~SAO with Yuuki~   作:うずつるぎ

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第174話 温かい時間

 薄明るい光。

 自分を証明する甘い香り。

 熱の籠った厚い布掛け。

 窓を突き抜けんばかりにアスファルトを叩き付ける轟音。

 

 ──朝だ。

 

 ふとそれに気が付き、錆びたような右手を動かし始めた。上手く力が伝わらない中、ヘッドボードに手を伸ばす。

 …おかしい。いつもだったら、目を覚ますとほぼ同時に、起床を促す雑音が響いてくるはずなのだ。でも今日はそれがない。昨晩に設定し忘れたのだろうか。ヒヤリとした金属を手に取って、それを顔の前に持ってくる。

 なんだか今日は瞼が重い。寝不足だろうかと思いつつも、ゆっくりと目を開けた。

 

 午前九時五十分。

 

 電子機器に表示された四つのアラビア数字は、確かにボクにそう告げていた。

 …くじ、ごじゅっぷん…?ダメだ。頭の回転が異様に遅い。だけどすぐに思い出せるのは、数日前の彼との会話内容だった。

 それによると、今日は…彼とデートに行く日だ。集合時間は…十時ピッタリ。いつも通り二人が楽に落ち合える駅の改札口で…。

 瞬間、頭の中にある無数の歯車が、軋み音を立てながら動き出した。

 完全に遅刻だ。どう頑張っても間に合わない。今から全力で準備したらどれぐらい遅れる?言い訳はしたくない。謝らないと。早く電話しなくちゃ。

 ゆっくりと加速し始めた脳内を機能させ、ボクは数ある思考をぶつ切りに浮かべる。しかし、今は考えるよりも早く動かなくちゃならない。ボクはまず、素早く柔らかいクッションから頭を起こす……ことが、なぜだか出来ない。

 

 木綿季「…なに…これ…」

 

 今日はやけに頭が重い。身体もヘドロが纏わりついたように鈍くて、声を出すと喉に強い刺激が伝った。そこが裂けたかと勘違いするほどだ。痛くて声も出したくない。と言うかそれ以前に、声が酷く枯れていた。

 それでもなんとか身体を起したボクは、そこでまた身に起きた異変を感じ取った。布団から出たはずなのに、身体に重い熱が籠ったままだ。だけどその一方で、窓の外から這いよる寒々しい空気は、ボクの肌をすぅと突き抜ける。淀んだ熱の籠った身体の内側にまで、ゾクゾクと悪寒が手を伸ばしてくるのだ。

 一体、ボクの身体はどうしてしまったのだろうか。余り働かない脳内で必死にその原因を考えてみるも、特段思い当たることはない。

 だけど、ボクの現状が如何なるものなのかは、もうずっと以前から、それは生まれた時から嫌と言うほど思い知っていた。

 

 ──後天性免疫不全症候群…エイズ。日和見感染症…。

 

 …そんなわけがない。ボクはアルファと一緒に病気に打ち勝ったんだ。エイズは完治したんだ。だからそれは有り得ないはずなんだ。全身から嫌な汗が噴き出してくる中で、ボクは自分に言い聞かせるよう何度も唱え続ける。

 だけども他方で、この世界には絶対など存在しないことも、ボクは身に染みて理解していた。エイズの再発。発症。免疫機能の低下。衰弱。そして…死。

 胸の鼓動が過度に大きく聞こえる。死神は遥か先の未来でボクを待っているはずなのに、途端に鋭利な鎌を喉元に突き付けられているような感覚に陥った。

 どれだけ前向きな言葉を浮かべ続けても、心の底からじわりじわりと暗いものが蘇ってくる。この数か月間感じることのなかった、切羽詰まった焦燥を味合わされた。

 

 気が付くと、ボクはベッドの上で震えていた。怖くて怖くて身体が勝手に動いた。それとほぼ同時に、ボクは揺れる指でトークアプリを開き、彼に連絡を取ろうとする。

 それは、今日はデートに行けそうにないことを伝えなければならないからだ。だけどもそれだけじゃない。独りは恐ろしかった。君の優しい声が聴きたかった。心を安堵させたかった。例えその可能性は限りなく低いのだとしても、ボクは否定しきれなかった。

 十時数分前。数回のコール音の末に電話に応じた彼からは、たくさんの足音と楽しそうな話し声が聞こえてきた。でも一番よく聞こえてくるのは、やっぱり君の音色だ。

 

 歩夢「どうした?いつもの場所に居るけど」

 

 何も知らないアルファは、ボクが駅の中で君を発見出来ないものだと思っているのか、そんな言葉を掛けてくれる。そんな彼に、ボクは痛む喉に鞭打って答えた。

 

 木綿季「…ごめん…今日、体調悪くて…遊びに行けなさそう…」

 

 歩夢「…声、大丈夫か…?」

 

 木綿季「…大丈夫ではないかな…ちょっとしんどいよ…」

 

 アルファがボクを心配してくれる。それだけでふっと心が軽くなった気がした。身体は辛いのに、少しだけ笑みが零れた。

 

