風の調べさえ耳に届いてくる物静かな空間に、子守唄が流れ続ける。大人しく席に着き、それを聞き流しながしている俺は、テキストが表示されたタブレット端末を眺め、真面目に授業を受けている…とは、残念ながら言い難いだろう。何せ俺がタブレットで眺めているものは、その画面端に映る四つの数字なわけで…。
瞬間、教室の中にチャイムの音が響き、と同時に数字が一つ動いた。教師はもうそんな時間かと、今日はここで切り上げようかと言ってくれたので、授業はここでお終い。起立礼を済ませた学生たちは、一気に解放感に包まれる。
何故ならば、遂に学生たちは一日の退屈な授業を終え、これからは夢の放課後が待ち望んでいるから他ならない。その放課後も、もう十二時間も経過すれば、また面倒な授業の待つ学校生活へと早戻りしてしまう訳だが、今からそんなことを考えても仕方がないだろう。
放課後を喜ぶ気持ちは、俺も他の学生たちの例に漏れない。嬉々として授業に使っていた筆記用具やらなんやらを鞄に詰め込んでいると、ふと俺の耳元から、声が聞こえてきた。
ユウキ「さっきのアルファ、全然授業集中してなかったでしょ?」
アルファ「そりゃ五分前になったらソワソワしちまうだろ」
プローブからの問い掛けに、俺は言い訳がましく返事をしながら、せっせせっせと荷物を纏める。やがて帰宅準備完了となった俺は、クラスメートと帰りの挨拶を交わしてから…しかしそのほとんどが、俺ではなく肩に乗るユウキへと向けられた物なのは納得いかないのだが…駐輪場へと向かっていく。
今は四月中旬。ユウキももう暫くはクリーンルーム内で過ごさねばならないらしいが、その期間も秒読みで終わりが迫っているらしい。人数の都合上クラス替えはなかったとは言え、新学期を迎え、この学校では二年生となった俺ではあるが、ユウキは相変わらず通信プローブから、時折俺の教室で授業に参加していた。
そんなユウキは、見事肉体の健康を取り戻した暁には、この帰還者学校に編入しようと思っているらしいのだ。 がしかし、帰還者学校にはそのような制度がなく、いまは絶賛制度を構築している最中なのだとか。
近い未来にユウキが、俺の隣で同じ制服を身に纏って歩いている。それを既に妄想している俺は、そりゃあもうその時が楽しみで仕方がない。
SAOに囚われた少年少女は、一応年齢別に学年分けが為されているものの、実質的には、デスゲームに巻き込まれたのが高校入学以降かそれ以前であるかに応じて卒業時期が決定されている。それ故に、中学時代にSAOに囚われた俺やアスナ、キリトを初めとするの二、三年の卒業時期は来年、俺よりも一つ年上である、高校入学以降にSAOに幽閉されたノーチラスやユナは今年が卒業という具合だ。
なのでユウキが、帰還者学校に通う日が来たとすれば、ユナ達とは残り一年。俺達とは残り二年の時を学生として過ごせるわけだ。とは言え、その程度で、彼女が学校に通えなかった数年を埋められるとは思えないが、それでもユウキも存分に、学校生活という物を楽しんでくれるんじゃないだろうか。
ユウキに関しては、中学校にも通っていない為、編入と言うより入学と言う形が近いのだろうが、シリカの所属する中等部ではなく、年齢通りキリトと同じ高等部二年に配属してもらえるらしい。
なんでもその条件として、卒業時期と同時に別個で高卒認定試験に合格しなければならないらしいが、既に高校生の学習範囲を網羅しているであろうユウキにからすれば、そんなことはお茶の子さいさいであろう。
ユウキ「あ、今日は、病院来てくれなくても大丈夫だよ」
駐輪場に到着した俺が、愛車のシティサイクルを取り出している最中、ふとユウキがそう言ってきたのだ。
アルファ「なんでだ?」
ユウキ「今日はねー、アルファと仮想世界でやりたいことがあるから」
アルファ「おっけ。んじゃ、パッパと帰るか」
俺がその理由を訊ねると、ユウキはそう答えたので、俺もならば承知したと、白いチャリンコを走らせ始めた。耳元からは「安全第一だよ?」とユウキからの忠告が入っているが、そんなことは当然である。
