アルファ「……ぁ……ぁああ……ああああああああ!!」
その余りにも悲痛な叫び声に、この場にいる誰もが、ピタリと動きを止めた。
君は一点に注視したまま叫び続けると、やがて消え入るようにその声を抑え…パタリと、膝から崩れ落ちた。
さっきのは幻惑魔法じゃなかったの?
もしかしてアルファは、あの男に何かされたんじゃ…一体、何がどうなっているのかは、よく分からない。
でも、アルファに良くないことが起こったんだ。君の痛々しい様子がそれを物語っている。
どんどんと膨らむ嫌な予感を拭えない。
ユウキ「…アルファ…?」
ボクが堪らず呼び掛けるも、アルファに声が届くことはなかった。
彼は自らの武器を投げ出したかと思うと、両手で髪の毛をグシャグシャと掴み、何かを見つめ続けるばかりだ。
ハッキリ言って、ボクはあんなアルファを見たことがない。
アルファと共に過ごしてきた数年の中で、時折彼は闇底に引き込まれることがあろうとも、あれ程にまで絶望した表情は見せなかった。その双眸は、かつてないほどの悲痛に満ちていたのだ。
不意に、彼は両手で頭を押さえつけるのをやめると、真正面に震える手を伸ばし始める。
アルファ「……ち、違うんだ……お、俺は……そんな、つもりじゃ……っ……」
その声色は、いつもの彼のものとは思えない程に、頼りなくか細かった。その必死な声はまるで…取り返しのつかないことをやってしまったような──。
ユウキ「!?」
その時だった。再び時が動き始めたのは。
アルファと交戦していたスプリガンの男が、彼に急接近する。
しかしアルファは周りが見えていないのか、なんのアクションも取らない。唇を微かに震わせながら、見えない何かに話し掛け続けていた。
それを好機と見たスプリガンの男は、容赦なく片手斧を振り降ろした。
当然、今のアルファは防御なんて出来やしない。ごくあっさりと、背中を深く抉られた。
男はニヤリと口元を歪めると、無抵抗な彼に向けて、重く鋭利な斧を何度も何度も──。
ユウキ「アルファぁぁあああッ!!」
その光景を見せつけられた途端に、ボクの中で何が爆発した。
身体中に巡るエネルギーはその衝動へと生まれ変わり、突然周りが何も見えなくなる。ボクは我を忘れて君の名前を叫び、君の元へと急行し始めたのだ。
だけどその一歩手前で、ボクの前に大きな影が躍り出てくる。
「僕を差し置いて、あんな奴の名前を呼ぶなんて…ッ」
ユウキ「どけぇえええ!!」
当然、ボクを相手取っていたウンディーネの男は、こちらの妨害に走ってきた。
でもボクは激昂と焦燥のままに剣技を発動させ、ウンディーネの男をめった刺しにしてしまう。本気を超えたボクの連撃を躱せるわけもなく、ウンディーネの男は体力バーを一気に全損させた。
君のことばかりに夢中になって、後先考えずにソードスキルを発動させた代償だ。技後硬直に襲われ、一瞬その場で足踏みを強要される。
その間にもアルファは、スプリガンの男に殴られ続けていた。
既に両腕の肘から下は切断されており、背中には鮮血のように赤いライトエフェクトがへばり付いている。
でも失われた手は何処かへと伸ばされようとしていて、男の猟奇的な笑い声が響き渡る。
まだ技後硬直は終わらないの!?
心は今すぐに君の元まで飛んでいけそうなのに、身体は石のように固まっている。増々切迫した感情を募らせていると、まだリメインライトに変じるまでに猶予のあったウンディーネの男が、ボクに言った。
「…月光ちゃん…絶対に僕のものにしてやる…楽しみに待ってて…ね」
そんな男は、爽やかな顔立ちにそぐわないニチャリとした笑みを浮かべていた。でも彼の表情も言葉も、今のボクは右から左に流すだけであった。
ついに技後硬直が解ける。と同時に、蹴飛ばすように男のアバターを押しのける。持てる力の限りで、三十メートルほど先まで駆け抜けた。
スプリガンの男は、血に濡れたような赤い片手斧で、今度はアルファの左脚を切断した。愉快そうな笑い声が木霊する。
君はなまじ体力が多い。だから腕と脚を失おうとも、まだ体力が残っているのだろう。
でも、君は抵抗する意思を見せない。やはり虚ろな目でここではない何処かを見ながら、ブツブツと口を震わせるだけだ。
あと二十…十メートル…蹂躙されるアルファに向けて、ボクは必死に左手を伸ばした。
ここはゲームの中だ。
別に、アルファがやられたって、本当に死ぬわけじゃない。
だけど、スプリガンの男の殺し方は必要以上に残酷で、そして深い闇に囚われたアルファの表情が…今この瞬間に、遊び以上の何かを感じさせた。ボクはアルファを死なせたくないんだって、本当に久しぶりにそう思ったんだ。
だからこそボクは、腕を失った君を掴む──。
──刹那。ボクは君と、眼があった気がした。
ボクは君を見ていた。アルファはボクを…若しくは、ボクのいる場所にいる何かを、見ていた。
