~SAO with Yuuki~   作:うずつるぎ

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第189話 ただ一人の救世主

 それは実に、美しき朱色であった。

 絵の具で作り出すものなんかとは比べ物にならないぐらいに、色鮮やかな赤色だった。

 手のひらに塗りたくられたソレは、糊のように粘着的で、それでいてサラサラと地面に流れ落ち──。

 俺は最早、自らの身体を起すことさえ忘れていた。半分起き上がった状態で、ひたすら己の左手に目を奪われていたのだ。

 

 …なんだ、これは……まさか、俺はまた、左腕に幻覚を見ているのか…?

 

 頭の中にそんな考えが浮かんでくる一方で、俺の心はキッパリと、それを否定していた。

 だって、今の俺に付着した液体は、これまでに俺が想像していたものよりも、ずっと鮮烈な色合いで──。

 

 ふと、腹部に視線を落とした。

 そこには、俺の身体を横切るように一本の裂け目が入っている。ブレザーの紺の中には、暗い赤が滲んでいる。

 とそこで俺はようやく、自分の身体に斬り傷が走っていることを、事実として認識した。

 途端に、腹部にジクジクとした鋭い痛みが襲い来る。

 それは、俺が初めて感じる痛覚であった。思わず顔を顰めながら、しかし、何故。アスファルトにぶつかったぐらいでは、裂けるような傷が入るわけ──。

 その時、俺の聴覚が刺激された。

 

 「あ~、やっちまった…一発で決めるつもりだったのになぁ…」

 

 聞いたことのない声だ。何者だろうか。

 いや違う。さっき初めて聞いたばかりの、声変わりした男子の低い声だ。

 だが先程とは違って、その声色は何処か冷たさを孕んだものであった。

 ボソリと何かを呟く彼に、俺は吸い寄せられるように視線を上向ける。

 しかし、彼の表情に辿り着く前に、俺はある一点で視線を固まらせてしまった。

 

 暗く染まった世界の中には、銀色で鋭利なシルエットが浮かんでいる。その切っ先からは、滴るように雫が落ちていく。

 とその時、道の両脇で白色が輝いた。

 電柱の先には、夜闇を払うための明かりが灯る。しかしそれは、周囲に完全な明るさを取り戻すには光度が足りず、住宅街は薄暗いままであった。

 だが、俺の視覚がそれを認識するには、充分過ぎるほどであった。

 

 ポツリ、ポツリと、赤い液体が垂れ落ちる。

 右手に握られたモノは、俺の左手に付着する深紅と、そっくりの色を滲ませていた。

 電光を受けて鈍く輝く銀色は…キャンプで使われるような、大きな刃渡りを持ったナイフだった。

 

 自分の身に何が起きたのか。この男の子は俺に何をしたのか。延いてはこれから何をしようとしているのか。

 脳の核に強烈なシグナルが伝わるように、或いは脊髄反射のように、俺はそれを理解した。

 

 歩夢「……ヒッ……」

 

 理解が及んでしまったのとほぼ同時に、喉奥から小さな悲鳴が洩れ出す。恐怖に屈してしまう前に、本能に任せて慌ててその場を動き出そうとする。

 半分起き上がった身体を後ろに向けて、両足でアスファルトを思いっ切り蹴った。その時ばかりは、腹部の激痛なんて、とっくに意識の外へと追いやっていた。

 だけど遅かった。

 

 「何処行くんだよっ!!」

 

 俺がその場から逃げ出す寸前で、男の子…いや、そいつは素早くナイフを振り被った。

 大地を蹴り上げたばかりに、その場に残っていた左脚に、再び裂けるような感覚が生じる。

 新たに生じた激痛と共に、俺は呻き声を漏らしていた。

 左脚を上手く動かせず、今度は右腕から地面に倒れ込む。受け身も満足に取れず、俺は半ば崩れ落ちていた。もう、その場で蹲ってしまいたかった。

 それでも、身体に巡る生存本能に身を任せて、自分に鞭を打ち付る。

 結果俺は、そのままアスファルトを転がった。反動をつけることで、両足でアスファルトを支えることに成功した。

 体重が重しとなり、脹脛は悲鳴を上げている。しかし、なんとかその場で立ち上がる。

 

 たったこれだけの動作で、身体は異常に疲れ切っていた。

 リズムの合わない呼吸を荒げながら、そいつに目を合わせる。改めて視界に映したそいつの表情は…酷く歪んだ笑顔であった。

 俺は戦慄と恐慌に襲われるも、しかし問わずにはいれらなかった。

 

 歩夢「…お前…なんで…」

 

 頭の中には聞きたいことが山ほどあるのに、上手く考えを纏められない。

 だがそいつは、俺の言わんとしたことを理解出来たらしい。俺の体液が付着したナイフを恍惚と眺め、次いでその視線を俺に向けると、言った。

 

 「なんでって…俺はずっと、お前を殺したかったんだぜ?それ以上の理由なんているか?」

 

 歩夢「は……な、なに、言ってんだ……俺はお前なんて、会ったこともないんだぞ…?」

 

 そして得られたそいつから解答は、全く、訳が分からなかった。

 だって実際、目の前に居るそいつとは、俺はなんの面識もなかったのだから。多分、人違いか何かだ。だから…だからこの場は見逃して──。

 

 「は?何言ってんだ?俺はお前のこと、よく知ってるぜ…なぁ、アルファ?」

 

 歩夢「!?」

 

 そいつが俺のもう一つの名を口にしたその瞬間、俺は大きく動揺した。

 そんな俺を見て奴は、クックック…と嫌な笑い声を響かせる。

 

 「そうか~、お前は忘れちまったのか…俺は『あの日』を切っ掛けに、お前を殺したいと思ったのにさぁ~?」

 

