窓を覆う薄い白いカーテン、障子に貼られた厚い和紙。白光りした輝きは、その二重なバリアーを貫き、部屋の中へと差し込んでいた。
瞼の奥を刺激された俺は、随分と深い眠りに落ちていたことに気が付く。瞼を開けるのが億劫になるほどに、身体中が微睡に沈んでいたい気分で満たされていたが、同時に、強烈な喉の渇きをも覚える。鈍い頭で色々と思案した結果、脱水症状になってしまっては敵わないと、後者が打ち勝った。
大人しく瞼を擦って目を開き、とそこで、自分のもの以外の息遣いを感じ取る。そしてそれは間違いなく、俺の隣で眠りに落ちている君なのだろう。一緒の布団の中で眠っている彼女を起さないよう、ゆっくりと振り返った俺は、やはりそこに君がいることを認識した。
そんな今の君は、しっかりと温泉浴衣に身を纏っているわけだが、昨晩は…それは充分過ぎるほどに乱れていた。お年頃の男の子とうら若き女の子が二人っきり、加えてお互いに好き合っている状態で夜を過ごすとなると…当然、何も起きないわけがなかった。というか人為的に起こした。
ユウキとのそれは…まぁ、良かったの一言である。仮想世界での予習のお陰もあってか、初めてにしては随分と上出来だったろう。あの時のような失態は犯してない。双方に満足のいく結果となったのは、非常に素晴らしいことのはずだ。
ただ、一点思うことがあるとすれば…やはり、現実世界でのそれは、色々と事後が大変であることだろう。仮想世界が如何ほどに簡略化されていて、後の事が楽ちんなのかを、これでもかと思い知らされた。だがリアルの質感も実に捨てがたい。これは今後どうするべきなのか…。
と昨晩は、そういう意味でユウキと寝ただけでなく、ただ単純に、こうして二人一緒の部屋で眠りに落ちるということも、リアルでは初体験だったわけだ。
恐らく、俺が旅館で熟睡してしまったのもそれ故なのだろう。ユウキ自身の放つ柔らかな匂いが、俺をしっかりリラックスさせてくれたのだ。やはり睡眠時は、マットレスや枕、抱き枕なんかに拘る前に、まず第一にユウキだと、そう思わずにはいられない。
君という安眠効果のお陰で、昨日の疲れも綺麗さっぱり癒えている。俺は軽やかな身体を動かし、ゆっくりと布団から這い出ると、丸テーブルに置いてあったペットボトルの水を飲み干した。
続いて携帯を確認すると、時刻は午前六時。俺にしては随分と早起きである。確か朝ご飯の時間は七時半頃にお願いしているので、その直前ぐらいまではユウキもぐっすり寝かせてあげよう。
折角早起きしたんだし、外に散歩に行ったり、朝風呂に入ったりしておこうか。いや、最初に今日の観光予定をおさらいしつつ、より洗礼すべきだろうか…などと、俺が考えていたその時だ。
木綿季「…んぅ…」
俺が先程まで居た場所に、盛大な寝返りを打った彼女は、寝起きとは思えない急な挙動で、ガバッと起き上がった。
────────────────────────
…何かが足りない。ボクの隣にあるはずの、すっごく温かくて心地良いもの…どのタイミングだろうか。夢の中に意識を放り投げていたボクは、そんな寂しさに気が付いたのだ。
すぐ後ろからその気配がなくなったことを直感的に悟ったボクは、それを確かめるべくそちらへ身体を動かすも…思った通りアルファが居ない。そこで一気に微睡から引き上げられたボクは、思いっ切りその場で起き上がったのだ。
そして緩く目を擦ってから、覚束ない視界で辺りをキョロキョロと探ると…客室の奥の方に、君が居た。
歩夢「おはよ、木綿季。やけにアグレッシブな起き方だな」
木綿季「…ん、そーゆー気分だった…。おはよ、歩夢…」
そして彼は、微笑みながら朝の挨拶を交わしてくれる。だからボクも、幸せな気持ちで朝を迎えられる。彼の姿を認識して、アルファが何処かに行っちゃったわけじゃないことに安堵感を覚えつつも、彼に寝起きの顔を見られてしまったことに、少し恥ずかしさを覚えたりするんだ。
まぁでも、そんなの今更だよね。そうやって適当に誤魔化しておいたボクは、寝起きで上手く動かない身体に鞭打って、お布団の上から動き出した。そしてアルファの元にまで辿り着き、そのまま身体を預けてしまう。
