春立つ日。
それが過ぎ去って約一週間後、その言葉がまるっきり嘘であったのかと思えるぐらいに、ここ東京は猛烈な寒波に包まれていた。
実際の季節と暦上の季節がこれほどにまで噛み合わないのは、特にこの時期なのではないだろうか。
そんなある日のお昼下がりであった。
矢のように身体を突き抜ける外の冷気に晒されることなく、暖房器具によって快適な温度に保たれた我が家にて、ボクはゆったりと窓の外を眺めていた。水色の空に浮かぶ雲の合間から注ぎ込む日差しだけは、春を気取った心地良いものである。
ボクはその天然の温もりを欲するように、綺麗に陽が差し込んでいるキッチンへと足を運んだ。清掃の行き届いた台所に辿り着くと、その場で振り返り、或いはしゃがみ込み、収納を開いては閉じた。
ボウル、ザル、ヘラ、ミルサー…などなど、取り出した物は、今から必要になってくる調理器具だ。ガシャガシャと音を鳴らしながら、次々と作業台の上に置いていく。
必要な調理器具を全て用意すると、最後にもう一度後ろを振り返る。かかとを少し浮かせて、ボクの目線よりも上にある取っ手に手を掛けた。
木綿季「よい…しょっ…」
ちょっと背伸びをして頭上の棚から取り出したものは、茶色い粒が沢山詰まった袋だ。掛け声の割に、そんなに重くはない。
これが、これからの調理に使う材料の一つだ。
ジッパー付きの袋に入っているその一つ一つは、細長い卵のような形で、サイズ感は指で抓めちゃうぐらいだ。茶色とは言ったけど、ベージュよりは濃くて、焦げ茶色よりは薄い。表面には、石に出来る傷みたいな白い線が何本も入っている。
木綿季「じゃ、調理開始だね」
平たいはかりの上にボウルを乗せ、そこに袋の中身を移す。無数の粒はステンレス製のボウルとぶつかり、ガラガラと音を立ててその中に入り込んでいく。はかりと睨めっこしながら、やがて袋を傾けることをやめた。
そしてまずは、下準備に入る。
つまりは、ボウルの中でいっぱいになった彼らの選定の時だ。
ちょっとカッコつけちゃったけど…要するに、使えるものと使えないものを仕分ける作業ってことだね。
虫食いされてるのはダメ、潰れちゃってるやつもアウト、腐ってそうなのは当然除外…そうして選別を終えると、お次は、見事試験に合格した彼らのお風呂タイムに突入だ。
ボウルに水を流し込み、軽く揉むように洗う。ボクの思った以上に、それは汚れていたらしい。最初こそ透き通った水に浸されていたボウルの中は、用水路のどぶ水とか、もしくは泥水みたいに濁った色合いへと変化したのだ。
「これは一回じゃ不安かな」と思ったボクは、今度はザルに中身を移して、もう一、二回洗っておく。
ようやく綺麗になったそれらは、しっかりと水を切ってから、更にキッチンペーパーの上へ移動させた。
表面に付着した水分を軽く拭き取ると、キッチンの後ろにあるオーブンから天板を取り出す。
下準備が完了した彼らは、今日何度目の移動だろうか。黒い天板をコロコロと音を立てながら、隙間なく全体を埋め尽くした。
そして天板をオーブンに突っ込み、三十分ほど低音でローストしていく。
とここまでの手順を、ボクはあたかも何気なくやっているように見えるかもしれない。
でも実際のところは、それら全ては、画面に映し出されたレシピを読み込みながら、こうかな?ああかな?と悪戦苦闘してたりするんだ。
三十分後、しっかりと加熱されたそれらは、以前よりも濃い茶色に変化しているように思える。オーブンから天板を取り出すと、独特の香ばしい匂いがボクの鼻に舞い込んできた。それらが冷めるまでもう暫く待ってから、次の作業に取り掛かった。
粒を一つ手に取って、それを両手で抓む。粒を引っ張るようにしてぐりっと捻ると、パキッと殻が割れた。マトリョーシカみたいにそこから姿を現したのは、真っ黒な物体だった。そしてそれを、また別のボウルに移動させる。
…さぁ、ここからは大変だ。力を入れ過ぎると中身ごと崩れちゃうから、その点にも気を遣いながら、ボクは一時間半近くは延々と殻割り作業を繰り返し続けた。
それはどうにも気の遠くなるような作業だったけど、ボクの原動力は際限なく溢れている。みんなを…君を想うと、この程度で音を上げるわけもなかった。
その手筈をクリアすれば、あとはもう楽ちんだ。
選別されし材料を、ミルサーに投入し、作動。甲高い機械音を響かせながら高速回転する無数の刃によって、それらは瞬く間に細かく砕けていき、次第に──。
木綿季「…あれ?」
唐突に、ミルサーの作動音は力なく消え入り、と同時に動きが停止した。何事かと思いながら中を確認すると…ミルサーが故障してしまったみたいだ。ミルサーでは、これ以上混ぜ潰すことは不可能らしい。
なら仕方ないね。
お鍋にお湯を沸かして、その上にボウルを乗せる。そしてミルサーの中身をそこに放り込み、湯煎を開始した。ボクは懸命にすり棒でそれらを砕いていくと、温度が上昇すると共に、油が滲み始めた。
ボクの右腕が悲鳴を上げながらも、辛抱強く作業を続けること一時間。遂に、黒い物体は茶色いペースト状の状態に変化した。ドロリと粘質のあるその液体に、砂糖を、そして隠し味の塩を少々加え、更にヘラでかき混ぜる。
…アルファは苦めが好きだから、お砂糖は多過ぎない方が良いよね…隠し味のお塩は、甘みにアクセントを付けるって意味があるらしいんだ。
まぁ、隠し味に入れたのはそれだけじゃないけどさ。勿論、ボクの愛情も入れてるに決まってるからね!