 歩夢「…体調不良って、他には?熱っぽいのか?身体は痛くないか?鼻水出るのか?」

 

 するとアルファは、なんだか焦ったようにボクに捲し立ててくるのだ。

 

 木綿季「…ん、多分風邪引いちゃった…喉以外は、熱っぽくて、身体が怠いぐらいだよ…」

 

 歩夢「…そうか」

 

 木綿季「…ごめんね、折角のデートだったのに…」

 

 歩夢「そんなの気にしなくていい。木綿季が健康じゃなきゃ意味がないんだ。大丈夫そうか?」

 

 ボクの心からのごめんねに、彼は本気でそう言ってくれる。そんな優しさがまた嬉しい。

 

 木綿季「うん…きっと寝てたら良くなるよ…じゃあ、またね」

 

 歩夢「お──」

 

 そろそろ限界だった。ボクは無理矢理通話を終了させると、そのままベッドに倒れ込む。

 アルファには、これまでに病気のことで散々心を病ませちゃったから、あんまり余計な心配は掛けたくなかった。だから極力元気な声で振舞っていたけど…もう無理だったのだ。頭が凄くクラクラする。景色もぐにゃぐにゃしている。このまま寝てしまいたかったけれど、少し前から喉に尋常ではない渇きを覚えている。喉の奥がカラッカラに乾燥していて、今すぐに潤いを取り戻さなければ、ひび割れが入ってしまいそうだった。

 ベッドに仰向けになって、大きく息を吐き出したボクは、一度呼吸を整え直した。残された全身のエネルギーを振り絞って立ち上がるも、ふらりとよろめく。上手く平衡感覚が掴めない。頭は痛いし身体は鈍いし、とてもじゃないが真っ直ぐ歩ける気がしなかった。

 重い頭が重力に引っ張られて、勝手に腰が曲がる。泥に足を突っ込んだような重い足取りで、一歩一歩進んでいく。右手を壁に添えることで、少しだけでも歩行に補助を与えておいた。

 階段を転げ落ちることなくなんとか降り切ったボクは、そのままキッチンに向かっていく。シンク近くで、黄金に輝くペットボトル水を見つけた。透き通ったそれをコップに注ぎ込み、流し込むように仰ごうとする。

 でも飲み込むと喉が痛くて、少しずつしか潤いを取り戻せなかった。それは凄くじれったくて、普段何気なくやっている飲み込むという動作に、その時のボクは有難みを感じたりしたんだと思う。

 キッチンから部屋にまで戻る。直線距離にして二十メートルもないというのに、その短い道のりに甚だ嫌気が差す。ペットボトルとコップを携え、もう一度、ボクは気力を振り絞ることにした。獣道を突き進むのと同じぐらいの労力を費やして、ようやく部屋に辿り着く。

 手に持ったそれらを適当な場所に放置すると、ボクはよろよろとベッドになだれ込んだ。分厚い布団を被り直し、さっきからずっとシャッターを下ろしたがっていた瞼を閉ざた。

 それで視界が揺れることはなくなったけど、頭はズキズキと痛くて、喉にも不快感があって、身体はやっぱり怠い。熱いのに寒くて、体感覚も壊れていた。

 本当に寝ていたら治るのだろうか。エイズが知らないうちに再発していた訳じゃないだろうか。ボクはこのまま死んでしまうのではないだろうか…身体が辛くなると、ネガティブなことばかりが浮かんでくる。

 だけどそんな思考は、すぐに意識と共に闇へと消え去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かすかな白光。

 匂い慣れた自分の芳香。

 相変わらず熱の籠ったお布団。

 

 ──あれから時間が経過している。

 

 朝と全く変わらないその様子でも、一点異なる部分があった。

 それは、朝は土砂降りだった雨模様が、今はしとしとと降り注ぐのみであったからだ。空は何層もの灰色に覆われているのだろう。瞼の裏に届いてくる陽光は、朝と比べても微々たる変化しかなかった。

 少し、身体が楽になった気がする。喉は腫物が出来たみたいに痛いままだけど、頭痛は収まっているようだった。多分、おでこに貼り付いた心地よい冷たさが、頭の中をクールダウンさせてくれたのだろ──

 

 ──額がヒンヤリ?

 

 そこでボクは、些細な違和感を感じた。どうしてボクのおでこはヒヤリとしているのか。朝の記憶を辿ってみても、ボクはなんの処置もせずに、そのままベッドに倒れ込んだ映像しか再生できない。じゃあどうして…。

 きっと、気の良い神様は、病熱に侵されるボクに、嗅覚という機能を残してくれたのだろう。異変を意識するとすぐに、優しい香りがすっと鼻を突き抜けた。それは、凄くボクを落ち着かせてくれる。やったことはないけど、アロマセラピーみたいだ。

 徐に視界を開けると、映し出されたのはいつも通りの白い天井だった。それ以外には何もなかった。だから一瞬、寂しいけれどそれはボクの勘違いかと思った。でも…もう一度深く吸い込むと、間違いない。絶対にそうだ。

