木綿季「……」
一体、どれだけの時間そうしていただろうか。一分?十分?一時間?ボクにとっては、それは駆けても掛けても遠のいていく地平線のように、永遠とも思える長さだった。
だけども実際は、ほんの数秒なのだろう。ついさっきまでは色んな甘い気持ちに溢れていた頭の中は、途端に真っ白に変化し、ボクは茫然とその場に立ち尽くしていた。
扉の奥で繰り広げられる二人だけの時間。幸せそうなアルファとその人。それを目にしたボクは──二人を邪魔しないよう、そっと、その扉を閉ざした。
いつの間にか零れ落ちていたコンビニ袋を拾って、ボクは無心でその場を引き返し始める。今のは?何故?どうして?頭の中には無数の疑問が浮かび上がってきたけれど、今は何も考えたくなかった。考えてしまえば堪えられない気がした。
どの電車をどう乗り継いで、どんな風に道を歩いてきたのかは分からない。無理矢理機能を停止させた頭を抱えて、ボクはフラフラと暗いの町中を彷徨っていた。
最寄駅から家まで引き返す最中、しとしとと秋雨が街に降り注いだけれど、生憎傘は持っていない。次第に雨は酷くなっていき、ボクは全身びしょ濡れとなった。髪や服が身体中に張り付き、頬からは大量の粒が流れ落ちていく。その激しい雨音は、まるでボクの心までをも強烈に打ち付けているようであった。
ふと気が付くと、いつの間にかボクは自分の家の前まで辿り着いていた。雨を吸い込んで靴や服は重くなっていて、一歩足を動かすことでさえ辛い。鍵を回してドアを開けると、ボクはのそのそと玄関に入った。
いつもなら考えられない。何も考えることなくボタボタと雨水を廊下に零しながら、洗面所目掛けて歩いていく。機械的に服を脱いで洗濯機に放り込み、手洗いうがいをして…。
木綿季「……風邪……引いちゃう……」
このまま雨に濡れたままでは、体温を維持出来ないだろうことを思ったボクは、取り敢えずお湯を張ることにしておいた。
だけどそう呟いたボクの声は、有り得ない程に掠れていたんだ。不意に洗面所の鏡を視線をやると、そこには表情の抜け落ちたボクが居た。
のそりのそりと、リビングルームへと向かったボクは、そのままソファに座り込む。でも、君は隣に居ない。だって、今アルファは…。そこでようやく、ボクも現実と向き合うことにした。いつまでも目を逸らしていられないことは、ボクも分かっているからだ。
…アルファは…女の人に抱かれていた。それは間違いない。見間違いでも部屋を間違えた訳でもなかった。確かにあれはアルファだった。そしてその女の人を、ボクは知らない。アルファはボクの知らない女の人と一緒に居たのだ。しかもお家で。
…でも、それだけじゃ、一概に浮気とは言えない…よね…?ボクはどうにかしてその可能性を模索するも、しかしそんな希望はすぐに打ち砕かれた。だって、ボクは見てしまったのだから。アルファとその人の愛の時間を。そして、その時のアルファの表情は、ボクが見たこともないようなものだったことも。
それに、アルファは今日急用があるって言って、ボクと一緒に居てくれなかった。けど実際は、アルファはお家で女の人と一緒に居た。アルファにとっては、ボクとのお勉強よりも、その女の人との時間が大切だったってことなのだろう。
……じゃあ、やっぱりアルファは……浮気したの…?違う違う違う!!アルファはそんな人じゃない!!だって、だってだってだって!!ボクのこと愛してるって言ってくれたんだよ?一番だって言ってくれたんだよ?結婚だって仄めかしてくれたよ?今日までずっと一緒に居たんだよ!?どんな時も支え合って来たんだよ?愛し合っていたんだよ!?ボクの全てを捧げたんだよ!?だからそんな訳無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い──。
──でも………ボクって、アルファを射止め続けられるだけの何か…持ってるのかな……?