そしてこの手順が、調理の最終段階である。
まずは温めた液体から熱を逃がし、新しいボウルに移す。次はもう一度温め直して、粒がなくなるようにかき混ぜる。
結果出来上がったとろりとした液体を、定番の四角や星の型、加えてちょっとオシャレな型に…当然、ハート形の型に注ぎ込むと、それを冷蔵庫で冷やす。
となると、あとはもう完成を待つだけだ。
一息つきたくなる気持ちを抑えて、使った調理器具を綺麗にしてから、ボクはリビングのソファーにもたれ込んだ。仰向けになった身体の上にクッションを乗せながら、深いため息を吐き出す。
木綿季「頑張ったー…」
わざわざ熱帯植物の種子を購入し、それを焙煎、更にはテンパリングもした。ボクが何を作ったのかは、もう自明のことだろう。
結局、調理を終える頃には夕方になっちゃったけど、ボクがこうして真っ昼間からキッチンに立っていると言うことは、それすなわち今日はみんな大好き休日ということだ。
ボクだって、みんなとワイワイ出来る日は好きだけど、色んなことが出来る休日だって、同じぐらいも大好きなのだ。
休みの日は、アスナ達や学校の友達と遊びに行ったり、お家でゆっくりしながら仮想世界を冒険したり、或いはアルファとデートに行ったり、一緒に日用品を補充しに行ったり…ボクは休日のほとんどを、誰かと過ごすことが多い。
でも本日は珍しく、午前中にアルファとスーパーに行ったっきり、ボクは一人で過ごしていた。
その理由は勿論、ボクがこうして、みんなには秘密裏に、この調理を進めたかったからだ。
と言うか、世の女の子のほとんどは、こうして今日は一人キッチンで闘志を燃やしていると思うけどね。ボクもまた、それに全身全霊を注いだ一人なんだ。
レシピ通りに手筈を踏んだし、ボクの愛情も混ぜておいたし…間違いなく、ボクの持てる力を注いだと言えよう。
ただ、唯一の懸念点としては、ボクがまだ料理を初めて一年も経過していないことだ。
豆の状態から作り出すのは、普通に自炊をするのとはわけが違う。もしかしたら、あんまり美味しくないものに仕上がってるんじゃ…。
そんなものを渡してしまえば、ボクのプライドが傷付く云々の話じゃなくて、アルファの笑顔が最上へ至れない。それだけはボクにとっての一大事なのだ。
今更ながらに得も言われぬ不安に身をウズウズとさせながら、レシピ通りの冷却時間が経過すると、ボクは急いで冷蔵庫を開いた。
そして、味見用に作っておいた不格好な固形を口に放り込む。口の中で転がし、溶かし、噛み砕く。
そしてその結果、ボクの抱いた感想は──。
木綿季「…うん、これなら大丈夫!」
これまでアルファに捧げてきた二度を裕に超えるほどに、その出来栄えは素晴らしかった。
アルファが最高の笑顔を返してくれることを鮮明に妄想したボクは、明日を心待ちにしたのだった。
そして当日──。
朝の待ち合わせ場所である、駅の改札口前にて。
いつも通り、ボクは多くの人々が行き交う構内を眺めながら、彼ら彼女らが奏でる、決して一様にはならない足音をバックグラウンドに、君の訪れを待っていた。
その無数の足音の中で、一つ、ボクの耳は特別な音を拾う。
コツコツとゆったり床を蹴るその音は、このせわしなく足を進める大勢の中で、君だけが奏でるメロディーであった。まるでボクを吸い寄せるかのような音の調べに導かれ、左側へと視線を移す。
すると彼は、それが意外そうにこちらを見返してくる。やがてここまで足を進めてくると、ボクに言った。
歩夢「おはよう、木綿季。良く気付いたな。まだ声掛けてなかったんだけど」
木綿季「おはよ、歩夢。ま、ボクぐらいになれば、足音一つでも気が付けるからね」
歩夢「それは世に知らせるべき特殊能力だろ」
木綿季「カクテルパーティー効果の応用だよ」
そしてまた普段通り、ボクらは朝の挨拶と共に、取り留めのない会話を交わす。
するとアルファはいつものように、そのうちにやってくる電車に乗車すべく、改札口へと足を動かそうとするんだ。
でも、その足は半歩しか踏み出せない。ボクが彼のコートの裾を掴んだからだ。
木綿季「待って、歩夢」
ボクが声を掛けると、彼は不思議そうな面持ちでこちらに振り返り、言った。
歩夢「ん?どうしたんだ?」
でもその表情の中には、なんとなく予感のようなものが伺えた。だからボクもアルファの望み通りに、言葉を返てあげる。
木綿季「えーとね…ちょっと待ってね…」
背負っている通学用の白いバックパックを身体の前に持ってきて、ボクはゴソゴソとその中を探る。今日は学校に必要なもの以外にも、沢山の透明な袋が詰まっていた。
その中で一つ、特別なものに手を伸ばす。
それは、黒いリボンに、赤いハート形の箱のものだ。それを掴むと、これまでだって何回もそうしてきたはずなのに、ボクは胸をドキドキと躍らせてしまった。
零れ落ちた笑みを隠すことはなく、鞄の中に向けられていた視線をぐっと元の位置に戻すと、ボクは努めて笑顔で、両手で握った箱を君に差し出した。
木綿季「はい、歩夢!ボクからの気持ちだよ!」
身体の前に差し出されたアルファは、やっぱりか、と言った表情の中に、でもボクからの愛を貰えた嬉しさを隠し切れず、笑顔を綻ばせた。