やっとアルファに掛けられた魔法が解けたんだ!ボクは訳もなくそう思った。
けれど君は、相変わらず深い悲しみを背負った瞳をボクに向ける。瞬間、唇が微かに動いた。
アルファ「……ユ…ウキ……ごめん……お、俺は──」
──スパーン。
気持ち良いぐらいの切断音が、川の調べを掻き消した。
アルファの首があった場所には、厚く鋭利な刃が置かれていた。君の頭は宙を舞い、頭部を失った身体は前のめりに倒れ込む。それは一瞬のことで、君の身体が大きく爆発したかと思うと、緑のリメインライトへと変じた。
ライトグリーンの光が、水辺とボク、男の表情を照らし出す。
男は噛み締めるように満足そうな表情を浮かべていた。
一方水面に映るボクは、激情に呑まれたように皺が寄っていた。
ボクは燃え上がる炎と共に、男を睨み付けた。
ユウキ「アルファに…アルファに何したんだッ!!」
すると男は、ボクのことなど気にする様子もなく、ふざけた様子で言葉を続ける。
「俺は何もしてないぜ?ん~、でも、ラッキーだったな~。まさかここで殺れるとは思ってなかったし…」
ユウキ「うるさいッ!!お前が何かしたんだろッ!!」
「月光ちゃん~、愛するアルファ君が殺れてご立腹ですか~?」
ユウキ「ッ!!!!」
これ以上は、時間の無駄だと思った。
でもそれ以上に、アルファを惨いやり方で殺したコイツが許せなかった。
ボクは荒れ狂う感情のままに、延々とニタニタとした表情を消さない男を無数の刃で斬り付けてやった。
ウンディーネの男よりは腕に覚えがあるみたいだったけど、やっぱりただの雑魚だった。アルファがやられてしまったのも、全部意味の分からない魔法のせいだ。詠唱の隙さえ与えずに、ボクは一方的に蹂躙し返してやった。
彼にやったのと同じように、最後はその首を刎ねてやった。黒いエンドフレイムが巻き起こったのを確認する。
ここでようやくある程度鬱憤を晴らしたボクは、大きくため息を吐き出した。
メニューウインドウを操作し、アイテムストレージから蘇生アイテムを取り出す。
蘇生魔法を覚えていないボクでも、これさえ使えば、アルファをデスペナルティなしで復活出来る。君のリメインライトに向けてそれを使用するために、薄暗い背後を振り向いた。
そしてボクは、ようやく気が付いたのだ。
ユウキ「……アル…ファ…?」
ボクの背後に広がっていた光景は、まさに異常事態だった。
その異常事態に、ボクは困惑の色を示す。
と言うのも、振り返った先には、遠く離れたところに水色のエンドフレイムが揺れているだけであったのだ。
言い換えるなら、君を示す緑色のリメインライトは、何者かに攫われたかのように、その場から消え去っていたということだ。
…おかしい。リメインライトの制約である一分は、まだギリギリ経過していないはずだ。それを示すように、ライトブルーの輝きは、今ふっと燃え尽きた。
まさかと思いフレンド欄を確認すると、彼はログアウト状態となっている。
…意味が、分からない…。
リメインライトと化している間は、プレイヤーは自発的にログアウトボタンを押せないはずなんだ。だからアルファがALOからログアウトする方法なんて──。
ユウキ「……ぁ……」
…いや、一つだけ、あった。プレイヤーがログアウトする方法…より正確に言えば、ログアウトさせられる場合が…。
それを脳裏に浮かべた瞬間、ボクはありとあらゆる可能性を思い浮かべた。しかしそのどれもが、アルファにとって限りなく良くないことで──。
そう思うと無意識のうちに、ボクはログアウトボタンに触れていた。
フィールドでログアウトするなんて馬鹿のすることだろうけど、アルファのことを思えば、もうそんなことはどうだって良かった。
ALOとは一転して、昼日が穏やかに差し込む現実世界。アミュスフィアを取り外しベッドから飛び上がる。
最低限の物を身に付け、ボクは突き動かされる衝動と共に、彼の元へと駆け出した。
────────────────────
ドクドク、ドクドクと、心臓が激しく跳ね動いている。眼下に映る己の胸部は、有り得ない程の速さで上下を繰り返していた。
それにリンクするように、口から空気が漏れ出す。喘ぐように空気を求める。だが息の詰まった感覚は拭えず、首裏や手のひら、脇下に額には、大量の汗が流れ落ちていく。
乱れた呼吸が速まるにつれて、段々と手足の感覚までもが遠のいていく。
しかし一つだけ、体感覚が失われようとも、感じるものがあった。
…痛い。胸の奥が、何かで抉られたみたいに、凄く痛いんだ。
それは、余りに心臓がうるさく鳴り響いているからだろうか。それとも…そこでふと、俺は鮮明に思い出した。先程の俺が、何をしでかしたのかを──。
勢い良くソファから起き上がる。アミュスフィアを取り外し……取り外す……?