木綿季「ちょっとだけ~…」
歩夢「ごゆっくりどうぞ」
…やっぱり、アルファの温もりは凄く落ち着くんだ。特にこの優しい匂いが…。こういう時、ボクは無性に、胸いっぱいにアルファの匂いを吸い込みたくなるんだよね…。でも、それは流石に引かれそうだからやめておいた。アルファが熟睡している時以外には出来る気がしないや。
ちょっとだけ、ちょっとだけとは言いつつも、彼の言葉に甘えて、ボクは暫し目を閉じて彼の身体にもたれ掛からせてもらう。そんな中、アルファからの声が飛んできた。
歩夢「朝ごはんは七時半だからさ。それまでにパッと朝風呂でも行くか?それとも散歩とか、今日の計画練り直すってのは…」
その言葉に目を開けたボクは、彼の方を見ながら答えた。
木綿季「計画変更って言っても、今日は帰るまで観光の予定なんでしょ?」
歩夢「いや、まぁそうなんだけど…」
木綿季「歩夢が他に行きたいとこでも出てきたの?」
歩夢「そう言う訳じゃなくて…」
ボクの放った発言は、当然のことであると言うのに、何故かアルファは優柔不断な様子で、歯切れの悪い言葉を繋いでくる。いつもであれば、アルファには行きたいところがあるけど、ボクの気持ちを優先してそれを言い出せないでいるとか、そういうパターンである。
だけど如何にも、今日のアルファはそうでないと見えた。だって、言いあぐねるアルファの苦渋に溢れ返った表情は、いつかどこかで良く見たものであったのだ。そしてそれは、ボクが時折目にする、アルファの陰の部分のように思えて──。
そこで、ボクはようやく気が付く。そんなアルファの片鱗は、既に昨日の日中から姿を現していたことに。それは…彼が、二人の墓石の前を訪れたその時だ。彼は確かに、今と似たような表情をしていた…つまり彼の心の内は…。
なのにボクは、それをほったらかしにして、昨日はずっとアルファに甘え通していたのだろう。それを思うと、ボクは何をやっているのだと、今更ながらに後悔の念を抱かされる。だけどそれは後の祭りでしかない。
…ボクだって分かっていたはずだ。その苦しみを溶かしてあげられるのは、あの場に居たボク以外に有り得ないことを。なのに…なのにっ…。旅行に浮かれてアルファのことをしっかりと見れていなかった自分自身に、ボクの心にじわじわと、少々の嫌気が差し始めた。
でもそうして、負のループに陥っているわけにはいかない。せめて今からでも、もう遅かったとしても、ボクは──。
木綿季「ね、歩夢」
歩夢「ん?」
──それが、ボクにしか出来ない君にしてあげられることならば。そう決意を固めたボクは、意を決して彼にその核心的な一言を問うた。
木綿季「今の歩夢…悩んでるよね?オウガとサツキのこと」
歩夢「……」
ボクの問い掛けに対して、僅かに動揺したように瞳孔を拡大させた彼は、暫し無言でボクを見つめた。そしてその末に、微笑みと共に彼が放った言葉は──。
歩夢「…大丈夫──」
木綿季「──じゃない。大丈夫じゃない、でしょ…?ボクに嘘つかないで…」
歩夢「……」
優しさに溢れるアルファなら、どうせ正直に答えたら、ボクに心配掛けたり迷惑だったりするだろうから、ここはのらりくらりとやり過ごそうとか考えて、結局ボクが一番傷付く選択肢を選ぼうとするんだ。ボクにとっては、頼ってもらえないことが何よりも辛いのに。
これは、アルファのいつまで経っても直らない悪い癖だ。大切な人を思うが故に正解を選べないことが多い。それがアルファだ。だからボクが、その優しい嘘を取り除いてあげなきゃいけない。それはボクにしか出来ないことだから。例えもうアルファが太陽じゃなくて、ボクは月なんかじゃなくなったのだとしても、その淀みに淡い明かりを当てて溶かすのは、ボクだけの役割なんだ。
だからこそ、アルファの言葉を全て先読みしていたボクは、それに重ねるように言葉を返した。するとアルファは、また言葉に迷うように黙り込む。
そんなアルファを見て、ボクは…ぎゅっと彼を抱き締めた。彼の顔を胸部に押し当てるように頭を両手で抱えながら、あらん限りの想いで彼を包み込む。