そして彼は、こう言ったのだ。
歩夢「俺に…くれるのか?」
木綿季「当たり前じゃん。本命を歩夢以外の誰かに渡すと思ったの?」
歩夢「いや、思ってない。言ってみたかっただけ」
木綿季「なにそれ~、歩夢は自信家だね~。うーん、やっぱりあげないでおこっかな~?」
歩夢「それは勘弁してくれよなー」
なんて冗談っぽい会話を交わした末に、一度は引っ込めたそれをもう一度差し出すと、アルファはしっかりと受け取った。
歩夢「ありがとな、木綿季」
木綿季「ん、こっちこそ、いつもありがとね」
その言葉の中に、アルファの綺麗な笑顔を見たボクは、同じぐらい満面の笑みで言葉を返しておいた。そうしてボクらは、そろそろやって来るであろう電車に乗り込む為に、急ぎ足に改札を通り抜けていくのだ。
今年のバレンタインデーは、文句が付けられないぐらいに大成功だ!
彼に手を引かれて歩みを進める中で、ボクは疑いなくそう思えた。
──がしかし、そんな風に思っていられたのは、朝のうちだけだった。
アルファに大切なチョコを渡してから、学校まで登校し、数コマ分の授業を受けた。そして今は…。
歩夢「その担々麺、美味いのか?」
木綿季「うん、美味しいよ~」
四限目の授業が終了し、お昼休みに突入した現在。ボクはアルファと共に、訳あって少し遅れて食堂を訪れていた。
ボクらが食堂に到着したその時には、既に多くの学生がお昼ご飯を食べ終えており、席に空きが出始めていた。その点に関しては、アルファとゆっくりご飯が食べられて、ボクも嬉しかったりする。
木綿季「一口食べる?」
歩夢「お、いいのか?」
木綿季「その代わり、歩夢のカレーうどんも一口頂戴だよ?」
歩夢「おーけーおーけー」
と言うのも、要するに、席に余裕があれば、隣り合わせにご飯を食べられるし、周りの目も気にしなくて良いし、シェアという名目を借りて、アルファにあ~んしたり、逆にしてもらったりを堂々と出来るからである。
ただ、今日に限っては、一つ問題があって──。
「あの、一井先輩!」
──ほら、また来た。
──しかもなんでこのタイミングで来るかな。今からアルファと間接キスしようとしてたのに…。
赤いスープに潜らせた少し辛めの麺をお箸で掬って、それをアルファの口に持っていこうとしたその時だった。
突如として、ボクらの前に、一人の女子生徒がやって来たのだ。そうなると勿論、ボクらは動きを止めなきゃいけない。
そしてアルファは、笑顔でその子に訊ねる。
歩夢「俺達に何か用あるのか?」
──正確には、アルファに用があるんだけどね。
愛の時間を邪魔されたことに、少々気が立っているボクの心の声は、かなりその子に対して冷たかった。
だけど、ボクの向ける少々冷ややかな視線に、その子は気が付くことはなかった。というか、眼中にさえ入ってないように思えた。
その子はほんのりと顔を赤らめ…はい、アウトだね~。お引き取り願いまーす。今すぐに彼女をこの場から追いやりたい気分だけど…ボクは良い子だから、ちゃんと我慢我慢…。
とボクが自分を抑え込んでいるうちに、その子は身体の後ろに隠していた小包を正面に持ってきて、それをアルファに差し出した。
「こ、これ、私からの気持ちです!受け取ってください!」
うん、本命だ。
これで何人目かな~?友チョコは除外してあげてもいいけど…確か十人は越えてるかな?途中で数えるのやめちゃったけど、友チョコ合わせたら何十人なんだろ。アルファはモテモテだね~。
なんて感じで、やっぱりふつふつと湧き上がる黒い感情を抑え続けているボクだけど…実はそろそろ限界が近い。封をしてある蓋を突き破って、それが表に現れそうだ。
歩夢「おう、わざわざありがとな」
木綿季「……」
そしてアルファは、彼女に笑顔を向けてから、それを受け取ってしまう。その子はそそくさと何処かへ走り去っていったけど、こうなってしまうと、シェアの話だってうやむやになってしまう。
ボクは胸につっかえるわだかまりをもう一度鎮めるために、ズズーッっと一際大きな音を鳴らして担々麺を啜った。
でも、息を吐き出すのと同時に、遂に本音が顔を出した。
木綿季「…なんで受け取るのさ」
歩夢「なんでって…そりゃあ、受け取ってあげないと可哀想だろ?」
木綿季「そうだけどさぁー」
アルファの言っていることは、すっごく正しいんだと思う。でもボクは、正解を求めてる訳じゃないんだ。きっとこの気持ちは、優しいアルファには伝わらないんだろう。
言葉にすることで、一度ひび割れから漏れ出した憤りに似た感情は、速やかに割れ目が修復され、唸りを沈めてくれた。
だけども、結局ボクらがお昼ご飯を終えるまでに、追加で二人も同じようにアルファに愛情をプレゼントしてきたんだ。
食堂に行く前だって、先輩後輩同級生、数々の女の子に捕まっては、その現場を見せられたっていうのに……。
耐え切れなくなったボクは、昼食を終えるや否やアルファの手を引いて、ドシドシと中庭に移動する。その道中にまた一人。全身が煮えくり返るような感情は増々高ぶっていく。
…寄ってたかってなんなんだ!アルファはボクのものなんだぞ!!
