君の姿を。
アルファ「……」
俺の見ないうちに、君は酷く痩せこけていた。肉が痛々しい程に削げ落ち、顔も身体も骨ばっている。本来の肌の潤いはすっかり失われていて、唇も枯れたような色合いに変化してしまっていた。
それはまるで…ミイラであった。俺に微笑みかける君の姿は、かつての君の名残を感じさせるが、ハッキリと言えば、その姿は、他人に嫌悪感や不快感といった拒絶心を与えるには充分であった。
……だが、それはあくまで、初めて今の君の姿を見る人に限定されるだろう。俺の目に映るユウキは、例えどれだけ見た目が変化していこうとも、変わらず俺の愛するユウキでしかなかった。それ以外に有り得なかった。
勿論、ユウキの可愛らしい外見に惚れていないとは言わない。あんなに可憐だった君がこんな姿になってしまって、口惜しさを感じている自分がいることも否定はしない。
がしかし、俺がユウキに惚れ込んでいる核心的な理由は、君のその気高さであり、強さであり、そしてまた、優しさであった。いつもいつも俺の一歩前を突き進み、俺が心折れた時には必ず手を差し伸べてくれる。そんな確固たる芯を持つ君が……俺は堪らない程に、大好きなのだ。
この時、ふと俺は思った。
果たして君は本当に、俺と共に堕落していたのだろうか、と。関係性を堕ちゆかせたのは、俺の方だけだったのではないだろうか。君は単に、君に依存し続けようとするどうしようもないほどに情けない俺を、わざわざ俺と同じ立場に移動して、慰めてくれていただけなのではないだろうか。
俺は俺で、そうしてくれる君が、また俺同じように深みに嵌ってくれているのだと、そうして偽りの安心感を抱いていただけなのではないだろうか。そうでもなければ、君はこうして、終わりの時が来ることを清明に認識した上での行動を取るわけがないのだろう。
そこでようやく、俺はふらふらと、君との距離を詰め始めた。君と再会して以来の数か月間、ずっと俺と君を隔てていた残り僅かの数メートルが、一歩ずつ確実に縮まっていく。
そしてやがて、俺はベッドに身体を倒す君の目の前に辿り着いた。君は真っ白な検査着のようなものを身に付けており、その姿はまるで死に装束を想起させる。
すると君は、その微笑みに申し訳なさげな表情を交えながら、言ったのだ。
ユウキ「…ごめんね、アルファ…ボク、こんなので…。ボクの無理なお願い、聞いてもらって…」
瞬間、俺の胸が強く疼いた。そして俺は、その疼きに身を任せて、君に笑顔で言葉を返す。
アルファ「んなこと、俺はなんにも気にしてない…。俺はユウキを愛してるんだ…こんぐらい、何回でも聞いてやるって…」
すると君はまたその顔に笑顔を浮かべ、小さく言った。
ユウキ「アルファ…手、握って欲しいんだ…アルファに、触れたいんだ…」
そう言いながら、君はその皮と骨ばかりになった腕を、俺に差し伸ばしてくる。筋力が足りないせいか、君の右腕は酷く震えていた。そんな君の右手を、俺はすぐに手に取る。力を強め過ぎないように、しかし君の手を包み込めるようにぎゅっと握り締める。
…初めて触れる君の手は、とても温かかった。普段仮想世界で握る君の柔らかな手とは違って、やせ細ったせいで細身でありながらもごつごつとしていたけれど、仮想世界で握る君の手よりも、感じられる温かさは何倍も心地良かった。
俺もユウキも無言のまま、ただお互いの手から感じ取れる温もりを心に響かせ、共有していたその時だった。ふいと、ユウキがその表情を苦痛に歪める。
夢のしゃぼん玉が弾け飛んだ。俺がはっとユウキを見やると、君はすぐに穏やかな表情に戻して、俺に告げる。
ユウキ「…大丈夫だよ。ちょっと、苦しいだけだからさ」
アルファ「ち、鎮痛剤とかは使ってないのか?」
大丈夫だとは言ってくれるものの、それは気休め程度でしかないだろう。また少しだけ表情を歪ませる君に俺が焦ってそう訊ねると、君はまた答える。
ユウキ「普段は…メディキュボイドで体感覚キャンセルしてるからさ…鎮痛剤とかは、使ってないよ…」
そして俺は、また深く理解する。文字通り君は、自らの命の灯を懸命に燃やし、俺とのこの時間を創り出しているであろうことを。こうやって共にいられる間にも、刻一刻と蝋燭はどんどんと短くなっているのだ。
すると俺は、今日だけは君の前で強く在ろうとしていたはずだったのに、途端におろおろと心の迷いを生じさせてしまう。対する君は、一度大きく呼吸を整えると、少しだけ照れたような表情で、やがて俺にそれを告げたのだ。
ユウキ「…良かったら、ボクに…キスして欲しいんだ…」