木綿季「…ボクね、そういう嘘は嫌いだよ?だからボクも、偽りのない言葉を歩夢に贈るよ…。それはね、君に必要以上に背負わせちゃって、ごめんなさいってこと…。ボクは嘘が嫌いだから、サツキの死因が歩夢のせいじゃないって言ったりはしない。でも、オウガが死んじゃったのは、攻撃を回避出来なかったボクのせいなんだ。なのに歩夢は、二人共自分のせいで死んだみたいに言ってさ…。それは違うんだよ?オウガはボクのせいで、サツキは…歩夢のせい…。その罪は二人で半分ずつ背負ってる。だから、歩夢一人で抱え込まないで。悩まないで。二人のことで悩んでるなら、ボクにもほんとのことを話して欲しいんだ…」
ボクがそっと小さな声で伝えたその気持ちを、アルファはどう思ったのだろうか。彼は大人しくボクの胸に身体を預けたまま、何も言わずにボクの気持ちを聞いてくれた。
暫しの沈黙。その末にふっと重心を戻した彼は、ボクに寄りかかることをやめる。そして迷いのない瞳でボクを見据え、言った。
歩夢「…サツキは、勿論俺のせいで死んだし、オウガだって、俺があの時動けてたら死ぬことはなかった。あのさ、これは木綿季には言ってなかったんだけど…俺、オウガとサツキのことは、もう全然悩んでないんだ。いや、これっぽっちも悩んでない訳じゃないんだろうけど…後悔に囚われてないって言うか。もうずっと前に、二人のことには自分なりの決着をつけてる。覚えてるか?SAOの72層で、変なトラップに嵌まった時のこと。俺はあの時、オウガとサツキに会ってさ、そこで、うん、悔恨は辞めにしてる」
…意外だった。ボクの知らない間に、アルファはアルファで過去に囚われることをお終いにしていたのは。
72層で見つけた館のトラップに引っ掛かったボクは、確かに姉ちゃん達と穏やかに過ごす日々を夢見た。だからアルファは、オウガとサツキと共に生きる世界を垣間見たのだろう。
彼の心に圧し掛かる重しが一つ、既に取り除かれていたことに安堵した一方で、それまでアルファに何もしてあげられなかった自分に、ある種の情けなさを感じたりもした。
木綿季「…そっか。…ごめんね、何も力になれなくて…」
だから口から洩れだしたこの気持ちは、正真正銘、アルファへの申し訳なさ故であったに違いない。
…いや、「一人で背負わないで」などと言っておきながら、結局全てアルファ一人で解決させてしまったことへの、自分自身の驕った発言に対する自惚れへ向けられたものだったのかもしれない。
そんなボクの様子を見たアルファは、もう一度その顔に微笑みを作ると、ゆっくりと口を動かしてくれた。
歩夢「そんなことない。木綿季がそうやって色々悩んでたこと、その気持ちを知れて、俺は嬉しかったから」
木綿季「…うん」
きっと、そう言ってくれるのはアルファの持ち前の優しさ故だ。彼の気遣いとも見えるその一言に、ボクは俯き短い返事をすることしか出来ない。
だけどその時、ふと思ったのだ。アルファの言う通り、彼が二人のことで悩んでいないと言うのならば、何故アルファは、あんなにも苦しそうな表情をしているように見えたのだろうか、と。
そしてそれは、すぐに理解出来た。つまり今のアルファには、二人の死を思い詰めること以外に、何か悩んでいることがあると言うことだろう。…だったら、今ボクがすべきことは…。
木綿季「…じゃあさ、歩夢は何に悩んでるのかな?ボクで良かったら、聞かせて欲しいな」
伏せた視線をもう一度アルファに向けたボクは、それを今一度訊ね直した。対するアルファは、またその口を閉ざしたけれども、ボクの意向を汲んでくれたのだろう。すぐにその理由を話してくれた。
歩夢「今日は観光の予定だったけどさ、俺、オウガとサツキの住所知ってるから。そこまで足運ぶべきなんじゃないかなって思って…」
木綿季「どうして?」
そして彼が遠慮がちに放った言葉の内容は、ボクにはその理由を上手く解せないものであった。だからボクが疑問気に訊ね返すと、アルファはやはり渋い表情で言うのだ。
歩夢「なんでって…そりゃ、二人が死んだのは俺のせいなんだから、二人の家族にはその説明しないと…」
木綿季「歩夢のせいじゃなくて、ボク達のせいだけどね」