 さっきよりはスムーズに動かせるようになった右手で額に触れてみると、そこにはすべすべとしたガーゼ生地が引っ付いていた。

 そしてボクは、ほぼ確信と共に身体を寝かせたまま目線を右にやる。

 

 歩夢「おはよう…大丈夫か?」

 

 するとやっぱり、微笑む君がそこに居てくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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 折角のデートの日だというのに、今日の空模様は最悪だった。まぁ、最近は晴天が続いていたので、植物様からすれば嬉しい限りだろうが。

 とは言え、本日のデートの行先は映画館だ。場所も駅から歩いてすぐの所だし、少しばかり気分が滅入ってしまうこと以外は、街が激しい豪雨に包まれようと問題ない。それに、ユウキと遊びに行くとなると、世界が雨だろうとなんだろうと、俺の心は関係なく弾むわけだ。

 俺は集合場所の改札前にて、君の登場を今か今かと待っていた。デート先が映画館だと言うことは、勿論映画を見に行くのではあるが、別に俺もユウキも、どうしても見たい映画があったわけではない。

 ただ、つい十日ほど前。それは俺の十九歳の誕生日であったわけだが、実はその日に、俺はある人から映画のギフトカードを受け取ったのだ。それを俺に贈ってくれたのは、遠方に住むが故に、当日こちらに足を運ぶことが出来なかったアルゴであった。

 彼女は郵送でギフトカードを二枚分送ってくれたのだが、まさかの着払い。なんの嫌がらせだと思いつつも、俺は渋々それを支払った。だがなんとビックリ、郵送料分のお金もギフトカードと一緒に贈られていたのだ。つまり俺は、実際にはお金を支払うことはなかったということだ。

 がしかし、一体どうしてそんな面倒なことをしたのか。俺がメッセージアプリを利用して問い掛けると、それは彼女なりのサプライズだったらしい。プレゼントに関しては、「オネーサンは働いてるから、そんぐらい気にしなくていいヨ」とのことである。

 そういう訳で俺達は、本日の遊び先として、映画館を選択したということだ。

 

 そんな俺の服装は、デートと言うこともあって、いつもよりも気合いを入れている。実はこの服装を購入したのは、これまた俺の誕生日の翌日であった。

 誕生日の翌日、俺がいつも通り学校から帰って来ると、インターホンが鳴り響いた。また配達の人が来たのだろうかと俺がそれに応じると、画面に映し出されたのはなんとミトであった。

 これは増々どうしたのかと思って俺がフロントに出て行けば、その場で彼女から誕生日プレゼントを渡してもらえた。ミトが俺に贈ってくれたプレゼントは…プロテインだった。筋トレは結構やっているけども、プロテイン飲むのはちょっと敷居高いよなぁ…と思って中々手を出せないでいた俺からすると、かなり嬉しいプレゼントだったりする。

 初めてプロテインを飲んだ感想は…まぁ、不味くはないけど別に美味しくもない、そんな感じだ。

 

 そしてその日、「わざわざここまで来てくれてありがとな」とミトに伝えると、彼女は「じゃあついでに遊びに行こ」と言ってくれた。まぁミトならいいだろと思った俺は、その日ミトと二人で遊びに行った訳だが、俺達の主な遊び場はゲーセンだ。

 ミトに負かされて凹されて、俺は泣いちゃう…ことは流石になかったけど、うん、凄いな、ミトは。そのゲーセンの猛者らしい人と彼女が対戦した時には、人が変わったかと思うぐらいオラついていた。ALOでもあんなに豹変しないのに…それだけ、ミトはあのゲームに人生を捧げていたのだろう。

 ゲーセンに行ったこと以外にも、俺のアドバイスが役に立つ気はしないが、ミトの私服を選んでみたり、逆に俺の私服を選んでもらったり…つまり、本日俺の身に付ける服装は、俺よりもオシャレ戦闘力の高いミトセレクションと言うことだ。これならば確実に、ユウキも俺に釘付けになってくれるだろうと、そう確信している。

 

 だが一番大切なことは、今日持ってきた俺の財布は、ユウキがプレゼントしてくれた長財布であることだろう。

 世の中の男性は、財布や時計、車にバイクなどを好み、そのブランド商品を所有することを趣味としているタイプが多いらしいが、俺はその手の人間じゃないらしい。金が有り余っていても、そこら辺に使おうとは考えもしなかった。

 それ故に俺は、これまでは良く解らないメーカーの二つ折り財布を使用し続けていたのだが…今年の誕生日に、ユウキはちょっとしたブランド物の長財布を贈ってくれた。凄く嬉しかった。俺が長財布持ってないことを知ってるなんて、ユウキは俺のことよく見てくれてるんだなって、心が温かくなった。

 やっぱり俺は、ユウキに心をガッチリ掴まれているし、身体だってもう離れられないし、誕生日の日には胃袋まで鷲掴みされてしまった。ユウキの作るハンバーグ、俺は勿論のことだけど、母さんのよりも美味かったなぁ…。