俺はスピードを出し過ぎないように気を付けながら帰路を辿り、数十分掛けてマンションに辿り着く。自転車を止めて、エントランスでドアのロックを解除した。エレベーターに乗り込んでそこから少し歩いた俺は、財布の中から鍵を取り出して、玄関ドアを開ける。
靴や靴下を脱いで玄関口を通り抜けた俺は、テーブルにプローブを置いてから、一度その接続を切ろうとしたその時であった。
ユウキ「ん~…ちょっと散らかったんじゃない?」
プローブに内蔵されたカメラが、ぐいんぐいんと様々な方向に動いたかと思うと、ユウキの声が響いてくる。確かに彼女の言う通り、少々散らかり始めているかもしれない。だがまぁ、一人暮らしであれば許容範囲だろうと考え、こちらも返事をする。
アルファ「いや、こんなもんじゃね?」
ユウキ「ううん、ちゃんと綺麗にしないと、虫湧いちゃうよ?それとも…ボクに見られちゃ不味いもの、あったりするのかな?」
と俺が言い返すと、ユウキはすぐに反駁してきたのだが…恐らく、その声色からして、俺を揶揄おうとしているのだろう。
がしかし、その程度で慌てふためくほど、俺も未熟ではない。心の中では、仮想世界に行けばユウキに会えるんだから、そんなもん必要ないだろうなどと思いつつも、俺は平静を保ったまま更に言葉を返した。
アルファ「ないない…ってか、なんで今日に限って、俺の部屋の散らかり度合いチェックするんだよ」
ユウキ「ボクはアルファのママみたいなものだからね、これぐらい当然だよ!」
するとユウキは、今度は恐らくその声色からして、ドンと胸に手を当てながらハキハキとそう言ったのだろう。
こうして通信プローブを使っているうちに、俺はユウキの表情を見ずとも、その声だけである程度彼女の様子を悟れるようになった。そんなある種の境地に辿り着いている俺は、今日はどういうノリなんだと思わずにはいられないが、兎に角思ったままの返事をしておく。
アルファ「ママじゃなくて恋人でお願いします」
ユウキ「…ボクがママだったら、いっぱい甘えられるよ?」
アルファ「でもユウキが母親だったら、ユウキに甘えてもらえねぇだろ」
ユウキ「確かにそれもそうだね~」
対するユウキは、これまた恐らくニタニタとした表情で俺にそう言ってくれるが…まぁ確かに、ユウキから一方的に、ダメになるまで甘やかされ続けるのも、それはそれで悪くはないと思っている自分もいるのだ。
がしかしそれでは、つい二カ月ほど前の俺に逆戻りである。あの時は、俺もユウキも死の恐怖に怯えていたのだから、仕方が無かったと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。でも俺はもう二度と、あんな風に悪い甘え方はしたくないし、絶対にしないと心に誓っている。
そんな俺は、お互いに程々に甘えつつも、自律した恋愛関係を目標としているのだ。それ故に、今の俺には、母親のように一方的に与えられるだけの愛を甘受するつもりはない。
と俺がそんな内心を抱きつつも、ユウキに適当な言葉を返した。すると彼女は、穏やかな口調で返事をした後に、一度プローブとの通信を切ったようであった。
なので俺も、そこからは一人で、ゆっくりと家事に取り掛かった。
やっぱり一人の時間は、何処か落ち着くものがある一方で、若干の寂しさも感じてしまうものだ。結局、いつも通りフルスピードでやるべきことを終わらせてしまう。そしてユウキに準備オーケーだとのメッセージを送ると、今日はまずVRルームに来て欲しいとのことらしい。
早々にアミュスフィアを被った俺は、言われた通りにVRルームへと接続する。その真っ暗な空間が広がる世界の中心に、白色の四角い構造物が存在する世界へと辿り着いた。それはいつ見ても違和感マシマシなものでしかない。
窓から明るい光が漏れ出すその建造物に近づき、ドアノブを握って内部に押し入ると、やはりそこには君が待っていてくれている。
ユウキ「ん、おかえり、アルファ」
アルファ「ただいま、ユウキ」