その答えは簡単だ。ボクは何も持ってやしなかった。
顔立ちは良い方だろうけど、アスナほど特別可愛いって訳じゃない。頭もそれなりに良いけど、ミトみたいにハイレベルな訳じゃない。お金持ちで一生困らないだけの貯蓄がある訳でもない。アルゴの情報収集能力みたいに、何か一つアルファにとって役立つ力を持ってる訳でもない。身体に魅力がある訳でもない。
…勿論、君への愛情は誰にだって負けないつもりだった。それさえあれば、アルファだっていつまでもボクの隣に居てくれるって信じてた。でも違った。
……そりゃそうだよ。今更考え直すまでもない。ボクはアルファに迷惑掛けてばかりだ。戦友の死を悩ませて、人を殺させて、ボクの病気のせいで辛い思いさせて、挙句の果てには、お金持ちになったのにたくさんお金を使わせて、ボクの生活は全て、アルファが賄ってくれている。ボクは常日頃から、それに感謝しなきゃいけないのだ。その癖ボクは…ちょっと前に、君に八つ当たりした。
…こんな自分勝手で面倒臭い人を、ボクは愛してくれると思うの?ボクなら愛せるの?思わないよね。冷めちゃうよね。じゃあそれが全てなんだ。ボクは捨てられて当然──。
木綿季「……ぁ……ボク、振られるんだ……」
そしてボクは、その当たり前の事実に気が付く。
もう、アルファはボクのことを好きじゃないんだ。寧ろ、折角尽くしてたのに文句を言うようなボクを、彼は嫌いになっているはずだ。アルファは魅力的だ。引っ張りだこだ。だからああやって、すぐに女の人を見つけられたのだろう。
しかもその人は、多分アルファよりも年上だ。大人っぽくて包容力があって、お洒落で身長も高くて…あぁ、ボクに持ってないものばかりだ。アルファは昔、お姉さんが好きって感じだったもんね。じゃあボクが勝てないのも仕方ない、かな……いつ振られるのかな?……やっぱり明日かな…?
木綿季「……やだ……そんなの、やだよぉ……」
遂に堪えられず、ボクはその両目からポタポタと涙を零し始めた。両手で涙を拭おうとも、溢れるそれは止まらない。ふるふると身体を震わしながら、有り得ないはずだったその未来の訪れを恐れるのだ。
きっと、他の人からしたら考えられないんだろうけど、例え彼の浮気現場を見てしまおうとも、ボクは変わらずアルファが好きだった。ここまでボクを導いてくれたのは、他でもないアルファだけだった。だからボクは、これからもアルファと一緒に隣を歩き合って、ずっと同じ方向を向いて生きていくのだとばかり思っていた。
でも、アルファはもうボクには愛を向けてくれない。ボクのことは愛してくれない。他の人を愛している。ボクのことはきっと嫌いだ。多分近いうちに、お別れの時が来る。アルファに「俺達別れよう」って切り出される。
果たしてボクは、それを受け入れられるのだろうか?無理に決まっている。ボクはそんなの嫌だ。断固拒否だ。アルファはボクのものなんだ。アルファはボクが一番最初に見つけた大切な人だ。ボクにとってもアルファにとっても最初で最後の人なんだ。それをなんであんな見たこともない女に奪われなきゃならない。
そもそも、ボクはあの時、アルファの浮気現場に乗り込むべきだった。二人の時間に割り入って、あの女の人をぶん殴ってでも追い出して「どういうつもりなの!」とアルファにきつく問い詰めるべきだった。あの現場を見た一瞬、業火のように燃え上がった怒りの気持ちを、存分にアルファにぶつけるべきだった。
それで警察沙汰になることを恐れたからこそ、ボクがその行動に出なかったというのならば、せめて動画でも撮影すべきだった。なのにボクが取った行動は、静かにその場を去るというものだった。その理由は、凄く単純だ。あの時のアルファが…凄く、幸せそうだったから…。
…そうだ。アルファが幸福感に満ち足りた表情だったからこそ、ボクはそれを邪魔出来なかった。だって、ボクは何よりも、アルファの幸せを願っているのだから。だから…だから…ダカラ──。
──ボクがシアワセにナレナクテも、アルファがシアワセなら、ソレでイインダ。
木綿季「ア…アハ、ハ…そっか…そうなのかなぁ…?」
それを考え付いてしまった瞬間、ボクは自分でも驚くほどの涸れた哂い声を響かせた。口元は引き攣ったように上向き、頬は際限なく涙で濡れている。もう視界はぼやぼやだ。