なのにどうして、わざわざボクの目の前で愛を告白しちゃうのかな?ボクは舐められてるのかな?ボクを舐めてるのかな?うん、そうだよね?そうじゃなきゃ、奪い取るみたいに、ボクが一緒に居る時にチョコ渡したりしないよね?
どうせボクなんて、すぐに寝とっちゃえるような人だと思ってるんだ!確かにボクは、周りから見たら普通レベルの女の子かも知れないよ?でもそんなボクにアルファはゾッコンでいてくれてるんだ!お前たちが付け入るスキなんてないんだ!!
思えば一年前の今日も、アルファはこんな調子で、沢山の女の子からチョコを受け取っていた。
でもあの時は、まだボクは肩に乗せら、通信プローブ越しにその現場を覗いてるだけだったし、なにより、学校のみんなもボクとアルファの関係なんて知らないわけだから、それも仕方がないと思ってた。それで充分に納得していたはずだ。
でも今年は違うよね?ボクが入学して以来、アルファとボクが恋人関係ってことは、周知の事実のはずだよ?なのに…なんで…っ!!
やがて辿り着いた学校の中庭、学生たちがここを訪れることは少ないから、ここまで来れば一安心だ。半ば強制的に引っ張って来たアルファと一緒にベンチに腰を下ろして、美しい花壇へ視線を移す。
これで今からは、ボクとアルファの二人っきりの時間だ。
ボクは膨らんでいた頬を萎ませ、衝動的な感情を一旦追いやる。それからこれまでとは一転して、彼に柔和な笑顔を向けようとしたんだけど──。
──一体、排除すべき敵を見つけた。
またボクらの時間を邪魔されることを悟ったボクは、吹き荒れる感情に身を任せて、その眼鏡の女の子をキッと睨み付ける。
そして喉の奥から、強烈な威嚇音を鳴り響かせた。
木綿季「ぐるるるるるる……ッ!!」
すると女の子は、青い顔を浮かべてたじろいだ。
と同時に、そんなボクに気が付いたアルファは、ギョッとした表情でボクに言うのだ。
歩夢「ゆ、木綿季…!?なにしてんだ!?あの人滅茶苦茶怖がってただろ!?」
木綿季「な、なにって──」
歩夢「…ちょっと待っててくれ。あの人のところ、行ってくるから」
木綿季「…え…?」
そして握るボクの手をフッと放したかと思うと、彼は駆け足にあの人の所へ向かっていく。ボクは唖然としたまま、アルファの様子を眺めるばかりだった。
彼はその人に笑顔を向けて軽くお話をしたかと思うと、またボク以外の人からの愛情を受け取り、笑顔でその人をお見送りしている。
…こうやって客観視してみれば、アルファもアルファだ。なんでボクっていう人が居ながら、誰彼にも笑顔を振りまくんだ!愛情を素直に受け取ろうとするんだ!!