 歩夢「あの日…?」

 

 やけにその言葉を強調して話すそいつに、俺は怯えながらも訊ね返す。

 すると奴は、途端に怒りを滲ませたような表情を浮かべ、言葉を繋いだ。

 

 「そうだ…巷じゃなんて言われてたっけ…あぁ、ラフコフ討伐戦だ…お前はッ!あの日!俺の殺しを邪魔しやがったんだッ!!あと少し、あと少しでカタナ使いの頭取れたってのに…ッ!!」

 

 そいつは激昂したように俺を睨み付けてきたが、俺は本気で身に覚えがなかった、のは一瞬だった。俺はそのあとすぐに、一つ思い出したのだ。

 あの日…クラインが襲われそうになったところを、俺とユウキは阻止した…その時捕らえたプレイヤーは、確か俺と同い年ぐらいで…思い返してみれば、その顔も似ている気がする。となると、コイツの目的は──。

 俺はそれを把握すると、無意識のうちに全身を震わせた。

 鳥肌が立つなんてものでは済まされない程に、俺はガタガタと身震いしていた。

 

 …嘘だろう!?もうここはゲームという皮さえないんだぞ!?ここは紛れもないリアルで、刃を突き立てれば血を流すんだ!!

 見た目からして、お前だって学生なんだろう!?なんでまだ殺人に囚われてるんだ!?他にも楽しい事なんて沢山あるだろう!?なのに、お前は本気で…バカなっ!?

 

 焦る内心に身を任せて、しかしそれは極力表面に出さないよう気を付けながら、俺は恐る恐る訊ねた。

 

 歩夢「復讐…なのか…?あの日の、俺に対する…」

 

 するとそいつは、にんまりと獰猛な笑みを浮かび上げる。左指で乾いた音を鳴らしながら、堂々と理解し難い答えを述べた。

 

 「オフコース!俺はあの日から、次の獲物はお前らだって決めてたからな。安心しろ、こうなっちまったからには、楽には死なせてやらねぇ。ちょっとずつちょっとずつ、痛みの渦に巻き込んでやる。地獄のような苦しみに悶え、苦痛に喘ぐ姿…満足いくまで魅せてくれよ…?」

 

 …怖い。誰か助けて欲しい。さっきから、身体の震えが止まらないんだ。

 左脚、腹部、そこに感じる熱さと痛覚と、そして大切な血液が流れ落ちていく感覚。もう目の前に死が迫っていることを理解させられ、身体が石のように動かない。

 俺は今から、こいつに殺されるんだ。ただの心臓一突きじゃ終わらない。脇下を削られて、眼を抉られて、鼻を削がれて、皮膚を剥がれて…俺が涙を流し懺悔を乞おうとも、奴は絶対に聞き入れてくれない。

 

 …いやだいやだいやだ!!死にたくない!!

 

 溢れ出した生に対する執着心故に、俺は震える声で言葉を発した。

 

 歩夢「待て…待てよ…人違いかもしんねぇだろ…?」

 

 すると奴は、眉を大きく顰める。呆れたように深いため息を吐き出すと、随分と不機嫌そうな表情で言った。

 

 「…あの世界じゃ勇者になっても、結局リアルじゃただの子供かよ…興覚めだな」

 

 その様子に一筋の希望を見出した俺は、食いつくように言葉を返す。

 

 歩夢「み、見逃してくれるのか!?」

 

 そんな俺に対して、奴の見せた行動は…深くナイフを構えるというものであった。

 

 「はぁ?お前ホントに腑抜けたんだな。下らねぇ。もういい、サッサと死ね」

 

 奴がナイフを構えると同時に、俺の身体は一層硬直した。

 今から確実に殺される。それだけが、頭の中を支配しようとしていた。

 

 だが一方で、まだ絶対に死にたくないんだと、必死に生を藻掻き掴もうとする自分が台頭してくる。

 棒立ちの両足に、全方向へと飛び出しそうなエネルギーが発せられる。

 硬直しようとする自分と、その場から逃げ出そうとする自分がぶつかり合う。石化した表面が剥がれ落ちるように、ぶるぶると脚が震えた。

 

 その果てに俺は、もう一度その場で振り返ると、全力で──逃げ出そうと足を踏み出した。

 筋トレの意味もあってか、脚力には自信があった。怪我を負っているとは言え、奴には追い付かれないと思った。

 何百メートルか走れば、繁華街まで辿り着ける。そうすれば周りの人が助けてくれるかもしれないし、交番に逃げ込めば、お巡りさんだって居るはずだ。

 大丈夫。俺は死なない。絶対に死なない。自分に言い聞かせるように唱え続け、恐怖に心折れそうになる自分を奮い立たせる材料に昇華させていく。

 しかし、俺がその場から走り去ろうとしたその寸前に──そいつから、意外な言葉が発せられた。

 

 「逃げてもいいけどさ~、そしたら…お前の大好きなユウキちゃんは、どうなるんだろうな~」

 

 歩夢「!!!!」

 

 ビタッ!!

 自らの命を救うために動き出した第一歩が、とりもちに捕まったように固まった。

 いや、違う。己の確固たる意思によって、自分の力でそれを食い止めた。

 奴の言葉を聞かされた俺は、死の恐怖に苛まれて尚、その場に留まる理由が生まれてしまった。

 

 ユウキ…?ゆ、ユウキがどうなるんだ…?