歩夢「…ん、悪い…」
彼の些細な言葉遣いに訂正を入れておいたボクは、アルファと隣り合わせに身体をくっつける。今から伝えるこの気持ちは、言葉だけじゃなくて、行動でも示したかったから。
そしてボクは…少し怒った、或いは優しく諭すように、彼に告げた。
木綿季「歩夢はね…ちょっと優し過ぎる。何もそこまでしなくていいんだよ?ボク達がやるべきことは、二人を弔うこと、ただそれだけ。二人の家族にまでそんな話しても、残るのは後味の悪い気持ちだけじゃん。ボク達も、二人の家族にとっても。だからね、そんなことまでして、歩夢は余計に抱えて、必要以上に傷付かなくていい。もう充分、歩夢は頑張ったんだから…」
ボクの言葉を受けたアルファは、今度は少し弱ったような表情を浮かべていた。
歩夢「…そうかな。俺、そこまでする必要ねぇのかな…?」
木綿季「…うん、ないよ。あの時のお話は、ボク達四人の中で完結してるんだから。当事者のボクが言うから間違いないよ。あとはそれで、歩夢が納得出来るかだけ…」
ボクはそんな彼を精一杯肯定するように、一層身体を寄り添わせて言葉を続けた。だけど、最後に気持ちの折り合いをつけられるのは、当の本人のみだ。
アルファは一度ふっと瞳を閉ざすと、やがてゆっくりと瞼を開けた。そして彼はボクを見やると、途端に強く身体を抱き締め、ボクの耳元で囁いた。
歩夢「…ありがとう、木綿季。木綿季のお陰で良く解った。確かに俺は、ちょっと抱えるものを増やし過ぎてたみたいだな。弔いは二人だけで充分だ。今日はいっぱい、楽しい時間を過ごそうな」
如何やら彼は、ボクの言葉に納得してくれたらしい。そしてそれを気が付かせてくれたボクに、あらん限りの想いを伝えようとしてくれているのは、その身体に宿る温かさがこれでもかとボクに教えてくれた。
そんな君の様子を受けて、ボクは、この旅行で一番為すべきことをやり遂げられたような、そんな盛大な達成感に包まれたのだった。
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高級旅館で頂く朝食という物は、俺の想像を遥かに上回る素晴らしさであった。と言うのも、焼き魚や出汁巻き卵など、出てくる料理は朝食にありがちなものである一方で、その味は自力では到底再現出来なさそうなレベルにまで洗礼されていたのだ。
朝はあんまり食べない俺が、ご飯のお替わりをしてしまったほどだ。宿の朝食でこんなに旨い物を食べた経験は、今生の俺にはない。それはユウキも同じなのか、「美味しい…美味しい」と語彙力の失った感想を交わし合いながら、俺達は朝食を食べ進めた。
それからは、大浴場が清掃の時間となる前に急いで朝風呂へと繰り出したり、チェックアウトまでに荷物を纏めたり、或いは今日の予定をおさらいしてから、俺達は宿屋を後にし、いざ観光に出向いたのだ。
そんな俺達が、まず最初に訪れたその場所は…。
歩夢「…おぉ…」
木綿季「…ほんとに書いてた通りなんだね…」
訪れた観光地にて広がっていたその光景に、俺とユウキは若干の驚きを声に表す。何せ、その緑の芝生に覆われたエリアには、そこに居るのがさも当然かのように、無数の野生動物が生息しているのだから。
木綿季「放し飼い、なのかな…?」
歩夢「放牧って言うか、こいつら一応野生らしいぜ」
木綿季「へぇ…なんかすっごく異質な感じに思えるよ」
要するに、俺達が最初に訪れた観光地とは、奈良で一番有名とも言える奈良公園という訳だ。「奈良を観光する者として、ここを訪れないわけにはいかないよね」というユウキのご意見により、俺達はこの場に参上したのである。
歩夢「…鹿の糞踏まないように気を付けないとな」
木綿季「そうだね」
辺りに転がる鹿君達の排泄物を避けながら、俺とユウキは、向こうの砂地で身体を横たわらせ、休息を取っているのであろう鹿たちへと近づいていく。その間ユウキは、先程購入した鹿せんべいの包みを千切っていた。
そしてユウキが、その半分を俺に手渡したタイミングだ。俺達がおやつを持っていることに気が付いた鹿達が、大群となってこちらに向かって来てきたのだ!
