~SAO with Yuuki~   作:うずつるぎ

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第191話 手にした平穏

 ぽつぽつと暖かい日が顔を出すようになった今日この頃、いつもは見上げているはずの、背の高い建築物の数々を、俺はぼんやりと見下ろしていた。

 窓から見えるその代り映えのない景色には、もう数日前から飽き飽きしてしまっている。

 

 ──学校に行って授業を受けたい。

 

 そんな風に思う日が来るなんて、以前は想像も出来なかった。ベッドの上に腰掛けていた俺は、こんな自分に思わず苦笑を漏らす。

 未だに包帯を身体に捲き付けている俺は、この病院に入院してから、もうすぐ一週間の時が経とうとしていた。

 

 数日前、二人の狂人に打ち勝った俺は、君の身体に寄り掛かったまま、心地良く意識を手放した。

 そして次に意識を取り戻したその時には、俺は既にこの病室へと運び込まれていたのだ。

 目を覚ますや否や、ユウキは大泣きも良い所のぐちゃぐちゃの感情で叫んでくれて…相当、俺を気に掛けてくれていたようだった。本当に、心配を掛けて悪かったと思っている。

 幸い、俺の身体に生じた数々の傷は、それほど危険なものではなかった。

 勿論、傷口はえげつないほどに痛い。命の危機に瀕するほどではなかったということだ。

 それでも念のため、経過観察入院として、一週間病院での日々を過ごすことに決定したのだ。それ故にこうして、俺は手持ち無沙汰に時を過ごしている。

 

 何度目だろうか。俺はスマホの電源ボタンに軽く触れ、現れた四つの数字を確認していた。

 …もうすぐ、もうすぐだ…。

 俺がそれを期待し始めると、その願いに応じるかのように、扉が軽くノックされた。

 俺は反射的に身体の向きを真反対に回転させ、「どうぞ!」と勢いよく声を掛ける。

 俺の合図と共にドアがガラガラとスライドし、それに合わせて、俺の心は増々踊り──。

 

 リズベット「ア~ルファっ!来てあげたわよ!」

 

 歩夢「…あぁ…リズベットか…うん、サンキュー…」

 

 瞬間、俺の心は、ガックシと項垂れた。

 リズベットは満面の笑みで俺を呼んでくれたが…正直言って、違うんだ。俺の心が求めているのは…。

 

 リズベット「…ちょっと、もう少しぐらい表情を隠す努力はしなさいよね。アンタ今、あたしで残念だって思ったでしょ」

 

 歩夢「い、いや…そういう訳じゃ…」

 

 望みが叶わなかったことに意気消沈している俺を察したらしいリズベットは、ため息と共に呆れた様子で追及してくる。それを見抜かれた俺は、慌てて弁解を申し出ようとする。

 だがその時、扉の向こうにもう一つのシルエットが現れた。

 その背の低くて小さなお胸の女の子は…俺ではなくリズベットの方を見やり、言った。

 

 シリカ「だから言ったじゃないですか~。アルファさんは、ユウキさんが来てくれるの待ってるって。そうですよね、アルファさん?」

 

 歩夢「…まぁ、それはそうだけど…」

 

 現れたシリカは、真っ向から真意を突いた一言を発する。

 俺は否定出来ず、口ごもった。

 するとそこで、第三のシルエットが飛び出してくるのだ。

 

 キリト「アルファも贅沢だよな。女の子に来てもらってるのに、そんな態度取るなんて」

 

 歩夢「贅沢だってのは、キリトにだけは言われたくないんだけどな」

 

 彼の羨ましそうな発言に対して、俺は脊髄反射のように言い返しておく。二人の乙女が同時にキリトをチラ見すると、彼は参ったように頭を搔いていた。

 そんなキリトの後ろから、四つ目のシルエットが姿を見せる。

 キリトとセットと言うことはそれすなわち、彼の愛する彼女以外に有り得ない──。

 

 木綿季「ボクも居るよー!」

 

 歩夢「木綿季!」

 

 その元気いっぱいな声で手を振る君を見つけたその瞬間、俺は抑え切れずパッと表情を輝かせて、君を呼んだんだ。

 そんな俺の様子に、やれやれとばかりに三人は首を振る。

 ユウキに続いて現れた最後の一人は、そんな俺の様子を見て、ほわんほわんと笑っていた。

 

 アスナ「アルファ君は素直だね~。キリト君もこれぐらいがいいんだけどー」

 

 キリト「…」

 

 今日俺のお見舞いに来てくれたのは、この五人の組み合わせだった。

 これまでも日によれば、キリトとシノンだとかキリトと直葉ちゃんだとか、或いはミトとアルゴだったり、夜間にクラインとエギルが来てくれたり…うん、俺は本当に、良い仲間たちに囲まれているんだと思う。

 こうしてみんなが病室を訪れてくれるからこそ、俺はこの日々を退屈死にすることなく乗り切れているのだ。

 六人はそれぞれ、丸椅子を俺の居るベッド周りに置くと、着席した。

 

 木綿季「傷の調子はどう?」

 