でも、それは彼なりの優しさだって、分かってはいる。想いの人が居るからって、他の人を冷たくあしらっていい理由にはならないから。でも…でもボクは…っ。
ふつふつ、グツグツ、また黒い感情が煮え始めた。必死になって蓋をしても、それは蒸発し、気体となって隙間から漏れ出してくる。
もっと綺麗でいなきゃ。そう思うボクを嘲笑うかのように、全身は黒い霧で覆われていく。
他の人の愛を片手にぶら下げたアルファは、ボクの元に戻ってこようとしたけど、また伏兵だ。ボクじゃない人ばっかりを優先して、その場に立ち止まって笑顔を浮かべる。
ボクはどんどんと黒い感情に呑まれながら、ただそれを凝視するばかりだ。
木綿季「……」
気が付くと、両腕が軽く震えるほどに力んでいた。抑え切れない握力で、シワが出来そうなぐらいにスカートを握り締める。
そしてボクは無意識のうちに、遂にはブツブツと呟き始めていた。
木綿季「……ボクの……ボクのアルファなのに……ッ!!」
そしてその日のボクは、彼が他の女の子から気持ちを受け取る度に、その薄汚くも混じりけのない感情を募らせ始めたのだ。
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二月十四日。またの名をバレンタインデー。
男性諸君にとってこの日とは、実に高低差の激しい一日となっている。
好きなあの子から愛を伝えてもらえるか否か、本命チョコが貰えるか否か、どれだけのチョコが貰えるか、そしてそもそも、女の子からチョコが貰えるかどうか。
それらが是となるか否となるかによって、我々の心持ちはエベレストからマリアナ海溝にまで浮き沈みするのだ。
全く、その程度のことで天国と地獄を行き来することが出来るなんて、二月十四日とは面白い一日だろう。
かく言う俺は、朝一番に喜びの絶頂へ至った。これ以上にない歓喜だった。
と言うのも、俺は今日の朝に、最愛の君から本命チョコを授かったのだ。去年は寝る直前の最後の最後まで、君からのチョコがお預けだったこともあってか、初っ端から真っ直ぐな笑顔で愛情を贈ってもらえるのは、本当に心がグッと来たのだ。
だからこそ俺は、その後の…言ってしまえば烏合の衆である他の女の子達からのチョコも、いつも以上に明るい調子で受け取ったのだと思う。
確か、学食を一緒に食べていたときだろうか。そんな俺の様子に、ユウキは少しばかりムッとしていることに、俺は気が付いたのだ。
ユウキがこうも目に見えて、他の人に嫉妬してくれていることは、かなり新鮮な状況だった。やきもち焼いてるユウキを可愛いなと思った俺は……少しばかり、ユウキを弄ぶことにしたのだ。
具体的に言うと、俺が他の女の子に優しく接することで、彼女の中に潜む独占欲を触発させる…本当に、刺激的な遊びだ。
だが今更ながらに思えば、あの時の俺の判断は、阿呆のものであったと言わざるを得ない。誰かを深く愛する乙女心を遊び半分で刺激するなど、愚か者のすることだろう。
俺がその報いを受けることになるのは、お昼休みが終わって、もう少し後の話だ。
これからは、自らの選択を後悔する前の、呑気だった俺のお話を描こうと思う。
お昼休みが終わり、午後の授業を受け終えると、放課後がやって来た。起立礼が終わると、本日最後の授業に使ったタブレットや筆記用具を、鞄の中に詰めていく。
しかしいつものように、適当に放り込むことは許されない。何せ鞄の中には、アスナ達を初めとするみんなから頂いた沢山のチョコ、或いは焼き菓子が詰まっているからだ。
それらが潰れないように…そして、君から貰ったハートの箱を絶対に傷付けないよう気を付けて、荷造りを終了させた。
そして俺が、ユウキの待つ教室へ向かおうと思った矢先だ。
木綿季「歩夢っ!一緒に帰ろ!」
俊足の速さで俺の教室に登場したユウキは、素早く俺の元まで駆け寄ると、こちらに有無を言わせない勢いと共に笑顔でそう言ってくる。俺の返事を聞くこともなく腕を掴み、廊下側へと引っ張り出そうとする。
そんな彼女に対して、俺は極めて冷静に訊ねることにした。
歩夢「今日は友達と帰らなくていいのか?」
木綿季「今日はね、一緒に帰りたい気分なんだ。いいかな?」
歩夢「願ったり叶ったりだ」
そうして本日は、ユウキと共に下校することに決定されたわけだ。じゃあ一緒に帰るかと、教室から出た途端だ。
ユウキは俺の身体にひっつくようにして、まるでボディーガードみたいに隣を歩き始めたのだ。そんなに他の女の子からチョコを受け取る俺が嫌なのだろうかと、心の中で少々苦笑しながらも、彼女に付き合う。
しかし、ユウキが乙女であるとするのならば、また彼女たちも同様であった。俺達が昇降口に辿り着くまでに、セミロングな女の子が一人、こちらへと近づいてくる。
するとユウキは、一層俺に身を寄り添わせ、背を逆立たせるのだ。
木綿季「…シャーーーッ!!」
お昼休みの時が犬なら、今度は猫なのか。
初めてユウキが脅すような唸り声を上げたその時。俺は物凄く驚いた。軽く取り乱すぐらいにはびっくりした。