木綿季「うわっ!?あ、歩夢っ!!た、助けてぇっ!!」
歩夢「おいおい落ち着けって。別に木綿季のこと取って食おうって訳じゃないんだからさ」
木綿季「そ、そうだよね…あんまり鹿さん達の勢いが凄いから、ちょっとビックリしちゃったよ…」
鹿達がこちらに押し寄せて来るのに、ユウキは何故だか怖気づいていた。慌てた様子でこちらに救いを求めるも、俺は冷静なひと言を飛ばしておいた。
…あっちの世界じゃ、モンスターの大軍に囲まれても寧ろやる気を滾らせていると言うのに、一体鹿の何が恐ろしかったのだろうか…。
ハッと冷静さを取り戻したユウキは、それからは砕いた鹿せんべいを掌に乗せて、彼らにそれをプレゼントしていた。
木綿季「あ、あははっ!くす、くすぐったい~」
掌を鹿に舐められ、更には荒い鼻息が飛んでくるせいか、彼女は愉快そうな笑い声をあげている。
そんな彼女を見て満足した俺は、一緒に鹿の唾液で汚れた手を水道で洗い流してから、次の観光地へと向かっていく。とその道中に、ユウキがふと言ったのだ。
木綿季「鹿せんべいって美味しかったのかな?」
歩夢「あんまり美味しくないらしいぞ」
木綿季「でも物は試しじゃない?」
…不味い。これは鹿せんべいを買って試食してみる流れだ。彼女の好奇心が嫌なところで発揮されてしまったことに俺がビクビクしていると、彼女はまた朗らかに笑いながら言葉を続けた。
木綿季「冗談に決まってるじゃん。歩夢がどんな反応するかなって、言ってみただけ」
歩夢「それを聞いて安心した」
とこんな感じでユウキとの観光デートを楽しんでいると、心の片隅に、やはり二人の住所に向かうべきではないかと、そんな気持ちが湧いて出てくる。
だがそれは今朝に解決した話だ。ユウキの言う通り、それは余計な抱え事だろう。そこまで俺が責任を背負おうなど、最早傲慢でしかない。こうして俺が今を楽しんで生きようとも、何ら悪いことではないのだ。
それをユウキが教えてくれた。だから俺は、今日をユウキと共に目一杯過ごすんだ。無意識のうちに握る君の手に力を込めながら、俺は次なる目的地へと足を進めていくのだった。
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シカ公園に並ぶ、奈良県の二大観光地。今ボク達が訪れているその場所は、まさしく観光地と呼ぶに相応しいだろう。ボクらが右手と左手の指を絡め合い、恋人繋ぎをして見上げるその先には…身長何十メートルとある鈍色の巨人が、どっしりと座り込んでいた。
とは言っても、別にボクらはゲームをしていて、その巨人がボスとかそういうわけじゃない。眼前に居座る強大な威圧感を放つそれは、所謂大仏様だ。中でも、廬舎那仏と呼ばれる仏様らしい。
となると当然の如く、ボクらの訪れたその大きなお寺は、東大寺というわけだ。そしてまずは、一番目玉の東大寺盧舎那仏を拝みに来たのである。
歩夢「…想像の数倍はデカいな」
木綿季「だねぇ…」
アルファの呟く一言に共感したボクは、そのまま流れで他の仏像やら建造物を見て回ったんだ。するとその途中に、ふとアルファがボクに問い掛ける。
歩夢「木綿季ってさ、大仏とか見てて、なんか感じるものあるのか?」
木綿季「なんかって…凄いなぁ、ぐらいかな」
歩夢「…良かった。俺と似たような感性なんだな。木綿季も」
…まぁ、美術品とかそういう類の物を眺めるときは、大抵の人がそう思うはずだよ。一つ一つ絵画や工芸を見つめては、「へぇ~」と自分でも良く解らない嘆声を上げる。
だけど、美術館にしろお寺観光にしろ大切なのは、好きな人と過ごす静かな時間を楽しむこと。ボクはそんな風に思っているんだ。