 

 そんな分かり切った問いかけは、もう奴には発さなかった。

 俺がこの場から逃げるばかりに、俺と同じようにナイフを突き立てられ、無惨にも血を流し瞳を閉ざす君の姿…想像もしたくないような残酷な現実が、どう足掻いても脳裏に浮かび上がってくる。

 それだけは、ダメなんだ。

 俺の命が尽きようとも、ユウキだけは守り抜かなければならない。

 それが俺だ。俺という人間の根幹なのだ。

 そうでないと…誰かを殺して今日までを生き抜いた俺の存在意義が、俺がこの世界に生を宿した理由が、失われてしまう。俺の命と君の命、そのどちらに天秤が傾くかなど…もうずっと前から、分かっているから。

 踏み出した左脚を起点に、もう一度向き直った俺は、奴を見据え、息巻いた。

 

 歩夢「俺は……俺は逃げねぇ…木綿季に手を出させたりはしねぇっ!!」

 

 啖呵を切った俺に対して、そいつは満足そうに笑みを浮かべる。

 

 「そうそう、そっちのお前の方が、俺も殺り甲斐があるってもんだ…」

 

 しかし次の瞬間、君の命を守るために、この場で踏みとどまることを決意した俺を嘲笑うかのように、奴は鼻につく語り口でそう言った。

 

 「でも残念だったなぁ?ユウキちゃんは今頃……俺の共犯者に、やられてんじゃねぇかなぁ~?」

 

 歩夢「なッ!?!?!?」

 

 「俺とは目的が違うみたいだけどさ~、まぁ、あいつもナイフ持ってるしなぁ~」

 

 息の詰まる感覚と共に、その言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。

 この数分の中に情報量が多過ぎて、頭の中の整理が行き届かない。それ故に、奴が続けて放った二言目は、俺の脳内には届いてこなかった。

 

 …共犯?こいつ以外に、俺とユウキに恨みを持つ人間がいるのか…?

 いや、そんなことはどうでもいい。こいつの言ったことが本当ならば、ユウキは今頃…もしかしたら…も、もう──。

 

 その光景を思い浮かべると、全身が強い衝動に促された。

 居ても立っても居られなくなった俺は、逸る気持ちのままに、ユウキの安否を確認しにいかねばならなかった。

 だが目の前には、大きな障壁が立ちはだかっていた。

 とそこで、既に視野がぐっと狭まり、君のこと以外見えなくなり始めていた俺は、ふと疑問を覚えた。

 しかし、一体どうしてこいつは──。

 

 「なんで、俺がお前らのこと知ってんのかって?いやぁ、俺も苦労したんだぜ?お前らの住んでる場所、見つけんの」

 

 俺の内心を見透かしたように、そいつは言葉を続ける。

 

 「でもさ~、お前ら、ちょっと不用心過ぎるんじゃねぇの?あんなに有名プレイヤーの癖にさ…SAOの頃から名前も変えないで、リアルとアバターそっくりなんてさぁ?」

 

 「その二つさえ分かりゃ、あとは楽勝だったぜ。どうせ帰還者学校に通ってるだろうからな。そこに貼り付いて、お前らが出てくんの待っときゃ、そっから後をつけてりゃいいんだからな」

 

 …しまった。盲点だった。まさかそんな形で、個人情報が流出するとは想像も出来なかった。

 となるとやはり、もう一人の共犯者もコイツとまた同じく、ユウキの住んでいる場所を把握している可能性がある。

 と言うか、そうとしか思えない。俺達は今日、何処からか付けられていたんだ。それで計画的に、俺とユウキが別れてから襲い掛かってきた…。

 加速する思考の中で、俺は更に考えを追求していく。

 …なんにせよ、一刻も早く、ユウキの元へ向かわねば。だがコイツはどうする?回り道している暇はない。ダッシュで振り切ったとしても、そうなったらこいつもユウキの家に向かうだろう。

 だったら……俺に、は今この場でコイツを倒す以外の道はないのでは…?

 

 その結論に至った俺は、そこから迅速であった。

 背負う鞄に武器になりそうなものは…入っていない。精々、水筒とタブレットが鈍器になり得るぐらいか。なら鞄ごと盾として使った方が効果的か。

 俺は背負うリュックを下ろし、両手に握った。

 

 俺の闘う意思を読み取ったのか、奴も一層狂気的な笑みを浮かべながら、ナイフを深く構える。

 俺もまた無言のままに、即席の盾をジッと構える。踵を僅かに浮かして、いつでも動き出せる態勢を作り出す。

 

 これは、本当の意味での死闘だ。

 幾度となく死線は乗り越えてきたはずなのに、俺はこれまでにないほど、心臓を激しく鼓動させていた。

 リュックを握る手がジメリと滲み、背中には何滴もの汗が流れていく。痛む腹部と左脚からは意識を逸らしながら、俺はチャンスを伺った。

 

 先に動いたのは、奴の方であった。

 迷いなくこちらに詰め寄れば、右手に握るナイフを引き絞ると、俺目掛けて突き出してくる。

 だがそれならば問題ない。タブレット端末の入った鞄が、しっかりと俺の身を守ってくれる。

 奴の右手を必死に目で追いながら、奴が突き刺してくるであろう場所にリュックを構える──。

 

 「ヒャァッ!!」

 

 歩夢「ぐっ…」

 

 シュパッ!