だって、あのユウキがここまで嫉妬心に駆られてるんだぞ?これまでにも多少はヤキモチを焼くことはあれども、ここまでじゃなかった。そんなユウキのまだ見ぬ顔が見たくて、俺は…。
兎に角、威嚇音を振りまくユウキの頭にポンと手を乗せると、俺は彼女に言うのだ。
歩夢「木綿季、ちょっと待っててくれよ?」
木綿季「……う~……」
俺がそう言うと、君は大層納得のいかなそうな表情で、そして懇願するようなつぶらな瞳で俺を見返してくる。その上、その可愛らしくもある唸り声を聞いていると、なんとも胸の奥深くがキュンキュンと疼いてしまうのだ。
しかし結局、まだまだユウキを困らせたかった俺は、またユウキを差し置いて、笑顔でセミロングな女の子からのチョコを受け取った。校門まで移動する頃には、わざわざユウキと共に相手に合わせた場所で、更に三人から受け取った。
最初の二人こそ、ユウキはどんどんと嫉妬心を発露させていた。
しかし、最後の三人目になると…何故かふっとその気配を消し去り、ニコニコと笑顔を浮かべるようになった。いつも通りのユウキに戻ってしまって、俺としては少々面白くなかったりした。
いつもの倍以上の時間を掛けて、やっとのことで校門前まで辿り着く。
そして門を出たその瞬間だ。ユウキがバッと俺の身体の前に飛び出すと──。
木綿季「ウー、ワンワンッ!!」
また威嚇し始めた。
…さっきから威嚇が動物の声真似って、案外ユウキもこの状況楽しんでんだろうな。もしそうじゃなかったら…狂気に駆り立てられてるってことになるし、まさか、結構冷静なユウキに限ってそんなわけがないだろう…。
俺に近寄る女性を蹴散らそうと、彼女たちを脅かしているユウキではあるが、今回ばかりは、俺に止められずとも自らの意思で警戒を解いた。
何故なら、門の前で俺達を待っていたのは──。
木綿季「…って、アルゴにミトじゃん!どーしたの!?」
彼女の言う通り、俺達の目の前には、校門前にバイクを停めている二人が、ラフな格好で佇んでいたのだ。
「何しに来たんだ」という質問は無骨だろうから、代わりにも一つ思ったことを訊ねてみる。
歩夢「それはどういう組み合わせなんだ」
アルゴ「深澄っちのフィールドワークのお手伝いだヨ」
ミト「それより、ユウキこそどうしたのよ?そんな警戒心剥き出しで…あっ、そう言うことね…」
夏ごろから一層二人は仲が良いとは思っていたが、フィールドワークのお手伝いとは何ぞや。大学生ってのはそんなこともしなきゃならねぇのか。
頭の中に色々と感想を抱いた俺ではあったが、取り敢えず、まずは両手を差し出してみた。
対する二人は、呆れたような目線で俺を眺める。
アルゴ「オレっち達、まだ何も言ってないゾ」
歩夢「でも…なんか貰えるんじゃねぇの?」
ミト「そういう誠意の足りない人には、渡すものなんてないんだけど?」
と言われてしまっては、こちらとしても、遜るより他ない。
歩夢「それは…お願いします、お恵みを」
そうして下手に出てやると、今度は向こうが調子に乗り始めるのだ。
アルゴはデイバッグからガトーショコラを、ミトは…カップケーキ?みたいなお菓子が入った小包をプレゼントしてくれた。ユウキも同じように友チョコ交換して…しかしそれに見覚えがなかった俺は、彼女に訊ねてみる。
歩夢「ミト、これは?」
ミト「フォンダンショコラ。結構自信あるわよ」
ここまでは、彼女たちも素直ないい子だった。でも次の一言から、調子に乗ったと言わざるを得ない態度を取り始めたのだ。
アルゴ「アー坊、二つともここで食べてくれヨ」
歩夢「ここで?」
アルゴ「そうダ」
一体なんの意味があるのかは分からないが、贈ってくれた二人にそう言われてしまえば仕方がない。この場で有難く頂かせてもらう。
まずはアルゴのを、次にミトのを食させてもらったが…本当に、ビックリするぐらい美味しかった。
アルゴ手製のチョコケーキは、ふんわりとしたスポンジと甘過ぎないチョコソースが素晴らしくて、ミト手作りのフォンダンショコラなるお菓子は、俺も初めて食べたのだが、ミトの作ったものが完璧であると思えるほどに美味であった。外側のサクッとした生地も絶品だが、その中に秘められしトロリとした生チョコが最高だ。
俺は彼女らにコメントすることさえ忘れて、無我夢中でそれらを食べてしまった。
するとだ。二人はニタニタと顔を見合わせてから、俺にこう言った。
ミト「どう?ユウキのチョコと私たちのチョコ、どっちが美味しかった?」
歩夢「…ぐ…」
その質問は、俺史上最悪のものであった。
俺が堪らず黙り込むと、二人は勝ち誇ったような表情でユウキに視線を向ける。
ユウキから貰ったチョコ。
その内の一つを俺は既に頂いているのだが、勿論、彼女が懸命に作ってくれたであろうチョコも、有り得ないぐらいに滅茶苦茶美味しかった。特に気に入っているポイントは、俺の好みに合わせて、ビターな仕様にしてくれているところだ。
あれは是非とも来年だって食べたいと思っている…思ってはいる。がしかし…二人のとどちらが美味しいかと問われると…正直どちらか一方に軍配を上げるのは難しい──。
「──ボクのチョコの方が美味しいって早く言え!!!!」
ビクッ!!