 まぁそんなこんなで、俺は本日、正真正銘のフル装備でデートに臨んでいる。俺が長財布を取り出した時に、ユウキは隠しきれずその表情を喜色に染めてくれるのだろうか、と俺はやはり浮かれた様子で、そわそわと君のことを待ち続けていた。

 だがそんなふわりとした気持ちは、この後すぐ、一気に固い地面へと叩き落された。

 

 ──ごめん…今日、体調悪くて…遊びに行けなさそう…。

 

 君の酷く嗄れた声を聞いたその時、全身の筋肉が強張った。床を踏みしめる足先にさえ過剰な力が加わった。ユウキの体調不良。苦い記憶が蘇ってくる。

 頭の中では分かっているつもりだ。もうユウキはエイズになんか冒されていない。ユウキは健康を手にしたのだ。だから今回ユウキが体調を崩したのは、単に身体が風邪を引いただけに違いない。

 恐らくだが、二学期以来、彼女は学校生活というエネルギッシュな生活を送り始めたことで、少しずつ疲れが蓄積していたのだろう。そういう単純な風邪でないとおかしい。そうでなければダメだ。ユウキはようやく、光り輝く道を歩いていけるのだ。

 でも心は、それを考えることなく受け入れてくれはしない。万が一、億が一の可能性は、いつだって隣り合わせだ。特に、一度は目の前にまでそれが迫っているのを、俺は隣でひしひしと思い知ったのだ。人が終わりへと向かう時に、どれだけ感情がかき乱されてしまうかを。

 それでもなんとか茫然自失になるのを堪えて、俺はうるさいほどに鳴り響く心臓を必死に抑えながら、矢継ぎ早に彼女の現状を訊ねた。

 熱っぽくて身体が怠い。でも身体が痛くないならインフルエンザじゃない可能性が高い。声を出すのも辛いだろうに、ユウキは俺の問い掛けに一生懸命受け答えしてくれた。

 やがてユウキは、自分から通話を終了した。俺は確認したいことがあったのだが、ユウキも身体が怠くて仕方がないのだろう。

 

 仕方なく、ここからは独断で動くこと決めた。

 ユウキは一人暮らしだ。発熱して病床に伏せようとも、それを助けてくれる家族が居ない。もしユウキが身動きが取れないほどに身体を弱らせてしまえば、ご飯だって作れないかもしれない。そうなると身体にエネルギーを送れないし、更に病状が悪化してしまう。だから俺が行かなきゃ…ユウキが…。

 焦る心持ちにブレーキを掛けて、俺はすぐ改札を通過し、次の電車を待つ。早く早くと疼く手足を小刻みに震わせながら、やって来た電車に乗り込み揺られた。彼女の家の最寄り駅で降りると、そのまま一直線に家へと向かう…のではなく、まずは薬局やスーパーに立ち寄っていく。

 風邪をひいた時に必要な物を買い揃えて、傘を差しながら彼女の家を目指した。ユウキの家にそれらがあるかがハッキリとしない今、例え少しばかり彼女の元へ辿り着くのが遅くなろうとも、これが最善手であろう。

 購入した商品が詰まっているビニール袋片手に、風向きに合わせて傘を少し前に傾ける。アスファルトに映る家々の屋根を踏みつけながら、早足に住宅街を突き進んでいく。

 

 やがてユウキの家に到着した俺は、青銅の門扉を押し開くと玄関前に足を進めた。雨水に濡れた傘を閉じて、水捌けを済ませると、彼女の家の合鍵を取り出す。今日ほど合鍵を作っていて良いと思った日はなかった。

 恐らくユウキは寝込んでいるだろうから、彼女を起さないようそーっと扉を開けて、家の中にお邪魔させてもらった。手洗いうがいをしてから、冷蔵庫に買って来た物を詰めて、静かに二階へと向かう。

 なんだかんだ言って、ユウキの部屋自体には、初めてこの家に帰って来た時以来踏み入れていない。俺とユウキがこの家で過ごす時間は、大体リビングダイニングで完結しているからだ。

 そのせいなのか、今からユウキの真のプライベート空間を覗き見ることに、俺は多大な緊張感と少々の好奇心を募らせていた。ノックすることなく彼女の部屋のドアを開ける。そしてそこから見えた光景は…。

 

 木綿季「……」

 

 …目を閉ざして眠りについている、君の姿であった。彼女のキュートな胸部は、ゆっくりと浮かんでは沈んでおり、俺もホッと胸をなでおろす。

 だがやはり身体が辛いのか、その表情は険しく、額も汗ばんでいた。流石にタオルは買ってきていないので、ハンカチで汗を拭き取ってあげてから、こちらは購入してきた冷却シートを貼ってあげる。

 …さて、これからどうしようか。俺がユウキの家に押し入った理由は、勿論彼女を看病する為なのだが…一度ユウキが目覚めないことには、ここからの計画を立てることも出来ない。かと言って病人を起こすわけにもいかないだろう。取り敢えず、ここでユウキが目覚めるのを待つことにした。

 