確かにボクは、アルファの幸せを願っているのかもしれない。だけど…だけども、ボクは最後には、自分を優先しようとする人間だ。だからこそ、ボクはアルファに辛い思いをさせると分かっていた上で彼と恋人関係に至り、身勝手に彼に前から姿を消した。
そんなボクはきっと、アルファに別れ話をされたのならば、駄々をこねてなんとかして彼を引き留めようとするだろう。でも、結局は断れないはずだ。違う。断れないのではなく、ボクがアルファを引き留められないのだ。アルファは意志が強い。もう好きでもないボクとは一緒に居たくないもだろう。だったら絶対に別れようとするはずだ。
「お風呂が沸きました」
木綿季「……お風呂、入らないと…」
瞬間、聞き慣れたメロディーと共に、お風呂の準備が完了したことを知らせる機械音が鳴り響く。
もうこれ以上、辛いことを考えたくなかった。或いは、お風呂で身体を綺麗にすれば、この胸につっかえた辛い気持ちも全て洗い流されるとでも思ったのだろうか。ボクは涙でぐちゃぐちゃの顔で、お風呂場へと向かった。脱衣所に着替えのパジャマやらなんやらをセットしてから、ガラガラとドアを開ける。
お湯が出たのを確認してから、ボクはすぐに頭からシャワーを浴びた。雨水に濡れて汚れ、少し冷えた身体には気持ちが良かった。だけど、心に溜まった淀みまでは落としてくれないんだ。せめてお風呂場の中では無心で居たかったのに、ボクの心はそれを許してくれないらしい。
…ボクの何がいけなかったのだろうか。そんなの、少し前に喧嘩しちゃったからに決まってる。だってそれまでは、ボクもアルファも絵に描いたような恋人関係を送れてたし、アルファだって、ボクにお金を出すことを惜しむ様子は一ミリも見せなかった。
でもあの日、全てが変わってしまったのだろう。自分の感情をコントロール出来ずに、それを他人にぶつけてスッキリしようとするなんて、やってることが人として最低だ。あの日アルファは笑ってボクを許してくれたけど、心の中では、そんな酷いボクに甚だ呆れていたのだろう。
だからアルファは、そんなボクを見限って他の人を好きになって、年上の人とどうやって出会ったのかは知らないけど、今時手段なんて溢れている。
そうやってボクは、やっぱり時折涙を流しながら、後の祭りな一人反省会を開くのだ。次は決して、こんな失敗を繰り返さないように……次?次って、なんなの?ボクに次なんてあるの?アルファはもう戻って来てくれないよ?じゃあボクは、他の誰かとの次を目指してるの?そんなの無理に決まっている。ボクは心も身体も、もうその全ての奥底には、君という絶対の人が刻み込まれているのだから。
だからボクは、他の人に恋なんて出来るはずがない。もし何かの迷いで出来たとしても、必ず脳裏にアルファの姿が過るのだろう。そしてその度に、ボクは思い知るんだ。あの日のたった一つのミスが、ボクの人生から最後の幸せを奪ってしまったことに。
もしボクが、もう使われない古びたバス停で健気にアルファを待っていたら、いつか君はボクのところに帰って来てくれるのかな?もう一度一緒に歩こうって、優しい笑顔でボクに手を差し伸べてくれるかな?多分…迎えには来てくれないだろうね。世の中にはボク以上の人なんて、たくさん居るからさ。
木綿季「明日から…どうしよっか」
湯船の中でそう呟いてみたけれど、明日からの日々をどう過ごせばいいかなんて、ボクにはさっぱりだった。だって、ボクの人生には君が必要不可欠だから。
アルファと一緒にあの世界を生き抜いて、現実世界に戻って来てからも、やっぱりアルファはボクに寄り添ってくれて、病気が治ったその時だって、アルファはずっと隣で居てくれた。いつからかボクの人生には、アルファが居て当然のものとなっていた。だから、アルファの居ない人生なんて、ボクには想像もつかないものなんだ。
だけど、明日からはそんな空虚な毎日が始まるのだ。やがてお風呂から上がったボクは、今日はお風呂上がりのスキンケアなんてする元気もなくて、糸の切れた人形みたいにパジャマに着替えてしまう。ヘアダメージを気にすることもなく、ドライヤーで雑に髪を乾かした。