肩が勝手に竦んだ。
ふと頭の中に、そんな彼女の叫びが聞こえてきたのだ。
しかし、その声は他のみんなには届いていないらしい。何事も無かったかのように、アルゴとミトは答えを待ち続けている。
不意にユウキへと意識を移すと、彼女の身体からは…なんと言えばいいのだろうか。悍ましいほどに暗く濁ったオーラが浮かび上がっていたのだ。
それを認識してしまった俺は、恐る恐る、君に呼び掛けた。
歩夢「ゆ、木綿季…?」
木綿季「…ん?どーしたの?」
応える君は、それは絵にかいたような笑顔を浮かべていた。
だけどもそれは、美しい笑顔を綻ばせているという意味ではない。笑顔とされる表情を張り付けているだけだという意味である。
つまりは──今のユウキの心は、全くもって笑っていないのか…?寧ろその真反対──。
それを思うと、背筋がビンと伸びた。
となると、さっきから急にニコニコし始めたのは…もう、完全にぶちギレしちゃったってことなのでは…。
歩夢「…三人共美味しいけど、やっぱ…木綿季のチョコが一番…だな」
焼け石に水だろう。そうとは分かっていても、こう答える以外に道は見つからなかった。それ以外の選択肢を選べば、何者かの手によって俺の命が失われる気がした。
俺の言葉に、アルゴとミトはわざとらしく残念そうにしていたが、一方ユウキは満足そうな笑顔を浮かべていた。
しかし、その全てを理解してしまった俺は、ユウキの笑顔が恐ろしいものにしか思えなかった。
二人はキリト達にも同じことをするつもりらしく、そこでバイバイすることになる。それからはユウキとの二人っきりの時間になったのだが、いつもなら楽しいはずのこの時間も、今日は綱渡りのようなハラハラする時間にしかなり得ない。
しかし、これは予想外だった。
ユウキを家まで送る途中に、彼女からお叱り事を受けることもなく、俺達は解散となったのだ。
「また明日ね」と手を振ってくれるユウキの笑顔はやっぱり綺麗で、堪らずこっちも笑顔を綻ばせてしまう。
そんな彼女を見ていると、もしやユウキは、別にそんなに怒ってないのでは…?と思わされるわけだ。
と言うか、実際そうなのだろう。ユウキは不安なことがあれば、すぐに俺にぶつけてくれる。その傾向から推察するのならば、ユウキも過ぎたことには拘らないスタンスを取っているに違いない。
そう結論付けてからは、俺もゆったりと一日の残りを楽しみ始めた。
家に帰って、みんなから貰った大量のお菓子を収納する。ユウキから貰ったチョコレートは、これから数日掛けてたっぷり楽しむことにして、掃除洗濯料理をこなしていく。宿題やってお風呂入って、そうすればあとはもう寝るだけだ。
布団を用意した俺は、お休みすべく目を閉ざそうとすると、唐突に携帯から着信音が聞こえた。
ふとそれを確認すると、ユウキからであった。なんでも、今からALOに来て欲しいとのことである。
就寝前にこのメッセージ送ってくるってことは…今日はそういうことなんだろう。勿論それを了承した俺は、アミュスフィアを被り、寝室に出現した。
ユウキ「アルファ~、待ってたよ!」
アルファ「お待たせ」
するとそこには、もうユウキが待ってくれていた。
ベッドに腰掛ける君は、俺の姿を見つけると、ゆっくりと隣を叩く。それに従い隣に腰を下ろすと、ユウキは左指を振り始めた。
恐らくメニューウインドウを操作しているのだろう。合わせて俺もその操作を挟んで…その最中だ。
ユウキは小包を実体化させた。それを見せつけるように俺の顔の前に持ってきた君は、屈託のない笑顔で言うのだ。
ユウキ「今年もチョコキス…しよっか?」
丁度一年前のこの日を境にして、俺はユウキから仕掛けられるキスの虜となっていた。
隣に腰掛けるユウキが、甘えるように俺の身体に密着してくる。そして彼女が黒い粒を取り出すと、ほぼ条件反射的に、俺の心は完全にそれを受け入れてしまった。
ユウキはチョコを口に放り込み、俺の身体を抱き締めると、深いキスを交わしてくる。
俺もまた彼女の背中に腕を回して、二人の舌でチョコを溶かしながら、その甘い甘い味わいを……はて、一年前のチョコキスは、ここまで甘ったるかっただろうか?それとも、今日のユウキが作製したチョコは、甘い系なのだろうか?
そんなことを思いながら、しかし止まれるわけもなくお互いの舌を貪っていると…次第に頭がぼうっとし始める。
ようやく一つ目のチョコを溶かし終えると、俺達は一度唇を離し…そこで、俺はそれを訊ねたのだ。
アルファ「…ユウキ、なんか、今日のチョコ…甘過ぎない、か?」
…何故だろうか。身体が妙に火照って、呂律が上手く回らない。
俺がゆっくりと放ったその一言を聞いた君は、変わらず見覚えのあるニコニコとした様子で答えた。
ユウキ「それはね…今日のチョコには、ちょっとお酒を入れてみたからだよ」
…アルコール?あぁ、それなら、ちょっと身体がほわほわするのも仕方ないか……いや待て。
あの一件以来、俺がより一層お酒を飲まなくなったことを、当事者であるユウキは知っているはずだ。なのにどうして、お酒なんて注入したんだ…?