 この数か月で魔改造されていたユウキのお部屋は、勉強机やベッド、クローゼットなどがあって、それは依然と変わりない。だけども加えて今のユウキの部屋には、化粧品を置く為の棚や可愛らしいクッションなんかも置かれていて、それはまるで、SAO時代のユウキの部屋とは似ても似つかないものであった。

 ユウキがこんなに女の子らしく進化したのは、何よりも俺の影響によるものなのかと思うと、胸の中に変な達成感と満足感、そして優越感を覚えてしまう。しかもユウキのお部屋は、彼女の香りが凝縮されたような甘ったるい匂いで溢れ返っており…ダメだ。俺、変な気を起こしちまいそうだ…。

 しかし、そんな低俗な煩悩が纏めて吹っ飛んでしまうようなものが、彼女の勉強机の前に存在していた。

 それは少し大きな木の板だ。枠組みの中にはたくさんの時間が切り取られており、その中に居る二人は、どんな時でも溢れんばかりの笑顔が零れている。一枚一枚丁寧に貼り付けられていて…全く、俺は本当に愛されているのだろう。

 俺がユウキを愛しているのと同じように、ユウキも俺を愛してくれていることは、勿論心の中では良く解っていたつもりだ。でも、こうして形にしたものを見るのは初めてだった。受け止め切れない程の喜びに、俺は思わず嘆息を吐き出して、それから暫く、彼女が目覚めるまでを待つことにした。

 雨音も収まって来た頃だろう。お昼を目の前にして、彼女はゆっくりと瞳を開けた。俺が勝手に貼った冷えピタに気が付いたのだろう。確かめるようにおでこを擦ってから、やがてこちらに視線を向ける。

 俺が朝の挨拶を交わすと、まだまだ風邪に置かされている彼女は、俺に弱々しい微笑みを向けながら、言った。

 

 木綿季「…おはよう…ちょっと楽になったかな…」

 

 歩夢「ん、そりゃよかった」

 

 確かに彼女の言う通り、その声色も少しばかり元に戻ってきている。だがまだまだガラガラ声だ。油断は出来ない。

 

 木綿季「来てくれたんだね…ありがと」

 

 歩夢「あぁ、悪いな、勝手に部屋まで入って来て」

 

 木綿季「そんなの全然良いんだから」

 

 歩夢「どうする?今から病院行くか?」

 

 木綿季「…やだ」

 

 歩夢「やだって…子供かよ…」

 

 木綿季「子供でいいもん…病院は…怖いから…」

 

 俺の提案に対して、ユウキはプイと視線を逸らし断固拒否の姿勢を見せてくれる。俺としては、もしもの場合を想定して病院の検査をしっかりと受けてもらいたいのだが…まぁ、ユウキが嫌と言うのならば諦めざるを得ないだろう。

 ユウキが病院を怖いと思ってしまうのも、彼女の人生経験を考えれば、それは仕方のないことだからな。ならばと俺が次に袋から取り出した物は、体温計であった。それをベッドに横たわる彼女に差し出し、言う。

 

 歩夢「じゃあ、取り敢えず熱計るか」

 

 木綿季「そうだね」

 

 それを大人しく受け取った彼女は、脇に体温計を挟み、暫くじっとしていた。ピピっと音が鳴ったところでそれを引き抜くと、結果は七度八分。

 …ギリギリ病院に行かなくても大丈夫なラインだろうか。これ以上熱が上がったり、或いは何日も熱が続くようであれば、ユウキには申し訳ないが、強制的に病院へ連れて行くことにしよう。

 

 歩夢「熱出てるときは、首とか脇を冷やすと良いんだけど…どうする?」

 

 そうして、俺が善意百パーセントでユウキの身を案じたその時だ。彼女は俺の言葉を受けて、一体どこにそんな余裕があったのだろうか。僅かにニヤリと口角を上げる。

 

 木綿季「それ…歩夢がボクの脇お触りしたいだけなんじゃないの…?」

 

 歩夢「…あんまりバカ言ってると帰るぞ」

 

 木綿季「ごめんだよ~、だから帰らないで~」

 

 …なるほど。そんなことは今の俺には思いつきもしない考えだった。確かにこの状況を利用すれば、俺は合法的にユウキの身体に…。

 と余計な思考を挟んだ末に、本日に至っては、そういうつもりは一切ない俺が呆れ顔で言葉を返してやると、ユウキは観念したように謝ってくる。

 結局、冷蔵庫から保冷剤を取り出して来た俺は、それを利用してユウキの熱を少しでも下げることにした。ご褒美のつもりなのか、脇と首に添える作業は俺にやらせてくれた。…良かった。

 その後買っておいたポカリなんかを渡してから、俺はユウキに訊ねた。

 

 歩夢「もうお昼なんだけどさ、ご飯食べられそうか?」

 

 木綿季「ん~…ちょっと分かんないかな…まだ身体もしんどいし、喉も痛いし…」

 

 歩夢「了解だ。んじゃあ、ちょっと準備してくる」

 

 木綿季「あっ、歩夢はご飯どうするの?」

 