その一つ一つの動作は、どれも信じられないぐらいにガサツだ。だって、明日からはアルファがボクを見てくれないのだ。だったら自分の身なりに気を遣う必要もない。ボクがどんな人間で居たいかなんて、全部君に結び付けられていたから。それだけの話だ。
いつもならこの時間は、アルファとALOで遊んでいることが多いけど、これからはそれも出来ない。ボクが今アルファに、「一緒にALOしない?」だなんてメッセージを送っても、今の彼は愛しのあの人との時間で忙しいだろう。なんだかんだ理由をつけて、結局断られるのは容易に想像出来た。「忙しい」とか言って嘘つかれるのが嫌だから、ボクはそんなメッセージを送る気にもなれない。
だけど少しだけ、このやり場のない気持ちを誰かに聞いて欲しかった。徐にスマートフォンを手に取ったボクは、メッセージアプリを開ける。そして偶々その最上部に出てきたアスナの名前をタップして、ボクは彼女に電話を掛けるのだ。
木綿季「……アスナ……」
アスナ「…何かあったの?この前よりも元気無さそうだけど…」
数回のコール音の末に電話に応じてくれたアスナに、まずはボクが疲れ切ったようなガラガラ声で呼び掛けた。
するとアスナも、それで全てを察したのだろう。物凄く心配そうに訊ね掛けてくれる。今はその優しさが心を落ち着かせてくれた。ボクはゆっくりと、絞り出すようにそれを話し始めた。
木綿季「…うん……あの、ね……歩夢が…浮気してたんだ…」
アスナ「……え?」
やはりこれは、ボクとアルファを良く知る者達からすれば、有り得ないと思ってしまうような内容なのだろう。だけどこれが事実だった。その言葉に硬直するアスナに対して、ボクは目頭を熱くしながら続けた。
木綿季「…さっきね、ボク、歩夢のお家にぃ、行ったんだぁ…。…そしたらっ、歩夢が知らない女の人と一緒に居てぇ…ボク、何も言えなくてぇ…」
そうして、ボクは大号泣して嗚咽を漏らしながら、アスナにその全てを伝えたのだ。余りの衝撃のせいか、最初は無言のままボクの話を聞いていたアスナも、途中からは優しく相槌を打ってくれた。
そしてボクが話し終え、暫し二人の通話には、ボクの鼻をぐずる音と横隔膜が痙攣する音を響き続けた。するとアスナは、かなり憤慨した様子でボクに言った。
アスナ「…もしユウキに出来ないなら、わたしがアルファ君に問い詰めてあげるわよ!ユウキが居るのに浮気するなんて有り得ないわ!!ちょっと今からアルファ君に──」
捲し立てるアスナが、アルファに浮気を問い詰めるべく連絡を取ると言おうとした瞬間、ボクはほぼ無意識に叫んでいた。
木綿季「ダメぇッ!!」
アスナ「…ゆ、ユウキ…?」
木綿季「…まだ、やだ…。まだ歩夢に別れ話されたくない…だから、もうちょっとだけ気持ち整理してからが良い…」
アスナ「そんな言い方…」
当然困惑を示したアスナに、ボクはその臆病な気持ちを伝えたのだ。
もし今アルファに連絡を取って、その場で別れようなんて話になってしまえば、それこそボクにとってはどうしようもないのだ。もう少しだけ、アルファがボクの恋人で居て欲しかった。例えアルファはもうそう思っていないのだとしても、形だけでも君と結ばれていたかった。
ボクがアルファを強く想っているように、キリトを深く愛しているアスナは、ボクの気持ちが痛いほど理解出来たのだろう。暫くアスナに振りかけられた他愛も無い会話を交わして、少しだけ心の中を誤魔化したボクは、その日はもう眠ることにした。
自室のベットへと移動し、布団に包まって、小さく丸まり目を閉ざす。雨に濡れて散々泣き喚いて、身体は充分疲れているはずなのに、全くもって眠気が襲ってこない。
頭の中には次から次へとアルファとの思い出が浮かんで来て、でももうこれ以上は思い出を増やせないことに、ボクはまた頬に温かいものを伝わせるのだ。
そうしてボクは、長い長い夜を、一人ぼっちで過ごした。
目の前に、一本の道があった。暗い世界に良く似合った、荒んだ灰色の道だ。本来ならば、その道の先は続かなかった。その道の行く末は、闇よりも深い奈落へと続くのみであるはずだった。
けれども、何処からかもう一本の道が現れたんだ。それは灰被りの道に寄り添い、その先へと続く世界へと導いてくれた。それはまるで、真っ暗闇に包まれた世界に映えるような、白く輝く一本の道だ。