普段のユウキだったら、断りなくそんなことするわけが──。
その時だった。ユウキの穏やかな笑顔が…少し暗がりを見せ、歪んだ笑顔に変じたのは。
そして俺は直感的に、いま目の前にいるユウキが、俺の知っているいつものユウキではないことを理解する。
酔いが覚めるようにサーっと思考を研ぎ澄まし始めるも、その全てが遅かった。
アルファ「……なっ……身体……うごか……」
突然、身体から力が抜け落ちた。俺はベッドの上に力なく崩れ落ちる。さっきまでは自由に動かせていたはずの筋肉が、まるで他人の物のように言うことを聞かなくなったのだ。
俺は一瞬の思考停止状態に追い込まれるも、まさかと思い体力バーを見やる。
最悪の予想通りだ。そこには麻痺アイコンが表示されていたのだ。
訳が分からない。俺は目線でそれを伝えると、相変わらずベッドの上に座ったままの君は、俺に囁いた。
ユウキ「ごめんね、アルファ…チョコの中に、麻痺毒混ぜてあるんだ~」
アルファ「なん…で…?」
俺はベッドに倒れたまま、疑念を投げ掛ける。
するとユウキは、人差し指で倒れ込んだ俺の胸をくるくると撫でながら、危なげな笑顔で続ける。
ユウキ「なんでって…アルファが、アルファが悪いんだよ…?八方美人みたいに色んな女の子に良くして…去年のボクとの約束、忘れたのかな…?」
そこまで言われて、俺は全てを思い出した。昨年の二月十四日。その日もまた珍しく、ちょっとばかりヤキモチを焼いたユウキが、俺に伝えた言葉を。
それは、『ボク以外の女の子に笑顔を振りまくな』というものであった。そして俺は、それを受け入れた。
つまり今日の俺は、完全に約束破りをしたと言うことだろう。
それにようやく気が付いた俺は、上手く動かない声帯に力を込めて、なんとか彼女に伝えようとする。
アルファ「…それは…ごめん…謝るから…麻痺は、やり過ぎだって…」
信を置く人に麻痺毒を盛る。そんな狂気的な行動に出た君に、俺はあくまでも冷静な物言いで言葉を掛けるも、その内心は得も言われぬ恐怖で満ちていた。
今日のユウキは何かが不味い。例えそれが、俺の約束破りが原因だとしても、こうにまで狂う要因はあっただろうか。
誠心誠意謝罪の言葉を口にした俺を、ユウキはジッと見つめ続けるも、それを無視するかのようにメニューウインドウを操作し始める。
そして君が、次に実体化したものは…。
アルファ「ユウキ…それ、だけは…絶対にダメだ…」
彼女がストレージから取り出した物。それすなわち──ピンク色の液体が詰まったボトルだった。それが単なる桃のジュースだったら、俺はどれだけ救われていただろうか。
ユウキがボトルのコルクをポンと抜くと、その中からは甘酸っぱい匂いが漂い始める。
そう、その液体は…俺がかつて、醜態を晒すこととなった元凶である。あの日以来、そのお酒もとい媚薬だけは封印するとの協定を、俺はユウキと結んだはずなのだ。
がしかし、今の君は、そんな約束は簡単に無視してしまうぐらいのヤバい勢いを感じさせてくれる。
その凶悪なお酒を飲まされる気がした俺は、冷や汗を垂らしながら必死にそれを拒否するも、ユウキは妖美な笑顔を俺に向けると、言った。
ユウキ「ボクはね、アルファに酷いことをするつもりなんてないんだよ」
アルファ「お、おい…」
しかし俺の予想を完璧に否定したユウキは、想像以上にやってはいけない行動に出た。
あろうことか、そのお酒をボトルごといったのだ。
ゴクゴクと喉に流し込むようにお酒を呷り、一気飲みしてしまう。ユウキは俺よりもアルコール耐性があるとはいえ、相手はあのえげつないお酒だ。
となると当然、そんな強行に出た君の焦点は、チカチカと宙を舞った。
しかし、不意に俺と目を合わせたかと思うと、ゆっくりとその顔を近づけてくる。
ユウキ「……」フーッ…フーッ
アルファ「ゆ、ユウキ…さん…?」
無言のままゆっくりと俺に急接近してきた君は、途端に、俺を仰向けにしてまるで押し倒すように覆い被さった。その呼吸は随分と乱れていた。
そして君は、恍惚とした表情のままに、狂熱に呑まれた瞳で俺を見つめる。僅かに焦る俺に獰猛な笑みを浮かべ、甘酸っぱい息を吐きかけながら、ボツボツと想いを吐き出すように話し始めた。
ユウキ「ボクの…ボクのボクのボクのボクのボクのボクのボクのボクのボクの──ボクだけのありゅふぁなんだ…」
ユウキ「なのに…みんなみんなボクの邪魔ばっかりして…もう何もかも決まってるんだ…ボクとあるふぁの未来だって…」
ユウキ「ありゅふぁもアルファなんだ…ボクがムカムカしてるって、分かってるはずなのに…わざと…ボクの心を弄んで…」
ユウキ「…もう、ゆるしゃない…許さないんだ!!ボクが…みんなに…アルファに…その身体と心に分からせてやるんだ…あるふぁはボクのものだってこと…!」
アルファ「……」
ユウキがブツブツと繰り返すその言葉を聞いているうちに、俺の麻痺状態は既に解かれていた。
だけども俺は、蛇に睨まれた蛙の如く、その場から動き出すことは叶わなかった。いや、俺は最早、これから起こるであろうことを待ち望んでさえいたのかもしれない。
俺がその場で固まっていると、嫉妬心に全てを呑み込まれ、完全に自我を失ったユウキは、遂に俺を襲った。俺はユウキに主導権を握られるままに、彼女に全てを委ねた。
そうして俺は、その一睡も出来ない夜を過ごすこととなったのだ。
そうだな、敢えてその感想を述べるとすれば…俺はユウキに、立場というものを骨の髄まで分からされてしまった。もう変なことは考えない。逆らえないし逆らえません。そう言うことなのだろう…。
そんな感じが、ちょっぴり頭のネジが外れたユウキと共に送る、四度目のバレンタインデーだった。
次回の投稿日は、六月四日の土曜日となります。
では、また第185話でお会いしましょう!