窓の外に映る景色は、高層ビルの立ち並ぶ首都圏のものであった。頭の中が大いに混乱した。だが上手く思考を纏め上げることもないままに、不意に左腕を見やる。
それは変わらず、どろりと真っ赤に染まっていた。反射的にそれを拭おうとしても、赤が剥がれることはない。途端、鼻の奥に鉄臭い匂いが充満した。
「……違う……違う違う違う!!…ち、違う…?俺は……お、俺は……?」
──君を守るために、剣を握っているんだ。
頭の中で何度も魔法の言葉を叫ぼうとも、いつからか見えなくなったはずの赤色は、俺の左腕にこびり付いたままだ。だって、俺はさっき……。
寒くなんかないはずなのに、身体が勝手に震えた。カチカチと歯を鳴らしながら、俺は両手で頭を押さえつける。なんとしてでも、必死にその事実を否定しようとした。
喉の奥が苦しい。生暖かい酸っぱさが、そこまで迫っていた。しかしぐっと堪えると、それは元の場所へと戻っていく。
でも次は耐えられそうになかった。覚束ない足取りでトイレに向かい、今度は抗うことなく胃の中のものを吐き出す。それでも吐き気は収まらなかった。
…落とさなきゃ。穢れは落とさないと…。
無意識のうちに左腕を何度も擦り始める。
手の腹で拭っても全然落ちない。だから今度は爪を立てて強く掻き立てる。
すると一層、左腕は濃い鮮血に包まれ始めた。消えることなき罪から目を逸らすように、俺は汚れた水面を眺め──。
──そこに映る俺は、その顔に気色の悪い笑顔を浮かべ、瞳には赤鉄色の狂気を宿していた。
再び胃から逆流してくる。でもあれ以上は何も詰まっていなかったらしい。苦しい喘ぎと共に飛び出してきたものは、生温い空気と体液だけであった。
満足に呼吸も出来ず、視界が霞み始める。それでも俺は構わず、目の前の俺に何度も言葉を放ち続けた。
「俺は……俺は殺人鬼なんかじゃない…俺は、ユウキを守るために……そうだろ…?そうなんだろ…?なぁ…なんとか言えよ…」
向こうの俺は、答えない。ただ狂った笑顔を浮かべながら、俺に手を差し伸べるだけだ。
「何言ってんだお前…。何がユウキを守るだよ。お前さっき──」
「違う違う違う違う!!俺は…俺は……違うんだ!!」
もう一人の俺が放とうとする言葉を、俺は必死に拒んだ。
それが紛れもない事実であったとしても、俺は認めたくなかった。
俺がそんなことをするわけがない。俺はユウキの刃で、彼女を害する者たちを退けるんだ。…誤っても、彼女自身を傷付けるわけがないんだ。
だがソイツは、淡々と事実を突きつけてきた。
「違わなくないだろう?お前は守るべき人を、あっさりと殺しちまう人間だろ?」
俺は認めない。何かの間違いに決まってる。
だけども、やはりそれは揺るがない真実だった。
遂に俺は、衝動に任せて叫ぶことさえ出来なくなる。
「……ぁ……ぃや……そんなわけ……」
「そろそろ認めちまえよ。お前が剣を握る理由なんて、彼女を守る為じゃないんだって」
それだけは絶対に受け入れない。例え俺が…そうだったのだとしても、俺は君を守る為に、この血にまみれた左手に、再び剣を握ったのだから。
だがそうなのだとしたら、俺は何故…。
俺は次第に、俺が解らなくなり始めた。あの日あの時、俺は君に、罪と誓いを約束したはずなのに…。
「お前、本当は殺すの好きなんだろ?好きになっちゃったんだろ?殺人の魅力、知っちまったもんな?」
「……ぁ……嘘だ……俺は、そんな人間じゃ……」
否定…出来なかった。
認めたく、なかったのに。
ずっと心の奥に隠していたはずの自分が、俺の前に現れた。
人を殺す悦びなんて俺は知らない。知らないんだ!!…知らなかったはずだ。でも…もしかすれば俺は、あの日から…。だからこそあれ以来の俺は、何かにつけて命のやり取りを──。
「お前はあの日からずっと、殺人鬼なんだろ?彼女の言葉を盾に、人を殺したかっただけなんだろ?」
「……ぁ、あ……やめろ……やめてくれ……」
俺の内心を見透かしたように、水面の俺はそう答えた。
君の優しさを利用し、君の為のヒーローになれば、人殺しだって正当化される。だからこそ俺は、あの日君に誓ったというのか…?