歩夢「そろそろ良い時間だし、昼飯にするか」
木綿季「うん、そうしよう」
暫く東大寺を歩き回り続けたボクらは、そこで二つ目の観光スポットを切り上げ、お昼ご飯へと向かうことにした。
そんなボクらがお昼に選んだものは、柿の葉寿司である。それは普通のお寿司とは違って、名前の通り柿の葉っぱでお寿司が包まれているのだ。それを初めて食べたボクは、最初は勿論食べ方が分からなくて、「これどうやって食べるの?」とアルファに聞いてみたんだ。
するとアルファから「中のお寿司とはっぱを一緒に食べるんだ」と言われた。だから、それを素直に受け止めたボクは、柿の葉も食べようとしたんだけど…そこでアルファが本気で焦ったように、「冗談だ。マジでごめん」と呼び止めてきた。
…そんなにボクのこと心配してくれるなら、最初から冗談言わなきゃいいのに…なんて思わずにいられない。けどボクもアルファを揶揄うことは多いから、それはお互い様なのだろう。
柿の葉寿司というものは、普通のお寿司よりも塩味が効いていて、少し不思議な感じだったけど、普通に美味しかった。軽く昼食を済ませたボク達はお店を後にして、そしてこれから向かう観光地が、ボクの中ではメインスポットだったりする。
ボクらが今から向かうその場所は、ここ奈良市街地じゃなくて、田舎の方に存在しているのだ。だから移動には物凄く時間が掛かる。電車だけじゃなくて、バスに二時間近くも揺られて…バスで二時間だよ?一人だったらすっごく退屈なんだろうね。
こうなってくると自家用車が欲しいんだけど…数年後にはボクも、アルファとドライブデートに行ってたりするのかな?…したいなぁ…。
丁度お昼のど真ん中、おやつな時間に、ボクらは目的の山間に到着した。
そしてまず向かったのは、美味しいと噂の和菓子のお店だ。そこで味わった葛餅という和菓子は…甘い黒蜜の掛かったきな粉餅…とはまた別物らしい。
お餅なのにプルプル滑らか食感で、口に入れるとすぐに消えてなくなっちゃいそうなんだけど、ちゃんとお餅としてのコシもあるんだ。それはもう、基本的には和菓子よりも洋菓子なボクでさえ、ここに永住しちゃおうかなと思ってしまうほどだった。
であれば…。
歩夢「ふわぁ~…」
木綿季「…」
…和菓子大好きなアルファは、尚の事ことであろう。葛餅を頬張り、意味は分からないけど、彼は兎に角頬っぺたを緩ませながら、満たされていることは伝わってくる嘆声を上げていた。そんな彼の心は…もしかしたら、このお店買いたいとまで思っているのかもしれない。
こういう時のアルファは、すっごく可愛い。アルファは花火大会の時みたいに、カッコいいことしてボクをドキドキさせてくれることもあるけど、こうやって可愛い一面を魅せ付けて、ボクの胸をときめかせてくれたりするのだ。わざわざ片道二時間以上も掛けて、ここまでやって来た甲斐があったよ…。
第一にアルファのしたいこと、それを満喫したボク達は、続いて今度はボクが行きたかった所へと足を向ける。お店を出たボク達は、二人並んで、他の観光客が進む方角に合わせて、暫く山間を登り詰めていった。
余り舗装されていない上り坂を登ること十数分、それは唐突に姿を現した。目の前には、頼りなく宙にぶら下がった一本の道が、遠く先の向かいにある山の中腹まで続いている。不意と視線を下向けると、遥か遠くには、山間部特有の青緑に輝く渓流が見て取れた。
河川の近くで蠢く人影は、黒点のように小さく見える。渓流のせせらぎは、遠のくように聞こえるのみだ。つまりここは、吊り橋だ。それも、日本でも一番の長さを誇っているんだよね。