 歩夢「抑えたりしたら痛いぐらい。変な動かし方しなきゃ、もう大丈夫だな」

 

 キリト「しっかし、改めて思い返してみても、アルファも災難だよなぁ…」

 

 アスナ「キリト君の巻き込まれ体質、ほんとに移っちゃったのかもね」

 

 歩夢「今すぐクーリングオフさせてくれ」

 

 キリト「贈与ゆえにそのような制度がございません」

 

 とそんな調子で、俺達はいつも通り駄弁り始めた。

 その間に少し、あの日の後のことを思い返していこうか。

 

 とは言っても、俺とユウキが無事…とは言えないかもしれないが…兎に角、五体満足で病院までやって来れたことは、もう誰もがよくお解かりのことだと思う。

 まぁ加えて説明するなら、俺はナイフによる切り傷数か所以外にも、顔を殴られてちょっと腫れてたし、拳は骨が折れることはなかったものの、痣が出来ている。

 でもユウキに至っては、もっと酷い。彼女は頬をぶたれ、顔を少し赤く腫れさせてしまったのだ。更には口の中まで切れていたらしい。

 …折角のユウキの可愛い顔に傷をつけやがって。言葉だけじゃなくて、肉体的な暴力まで振るいやがって…。

 そのこともあって、俺は今なお、あの男には底の見えない怒りを滲ませていた。

 

 そんな俺とユウキを襲って来た二人の人物は、あれから一体どうなったのか。

 俺にぶちのめされた双方は、まずは治療のために、俺とは別の病院に搬送された。

 そしてそこで、良かったのか悪かったのか、無事に目を覚ましてしまったらしい。

 急ぐべき治療もないことが判明した結果、殺人未遂と暴行罪、不法侵入やらなんやらで現行犯逮捕となり、お縄に掛けられたとのことである。

 二人は取調べにおいて、俺達を計画的に襲うとしていたことを白状したようだ。

 最寄り駅の監視カメラに、俺達の後をつける二人の様子が映っていたのと、俺を斬りつけたナイフに付着している血液が俺のものであったこと、ナイフに指紋が付いていたこと…そして、俺とユウキの事情説明により、その自白も間違いがないと決定付けられ、二人が法の裁きを受けることは、もう確実なことになったと聞いている。

 

 と俺がここまで、伝聞形式で話しているのは、この話は全て、俺達に取調べを行った警察官から伺った内容であるからだ。

 襲って来た彼らに対して、俺が反撃に出たことは、正当防衛の範囲内に収まるようなので、俺もお咎めを受けることはなかった。

 一応裁判を起こせば、それなりの賠償請求も可能であるらしいが、お金に困っていない俺は、特にそんなことをするつもりもない。

 そんな感じで、あの地獄みたいな事件も、これにて一件落着だ。

 これであとはもう、俺が退院するだけ──。

 

 木綿季「今日はねー、歩夢がボクを助けてくれたこと、クラスのみんなに話してたんだ~」

 

 歩夢「え」

 

 六人で楽しく会話を弾ませていたその最中、ユウキは訳の分からないことを宣った。

 固まる俺…というか、若干俺と同じような引き攣った笑みを浮かべている四人を気にする様子もなく、ユウキは嬉々と話を続けた。

 

 木綿季「みんなね、すごーいって言ってたよ~!」

 

 歩夢「そ、そっか…木綿季の周りには、良い人がいっぱいいるんだな…」

 

 俺はもう、そう答えることしか出来なかった。残りの五人も俺に続くように、ぎこちなく頷くばかりだった。

 …何が悲しくて、人様の彼氏の武勇伝を聞かされねばならないのだ。俺だったら、そんな話真正面から拒否させてもらうぞ。

 それを大人しく聞いてあげるってことは…ユウキは、友達に恵まれてるみたいだ。俺は嬉しいよ…。

 学校生活に舞い戻った暁には、俺はどんな風に祭り立てられ…いや、囃し立てられるのだろうか。

 俺の居ぬ間に暴走しているユウキを受けて、少し嬉しいような嫌な予感を覚えつつも、俺達はまた、別な話題に突入していった。

 それが、俺の入院生活に垣間見る1ページであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして訪れた退院の日。その日は朝から大忙しだった。

 

 歩夢「今日までありがとうございました」

 

 お世話になった先生や看護師さんにお別れの挨拶を告げると、荷物を纏めて病室を後にする。

 道中には倉橋先生も待っていてくれて、少しばかり談笑してから、エレベーターに乗り込む。そのまま階下へ降りると、足を止めることなくエントランスホールへと向かっていく。

 

 するとそこには、黒髪が艶々とした可憐な女の子が、病院前の景色を眺めるようこちらからは背を向けて、誰かを待っていた。

 俺がそちらへ近寄っていくと、君はくるりと柔らかな動作で回転する。それに合わせて髪は揺れ、少し離れていても、君の優しい香りが漂ってきた。

 そして君は、俺に微笑みかけると、言った。

 

 木綿季「退院おめでとう、歩夢」

 