違う。それは認めちゃダメなんだ。俺は君を守りたいから剣を握った。それだけが真実だ。コイツの言うことなんてまやかしなんだ。
…でも、じゃあどうして俺は…。
俺自身を為す部分に、迷いが生じたその時だ。向こうの俺は、決定的な一言を言ってしまった。
「だってお前…ユウキのこと、自分の手で殺しちまったもんな」
「……っ……」
そしてそれは、また事実であった。
例え俺がどれだけ拒もうとも、もう認めざるを得なかった。
俺はついさっき…君の胸に剣を突き立てた。そして殺した。
理由は…分からない。でも、俺がやってしまったんだ。守りたいと願う人を、自らの手で殺すなんて、あり得るのだろうか。それこそコイツの言う通り、俺が剣を握る理由は、別に君の為なんかじゃなくて──。
「もうお前の中には、建前であっても彼女のおまじないは無いんだぜ?あとはお前自身が、それを受け入れるだけだぞ?」
揺れる、揺れる。
俺の根幹を支える信念が、俺のアイデンティティが、ぐらぐらと大きく揺れ始める。
もう一人の俺が告げる言葉が、深く頭の中に突き刺さる。と同時に、大切なものが失われた気がした。
…あれ…?俺は…俺はなんのために、剣を握ってきたんだっけ…俺は誰のために…?あぁ、君だ。君に為だけになんだ。
…でも、思い出せない。靄がかかったように、君が掛けてくれた魔法の言葉を、唱えられないんだ。
だけどその言葉が胸に刻まれてないと…俺は、君のおまじないがなきゃ…俺は…。
…俺はただの、血に濡れた殺人鬼なんだ。
心の何処かで、俺はそれを認めてしまった。瞬間、水面で俺を見つめるソイツが、口が裂けそうな程に口角を上げた。
と同時に、欲望に塗れた瞳が赤く光る。誘うように手を伸ばしてくる。
そして俺は、そんな自分に吸い込まれるように、左手を伸ばしてしまった。
そしてその手が触れ合ったその時、俺は同じく赤い瞳を宿す──。
寸前で、間の抜けたインターホンが鳴り響く。それが反射的に、何処か深みに嵌まりかけていた俺を、一旦引き留めた。
だがすぐに、俺はもう一度もう一人の自分と面と向かおうとした。
早く楽になりたかった。
人殺しの罪に怯え、だけど君の為に剣を握った。それが俺だ。これまでずっとそう思ってた。だからこそ今日まで剣を振るい続け、その最中で殺人だって迷いなく犯せた。
でも違ったんだ。そんなに君が大切なら、俺は君を殺したりなんかしないのだから。
認めなきゃいけない。俺が殺人鬼だってことを、今ここで認識しなければならない。
そうしないと、俺はおかしくなってしまう。生きる意味を君に見出した俺が、最後には君を殺してしまったなんて…そんなの、俺自身の存在意義が、矛盾してしまうじゃないか。
俺はそれに耐えられない。自分が自分であるという証明が失われるぐらいであれば、俺はいっそ、そっちでも良かった。
最後の最後で悩み続けることを放棄した俺は、そんな言い訳がましいことを並べる。
「そっちに進んじゃダメだよ」って、もう死んでしまったはずの誰かが、心の中で優しく引き留めてくれている。
だけど…俺はもう限界なんだ──。
その時だった。遥か遠くの方から、玄関ドアが開け放たれる音が聞こえたのは。
────────────
電車を乗り継ぎアルファの家へと向かう。その数十分の間に、ボクは何件のメッセージを、コールを入れただろうか。
でも君は一切、それに応えてくれなかった。いつもならすぐに返事をくれるアルファだ。ボクは一層の焦燥に駆られた。
やがて辿り着いたアルファの住むマンション。そのエントランスにて、彼の部屋番号にチャイムを鳴らす。
しかしまたしても、彼はそれに応じない。二度目のコールをする時間も惜しくて、合鍵を使ってエントランスホールを通過した。
そしてアルファの住む玄関前に到着。と同時に今度はインターホンを鳴らすこともなく、玄関ドアを開け放った。
靴を脱ぎ散らかすと、ボクは大声で叫んだ。
木綿季「歩夢!歩夢っ!!聞こえてるなら返事して!!」
返事はなかった。でもすぐに、君を見つけることは自体は叶った。
木綿季「歩夢…!?どうしたの!?大丈夫!?」
君を見つけ出した瞬間、ボクは大きく動揺した。
だって、アルファが居たその場所は…玄関からすぐの所にあるトイレの中で、しかもその場で、蹲っていたから。
ボクが駆け寄り声を掛けると、ふっと表情の抜け落ちた顔でこちらへ振り返った君は、無言のままにボクを見つめていた。
木綿季「ねぇ、聞こえてる!?歩夢!?」
歩夢「……」
ボクが必死に呼び掛けても、茫然と何処かを眺めているアルファは何一つとして言葉を発しなかった。
そしてボクは、アルファの身体のある箇所を見て、大いに目を見開いた。
木綿季「あ、歩夢……左腕、どうしたの…?」
長袖をまくって露出していた君の左腕には、引っ掻き傷みたいな跡が沢山出来ていた。腕全体が赤くなって、所々は皮膚も破けていいて、赤い血が滲んでいる。
ボクにそれを指差された瞬間、君は怯えたように表情を強張らせ、幼子が悪事を隠すみたいに、左腕を背中へ回した。