 勢いよく空気を切る音と共に、視界の端で血しぶきが舞い散った。

 銀色の輝きが、俺の左肩に放たれたのだ。

 可動域の狭い盾では、そこを守ることが出来ない。寸前で気が付いた俺は、重いリュックをその場で捨て去り、懸命に身体を逸らした。左肩に深く突き刺さるはずだった一撃は、俺の肩を掠め通り過ぎていく。

 お陰でなんとか、浅い傷に留まってくれた。だが痛みは酷い。俺は表情を歪める。

 

 しかし、生じる痛覚に屈することなく懐に潜り込むと、鳩尾目掛けて右こぶしを捻じ込んだ。

 奴は苦しそうに空気を漏らしたが、ダウンする様子は見せない。ナイフを引き戻し、背中をめった刺しにされることを危惧した俺は、一旦後ろへと身体を戻した。

 

 とここで、幸運がこちらに味方した。

 思った以上に、鳩尾の一撃で苦しんでいた奴は、ナイフを引き戻すことなく左手で胸下を抑えている。そこにチャンスを見出した俺は、右脚を軸にして、左脚を蹴り上げた。

 狙った個所は勿論、奴の右腕だ。

 身体を動かしたその時に、傷口を中心として、軋むような痛みが全身に走った。が、構わず動き続ける。

 そして俺の都合通り、蹴り技はクリーンヒットした。

 俺の左脚に右腕を弾かれた奴は、その威力に腕を持っていかれ、ナイフを後方に落としたのだ。

 これならイーブンだ。もう刃物を恐れる必要はない。

 俺は一気に急接近し、インファイトで勝負を急ごうとする。がしかし──。

 

 「残念もう一本!」

 

 歩夢「あ…がっ…!?」

 

 ──俺の腹部には、奴の左腕が食い込んでいた。

 

 

 大きなコートの左ポケットから、失わせたはずの凶器が飛び出してきたのだ。

 反射的に身体をずらすも、この距離では避け切れない。俺の腹部…正確には右横腹に、凶刃が食い込んだ。

 それは、今日負った傷の中で、一番深く抉られたものだった。

 皮膚と共に肉が斬り裂かれたかような感覚と共に、熱の零れる激痛を味わう。

 俺は堪らず呻き声を漏らし、しかし身体は激烈な痛みによって自由を奪われ、奴から距離を取ることが許されない。そうこうしているうちに、ソイツは──。

 

 「はいドーンッ!!」

 

 歩夢「あぎゃッ…!!」

 

 俺が動けないことに気が付いた瞬間、奴は右こぶしを俺の腹にぶちかました。

 普段ならば、鍛えた筋肉で受け切れたであろう一撃も、今日の俺は腹に傷を負っている。

 パンチの鈍痛と傷口の広がる刺痛に見舞われ、苦しさを堪え切れない。空気と唾と共に、痛みに喘ぐ声を吐き出す。

 俺は堪らず右手で腹を抑え、よろよろと後退りした。それは俺が経験した痛みの中で、ぶっちぎりの酷さであった。

 …痛い、いだい…死ぬ、死んでしまう…もうこのまま激痛に絶叫してしまって、そのまま子供みたいに蹲ってしまいたい。

 でも、そうしてしまっては全て終わりだ。

 痛みで思わず涙を流しながらも、唇を噛み締めて、俺は必死に耐え続けた。

 

 「もしかして武術やってたりするのかな~?さっきのはかなり痛かったぜ…でも、肉体じゃ刃物には勝てないよなぁ?ここはリアルワールドだからなぁ?」

 

 歩夢「はぁ…はぁ…」

 

 …もう、ダメなのだろうか。

 奴の優位から煽るような様子に、俺はそんなマイナス思考を浮かべる。

 あいつがやけにデカいコート着てたのは、ナイフをもう一本隠し持つため…クソッ!そこまで気が回らなかった…。

 ここまで派手に動いた俺は、傷だらけの満身創痍。

 対する奴は、まだ鳩尾に一撃喰らっただけだ。余力が残されている。しかも凶器まで持っている。

 

 …このままでは、先に潰れるのは俺の方だ…。

 奴もそれを分かっているのだろう。今から俺をどう調理しようかと、猟奇的な瞳で俺を見つめてくる。

 一発逆転出来るようなアイデアは思いつかない。何か武器になるようなものだって持っていない。

 だけど、まだ諦められない。

 俺がここで倒れては、ユウキの命が…。

 

 歩夢「ふぅー…」

 

 血でドロドロになった右手を腹から離し、もう一度だけ動ける態勢を整える。

 深く息を吐き出すと、俺は覚悟を決めた。

 次だ。

 次の一撃に、全てを賭ける。

 もう相手のことなんて気にしない。俺は使えるものを全て使って、奴をこの場で倒し切る。

 俺は待った。待ち続けた。奴が痺れを切らし、自分から攻めてくるその瞬間を──。

 

 「行くぜぇ!!」

 

 そしてその時が、遂にやって来た。

 奴は右手に剣を握り直し、こちらへと駆け込んでくる。

 …まだ。まだだ。あともう少し待て…。

 奴が必殺の間合いに入ってくるその時を、俺は逸る鼓動を抑え待ち構えた。

 

 俺の命を刈り取る為の武器を、奴は右腰辺りに引き絞っている。こちらに近づくにつれて、俺の脇を突き刺すようにそれを伸ばしてくる。

 右脚でアスファルトを蹴り上げ、左脚を前に繰り出す。

 迷うことなく走り込むその一挙一動が、今の俺には、極々鮮明に捉えられた。

 

 スーパースローの如く移りゆく奴の動きに合わせて、間合いに入ったその瞬間、俺は既に左脚を宙に浮かせていた。

 奴が俺の身体に剣を突き刺す前に、俺は、宙で大きく曲げていた膝を、素早く伸ばした。

 俺の攻撃に気が付いた奴は、標的を変えるように刃を足へと向ける。

 だが、慣性を変じる暇など与えない。

 俺の前太ももに、刃が浅く滑る。奴はそれに力を加えようとしたが…俺の苛烈な前蹴りが、一瞬先に奴の身体を突き刺した。

 

 「……」

 

 僅かな空気の揺らぎと共に、強烈な打撃音が、辺りに響き渡った。

 周囲が、静寂に包まれる。

 

 …奴は剣を振るうことはないし、俺はもう、攻撃には乗り出さない。何故ならば──。

 

 そいつは、独りでに右手からナイフを零れ落した。

 カランと乾いた音と共に、凶器がアスファルトとぶつかった。

 そして奴は…青い顔を浮かべながら、その両手を局部に押し当てていた。

 声を上げられない程の痛みだったのか、凄惨な表情を浮かべると…ふらっとその場に倒れ込んだ。

 頭蓋骨とアスファルトがぶつかり合い、籠った重い音が響いた。

 

 歩夢「はぁ…は、ぁ…」

 

 …なんとか、なったのか…?