そこで俺がVRルームにやって来たことに気が付いたユウキは、笑顔で俺をお出迎えしてくれるけれど、それがどれほどに俺の心を幸せに満ち溢れさせているのか、彼女はきっと知らないのだろう。
ユウキがこうして微笑みながら出迎えてくれるからこそ、俺の還るべきところは、いつだって君の心であるのだと、俺はそう強く確信できるのだ。俺もまた笑顔で挨拶を返すと、ユウキはその小さな手で俺の腕を掴み、ベージュなソファーに誘導してくる。
俺も特に抗うことなくその導きに従い、二人でソファに座り込んだ。いつも通り病院で顔を合わせることもなく、ユウキが俺をVRルームへと呼び出した理由は一体何なのか。もう彼女の口から恐ろしい事実を語られることはないのだとは分かっていても、俺は今からユウキに何を言われるのか、僅かながらの恐怖を感じずにはいられない。
だけども、そんな俺の恐怖心は、手を繋ぎながら俺に寄りかかってくれる君の穏やかな表情を見るだけで、何処かへと洗い流されていく。ユウキはそのまま暫くの間、心地良さそうに目を閉ざしていたが、ふとぱちくりと瞼を開けると、俺の目を見て言った。
ユウキ「アルファ君、ボクはお腹が減りました」
その発言から、またユウキが何かのノリを始めたのだろうことは理解する。しかしユウキに君付けされるのは、どうにもむずかゆい。…まぁ、一応俺年上だから、君付けされるのが普通なんだけどな…。
取り敢えずユウキのノリに合わせることにした俺は、その発言の意図が汲み取れなかったわけで、大喜利風に言葉を返す。
アルファ「…その心は?」
するとユウキは、右手を動かしウインドウを開けると、パッパと指を動かしてその画面を表示したのだ。俺がそれを眺めているうちに、彼女は言葉を続ける。
ユウキ「だからね、今からお菓子作りしようよ!」
ユウキが俺に見せた画面には、VRクッキングなるバーチャルワールドのアプリケーションが表示されていた。なんでもユウキは、既にこれをインストールしてあるらしく、今すぐにそちらに向かえるということだ。
だが俺は、一人暮らしでそれなりに自炊を頑張っているとは言え、勿論お菓子作りなんてものはやったことがない。ウキウキとした表情で俺の返事を待つ君に、少し顔を顰めた。
アルファ「お菓子作りなぁ…俺に出来るかどうか…」
ユウキ「それなら、アルファは試食係でもいいよ!ケーキ作るから」
アルファ「…そもそも、ユウキってお菓子作れんの?」
ユウキ「当たり前でしょ!ボクの料理の腕前は、アルファが一番よく知ってるんじゃないの?」
そう煮え切れない返事をした俺に対して、先程のあれは誘い文句ではなく、本気でお腹が減っていたのだろうか。ユウキは是が非でもお菓子を作りたいらしく、無理矢理にでも俺をそちらへ誘い込もうとしてくる。
まぁユウキのケーキなら絶品だし、それもいいかとその案に乗ろうとしたその時だった。ふと、俺は思ったのだ。ユウキって、料理出来るのかと。
俺がそんな率直な疑問を投げかけると、ユウキはなんの憂いも感じさせない自信満々な表情で答えてくれた。そこまで堂々と言われてしまうと、確かにそうだなと、俺はそれに納得してしまったのだ。
そして俺は、ユウキの案内に従って、簡素な椅子とテーブル、そして全ての備わっているであろう高性能そうなキッチンのみが広がる世界に移動したわけだ。
ユウキ「じゃあ、ちょっと待っててね!」
アルファ「りょーかい」
「手伝おうか」と声を掛けたものの、「いーからいーから」と俺を着席させたユウキは、そのままキッチンへと向かっていった。
なので俺も呑気に、今日のユウキが作ってくれるケーキは、イチゴケーキなのかチーズケーキなのか、将又オシャレにモンブランなんて可能性もあるのだろうかと、彼女が作り上げる美味しいケーキを心待ちにしていた。
そして十分後。ゆらゆらとこちらに人影が動いてくる。ユウキがケーキを完成させたのだろうかと、俺が表情を輝かせてそちらを見やった瞬間だった。
ユウキ「……あ…アルファぁ~…」
アルファ「ゆ、ユウキ!?どうしたんだ!?」
君は今にも泣き出してしまいそうな表情で、俺を見つめているではないか!?