ふと彼の背後に視線を移すと、そこには吐いた跡もあった。ボクは増々憂慮を募らせる。
でもやっぱり、アルファは何も答えてはくれない…と思った瞬間だった。
アルファはボソボソと、しゃがれた声を発した。
歩夢「……ユウキ……なんで、生きて……」
木綿季「なんでって…」
言葉の意味が、よく分からなかった。
でもアルファは、冗談で言ってるわけじゃないらしい。本気で困惑ような顔をしている。どう答えたらいいのか、ボクは迷った。
でもその瞬間、アルファがすくっと立ち上がったかと思うと、傷のない片腕だけでボクの身体を引き寄せ──。
歩夢「ユウキ…さっき、死んで…なんで…」
突然ボクを抱き締めた君は、ぶつ切りの言葉で、何度もボクが生きていることを確かめてきた。
でも、ボクは別に死んでなんかないし…イマイチ、アルファと話が噛み合ってないように思えた。
ボクは今ここで、それを指摘しても良かったのかもしれない。
でも…ボクを抱き寄せる君の身体は、凄く震えていたんだ。
きっと、何か怖いことがあったんだ。君を想う気持ちを伝えるように、ボクは同じぐらいの力強さで、君を包み込んだ。
そしてボクは、恐らく今の君に一番必要であろう言葉を、優しく掛けてあげた。
木綿季「ボクはね、ちゃんと生きてるよ…頑張ったね、歩夢…」
するとアルファは、まるでボクの温もりを確かめるみたいに、一層ボクの身体を強く抱いた。ちょっと痛いぐらいだった。
そしてアルファは、今にも泣き出してしまいそうな声色で、ボクに囁き始めた。
歩夢「……ごめん…ごめんなぁ、ユウキ…ホントに、ごめんな…」
アルファは何度も何度も、ボクに謝り続けてくれた。その意味は分からなかってけど、ボクはうん、うんと相槌を打ちながら、暫く君の背中を擦り続けてあげた。
木綿季「…落ち着いた?」
歩夢「…うん」
一体どれほどの時間、そうしていただろうか。ようやく君は謝ることを、ボクは慰めることをやめた。
そこで抱擁を解いたボクらは、一度目を合わせたんだけど…アルファの瞳は、まだ暗いままだった。
取り敢えず流れで、トイレを後にしてリビングに移動するけど、これからどうしたものだろうか。カーペットの上に隣り合わせで座り込んだボクらは、エアコンの音だけが鳴り響く静寂に身を預けていた。
そんな中、先に口を開いたのは、ボクの方だった。
木綿季「えっと…ボクは歩夢に、色々聞きたいことがあるんだけど…良いかな?」
歩夢「…うん」
ボクの問い掛けに、アルファは萎れた返事で答えた。そしてボクは、まずは一番聞きたかったこと訊ねた。
木綿季「歩夢さ、強制ログアウトさせられたでしょ。どうしてなの?」
リメインライトと化し、自発的ログアウトが不可となったアルファが、あの場でALOの世界から出て行けた理由。
それは十中八九、アミュスフィアに備わった自動ログアウト機能のせいだろうと、ボクは目星を付けていた。
と言うのも、アミュスフィアはSAO事件が未解決な中発売された代物であったが故に、絶対的な安全性を問われたのだ。
つまりはどういうことかと言えば、ナーヴギアとは違ってアミュスフィアには、使用者の身に異常が起きた際に、強制的に接続を切断する機能が備わっているのである。
要するにアルファは、何か身体に異常が起きて、仮想世界から自動切断されることになった。そう言うことなのだろう。
ボクの問い掛けに対して、アルファの出した答えは──。
歩夢「……」
無言、であった。答え辛い質問だったろうか。
取り敢えず保留にして、次は二番目に聞きたかったことへと移らせてもらう。
木綿季「じゃあさ、歩夢はさっきからボクに謝ってるけど、どうしてなの?」
歩夢「……」
これまた黙秘であった。仕方なく、三つ目を訊ねる。
木綿季「…強制ログアウトしちゃうなんて…歩夢もしかして…何か病気だったりするの…?」
身体に異常が発生する。そしてトイレに嘔吐する。そこまで判断材料が揃っていれば、病気か何かと結びつけてしまうのも無理はないだろう。
仮にそうだったのならば、アルファがここまでボクに隠し通そうとするなんて…きっと、凄く重い病気だ。だからこそ、この質問には答えて欲しくなかった。折角ボクが命を拾ったのに、その代わりにアルファが死んじゃうなんて、どうしても嫌だったから。
なのにアルファは、その口を動かして──。
歩夢「…いや、病気には掛かってない…」
──良かった…。
心の中でふっと息をつく。目線を逸らしたままそう答えてくれたアルファに、ボクは最後の質問をした。
木綿季「じゃあこれが最後。さっきの歩夢。スプリガンの人に幻惑魔法掛けられてたけど…あれ、魔法じゃなかったの?もしかして、何かのウイルスが仕掛けられたりしてた…?」
ガーディナル・システムに守られるALOに、外部からのコンピュータウイルスの付け入る隙などない。そうとは分かっていても、可能性は有り得るのだ。