 恐らく倒れ方からして、奴は俺に金的を思いっ切り蹴られ、気絶したに違いない。

 人体に影響を及ぼすようなことは余りしたくはなかったのだが、命を賭けた状況では致し方ないだろう。

 俺は荒れる呼吸を繰り返しながら、放心したように星一つ見えない夜空を眺め、暫しその場で佇んでいた。

 

 …だが、まだ終わっていない。俺の為すべきことは、まだ一つも達成出来ていない。

 すぐにそれを思い出し、その場で座り込み、目を瞑りたい気持ちを抑え込んだ。

 早く…早く君を助けに…ボロボロの身体に喝を入れて、壊れた機械のように、俺は君の元へと向かおうとする。

 とその時だった。住宅街の曲がり角から、中年のサラリーマンが躍り出てきたのは。

 その男性は俺と目が合うと、眼をギョッとさせた。

 

 「ひっ…!?」

 

 恐らく、血だらけの俺を見てびっくりしたのだろう。俺だってアンタの立場だったら、そう思うからな。

 死闘を切り抜け、高揚感の抜け始めていた俺は、この瞬間だけは、少しばかり冷静さを取り戻していた。

 俺の姿を見て、その場で固まってしまった彼に、俺は丁寧に伝える。

 

 歩夢「すいません……俺、今あそこで倒れてる人に襲われて…警察、呼んでもらえませんか…?」

 

 男性は俺の指差す方角を眺めると、その場に血液の付着したナイフと、前屈みに倒れる男の子が居ることを認識する。

 事態の深刻さに気が付いたらしい。こくりと頷き返すと、ポケットから取り出した携帯電話で通報してくれた。

 それを確認した俺は、エンジンの切れかかったようなゆっくりとした挙動ではあるものの、再び動き出そうとしていた。苦しい、痛い、辛い…それでも、俺が行かなきゃ──。

 だが寸前で、男に焦ったように俺を呼び止めた。

 

 「き、君!?どこに行くんだい!?警察と救急車は呼んであるよ!?」

 

 そう言ってくれた男性に、俺は全てを投げ出してしまいたくなった。

 このままここで座り込み、全身の痛みに悶え苦しみ、もう一人の殺人鬼をどうにかしてくれと、ユウキを助けてくれと咽び泣きたかった。

 だけど、それじゃ遅すぎる。

 警察が救助に来ることを待っている余裕なんて、もう残されていないんだ。俺がやらなきゃ、君は命を奪われてしまうんだ。だから早く動け。逃げるな。怯むな。俺にしか出来ない事なんだ!!

 そうやって俺は、助けてくれるかも分からない他の誰かに縋り付こうとする自分に、何度も言い聞かせた。

 その末に俺は…意志を曲げることはなく、短く伝えた。

 

 歩夢「もう一人、居るんです…だから、早く行かないと…」

 

 そして俺は、君の元へと向かうべく、その場からゆっくりと駆け始めた。

 男性はまだ何か叫んでいたが、もう俺の耳には入ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

─────────────

 

 

 

 

 

 

 その日ボクは、いつも通りの日常を送っていた。

 学校でみんなとの楽しい時間を過ごして、アスナとダブルデートして、アルファと一緒に帰って…そんな日常だ。

 でも、それはすっごく充実した毎日なんだ。

 お見送りしてくれたアルファに、バイバイって手を振って…それから少し時間が経過した頃だった。

 普段通り家事に奔走していたボクの耳に、ピンポーンの音が聞こえてきたんだ。

 

 木綿季「?」

 

 なんだろうって思いながらも、ボクはカメラ映像を眺めに向かった。

 そこに映っていたのは、深く帽子を被った男の人と、段ボール箱一つだった。ネットショッピングした覚えはないんだけど…。

 ボクはそのお届け物を不思議に思いつつも、もしかしたら、アルファがサプライズで何か送ってくれたんじゃないかなって、そんな風にも思えたんだ。

 そうこうしているうちに、二回目のインターホンが鳴る。あとでアルファに色々聞こうと考えたボクは、それに応じてしまった。

 

 木綿季「はーい!」

 

 「…お届け物です」

 

 通話をオンにしてボクが返事をすると、向こうからは、少し高い声が飛んできた。

 やっぱりボク宛ての荷物なんだと思って、そのまま玄関口へと向かっていく。サンダルに足を通して、玄関ドアのカギを開錠した。

 そしてボクは、ガチャリとドアを開く。

 すると目の前には、宅配の人が居るではないか。

 ボクの家は門があるのに、なんでここまで入って来たんだろ…なんて些細な疑念を抱いたその時だった。

 男はボクの方へぐっと詰め寄ると、素早く右手を動かした。

 その瞬間、ボクは硬直してしまった。

 

 木綿季「……ぇ……?」

 