この状況が全く理解出来ないでいた俺ではあったが、もしやユウキが包丁で怪我してしまったのかと…いや、仮想世界において、そこまでリアルの弊害を反映しているわけがないか…と冷静な判断を下し、であれば尚のこと、何故、ユウキは目をウルウルとさせているのか。
兎に角、すっかり先程の元気良さが失われたユウキの様子を受けて、俺はかなりビックリしたのだ。ガタッと席を立ってユウキに近寄る。すると彼女は、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべ、俺に言った。
ユウキ「…ボク…ケーキ作れなかったんだ…。…現実世界のお料理…難し過ぎるよ…」
そこでようやく、俺はその全てを理解した。
なるほど、恐らくユウキは、幾らSAOやALOでの料理が簡略化されているとは言っても、現実世界の料理も似たようなもんだろと、料理という魔境に舐めて掛かったのだろう。
そしてその末に、彼女はその厚い壁に阻まれた。仮想世界での料理においては、絶対的な自信を誇っていたユウキは、現実世界の料理では手も足も出なかった結果、こうして心折れてしまったのだろう。
プライドがへし折られ、しゅんと萎れるユウキ…う~む、こういうユウキもまた可愛いな…などと心の中でコメントしつつも、俺は彼女を落ち着かせるべく頭を優しく撫でながら、こう言ってあげるのだ。
アルファ「んじゃ、今から俺と一緒に、ホットケーキでも作ってみるか」
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…幾らなんでも、恥ずかし過ぎるよ…。
小麦粉、砂糖、ベーキングパウダー、卵、牛乳…ボクはアルファに言われた通りの材料をボウルに突っ込み、それを泡だて器でぎこちなく混ぜながら、そんなことを思わずにはいられなかった。
ケーキなんて簡単に作れるだろうと、アルファに堂々と息巻いたというのに、結果ボクはケーキを完成させるどころか、その作り方の手順さえ一切分からなかったのだから。
レシピを検索して見よう見真似でケーキを作ろうとするも、その多過ぎる手順に身体が追い付かない。そして結局ボクは、ケーキ作りを断念することになったのだ。
…正直言って、ボクは料理を舐めていた。SAO時代にあんなに料理をしていたのだから、現実世界での料理だって、多少複雑になってたとしても、きっと問題なく熟せるに違いないよ!…などと空想していた数十分前のボクを、今のボクなら間違いなくお説教しに行くよ…。
などと心中で、自分の甘すぎる見通しを反省しつつも、ボクは中身が零れないよう頑張ってかき混ぜたボウルをアルファに差し出した。
ユウキ「混ぜられたよ、アルファ」
すると彼は、一瞬吹き出しそうに口元を歪めた後に、しかし優しい表情でボクに言うのだ。
アルファ「これはちょっと、玉が多過ぎるから…塊が無くなるぐらいまで、頑張って混ぜないとだな」
ユウキ「そ、そっか…」
そんなことも分かっていない自分が、本当に恥ずかしい。何せSAOでこの手筈を踏んだとすれば、専用の容器に材料を入れる→専用のヘラで三回ほど混ぜる→完成、の数秒で終わる超簡単な作業であるのだ。
だけど現実世界のお料理では、腕が痛くなるぐらいしっかりとかき混ぜないと、「だま」と呼ばれる塊が、完成品の品質を落とすことになるらしい。アルファからそんな説明を受けながらも、いつの間にか立場が逆転していることに、ボクはやはり気恥ずかしさを覚える。
本来ならば、ボクがアルファにお菓子作りを教えてあげるつもりだった。でも気が付けば、ボクの方が彼から教えられているではないか。そんなことを思いながらも、更に一生懸命かき混ぜると、それはバター色のドロリとした液体に生まれ変わった。
アルファにもう一度それを見せると、今度は合格を貰えた。ボクは更に彼の指示に従って、ホットプレートに油をひき、それを熱する。それは、これまたボクの知識にはなかった作業であった。
そして遂に、いざ生地を投下する。
アルファ「あー、まだもうちょっと待たないとな」
一体、どのぐらいの時間でホットケーキをひっくり返せばいいのか。そんなことさえもが、今のボクには漠然としていた。ついつい待ちきれずヘラでホットケーキを掬おうとするも、それはアルファに止められてしまう。
なのでボクももう暫く辛抱強く待つことにした。すると生地がきつね色になったので、こんがりと焼けたホットケーキをひっくり返す。それをもう一度繰り返すと、これでホットケーキの完成だ。たったこれだけの作業なのに、今のボクにはかなりの労力を有するものであった。