 歩夢「ちょっとキッチン借りていいか?」

 

 木綿季「うん、好きに使って」

 

 そうして、ユウキに食欲があるかを確認した俺は、一度一階へと降りて行った。

 

 

 

 

 

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 アルファがボクを看病しに来てくれた。朝の鈍った頭じゃ想像も出来ないことだったけど、アルファの性格からしてそうなることは、いとも簡単に想像のつくことだろう。

 ボクの為に色々と風邪対策のものを買ってきてくれたアルファは、現在一階で自分のご飯を作っている。一人でいる時はあんなに心細かったのに、こうして誰かが…アルファが来てくれるだけで、心はこんなにも安らかになるものなのだろうか。

 ボクの体調は今のところ、頭痛と悪寒が身体に余韻を残しながらも消え去り、そして平衡感覚は元に戻っていて、でも熱っぽい怠さとのどの痛みは相変わらずだった。そのせいかお腹が空いている感じもなくて、ポカリスエットを飲んでいれば充分な気もする。

 今はまだそんなに眠くないけど、そのうちもう一回寝ないとダメだろうねと思いつつ、のどの痛みを堪えて甘いスポーツドリンクを身体に送り込んでいると…。

 

 歩夢「ほい、持って来たぞ」

 

 階下から足音を響かせながらやって来たアルファは、おぼんの上に皮をむいたリンゴを乗せたお皿と、白い湯気が立つマグカップを、ボクの所に運んできてくれたのだ。それを呆然と眺めているボクに、彼は微笑みながら言った。

 

 歩夢「どうだ、リンゴなら食べられそうか?」

 

 …なるほど。ボクがご飯を食べられそうにないと答えるのならば、彼はボクに病人でも食べやすいものを提供してくれるらしい。しかも、冷蔵庫の中にはリンゴはなかったはずだ。となると恐らく、アルファはこうなることを見越して何処かでリンゴを購入してきたのだろう。

 …どうしてアルファは、そんなに優しくしてくれるのかな?そういうことを当たり前みたいにされちゃうと、ボクは増々君に惚れ込んじゃうのに…。

 

 木綿季「…うん、ありがとね」

 

 君の気遣いに、ボクも微笑みを返してから言葉を送った。アルファはトレーを置いて、ボクにフォークとリンゴを盛りつけたお皿を渡そうとしてくれる。

 だけどそこで、ボクは右手をスッと前に伸ばした。ジェスチャーでストップを掛けた後に、ボクは得意げに言ってやる。

 

 木綿季「ボクは一応病人なんだ。ちゃんと『あ~ん』してくれないと、食べられないよ」

 

 するとアルファは、その表情に苦笑を浮かべながら、しかしフォークにリンゴを突き刺すと、それをボクに向けて差し出してくれる。

 

 歩夢「ほら、あーん」

 

 木綿季「はむ」

 

 少々首を伸ばしてリンゴをくわえたボクは、シャキシャキとみずみずしくて甘酸っぱいリンゴを咀嚼していく。それを何度か繰り返して、充分にアルファからの愛情を胃に収めた。いつまでも君にそうしてもらうわけにもいかないから、そこからは自分で食べ始める。

 

 木綿季「因みに、その飲み物はなんなの?」

 

 歩夢「生姜と蜂蜜とレモンのブレンドホットドリンク。喉に良いかなって思ってな」

 

 確かに、生姜や蜂蜜が風邪に効くという話は耳にしたことがある。でもそれって混ぜちゃっても大丈夫なのかな?仮想世界では散々色んな料理素材を配合してきた癖に、挙句にはアルファのことを実験台にしまくっていた張本人なのに、ボクはそんな風に思わずにはいられなかった。

 だけど実際には、そのホットドリンクは美味しく頂けて、身体はポカポカと温まった。その温もりに任せて、もう一度眠ることをアルファに伝えてから、ボクは瞳を閉ざした。

 

 一体、どれだけの時間が経っただろうか。次にボクが目を覚ましたその時には、窓から見える世界は薄暗く、周囲の家々からはポツポツと営みの明かりが漏れ出していた。

 何気なく身体の調子に意識を向けてみると、熱っぽさも気怠さも、もうほとんど抜けているように思えた。喉の痛みだって、朝に比べると半減してたし…だからボクは、恐らく一階に居るであろうアルファに声を掛けに行ったんだけど…。

 

 歩夢「気を抜いたらダメだろ?頼むから部屋で大人しくしててくれ」

 

 台所で何か調理をしているアルファは、ボクを発見するや否や両肩にガッチリ手を乗せると、そのまま手を引っ張ってボクを部屋まで連れ戻してしまったのだ。

 …なんだか、子ども扱いされた気分だ。少しむぅっとしなくもなかったけど、でも子供でいいと言ったのはボクの方なので、それは甘んじて受け入れるしかない。

 暫くするとまた足音が聞こえてきて、さっきと同様トレーにお皿を乗せた彼がやって来てくれる。

 

 歩夢「そろそろ晩御飯の時間だから、御粥作ってみたんだけど…食べるか?」

 