 目の前には、銀色の刃がギラリと輝いている。

 それは包丁かと錯覚するぐらいに刃渡りの大きくて、ボクに向けて突き付けられたその鋭利な切っ先は、何処までも冷たい印象を与えた。

 いきなりの出来事で、頭が追い付いてこない。ボクはナイフに目を奪われるままに間抜けな声を上げるだけで、それ以上のアクションは起こせなかった。

 固まるボクを良い事に、男は更に詰め寄ってくる。玄関ドアを閉めると、畳み掛けるように言ってきた。

 

 「動くな。騒ぐな。僕の言うこと聞かないと、殺すぞ」

 

 木綿季「え?え?え?」

 

 告げられたその言葉が、ボクには上手く理解出来なかった。

 いや、そうじゃない。今ボクの身に起きている出来事がどういうものなのか、理解したくなかった。

 頭が考えることを拒否し、パニック状態に陥る。

 ボクに向けて突き出された刃から目を逸らせず、言葉にならない悲鳴を発し続けると、男は焦ったように叫んだ。

 

 「騒ぐなと言っただろう!死にたいのか!」

 

 …ボクは、死ぬの…?あのナイフで心臓を抉られて、ここで殺んじゃうの…?

 いやまさか、そんなこと実際に起こるわけ…そう思う一方で、その刃が胸を、或いは喉を貫くビジョンは、嫌に鮮明に浮かんだ。

 見えない何かに喉元を押さえつけられたように、ボクは口を閉ざし息を吞む。ドッと身体中から汗が噴き出していることに、今更ながら気が付く。

 これまでとは全く別の形で、しかし今までと変わらず、唐突に死の手が忍び寄ってくる。

 …殺人か強盗か強姦か。ボクになんの用があって、男はここに押し入ったのか。その理由は不明だ。

 だけど、命の危機が迫っていると言うことだけは、理解出来てしまった。

 現状を認識せざるを得なくなったボクは、ガタガタと身体を震わす。

 そしてボクは、本能的に答えた。

 

 木綿季「ぃ…やだ…」

 

 「じゃあ大人しくしろ」

 

 木綿季「……」

 

 男の言葉に、ボクは必死に頷く。

 すると男は、一度黙り込んだ。

 そこでボクは、ナイフに奪われていた視線を、もう少しだけ上に動かしたんだ。

 そこに居たのは、黒い髭がぽつぽつと生えた、ニキビ跡の多い脂顔の男だった。

 顔全体のバランスが悪く、不細工としか言いようがない。髪の毛は無造作に伸ばされており、アルファより背が高かった。

 見た目からして三十代だろうか。けどそれにしては、身体が凄くだらしない。

 とそこで気が付く。

 男はボクを見つめ続けていた。そしてニチャリと顔を歪めると、ナイフを握らない左腕で、ボクの背中に腕を回し──。

 

 「やっぱり、ユウキちゃんはリアルでも可愛いなぁ…」

 

 身の毛がよだつ感覚を覚えた。吐き気さえも感じた。

 なんでボクは、こんな気色の悪い男の腕に抱かれなければならないのか。感じる生温かさの全てが、本当に不快だった。

 でも、拒めない。

 もしここで突き放せば、背中にナイフを突き立てられるだろうから。

 君以外の男から与えられる抱擁を、ボクは必死に耐え続けた。その永遠とも思える地獄の苦しみの末に、男は満足したのか、ふっと腕を解放した。

 そしてボクの肩を気安く叩くと、訊ねてくるのだ。

 

 「ユウキちゃんは、死にたくないよね」

 

 その言葉には、ボクは頷くことしか出来ない。

 すると男は、極々自然にそう言った。

 

 「じゃあ、今日から僕と付き合おう。このことを誰にも言わずに、僕と付き合ってくれたら、僕は君を殺したりなんかしないよ」

 

 木綿季「は……」

 

 意味が、分からない。

 一体何がどうなったら、そういう話になるのか。

 だがなんであろうとも、男の要求はボクにとって、了承し難いものであることに変わりなかった。

 ボクが愛するのはアルファだ。アルファ以外有り得ない。それをなにが、「僕と付き合ってくれ」だ。せめてまずは、外見を磨いてから言ってみたらどうだ。

 そんな強気の発言は、勿論出来なかった。

 代わりにボクは、その質問をなんとか濁すことにした。

 

 木綿季「そんな…ボク、あなたとは初めて会ったんだから…」

 

 出来るだけ丁寧な言葉を選びながら、そう言ったボクに対して、男は不思議そうな表情を浮かべると、また言葉を返してくる。

 

 「何言ってるんだよ、ユウキちゃん。僕らは昨日、ALOで会ったじゃないか」

 

 木綿季「え、ALO…?」

 

 唐突にALOの話題を出され、ボクは混乱したまま言葉を返した。

 

 「そうだよ。ウンディーネの姿の僕と、森の中で闘ったでしょ?」

 

 木綿季「え?あ、あの人が…あなた…?」

 

 ハッキリ言って、信じられなかった。

 だって、あんなに整った顔立ちの人が、リアルではこんなにも正反対の顔をしているなんて…。

 ボクの周りにいる人達は、ほとんどリアルと同じ姿だし、そうじゃなくても、然程乖離感はない。だから余計だった。

 ボクはそのアンビバレントな様子に、状況を忘れて驚き通していた。

 

 「そうそう。だから初対面じゃないよね。僕のことは、俊也君って呼んでね。僕と付き合ってくれる?」

 

 木綿季「ええと…」

 

 そして男は、流れるような速さで、もう一度それを問い詰めてくる。

 この人の名前なんて知りたくもないし、呼んでやるつもりもなかったボクは、言い淀んだ。

 すると男は──。

 

 「…まさか、僕よりあのガキの方が大事だって言うんじゃないだろうね?」

 