もしやさっきの人は、魔法を装ってアルファのアミュスフィアに害を為すウイルスを嗾けて、それでアルファがおかしくなったんじゃ…。
とそこで、アルファから意外な質問が飛んできた。
歩夢「…俺、幻惑魔法に掛かってたのか…?」
木綿季「え?気が付かなかったの?」
歩夢「…あぁ」
木綿季「そうだよ。アルファの体力バーの上に幻惑魔法の表示出てたし、間違いないと思う」
ボクがそう答えると、彼は一度目を閉ざし、深く息をついた。一度間を置いたかと思うと、アルファは今度こそ、ボクと目を合わせた。
そして君は、言った。
歩夢「俺が強制ログアウトさせられて、木綿季に謝った馬鹿みたいな理由…聞くか?」
そう言ったアルファの表情は、やっぱり暗い表情だったけど、その中には何処か自虐的な呆れが混ざっていた。
ボクが頷き返すと、遂に君は、その訳を語り始めてくれた。
歩夢「俺さ、幻惑魔法に掛かって、その中で、木綿季のこと…殺したんだ。それでパニックになって…そういうこと」
木綿季「……え……?」
ボクは一瞬、自分の耳を疑った。だって、たったそれだけのことで──。
そんなボクの内心を見透かしたように、君は先程以上の呆れたような笑みを浮かべながら、投げやりに言った。
歩夢「な?馬鹿みたいな理由だろ?おかしいだろ?…でも…それが俺にとっては、全てだから…」
おどけたようにボクにそう言った君だけど、その後半の声色は、重みが凄かった。
ボクが相槌さえ忘れて君を眺めていると、アルファは更に言葉を続けた。
歩夢「ちょっとズレてるんだろうけどさ…俺は遊びのゲームが返って来た今でも、ユウキには死んでほしくないって思ってるし、死ぬわけじゃないって分かってても、ユウキのことは殺したくないんだ。だから昨日の決勝戦もさ、今からユウキのこと殺すんだって思うと…どうしても攻撃出来なかった。俺は木綿季を守るために剣を握ったから、君は傷つけたくない。心の底から、自分の中で使命みたいに思ってる」
歩夢「だからさ、幻惑魔法に掛かってユウキを刺し殺したその時、自分の中で誓ったことを、自分で破った気がして、気が気じゃなかったんだ…」
木綿季「……」
ボクは知らなかった。アルファがそこまでボクを守ろうとしてくれていたこと。あの日の誓いが、こうにまで君に大きな影響を及ぼしていたこと。何も知らなかった。
なのにボクは、そんな君の気持ちも知らないまま、本気出してくれないことに怒ったりして…。
木綿季「…そっか。ありがとね、アルファ」
君の気持ちが、嬉しかった。だからこそボクは、微笑みながらありがとうを伝えたのだ。
でも君は、首を横に振った。自虐の笑みさえ消し去り、悲しげな表情で続けた。
歩夢「ううん。感謝なんて、しないでくれ。今の俺は、もうそんなこと微塵も思ってないから。…俺はさっき、もう認めたんだ。俺はそうやって、ユウキの為だって言って更に二人も殺して…そこに悦びを見出して…結局、どんだけ言い訳したって、自分は殺人鬼でしかないって、俺は受け入れたから…。だから…もう…」
木綿季「違う!そんなことないっ!!」
君の口から久しぶりに、耐え難い言葉が飛び出してきて、ボクは反射的に叫び返していた。
そこでやっと分かった。アルファが嘔吐した理由も、アルファの左腕がボロボロに傷付いている訳も…。
アルファはきっと、また自分が揺らいだんだ。アルファの言う通り、もしボクを守ることこそが、君を形作る一つになってしまっているのなら、幻の中で矛盾を引き起こしてしまった君は、耐えられなくなったのだろう。
そしてまた、自分が殺人鬼なんじゃないかって、迷い始めた。
でも違う。それだけは絶対に違う。客観的に見れば、アルファは人殺しだって言う人がいたって…他の誰がどう言おうとも、ボクだけはそれを否定し続けよう。君だけが、ボクを助け出してくれたのだから。
ならばこそボクは、唐突に叫んだボクを見て固まる君に、全力で言い返してやる。
木綿季「歩夢は殺人鬼なんかじゃない!!思い出してよ!あの日の歩夢は、ボクを助けるために剣を振るったんだ!そこに人殺しの快楽なんてなかったでしょ!?」
ボクの言葉にハッと目を見開いた君は、しかし未だ迷い続けるように、更に言葉を返してきた。
歩夢「それは……でも、俺はあの後、命を賭けた殺し合いを楽しむようになったし……」
ラフコフ討伐戦とヒースクリフのことだろうか。でもなんでも構わない。ボクは勢いよく反駁した。
木綿季「それは殺したかったからじゃなくて、極限の闘いが楽しかったからだよ!!そんなこと言ったら、ほぼ毎日デュエルしたがるボクだって、戦闘狂みたいなものじゃん!!」
歩夢「……」
遂にアルファは黙り込んだ。だけどボクは構わず続けた。
木綿季「歩夢はもう本当に、ボクのこと守りたいって思ってくれてないの!?ボクが死んでも構わないって思ってるの!?ボクを守るために剣を持ってくれないの!?」
歩夢「……っ……」
自分でこんなことを言うのは、少し恥ずかしい気もするし、何より卑怯な気もした。
でも、アルファの心に直接伝えるには、この言葉が大切だと思えた。