ちょっと前までは、「いつか現実世界でアルファにご飯作ろっかな」だなんて考えていたけれど、ボクの現状を考慮すると、如何やらそれは相当先の話になりそうだ。
蜂蜜にバターにホイップクリームなど、ボクが使いたいものを色々と取り出していく。そんな中アルファがふと、ボクに言うのだ。
アルファ「あんまり食べ過ぎんなよ。リアルで食べれなくなるから」
ユウキ「大丈夫大丈夫、これおやつだもん!」
お節介とも言える心配してくれるアルファには適当な返事をしながら、ボクは三枚のホットケーキを頬張り始めた。だって、たくさん食べたいボクからすれば、実は病院食は少々物足りなかったりするからだ。
がしかし、仮想世界でお腹いっぱいになっちゃって、体重を増やさないといけない現実世界で食べられなくなるような、本末転倒なことをするつもりも勿論ないわけで、これは許容範囲であると判断している。
初めてボクが料理した…これが料理と言えるのかは疑問だけど…ホットケーキは、可もなく不可もなく普通の味、そんな感じだった。
ALOの料理スキルの恩恵に預かって作るものよりも、その味は数段劣るだろうけど、アルファは美味しいと言ってくれるから、単純なボクはそれだけで嬉しくなっちゃえる。
…さぁ、これからの生活に備えて、退院するまでにはボクは、ここで色々とお料理の勉強をしないといけないのだろう。
来月には十八歳になるから、もう未成年でいられるのもあと一カ月ぐらいのことだ。その為、病気が突然治ったボクの親権者に、親戚のうちの誰がなってくれるのかだなんて問題は、気にする必要もない。
帰還者学校に通えるのは、今の所は夏休み以降だということもあって、それまでの数か月の間に、ボクは生活の基盤を整えねばなるまい。
幸い、パパとママの遺産が残っているから、当分お金に困ることはないだろうけど、いつかは自分で生活費を稼がないとダメだろうし…ボクがこれからお家に帰ったとしても、もうママとパパだけじゃなくて、姉ちゃんだって居ないのだ。
その事実は、やっぱり今でも凄く寂しいけど、今のボクの周りには、アスナやリズを初めとする気の置けない友人が、そしてボクを隣で支えてくれる最愛の人だっている。その温かさが、またボクの心を優しく包み込んでくれるのだ。
これから一人暮らしを始めることになるボクは、きっと色々な困難にぶつかるに違いない。洗濯機はどうやって回すのか、トイレやお風呂の掃除のやり方も知らない、光熱費の払い方だって知らないし…本当に、とても忙しい日々が始まるのだろう。
そんなせわしなさに見舞われようとも、ボクが帰還者学校に通いたいと思ったその理由は、やっぱり憧れの学生生活という物を、ちょっとの間だけでもみんなと楽しみたいからなのだろう。
これから繰り広げられる多忙な日々に備えて、ボクは今日も、生きていく為ひ必要な知識を蓄えていくのであった。
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四月。
君と出会って以来、その季節には多くの鮮烈な出来事があった。
例えば一年前のこの時期には、俺は君の居ない虚ろな日々を過ごしていたし、その更に一年前は、君との関係を恋人関係に発展させてすぐの頃で、お互いに甘酸っぱい毎日を送っていた。更にもう一年前には、大切な仲間を殺してしまったという衝撃が俺の全てを覆い尽くし、宿屋に引き籠る生活を続けていた。
四月とは、出会いの季節であり別れの時節だとはよく言ったものだが、確かにごもっともである。と、君との日々が四年目に突入した今の俺は、そう強く思えた。
君と迎えた初めての春は、戦友との死別。その次の年は、君と相思相愛へと至り、更に次の年には、君との一時の別れを経験した。
しかし今年の春は、俺にとっては別れの季節ではない。今人生で初めて、俺は君とようやく、現実世界にて出会うことが出来るのだから。それ故に俺は、いつもに増して病院へと向かう足取りが軽やかなのだろう。
──今日は四月の月末。ユウキが、クリーンルームから出てくる日である。
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ボクが無菌室を後にする日。それは、ボクの命が終わるその時以外に有り得ないと、ついちょっと前のボクは、疑うことなくそう思い込んでいた。
だけど結果から言えば、それは現実には起こらなかった。ボクとアルファが紡いだ奇跡が、ボクの命を繋いだままクリーンルームを発つチャンスを与えてくれた。そしてボクは見事、そのチャンスを掴み取った。そして今日と言う日に、遂に一般病棟へと移る時が来たのだ。