アルファ「…キス?」
ユウキ「うん…愛する人とのキスはね、モルヒネの十倍の鎮痛効果があるんだよ?だからボクに…深い深いキスを、交わして欲しいんだ…。唾液が混じるぐらいなら、エイズも感染しないから。もし口の中に怪我があったりしたら別なんだけど…今日ここに来たってことは、検査も大丈夫だったんでしょ?…あ、勿論、嫌だったらいいんだよ」
アルファ「そのための、口内検査だったってことか…?」
ユウキ「…うん、実は…ね」
キスに鎮痛剤以上の効果があることも、エイズは唾液が触れる程度では感染しないということも、俺は何も知らなかった。でも、君が元より俺とのキスを計画してここに呼び出したこと、謎だった口内検査の理由をも、俺はようやく理解する。
そして俺の選んだ答えは……当然、君の望みを叶えるものであった。ベッドに横たわる君の唇に、俺の唇を触れさせ、ゆっくり、ゆっくり、唇を軽く触れ合わせる。やがてお互いの口内に舌を潜り込ませ合い、或いは舌を絡めとり合い、二人の唾液が混じり合い…途中途中に空気を求めて、唇を離すことはあれども、数分間…いや、数十分間だろうか。俺達はいつまでもいつまでも、深い愛の口付けをしていた。
その中で、遂に二人の想いが、綺麗に重なり合う。
まだ、終わりにしたくない。
これからも、君と一緒に生きていきたい。
二人で愛を、育んでいきたい。
俺とユウキの熱い想いが、いま完全に一つとなった。
三月二十九日。
それは、東京にしては珍しく、オホーツク海から張り出してきた寒気団が、季節外れの大雪を降らせた日であった。午前中には、うららかな春の気配を根こそぎ奪い去ってしまうような寒空と、厚いぼたん雪が街を覆っていることを、俺は何気なく家の中から眺めつつも、早々にアミュスフィアを被った。
そして普段通り、俺はユウキとアインクラッドを冒険し、お昼頃に一度昼食を済ませようと、ALOからログアウトする。アミュスフィアをを頭から取り外した俺が、調理を始めるべく台所に立とうとしたその時だ。
不意に、メッセージ着信音が部屋中に響いた。昼食を作る前にそれを確認しようと思った俺は、徐にテーブルに置いてある携帯を掴み──
──そして、それをふっと床に落としてしまった。
画面に表示される一文を見て、俺は掌に力が入らなかったのだ。次第に全身が小刻みに震え始め、自然と口から声が洩れ出す。
アルファ「…嘘…だ…うそだうそだ…そんなわけ…」
その声色は、惨めにもか細かった。今にも消え入りそうな声量で、必死にそれを否定しようとするも、先程のメッセージが脳内に蘇り、その可能性を浮き彫りにしてくる。
俺の携帯端末に届いた一件のメッセージ。それは、倉橋先生からのものであった。内容は、「もし時間があるのなら、今日中に病院へと足を運んでくれませんか?」という物だ。
先生が直接メッセージを送ってくるのは、これが初めてだ。ということは…それはユウキの命が燃え尽きるその時…死の宣告以外に有り得ないのだろう。
そのまま床に崩れ落ちそうになる気持ちを何とか堪えて、俺はすぐに準備を整え、焦りに身を任せて家を飛び出した。午後の日差しが午前に積もった雪を溶かしてくれているだろうと希望的観測を下し、駐輪場にて自転車を引っ張り出す。急げ急げと駅まで向かい、電車に乗り込む。
とそこで、一つ気が付く。先生から受け取ったメッセージは、緊急を要するものではなかったはずだ。となると、君が今すぐにでも、この世界からいなくなってしまう訳ではないのだろう。
…だが、恐らくはそれに準すること。例えば、ユウキの身体は今日明日が峠であるとか…そう言うことを告げられる予感を、俺は何となく感じ取っていた。電車の中は暖かく保たれているはずなのに、俺の足はガクガクと震えが止まらない。
本当は、ずっと前から分かっていた。俺とユウキが築き上げたものは、単なる砂の城にしか過ぎないことぐらい。いつか大きな波がやって来て、それは俺達が大事に抱えるお城なんて、呆気なく吞み込んでしまうのだ。脆いお城が崩れないように、俺達は出来るだけ波打ち際から離れた浜辺にそれを建てたけど、結局はいつか壊れてしまうことに変わりはない。
俺とユウキのお城なら、崩れるわけがないって、いつまでも信じていたかった。でも、もうダメらしいんだ。現実が大波と化して、そこまで来てしまったから。
乗り継ぎを挟んで辿り着いた大病院前の駅から、首尾よくやってきたバスに乗り込み、出来るだけ迅速に、俺は病院へと向かった。辿り着いた病院の面会受付窓口に俺が顔を出すと、受付の人はいつも通り銀のプレートを渡してくれる。