それが答えだった。
アルファはやっぱり、ボクの言葉を受けて、僅かに表情を動かす。
そんな君の様子を受けて、君がもう一度心の拠り所を取り戻すのは、あと一歩のことだと思えた。
別に君だって、心の底から殺人鬼であることを認めた訳じゃないんだ。どちらかと言えば、仕方なく受け入れようとしていただけなんだ。
ボクはずっと、その傷を癒してあげたかった。古傷にして痛みを誤魔化すんじゃなくて、綺麗に修復してあげたかった。
もうこれ以上、人殺しの記憶でアルファに苦しんで欲しくない。悩むのは今日で最後にして欲しい。もうそんなことに迷わないでいいぐらい、ボクが君の心を優しさと温かさで包み込んでみせるから。
そんなボクの気持ちをぶつけるように、君が隠している傷付いた左腕に、ボクはゆっくりと手を伸ばした。
君はそれを…拒むことはなかった。
ボクは腕の傷口を、そっと撫でてあげる。
木綿季「大丈夫…歩夢は、殺人鬼なんかじゃないよ…ボクを助けるために闘ってくれた、優しい人なんだよ…だから、自分で自分を苦しめたり、しないで…」
すると君は、躊躇するような瞳で、ボクを見つめる。そして戸惑いながらもボクに言った。
歩夢「俺は…まだ木綿季の為に、刃を振るっていいのか…?俺は…木綿季の為に生きていいのか…?」
そんな君に、ボクは微笑みかけながら、応えた。
木綿季「うん、当たり前だよ…また歩夢が自分を見失わないように、ボクが支えてあげるからね…」
君は瞳を滲ませると、恐る恐る、左手でボクの手を掴んでくれた。
──────────────
木綿季「──ってことが、昨日あったんだよね~」
電球色のライト。ダークオーク壁材。一世代前のスピーカーから流れる、ゆったりとしたBGM。
そこはいつ来ても、落ち着いた印象を与える店内であった。
ふと窓の外を見やると、青白い空の向こうで、黄色い輝きが伸びている。
もうこんな時間か、夕暮れ時に入る前の空を眺めた俺は、そんなことを思っていた。
隣に座るユウキは、一通りその出来事を話し終えると、マシュマロが溶けたココアを一口。俺達の前に座っているキリトとアスナは、辛口なジンジャーエールに口をつけた。
アスナ「う~ん、ALOでストーカーかぁ…物騒だね~」
事の顛末を伺ったアスナは、しみじみとした様子でそう答えた。
対するキリトは、少々心配そうな表情を浮かべたものの、すぐに憎たらしい笑顔で言ってくる。
キリト「二人共、巻き込まれ体質だったりしてな」
そんなキリトには、俺達は息を揃えて即応する。
歩夢「キリトには言われたくないな」
ユウキ「うん、キリトの方が巻き込まれ体質だよ」
キリト「二人揃ってなんだよ…」
俺とユウキによるコンビネーションアタック。キリトはムッと表情を顰めた。だが、攻撃はそこで終わらない。
アスナ「それはそうね。巻き込まれた時は、大抵女の子引っ付けてくるしねー…」
キリト「うっ…」
恋人であるアスナ様に痛いところを突かれた彼は、困ったように言葉に詰まった。
しかし、まだ終わらない。更なる追撃がキリトを襲う。
ユイ「ママの言う通りです。一般的な男性と比較すると、パパの周りには少々女性が…しかも、パパに好意的な異性が多いように──」
キリト「ゆ、ユイ。そこら辺で勘弁してくれ…」
我が子からの追及には耐えられなかった彼は、そこでギブアップを申し出た。
「仕方ないですね」と笑ったユイちゃんは、そこで意地悪をやめてあげたようだ。
そこで俺も、ココアを一口嗜んだ。俺とユウキがココア、キリトとアスナがジンジャーエールと、それぞれのカップルの好みがどういう系統なのか、そこから見えてくるだろう。
本日月曜日。いつも通り帰還者学校で学生としての一日を過ごした俺は、今日はこの三人と共に、少しばかりの寄り道をしていた。
多分、ダブルデートってやつなのだろう。まぁ寄り道とは言っても、ここはよく訪れる場所だ。実質通学路みたいなものなのかもしれない。
そんなこの場で、一体どんな話をしていたかと言うと…勿論昨日の俺達の話であった。
当然、俺が錯乱状態に陥ってしまったことや、自傷行為に走ったことなど…中々にショッキングな事実については伏せてある。あくまで話のタネにしたものは、ストーキング行為をしていたプレイヤーを撃退したという程度だ。
しかし、こうして改めて思い返してみると、昨日の俺は酷かった。
幻惑魔法に掛かったことにさえ気が付けず、大いに取り乱してしまったこともそうだが、俺はまた一人勝手に、深いところへ堕ちていこうとしていた。
でもそんな俺に、君はまた、救いの手を差し伸べてくれた。
他でもない俺自身がユウキに剣を突き立て、彼女がライトエフェクトに変じる。ユウキは信じられないと言った様子で俺を見つめながら、この世界から消え入る。
その光景を魔法によって幻視した俺は、それが真実であると思い込んでいた。余りの恐慌によって、自動的にログアウトさせられたその時も、俺はリアルとバーチャルの区別が付かないままであった。