他の観光客が覚束ない足取りで吊り橋へと足を踏み入れている中で、ボクらは暫しその前で突っ立っていた。吊り橋ってことは、二人並んで歩くことは難しい。
それ故にアルファが、ボクを先導するようにまずは一歩、吊り橋に踏み出したんだ。
歩夢「うぉ…」
そして呻き声を漏らしたかと思うと、その足を引っ込めてこちらに戻ってくる。
木綿季「なに~?もしかして怖いの?」
歩夢「木綿季も行きゃ分かるって」
吊り橋に恐怖する彼の様子に笑い声を抑えられなかったボクが、揶揄う気持ちで煽り立てると、彼は心外そうな表情で、ボクにも一歩踏み出すことを求めてきた。
なのでボクも、「アルファはオバケだけじゃなくて、リアルだと高所も怖いんだ~」と彼の新たなウィークポイントを発見しつつ、吊り橋に足を踏み入れたのだ。…ギシッ…ギシッ…。
木綿季「…」
そしてボクは、それを存分に理解させられた。吊り橋というものが、思った以上に不安定な足場であることを。いや勿論、この吊り橋は踏み場は鉄橋だし、蔦植物で造られた吊り橋と比べると、その安全性は数段上だろう。
だけども、ボクだって吊り橋の揺れに、何も思わないわけじゃないんだ。それに…吊り橋を渡る前は、あんなに美しく見えていた壮大なこの景色も、いざ吊り橋に乗った状態で、鉄橋の隙間から透けて見えるその先を見下ろすと、勝手に足に力が入って…竦んでしまう。
…正直に言うよ。吊り橋という名の魔境に恐れを抱かされたボクは、その場から逃げ出すように、アルファが居る安心安全の大地に戻って来たのだ。
歩夢「な?分かったろ?」
木綿季「これは…ゲームとはまた違うね…」
取り敢えず、彼に苦笑い返したボクは、しかし吊り橋を渡らないわけにはいかなかった。その理由は凄く単純、ここに行きたいと言ったのはボクだからだ。
二人で大きく深呼吸してから、アルファが先に一歩進んでくれたのに合わせて、後に続いてボクも一歩踏み出す。横の透け透けな手すり握り締めながら、しかしもう片方の手は、お互いの手を固く握り絞め合っていた。双方普段以上に力が入って、手汗を溢れさせてしまうのは、それは致し方ないことだろう。
だけど、高所と足場のぐらつきを恐れていたのも最初の内だけだった。次第に吊り橋に慣れ始めたボクらは、途中からは呑気に足を止めて、吊り橋から眺められる秋色に染まりつつある景色を眺めていた。
歩夢「もうちょい後に来てたら、もっと紅葉綺麗だったんだろうな~」
木綿季「そうかもだけど…ボクがここに行きたいって言ったのは、景色が見たかったからだけじゃないんだよ?」
歩夢「そうなのか?」
木綿季「うん。それはね、こうやって吊り橋効果を利用して、歩夢の心を揺さぶろっかな~って思ってさ」
歩夢「もう俺の心は木綿季で固まってんだから、それが揺れることなんて有り得ないぞ?」
木綿季「今の言葉でボクの心はぐらっぐらだけどね」
なんて、傍から見たらアホみたいな会話をしてしまえるぐらいに、ボク達は余裕で溢れ返っていたのだ。やがてその長い吊り橋を渡り終えると、そこからは再び市街地に戻るべく、バスに乗り込む。
行きと同じように二時間も乗車しているうちに、太陽はドンドン沈んで、終いには辺りが暗くなり始めた。そうしてバス停近くの大きな駅に着くその頃には、もう時刻は午後六時過ぎだった。
楽しい時間はすぐに通り過ぎちゃうのは分かっているけど、これは余りに早すぎると思う。だけど時間も時間だ。そろそろ夜ご飯を済ませて新幹線に乗って、それでアルファに送ってもらって、お家に帰ったら…ボクは…一人…?