 木綿季「うん、ボクお腹ペコペコだよ」

 

 歩夢「一応のど越し考えてゼリーも買ってきてるんだけど…」

 

 木綿季「それも食べたいかな」

 

 歩夢「食欲は充分そうだな」

 

 今晩アルファが作ってくれた料理は、卵粥という雑炊の一種だった。それを食べるのは初めてだったから、他と比較は出来ないけど、比べる必要なんてないぐらい、アルファの作るご飯は美味しかった。もしかしたらボクが作るご飯よりも美味しいかもしれなくて、ちょっと複雑な気分になっちゃったりした。

 晩御飯を食べ終えて、アルファが食器を回収しに来てくれて、お皿洗いが済んだらまた二階に来てくれて、体温計を差し出してきたりして…。

 

 木綿季「…今日の歩夢、なんかママみたいだね」

 

 歩夢「まぁ、木綿季にはずっと前に看病してもらったからな。そのお返しみたいなもんだ」

 

 まさに至れり尽くせり、脇の下に体温計を挟みながらボクがそう言うと、彼は笑顔で答えた。

 ボクがアルファを看病した。それは本当に大昔とも言える遥か以前のように思える。思えばあの頃は、ボクもアルファもまだまだ心の距離は遠く離れていた。ボクは自分の病気のことを隠したままだったし、アルファも当然何も知らなかった。表面上は良いカップルだったかもしれないけど、お互いの心の内はそうとは言えなかっただろう。

 それを思うと、今のボクらも偶に失敗しちゃうこともあるけれど、もう随分と心の距離が縮まっているように思えるね。

 

 木綿季「懐かしい話だね。倒れた歩夢運ぶの、すっごく大変だったよ~」

 

 歩夢「それも感謝してるけどさ、付きっ切りでおでこ冷やしてくれたり、キスしてくれ…いや、これは看病なのか…?」

 

 木綿季「…もう、恥ずかしいこと思い出さないでよっ」

 

 なんて昔話に花を咲かせているうちに、ピピっと体温計が音を鳴らす。七度二分。やっぱり、ボクの身体はかなり落ち着いてきたらしい。アルファもボクが微熱ぐらいに戻ったことに一安心しているようだった。

 とそこでアルファは、目線を右下に向けて、両眉に力を入れた。アルファがこうする時は、大体考え事をしているその時である。彼は暫し悩んだ後に、ボクに言った。

 

 歩夢「なぁ、木綿季。今日、木綿季ん家泊っても良いか?」

 

 木綿季「え?」

 

 そして放たれた予想外のお願いに、ボクは素の疑問を投じる。対するアルファは真剣な表情で答えた。

 

 歩夢「ちょっと…心配でさ。多分この調子で行けば明日には治るだろうけど、一応な?」

 

 木綿季「…うん、全然良いよ」

 

 そんなアルファの心遣いに基づく提案を、ボクが受け入れないわけがないだろう。寧ろ、アルファがお家に泊まってくれると言うことは、今日はアルファと一緒の布団…は流石に風邪だからダメだけど、一緒のお家で寝られると言うことなのだ。それだけでも、ボクはいつもよりも安心して眠れるだろう。

 

 木綿季「お布団は和室にあると思うけど、出すのが面倒だったら、姉ちゃんのとか、パパとママの部屋のやつ使ってくれても良いから」

 

 歩夢「流石にそれは悪いからな、ちゃんと準備する」

 

 ボクが続けてそう提案すると、彼はそれに遠慮してしまう。ボクからしてみれば、もうアルファは家族同然…っていうのは前にも言ったと思う。じゃあどれぐらいかって言うと、姉ちゃん達の部屋でくつろいでくれてもいいぐらいに、もうボクは完全に彼に気を許しているのだ。

 早速お布団の準備に取り掛かろうとする彼は、その場から立ち上がろうとしたけど、寸前、ボクが引き留めた。

 

 木綿季「待って」

 

 歩夢「なんだ?」

 

 一つ、ボクは良い事を思い付いたのだ。だけども良い事って言うのは、ボクにとっての良い事。アルファにとっては…それが現実になれば凄く良い事かもしれないけど…流石に、そうするつもりはない。これはあくまで、アルファを揶揄う為の言葉だ。ボクは屈託のない笑顔を貼り付けると、その表情を崩さずに言ってやった。

 

 木綿季「ボク、お風呂に入りたいんだ。手伝ってくれない?」

 

 歩夢「て、手伝う?」

 

 想像通り、アルファはボクの言葉を上手く理解し切れず、動揺したように訊ね返してきた。だからボクも、今度はわざとらしく流し目で続けてしまう。

 

 木綿季「そ…ボクの身体洗うのとかを、歩夢が手伝うんだよ?今日は看病に精を出してくれるんでしょ?」

 

 するとその場面を想像したのか、相変わらず仕掛けられると素直にエッチなこと考えちゃうアルファは、ゴクリと喉を動かした。だけどもここも変わることなく、最後には紳士モードで対応してくる。