ボクが一般病棟へと移動すれば、臨床試験として使用していたメディキュボイドは、勿論使えなくなる。メディキュボイドはボクの所有物じゃないから、無菌室を出るということは、メインメモリに保存されているVRルームには、もう訪れられないということでもある。
アルファと一緒に色々頑張って作り上げたあの空間に、もう二度と足を踏み入れられないというのは、ちょっぴり寂しさもある。でも、これからは現実世界で、アルファと一緒に居られるのだ。であれば、またこっちでアルファとの思い出を創り上げれば、それでいいのだろう。
今日のボクは、いつもの白い検査着ではなく、無菌室に入る前に着ていた普段着を着用している。まだまだ体重が軽過ぎるボクは、今はまだ数年前の服が着られるけど、そのうち新しい服も買わないといけないだろう。
そして遂に、その時が来た。
以前は厳重に閉ざされていたクリーンルームの扉が、今大きく開け放たれた。向こうから単なるナース服の看護師さんが一人、車いすを押してこちらに入ってくる。それに合わせてボクもジェルベッドから起き上がる。最後に、今日まで一緒にボクと生きてくれたメディキュボイドを一撫でしてから、ベッドから降りた。
その様子から分かる通り、ボクの免疫力は健康な人と同じぐらいに回復しているけれども、筋力の方はまだまだなのだ。ナースさんに支えられて、ボクはゆっくりと車椅子に腰を下ろした。そこからは頑張って、細い腕で車輪を動かしながら、自力でクリーンルームの外へと漕ぎ出す。
その先のモニタールームでは、本当に嬉しそうな表情でボクを見つめてくれている彼が、そこに待っていてくれた。瞬間、ボクはもう堪えられなくなった。全身に迸る衝動に任せ、車椅子を動かす手を止める。足に懸命に力を込めて、なんとかその場で立ち上がった。
すると先生や看護師さんが、「危ないよ」と慌てて注意してくれた。けどボクはそれら全てを無視した。ボクの世界の中には、少し先に居る君以外存在していなかった。無我夢中になって、一歩一歩、ふらふらと君の元へ歩みを進めるのだ。
でも、やっぱりまだまだ力が足りなかった。ボクは躓いたわけでもないのに、ふらりとその場に倒れ込みそうになる。がしかし、ボクの思った通り君は、しっかりとボクの身体を正面から受け止めてくれるのだ。
「おいおい、危ないって。あんま無茶すんなよ」
「うん…ありがと…」
君の身体に支えられたボクは、そのまま背中に腕を回し、あらん限りの力で君を抱き締めたのだ。すると彼も、ボクと同じように優しく力強く、ボクを抱き締め返してくれる。
……ずっと、こうやって君に触れたかった。数か月前の一度限りじゃなくて、ボクは何度でも、君の温かさに触れたかったんだ。初めて現実世界で抱き締めた君の身体は、思ったよりも男の子っぽくてゴツゴツしていたけれど、そのボクに向けてくれる温もりや大好きな匂いは、仮想世界と何も変わらない…ううん、仮想世界以上に、現実世界で直接触れる彼の身体からは、色々なものが感じ取れた。
その時不意に、ボクの瞳の奥深くに、一つのイメージが浮かび上がってきたんだ。
桜の花びら舞う不思議と淡い空間の中で、寄り添う二つの人影。一本の細身の剣を帯刀したロングスカートの女の子に、深緑のコートに身を纏った大剣を携える男の子。それは紛れもなく、剣士として仮想世界を生き抜いたボクと彼であった。二人はこちらに気が付く。微笑み手を繋ぎながら、一度ボクに向かって手を振ると、何処かへと遠ざかっていく。
とそこで、ボクはようやくそれを確信した。
今のボクは、メディキュボイドを利用し、仮想世界を介して「ユウキ」というアバターに自己を投影する必要はもうないのだ。こうやって直に、現実世界で君と一緒に居られる。ボクは今日から君と、現実世界で生きていけるんだ。
なればこそボクは、目の前に居る君に言葉を紡ごうではないか。ボクは満面の笑みを浮かべ、君の瞳を見据えると、君に言うのだ。
「初めまして、歩夢」
すると君は、一瞬目を丸めたけれど、すぐにボクの言わんとすることを理解してくれたようだった。君もまた全力の笑顔で、ボクの瞳を見て、そう言ってくれた。
「初めまして、木綿季」
それがボクと君との、現実世界で初めて出会った日のことだった。
原作とは違って、帰還者学校の卒業時期が変更されています。まぁ、二人が存分に青春する為ってことです。
次回の投稿日は、四月七日の木曜日となります。
では、また第155話でお会いしましょう!