歩夢「近くに結構店あるみたいだけど、木綿季は行きたいとこある?」
そうしてボクが色んな考えを巡らせているうちに、携帯で色々とディナーについて調べてくれていたアルファは、画面をこちらに向けてその候補地を見せてくれるのだ。
だけどボクの心中は、晩御飯どころの話でな無かった。見せつけられる携帯の画面など視界に入ってこないまま、更に頭を回転させていく。
…一人は、嫌だ。もっと、ずっと、アルファと一緒に居たい…。まだまだ見に行けてない所もあるし…明日は三連休でまだ休みだし──。
とそこで思考を打ち切ったボクは、次は考える間もなく、この気持ちを曝け出そうとしてしまっていた。
木綿季「…ね、歩夢…」
歩夢「なんだ?行きたいところ決まったのか?」
木綿季「…ううん、そうじゃなくて…」
ボクの呼び掛けに、アルファは今晩のご飯の候補をあげるよう催促してくる。でも、今からボクが君に伝えるそれは、そんな程度のものじゃなかった。
一度恋人繋ぎをやめたボクは、そのままアルファの服の裾をきゅっと引っ張る。ボクは無意識のうちに若干の上目遣いで彼の瞳を覗き込むと、言った。
木綿季「…もう一泊、しよ…?」
歩夢「も、もう一泊…?」
木綿季「うん、今日は歩夢と一緒が良いの…。ほら、明日の服はあそこのショッピングモールで買って、泊まる場所は…適当なとこで良いから。明日はまだお休みだからさ、ここでもう一泊して、もっと観光しようよ…。勿論、明日の分の宿泊費は自分で払うから…」
歩夢「…」
木綿季「…だめ…?」
まずはボクの気持ちを、次にその具体的な計画を、そして最後に、詰め寄るようにとどめの一押しを。最後の言葉と共に身体をもう一歩彼に近づけ、ボクはもう一泊をおねだりしたのだ。
すると歩夢は、ぐっと何かを堪えるように瞳を閉ざし、ふぅと息をついたと思ったら…強烈な勢いでボクを抱き締めた。瞬間、ボクは驚きと共に、嬉しさの滲んだ小さな叫び声を洩らしてしまう。
木綿季「ひゃっ…」
歩夢「…なぁ、木綿季。そういうお願いの仕方されたら、俺がなんて答えるか、分かっててやったんじゃねぇの?」
木綿季「…んーん…ボク、分かんない…」
駅前で衆人の目があるというのに、ボクの身体を抱き寄せながら耳元で囁いてきたアルファに、ボクは嘘とホントを交えた言葉を返したんだ。
嘘と言うのは、こういうやり方が一番アルファに効くってこと、分かった上でやってみたから。ホントって言うのは、まさかここまで効果覿面とまでは予想できなかったから。ボクのあざとい声色を聞いたアルファは、少し笑い声を洩らしてから、ボクにまた言った。
歩夢「じゃあ教えてやるよ。そんな可愛い木綿季見たら、俺は断れるわけねぇんだ。…よしっ、もう一泊しようぜ!」
木綿季「…やった!ありがと、歩夢!」
…夏休みの海旅行は集団行動だったから、こうやってわがまま言えなかったけど、今回はアルファと二人きり、ちょっとぐらいの融通は利くのだ。
見事アルファを骨抜きにすることで、君と過ごす三日目を手にしたボクは、それから二泊三日の旅行を存分に楽しんだのだった。
もう充分にイチャイチャしましたよね…?
次回の投稿日は、五月十日の木曜日となります。
では、また第169話でお会いしましょう!