 途端に顔を顰めながら、またアルファを引き合いに出した。

 何故、リアルにおけるアルファとの関係を知っているのか。思えばどうして、ボクの家も知っているのか。

 疑問が絶えないけれども、男はボクの答えを待っている。しかし、正直に答えれば、刺される気がした。

 でも、例えそれが口から出まかせの嘘であったとしても、それを言葉として否定するのは、心が固く拒んでいた。

 だから仕方なく、またボクは言葉を誤魔化そうとする。

 

 木綿季「そ、そういうわけじゃ…」

 

 「じゃあ、僕のこと好きだって…ひひっ…俊也君大好きって言ってみなよ」

 

 …気持ち悪い笑い声だ。そんなこと言うわけないだろう。

 それを唱えていれば、この場は収まるかもしれないのに、ボクは自分に嘘が付けなかった。

 

 木綿季「……」

 

 目の前にあるナイフが、ボクの喉元を抉るかもしれない。それでもなお、ボクは黙秘を続けた。

 君以外に愛の言葉を放つぐらいであれば、ここで潔く死んでしまった方がマシだった。

 すると男は、意外にも刃を突き立てることはなく、しかし不愉快そうな表情で、その口を動かした。

 

 「…やっぱり、あの小僧が忘れられないんだね。でも、大丈夫だよ。誰にだって気が迷うことはあるんだ。ユウキちゃんだってそうなんだ。だから僕が、ちゃんと目を覚まさせてあげるよ」

 

 男は独り善がりな言葉を続け、やがてその表情を恍惚としたものへ変化させる。

 そしてそのカサカサと割れた唇を、ボクの唇に──。

 

 木綿季「や、やめて…」

 

 もう、限界だった。ボクは思わず男の身体に両手を押し付け、それを拒否した。

 人の心も分からないのだろうか。不思議そうに首を傾げる男は、ボクに言った。

 

 「う~ん、相当重症みたいだね…まだそういうことはしたくなかったんだけど…ふひっ…僕の愛情を注いであげることにしようかなぁ?」

 

 それは何処までも、ねっとりとした笑顔だった。生理的に受け付けたくない、そんな気持ち悪い表情だ。

 男の左手が、服の上からボクの胸部に触れた。力任せに、ボクの小さな胸を鷲掴みにし──。

 瞬間、ボクは明確に理解した。男が今から為そうとしていることを。

 …やだやだやだ…そんなの嫌だ。ボクはアルファのものなんだ。なのに、こんな気持ち悪い男に──。

 今すぐにでもコイツの腕を振り落としたい。胸に詰まった不快感をぶつけてやって、この空間から追い出してしまいたい。

 でも、出来ない。

 仮想世界じゃ武器にもなり得ないナイフに、ボクは極簡単に命を握られていた。

 

 ──助けて…アルファ…。

 

 気が付けばボクは、心の中でそう唱え始めている。

 …ボクはいつだって、君に助けられ続けていた。助けてもらわなきゃ、今日まで生きていられなかった。

 だからボクは、また君に救いを求めるのだ。

 あの時から、何も成長していない。

 結局ボクは、唐突に命の危機が目の前に迫れば、縮こまって君の名前を呼ぶことしか出来ないんだ。

 アルファがこの現状に気が付いて、男を撃退してくれる。ボクのヒーローがこの場に颯爽と現れ、窮地から救い出してくれることを、本気で期待している。

 

 だけど、今回ばかりはそうもいかない。アルファはこの場に居てくれないから、自分でなんとかしなきゃいけない。今日だけは、ボク一人でも崖っぷちから這い上がらなきゃいけないんだ!!

 男は息を荒げながら、どんどんと行為をエスカレートしていく。君に頼らなくたってこの場を脱してみせる決意を固めたボクは、この現状を打開するために、機能を停止しようとしていた頭を必死に働かせ続けた。

 そして──電撃的に思い付いた。

 男が服の上から、ボクの大事なところに触れようとしたその時だ。ボクはほぼ反射的に、思い付いた作戦を叫んだ。

 

 木綿季「ぼ、ボクはエイズだ!だからそういうことをしたら、そっちだってエイズになって苦しむんだぞっ!!」

 

 キャリアであることを、見知らぬ人に公開すること。

 それがどれほどの悲しみを生み出したか、ボクは嫌と言うほど理解していた。

 だけど、こんな奴に身体を汚されるぐらいだったら、使えるものはなんだって使ってやる。

 ブラフを息巻いたボクに対して、男は呆れたような笑いを浮かべた。

 

 「その冗談はキツイよ、ユウキちゃん。初めてなのかな?大丈夫、僕が気持ち良くしてあげるからね。怖くなんかないよ」

 

 木綿季「嘘じゃない!…携帯に証拠があるんだ!」

 

 こっちは嘘じゃない。エイズだからドナーになれないってことが記載された資料が、本当に残されているのだ。

 勿論、今のボクはエイズじゃない。だけど記録が残ってるから、それを見せてやれば、コイツも納得するはずなんだ。

 確かに、エイズは治る病気になったけど、その為の薬の数が少なすぎる。まだまだ完治していない患者が沢山居るんだ。いつになったら完治するかだって分からないんだ。だから、わざわざ病気になってまで、ボクを犯したいだなんて思わないはずだ…。

 そんなボクの推察が当たったのか、男は怪しむようにボクに言った。

 

 「…じゃあ、その証拠、見せてもらおうかな。変なことするようだったら、殺しちゃうからね」

 

 なんて言ってるけど、コイツは多分、本気でボクを殺すつもりなんてない。ボクを手に入れることが、一番の目的なんだ。

 身体の横にナイフを突き出された状態で、ボクは男と共にリビングまで移動した。

 テーブルに置いてあった携帯を手に取り、男にも画面が見えるようにしながら、操作を開始する。

 フォルダを開けて、遡って…そして、数年前に作成されたドナーカードの電子媒体版を、ボクは男に見せつけてやった。備考欄に、エイズであるとの記載付きだ。

 それをまじまじと見つめた男は、大きく見開いた目をボクに向けた。

 