そして俺が、自ら積極的に殺人鬼として身を落とそうとしていたその時だ。君が舞い降りた天意のように、俺の元へ駆けつけてくれた。
ユウキが生きていることに戸惑いを隠せなかった俺は、何度も君に問い掛けた。
すると君は、生きていると、頑張ったねと言ってくれた。
瞬間、俺はユウキが本当に死んでしまったわけではないことを今更認識し、本当に安堵していたのだ。
そしてその後、ユウキにあれが幻惑魔法によるものであったと知らされ…やはり俺がユウキを殺すわけがないのだと、自分自身に安心出来た。
だけど、その時の俺の心は、人殺しであることを半分ぐらい認めていたんだ。当時の俺は、なんの為に剣を握っているのか、良く分からなくなっていた。
そんな俺に、君は何度も叫んでくれた。そしてその末に、もう一度、魔法の言葉を思い出させてくれた。
お陰で俺はまた、君の為に生きる自分というものを、根幹に取り戻せたのだ。
君に為にこの命を燃やす。
俺はそれで凄く満たされている。きっとユウキも、同じ気持ちでいてくれているはずだ。
でも、それは少し歪んでるんだって、自覚はしている。
多分、俺は初めて人を殺したあの夜に、普通というものを失ったのだろう。それで壊れ始めた俺を、君が助け出してくれた。君の言葉だけが、俺を繋ぎ止めてくれた。俺は君に生かされたんだ。
だからこそ、俺の全ては君のものである。これまでも、これからも、ずっとだ。
もし捨てられる時が来たら、そこからは陰ながら全てを捧げよう。歪んでいたってズレていたって、なんでもいいんだ。それが俺の生きる意味になったから。
木綿季「…ん?なに?」
歩夢「いや、なんでも」
なんて重すぎる決意を固めていると、ついつい君の横顔を眺めてしまった。不思議そうに問い掛けてくる君には、微笑みながら適当な言葉を返しておく。
時間も時間だと言うことで、そろそろお開きにすることになった。
この店の店主たるエギルは、カウンター席に座るお客と話に花を咲かせている。やっぱり、ダイシーカフェって魅力あるんだろうなと思いながら、お代をきっちりテーブルに置いて、彼にはその趣旨を伝えておいた。
駅までは仲良く四人で歩く。辿り着くとそこからは、二手に分かれた。俺はユウキを送り届けるために、彼女の最寄り駅で電車降りる。
木綿季「左腕の傷、大丈夫そう?」
歩夢「あぁ、お風呂で染みるぐらいだ。ちょっと後悔してる」
俺の冗談っぽい一言に、彼女は朗らかに笑っていたけど…実はこれ、結構本心だったりする。ヒリヒリして普通に辛い。自傷なんてクソ喰らえだ。
そんな調子で歩みを進めていくと、すぐに君の家にまで到着した。そこでバイバイしてから、俺は道を引き返し始める。
空はすっかりオレンジが褪せており、代わりに濃紺色が台頭し始めていた。夕刻は終わりを告げ、夜へと近づくその合間だ。
家でやることやったら、それからはユウキと一緒にゲームでもするかと、俺は残り少ない今日一日の予定を立てながら、住宅街を曲がりくねっていく。
とその時だ。どこからか低い声が聞こえてきたのは。
「すいませーん」
歩夢「?」
ふと、背後から誰かが呼び止めてきた。
それが俺へと向けられたのかどうかは定かではなかったが、周りに人はいない。
振り返るとそこには、俺と同じぐらい年齢であろう学生がこちらを見ていた。
中肉中背、髪の毛は襟足を伸ばしたスタイルで、クラスに一人は居そうなタイプの男の子だ。背丈に似合わない大きなコートを羽織ったその人は、目が合うと、右手をポケットに突っ込んだままこちらに歩み寄ってくる。
「あの~、駅の方向をお尋ねしたいんですけど~」
…なんだ、そんなことか。お安い御用だ。
最早この近辺は、俺にとってはよく知る道筋となっていた。俺はすぐに、返事をしてあげた。
歩夢「あぁ、駅は、ここから真っ直ぐ進んで…」
申し訳なさそうに左手で頭を掻きながら近づいてくる男の子に、俺は口頭で駅への方角を伝える。
身振りがあった方が分かりやすいかと思い、いま辿ろうとしていた方角へ身体を捻り、指差した、瞬間だった。俺の身体が、大きく揺れたのは。
重いものに吹き飛ばされるように身体を揺らし、左腕を下敷きにするようにして、俺はアスファルトに倒れ込んだ。
体重と地面の両挟みになり、左腕が悲鳴を上げる。幸い頭をぶつけることはなく、しかし俺は激突の衝撃と共に、頭を真っ白にした。
何が起きたのか。
その疑問はすぐに解決された。尋ね人であった男の子が、俺の身体にぶつかってきたのだ。
…何処かで躓いたのだろうか。俺は右手でアスファルトを押し、身体を起す。
と同時に、腹部に激しい痛みが走る。
俺は反射的に、左手で腹を抑えた。
すると腹部から、強い疼きと共に、ぬめりとした温かさを感じ取る。
そして俺は、それを見たのだ。
歩夢「……え……?」
俺の手のひらは、やけに真っ赤に濡れていた。
おっと…?
次回の投稿日は、六月十四日の火曜日となります。
では、また第189話でお会いしましょう!