それを乱暴に受け取った俺は、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。エレベーターの上昇に合わせて、俺も気が動転してしまいそうな程に心臓を五月蠅く鳴り響かせる。セキュリティゲートを通り抜け、通路を何度も曲がりくねり…そして、俺は君の病室の前に到着する。
そこには、先生が待機していた。挨拶さえもままならなかった俺は、先生に案内されるがままに、恐る恐るモニタールームに移動する。そこでもう俺は堪えられず、先生にそれを訊ねたのだ。
アルファ「せ、先生…な、何で、俺を呼び出したんですか…」
…俺だって、そんな分かり切ったことを聞きたくはなかった。でも同時に、それを聞かずにはいられなかった。先生からその事実を突きつけられることに、俺の心は怯えの気持ちでいっぱいになりながらも、俺は先生の顔を見つめる。
すると先生は、穏やかな表情のまま……いや、僅かにその表情は明るいだろうか……兎に角、その口を、ゆっくりと動かした。
倉橋「──木綿季くんのエイズが、完治しました」
アルファ「…………は…………?」
頭の中が、白一色に染まった。
毒気を抜かれたとでも言えばいいのだろうか。だがそれにしては、心臓が胸から飛び出そうになるぐらいに、痛いほどに激しく鼓動している。先生の放ったその一言は、余りに衝撃的過ぎる発言であった。それ故に俺は、その意味を、言葉を明瞭に認識することが出来ずに、ただその場で立ち尽くし続ける。
すると先生もまた、仄かに笑顔を浮かべながら、立て続けにそれを話し始める。
倉橋「実は三週間ほど前から、木綿季くんの免疫力が回復し始めまして、最初は何事かと僕も驚いていたんですが…いやはや、今も驚き通しているんですけどね」
倉橋「つい昨日、木綿季くんの身体からHIVウイルスが完全に排除されました。それと同時に、免疫力も完全に回復し、日和見感染症も収まっています。今はまだ状況が状況なので、予断を許さない状態ではあるのですが…兎に角、木綿季くんのエイズは完治しましたよ」
そこで遂に、先生の放った一言目を辛うじて認識出来た俺は、先程以上に震えた声で、先生に訊ね返す。
アルファ「……い、いや、ちょ、ちょっと待ってください……何故、ですか…?だって…だって、ユウキはエイズで…もう末期で……治るはずが──」
とその時、どこからか、柔らかな声が降り注いだ。
ユウキ「ホントだよ、アルファ!ボク、エイズが治ったんだ!!今はまだ、身体が弱っちゃったままだからさ、すぐにクリーンルームから出ることは出来ないけど…そのうち、ボク外に出られるようになるんだよ!!」
アルファ「……」
…そんな君の声は、いつもに増して明るく、無限の活力で溢れていた。そんな君の声を受けて、ようやくこれが、都合の良い夢でもなければ、君の終わりを予感し、恐怖に呑まれる俺を慰めるための偽りの優しさでもないことを悟る。
途端に、胸の奥が熱く燃えた。また体が別の意味で震え、目頭がうっと温かくなる。腰が抜けたように、へなへなとその場に座り込んだ俺は、その両目から温かい雫を止めどなく溢れさせながら、嗚咽混じりに言葉を放ったんだ。
アルファ「……もう…意味わかんねぇよ……は?…なんで…ぇ…?……でも……ホントに、良かったぁ……良かったよぉ……」
引っ切り無しに頬から温かい何かを零しながら、俺は床の上でこのぐちゃぐちゃになった気持ちを叫び続けた。
そして君は、呆れた気持ちを明るい調子で伝えてくれるのだ。
ユウキ「…もう、なんでアルファが泣くのさ…」
そんな君に対して、俺は涙を流しながらも、これまでで一番綺麗な笑顔を浮かべながら、君に全力で告げる。
アルファ「嬉しいからに、決まってるだろっ…ユウキが生きてくれるのが、俺はすっげぇ嬉しいんだよっ……」
すると君もまた、涙に震えたような声色で、言葉を返してくれた。
ユウキ「…ボクも…嬉しいよ…まだ…これからもっ…アルファと生きていけるのが…ホントに凄く、嬉しいんだからっ…」
これからもずっと、君の隣を、同じペースで歩いていける。
そのどうしようもない程の幸せが、ただ俺とユウキを包み込んだ。世界が希望に溢れていると思えるのは、いつ以来だろうか。
俺もユウキも暫しの間、この幸福感を、涙を流しながら分け合ったのだった。
こっちのお話は、もうちっとだけ続くぞ。
次回の投稿日は、四月一日の金曜日となります。
では、また第152話でお会いしましょう!