 「噓…だよね…?ユウキちゃんが…ユウキちゃんがエイズなんて…そんな…」

 

 木綿季「嘘じゃない。ボクは…エイズだ…」

 

 ボクを見つめ、酷く動揺したような声色でそう言った男は、本当に、その事実に困惑しているみたいだった。

 もしかしたら、心配してくれてるのかなって…そう思うと、嘘をついたボクが少しだけ、酷い人みたいに思えた。

 だけど──。

 

 「じゃあ…じゃあ…!ユウキちゃんとは、愛を育めないってことなのか…!?僕はユウキちゃんで気持ち良くなれないのか!?そんなの…そんなの残酷過ぎるよ!!」

 

 木綿季「……」

 

 前言撤回だ。コイツは本当に、自分のことしか考えてない。どこまでも最低な人間だ。

 少しだけ持ち上がりかけていたコイツの評価も、一気に地に落ちていく。ボクは心底軽蔑した表情で、男を眺めていた。

 そんなボクに問い掛けるように、或いは自分に訊ね掛けるように、男は叫び続けていた。

 だけど、次の瞬間だ。

 男はフッと、何か激昂のような瞳を浮かべると、ボクに捲し立ててきた。

 

 「酷い…酷いじゃないかユウキちゃん!!僕は、僕はずっと、何年も君を大切に思ってたのに…僕は君だけを想って生きていたのに…っ!!こんなのあんまりだろう!!僕を…僕を弄んだんだな!?ふざけやがってぇ!!僕の大切な時間を返せッ!!このクソアマがぁッ!!」

 

 パシーンッ!!

 

 乾いた音が、部屋中に広がった。

 視点が急に横にスライドしたかと思ったら、すぐに落ちていく。

 気が付くとボクの身体は、フローリングに衝突していた。

 訳が分からなかった。

 でも、なんだか左頬が熱くて、凄くヒリヒリしている。口の中に、変な味が広がっていく。

 

 木綿季「……」

 

 そこでようやく、ボクは気が付いた。

 ボクは今、ぶたれたんだ、この人に。

 初めて人に殴られたボクは、その衝撃に頭が真っ白になってしまう。暴力の恐怖に見舞われ、身体が言うことを聞かなくなった。竦んだままに、床に倒れたまま放心してしまう。

 そんな中男は、唾を飛ばしながら、怒りのままにボクに叫び続ける。

 

 「エイズの人間なんてなぁ、生きてる価値無いんだ!!」

 

 「ゴミみたいな人間に生まれて、どんな気分で生きてるんだよ!!」

 

 「それともあれか?男に股開きまくって感染したのか?だとしたらとんだクズ人間だな!!」

 

 「この欠陥人間め!!お前なんか、生まれてこない方が良かったんだよ!!」

 

 木綿季「……」

 

 …ボクはもう、エイズじゃない。だから、コイツの言ってることなんて、全部見当違いの妄言なんだ。相手にしなくていいんだ。耳を塞いで良いんだ…。

 …そう…分かってるはずなのに……ボクの両目からは、勝手にポロポロと零れ落ちていく。

 男のある一言が、ボクの心の奥深くを、胸の肉を抉っていた。

 右手に握るナイフなんて比じゃないぐらいに、それは鋭利に突き刺さっていた。

 

 本当は、物心ついた時から分かっていた。

 ボクなんか…生まれてこない方が良かった。だってそうすれば、ママにパパに、姉ちゃんは、エイズに感染することもなかったから。今も穏やかに生きていられたはずだから。

 

 

 ずっと、それは考えないようにしていた。目を逸らしていた。

 ボクはアルファの為に生きてるんだ。そう自分に言い聞かせて、生きる意味を正当化しようとしていた。

 でも、心の何処かでは……ほんとは分かってたんだ。

 ボクがこの世に生を受けたからこそ、ボクの家族は崩壊しちゃったんだって。

 姉ちゃんと比べて劣ってばかりのボクが、姉ちゃんと一緒に生まれてきたせいで、三人の幸せがぶち壊しになったんだって。

 だからボクなんか生まれてこない方が良くて、生きている意味なんてものは見つけられるわけがないんだって…。

 

 初めて、それを第三者に指摘された。

 どれだけ内側で凝り固めようとも、肝心の土台を揺るがされて、それは瞬く間に崩壊してしまった。最近のボクの周りには、優しい人ばっかりが居てくれたから、厳しい事実を突き付けられる痛みを忘れていたんだ。

 ボクは起き上がることさえ出来ずに、床に伏せたまま、その場で固まり続ける。

 心はもうとっくに、ポッキリと折れてしまっていた。

 頬に悲しみを伝わせながら、男の言葉を反響させ続ける。世界が急に真っ暗になったみたいに、周りが闇に包まれ始めていた。

 その時だった。ボクの元に、ヒーローが舞い込んできたのは。

 滲む視界の中で、ハッキリと、君の姿が映ったんだ。

 立ち込めていた濃闇は、一筋の輝きに掻き消されていく。光をボクに与えてくれる人が来てくれて、ボクの世界がまた、救われる予感がした。

 瞬間、ボクはほとんど無意識に、唇を震わせていた。

 

 木綿季「……ぁる……ふぁ……」

 

 ボクは君に、小さな救いの手を伸ばした。

 

 

 

 

 




 次回の投稿日は、六月十六日の木曜日となります。

 では、また第190話でお会いしましょう!
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