いつしかその二つの道は絡まり合い、一本の大きな道を生み出した。それは、白と灰の混じった不可思議な色をしていた。決して綺麗なだけじゃない。暗い部分だってある。
だけどもそれが、ボク達だった。だからボクはこれからも、君と二人一緒にどこまでも突き進んでいく──。
──そう思っていたのに、螺旋を描くように繋がった二つの道は、ある地点でキッパリ分かれていた。
「ねぇ、そっちじゃないよ?」
そして白い道を歩むその人は、ボクとは違う方角へと進んでいこうとする。それを見つけたボクは、彼の手を掴んで引き留めるのだ。
「俺はこっちだ。木綿季はそっちだ。俺達はここでお別れだ」
「…どうして?ボク達ずっと一緒じゃないの?」
「俺にはまた寄り添うべき人が見つかったから。だから木綿季との物語はここで終いだな」
だけど彼は、極々あっさりとそう答える。必死に呼び止めるボクに対して、彼は今一度ハッキリとそう言うと、次の瞬間には彼の隣に、また一本の道が生まれていた。
それは、ボクの澱んだ道とは違って、凄く綺麗な色をしていた。その道の上に居る女性と、アルファは仲良く腕を組んで、また一歩、ボクから離れていく。
「誰だお前は!!アルファはボクのものだぞ!!返せ!!」
その様子に激情を隠せなかったボクは、そのまま怒りに身を任せて、その綺麗な女性に突っかかるのだ。だけどもアルファは、ボクからその女性を守るように、躍起になってボクを引き離そうとしてくる。信じられない。信じたくはなかった君の姿を目にしたボクは、思わず身をたじろがせた。
なんで?なんでボクが悪者なの?悪いのはアルファの心に付け込んだその女で…元はと言えば浮気を企てたアルファじゃ──。
アルファの行動に動揺を隠せないでいると、その女性は、落ち着いた様子でボクに言ったのだ。
「歩夢君はいつから貴方のものになったの?貴方がそう勘違いしてただけじゃないの?」
「…ち、ちがっ…」
「そもそも、好きな人をもの扱いするって、どうなのかしら?それって、酷いんじゃない?」
「ぼ、ボクはそういう意味で言ってるんじゃ…ね、ねぇ、歩夢?そうだよね?ボクは勿論アルファのものだよ?アルファはボクのものだよね?そうだよね?そうって言って?」
その女性の的確な一言一言に、ボクは何も言い返せず、救いを求めるようにアルファに何度も問い掛けた。すると彼は、大層呆れた様子でため息をつくと、ボクに言った。
「俺はそうやって、都合の良い時だけ尻尾を振る奴は嫌いだ。それで都合の悪い時は、理不尽にキレるんだろ?流石に飽き飽きだな」
「だ、だから、次からは気を付けるって──」
ボクとは違って、隣に立つその女性を擁護するように答えたアルファの瞳は、これまでに見たこともないほどに冷え切っていた。そこにいつもの温かいアルファの瞳なんてなかった。それだけで、もう彼の心には、ボクなんて一切存在していないことは、ズキズキと伝わってくる。
ボクが震える声で名誉挽回を申し出るも、彼はもう興味がなさそうにこちらから視線を外した。そしてその女性に、ボクに向けられていたはずの温かい瞳を向けながら、二人で楽しそうに何かを話していた。ボクは呆然とそれを眺めることしか出来ない。
するとアルファが、ふとこちらへ歩み寄った。
「昔のよしみだ。…ま、お前もお前で頑張れよ」
そう短く言ったアルファは、ボクの頭にぽんと手を乗せると、再び女性の隣へ戻っていく。
…全然嬉しくない。ボクの大好きな頭ポンポンなのに、微塵も心が躍らない。
そこでようやく、ボクは気が付いたのだ。ボクは別に、アルファから頭を撫でられること自体が好きだったのではない。そうしてくれることで、アルファがボクに向けてくれる愛情を噛み締められたからこそ、ボクはそうしてもらえるのが好きだったんだ。
今のアルファからは、ちっともそれが感じ取れない。だからこの胸に突き抜ける気持ちは、ただただ虚しさだけだった。
「もっと…もっと真剣になってよ…」
「あら、歩夢君は真剣だったんじゃない?ただ、貴方の行動がそれを冷めさせただけで…ね?」
「まぁそうなんだろうな。でも今の俺は…君が好きだ。これは心からだぜ?」
「ふふっ、私もよ。じゃあね、元 カ ノ ちゃ ん ?」
「やめてやれよ。そんな言い方ちょっと可哀想だろ?そんじゃ、バイバイ、木綿季」