 

 歩夢「…マジで言ってんなら…まぁ、理性がのぼせないように頑張らせてもらう」

 

 そんなアルファに、堪え切れずクスリと笑顔を綻ばせたボクは、言葉を返した。

 

 木綿季「冗談に決まってるでしょ。熱出た日はお風呂入らない方が良いって言うのは、ボクも知ってるから」

 

 そんなボクの正論に対して、アルファはかなり寂しそうな顔を浮かべていた。こういう時のアルファは、ちょっと正直過ぎるよね~。でもそれが良いんだよね~。

 

 歩夢「そうですか…」

 

 木綿季「だから、明日の朝はあんまりボクの匂い気にしちゃダメだからね!」

 

 歩夢「そう言われると一層…いや寧ろ一日ぐらいなら…」

 

 木綿季「それ以上は気持ち悪いって言っちゃうよ」

 

 歩夢「む、じゃあやめとく」

 

 そこで対アルファ必殺カードを切っておいて、強制的に彼から放たれる変態発言を切り上げさせておいた。

 あんまりそういうことを言われてしまうと、じゃあしようかなって思っちゃうのが、自分でも自覚しているボクの怖い所である。だから適度なところで区切りをつけておかないと、後々大変なことになる気がするのだ。彼はボクに罵倒されて悦んじゃうタイプじゃないらしいので、こう言っておけば大体のことはなんとかなる。

 とそんな感じで夜を過ごしながら、でもいつもとは違って、アルファがずっとお家に居てくれることに何処か嬉しさを募らせつつ、ボクはベッドの上でゆっくりしておいた。流石のアルファも寝間着までは持って来ていなかったので、パパが昔使っていたパジャマを貸してあげることにした。

 そして早くも就寝時間。一階の和室に布団を敷いたアルファは、当然そこで寝るんだけど、最後にボクの部屋をもう一度訪れてくれる。

 

 歩夢「無いとは思うけど、もし急にしんどくなったら、俺のこと叩き起こしてくれよな」

 

 木綿季「そう言うなら隣で寝て欲しいんだけどね」

 

 歩夢「残念だけど風邪だからなぁ…」

 

 ボク個人としては、アルファを抱き枕にして寝ることが一番の健康増進に繋がるんだと思う。でもそれでアルファに風邪を感染してしまっては元も子もないので、今日は仕方なく別々に寝ることにしよう。

 部屋の明かりを落としたアルファは、おやすみと一声掛けてから、その場を動き出そうとする。でもボクは、また彼を引き留めるのだ。

 

 木綿季「ねぇ、ちょっとこっち来て?」

 

 歩夢「どうした?」

 

 ボクに呼ばれて、アルファはこちらに歩み寄ってきた。ボクはベッドの上で横になったまま、彼の右手をぎゅっと掴んだ。

 …やっぱり、今日のボクはアルファに尽くしに尽くされたせいか、いつもよりも一層甘えん坊になっちゃってるらしい。彼の温かさを感じ取りながら瞼を閉ざして、一つお願いをする。

 

 木綿季「なにかボクに歌ってみてよ」

 

 歩夢「歌?」

 

 木綿季「うん、ボクも歩夢に歌ったことあるでしょ?そのお返しに」

 

 歩夢「…しゃーねぇなぁ…」

 

 声色からして、目をつむっていても分かるアルファの困り顔を思い浮かべ、ボクは小さな笑い声を洩らす。リクエストに応えてくれたアルファの歌声に、ボクは耳を澄ませ始めた。

 アルファの歌ってくれた唄は、やっぱりボクは聞いたことのないような日本的な童謡だった。でもこれが、アルファが幼い頃から聞いていた唄なのかと思うと、また一つアルファのことを知れた気がして、少し嬉しくなる。

 あんまり歌詞を覚えていないのか、唄は一分ちょっとで終わっちゃった。ボクは目を閉じたまま微笑んで、彼にこう言う。

 

 木綿季「歩夢、歌はあんまり上手じゃないんだね」

 

 歩夢「おい、歌ってやったのにそんなこと言うなよ」

 

 別に音痴ではない。でも特段上手でもないアルファの歌声に素直な感想を送ってあげると、彼は苦笑を漏らしながら言葉を返してきた。だからボクも、素直に言葉を返してあげるのだ。

 

 木綿季「でもね、歩夢の歌声、ボクは好きだよ。凄く、落ち着く…」

 

 歩夢「そりゃよかった」

 

 木綿季「…おやすみ、歩夢」

 

 歩夢「…おやすみ、木綿季」

 

 彼の一生懸命に歌ってくれた唄を心に反響させながら、そっと握る手を離したボクは、アルファに一晩の別れを告げた。

 彼が優しく部屋の扉を閉じると、段々と足音は遠ざかっていく。彼の温もりが手から消えないうちに、ボクはそれを胸に押し当て、やがてふわりと意識を途切れさせた。

 

 

 

 

 

 

 




 次回の投稿日は、五月十七日の火曜日です。

 では、また第175話でお会いしましょう!
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