アルファの愛情に飢えるボクは、必死になって彼に愛情を向けてくれるようこい願うも、それは彼が新たに愛する人に阻まれた。ボクはそんな女性向けて、あらん限りの憎悪の視線をぶつけた。だけどその女性の言葉は、ボクの胸に正しい痛みを与える。
そうだ。ボクが悪いのだ。ボクがしちゃいけないことをしたから…。そうして自己嫌悪に陥っている間にも、アルファはボクの元から離れた道を歩こうとするのだ。二人は手を繋いで、腕を組んで、ハグしてキスを交わして身体を繋げて、いつしか綺麗な礼服に身を包んで──。
「やめてやめてやめてやめて。ボク以外の人にそんなことしないで」
「ボクを置いて行かないでよ。…ずっと一緒に居てくれるって言ってくれたじゃん」
「ボクは歩夢が大好きだよ?世界で一番愛してるよ?きっと誰よりもアルファに尽くしてあげられるよ?」
「ボクが全部悪かった。だからさ…ね?お願いだから、ここに戻って来て…?」
「ほ、ほらっ、もう一回一緒にやり直そ?今度は絶対に上手く行くから。ボク頑張るから。もう絶対に不快な思いはさせないから」
「…ボクにとっては、歩夢しか居ないんだ…だから…ボクを独りにしないで……ねぇ……」
「……やだ……アル…ファ……」
そしてその場で崩れ落ちたボクは、幸せそうに何処までも進んで行く二人を眺めながら、何度も何度も縋り付くように彼を呼ぶのだ。
だけども、アルファはもう応えてくれない。ボクは道半ばで取り残されたまま、もう一歩も動き出すことは出来なかった。
悲しい、夢を見ていた。
いつの間にかベッドの上で、浅い微睡に落ちていた。薄い雲に覆われる灰色の空から、弱い日差しが差し込む様子に、瞼の裏から気が付く。
不意に、目尻が滲んだ。夢とは、時に現実の厳しさを教えてくれる。被っている布を押しのけたボクは、そのままふらふらと部屋を出ていく。階段を下りてリビングへ辿り着き、壁掛けの時計を見やる。
思った以上に眠っていたらしい。もう出発の一時間前だ。今から朝の支度をしつつご飯を用意するのは…出来ないわけじゃない。けれど、もうボクには朝ご飯を作る気力さえ残されていなかった。いつも以上にたっぷりと睡眠を貪ったはずなのに、心の調子は少しも良くなっていなかった。それどころか悪化の一途を辿っていた。
取り敢えず洗面所で顔を綺麗にしてから、再びリビングルームへと舞い戻り、冷蔵庫の中を漁る。結果ボクが朝食に選択したものは、昨晩購入したクリームぜんざいだ。もう出番は来ないのだろう。それを二つとも手に取ったボクは、そのまま席に着いて、リモコンを操作する。
部屋の端の方でガヤガヤと雑音が流れ始めたのを耳で確認しながら、ボクは萎れた声で頂きますを唱えた。
木綿季「…美味しく、ない…」
決して不味くはない。だけど、美味しいわけでもない。昨日はあんなに美味しそうに見えたそれは、そんな感じだった。
どれだけ悲しい気持ちに呑まれていたとしても、生きている以上空腹は避けられない。結局冷凍のご飯を少し解凍して、それをラップに包んでおにぎりをも食べることにした。その間、何処からか流れる天気予報では、本日は曇りのち晴れだと聞こえて気がした。なら雨具は要らないのだろう。心は豪雨のままで、なのに大切な傘は何処かに消えちゃったけど。
それから、乗らない心持ちで制服に着替えたボクは、しかし今日の身支度は非常に杜撰であった。最後に、一つメッセージを送信するべく、スマートフォンを起動した。
そしてホームに表示されるのは、ボクと君とのツーショット写真だった。それは、二人で旅行に行ったときに撮ったものだ。そこに映るボクらは、本当に幸せそうな表情で笑っていた。あの時のボクらは、間違いなく心からの笑顔を浮かべていた。でも今は…喉が引き締まる。大きく息を吐き出すことさえ出来ないまま、ボクは彼の名前をタップする。
「ちょっと都合が悪いから、今日は一人で登校するね」
彼とのトーク画面を開いたその時、ボクは無性に昨夜のことを訊ねたい欲求に駆られた。
だけどそれを抑え込んで、短くその文面を送信したボクは、もう暫くしてから、仕方なく学生の本分を果たしに家を出たのだった。
次回の投稿日は、五月十一日の水曜日となります。
では、また第172話でお会いしましょう!