 歩夢「わざわざありがとな、木綿季」

 

 俺はゆっくりとした歩みで、君の元へと進んでいく。

 俺の面倒を見てくれていた先生から言われているのだ。まだ傷口が完全に塞がったわけではない、暫くはあんまり激しく身体を動かさないように、と。

 いつもよりも遅い俺の動きに、君は待ち切れず歩み寄ってくれる。

 俺から荷物の詰まったリュックを奪い取ると、それを背負い、俺の手を掴んだ。

 そしてユウキは、先程以上の笑顔で言うのだ。

 

 木綿季「さ、早く引っ越しの準備しに行こ!」

 

 歩夢「……」

 

 とその一言に、俺は思わず口を閉ざしてしまう。

 そんな俺を怪訝そうな表情で眺めたユウキは、怪しむように言葉を続けた。

 

 木綿季「…もしかして、今更やっぱり無し、とか言うんじゃないよね?」

 

 歩夢「……あ、あのー……」

 

 …い、言いたい。やっぱりあの話はなしだって、延期にしようって言いたい…。

 

 ユウキの言葉に対して、俺はこの気持ちを伝えるべきかどうか、かなり本気で悩んでいた。

 …ユウキのお家へのお引越し。つまりは、君と同じ屋根の下で生活を送る…元はと言えば、それを提案したのは俺の方だ。

 だけどあの時の俺は、ユウキが死んでしまうかもしれないという極限状態の中で、少しおかしくなっていたんだ。

 あれから一度、二度眠れば、俺も幾ばくかの冷静さを取り戻していた。

 そして思った。あんなことは、早々に起きないんじゃないかと。

 だからこそ俺は、ユウキとの同棲生活が始まることに緊張感を抱いており、いっそチキンでもビビりでもなんでもいいから、土下座してあの発言に訂正を入れたい、そう思っている訳だ。

 俺が言葉に迷ったように唸り声を上げると、彼女は若干俺を睨みながら、更に口を動かした。

 

 木綿季「歩夢が入院することになって、わざわざ家から荷物持ってきてあげたの、誰かな?」

 

 歩夢「…木綿季、様…です」

 

 それに関しては、俺はユウキに頭が上がらなかった。

 突発的に入院生活へ引き込まれた俺の衣類、歯ブラシ、そして退屈しのぎの為のアミュスフィアやリモート授業を受けるためのパソコン…それら全てを持って来てくれたのは、他でもない彼女だった。

 俺が思わず敬語を使いながら返事をすると、君は畳み掛けるように、その整った顔を近づけてくる。

 

 木綿季「じゃあ、ボクが悲しむようなことは言わないよね?」

 

 歩夢「は、はい…」

 

 木綿季「なら良し!」

 

 最早俺は、そう答える以外の道を選べなかった。

 他にも選択肢はあったかもしれないが、全てユウキに先回りされて、両腕で×印を作りながら、「ダメに決まってるでしょ!」って通せん坊されていたのだ。

 

 …ユウキは、俺と一緒に暮らせなきゃ悲しむのだろうか。だったら俺も、一肌脱ぐしかないのでは…?

 

 と、ようやく腹を括った俺は、しかし頼りなく頷いた。

 でもそれだけでユウキは、パッと表情を輝かせてくれた。

 単純かもしれないけど、この笑顔の為ならば、同棲生活だろうとなんだろうとやってやろうと思えた。

 

 病院前に手配したタクシーに乗り込んだ俺達は、まずは俺の家へと向かっていく。

 俺の住んでいるマンションは、もう既に今月分の払い込みを済ませてしまっていた。

 それが勿体ないから、せめてあと一カ月は延期にしよう…と言ってしまえば、ユウキは泣き出すのだろうか。

 

 二人で俺の元お家となる空間に足を踏み入れると、まずは手っ取り早く、処分してしまう物と持っていく物を分別し始めた。

 一週間ぶりに覗いた冷蔵庫は、ほとんどすっからかんだ。ユウキが俺の家で荷物を纏めてくれる時に、賞味期限が近い食べ物を持って行っても良いと伝えておいたので、その影響だろう。

 捨てるものと言っても、食品トレーや紙屑ぐらいで、特に大掛かりな廃棄は予定していない。

 そんなわけで、特に手伝うこともなく、俺の部屋のあちこちを見て回っていた彼女は、ふとこちらに近づいてきた。

 

 木綿季「歩夢って全然エッチなの持ってないね~…もしかして、デジタルに移行しちゃってるの?」

 

 歩夢「…ノーコメントで」

 

 何気なくえげつい発言をしてくるユウキに対して、俺は堪らず黙秘権を行使した。

 まぁそう言うことだ。なにせ俺のスマホのアルバムには、溢れんばかりのユウキのエッチな写真が…と言うことを、恐らく彼女は分かっていないのだろう。

 何も知らない君は、揶揄うような笑顔で、辺りをキョロキョロとし始める。

 

 木綿季「ふ~ん、携帯覗き見ちゃおっかな~?」

 

 歩夢「そういう木綿季こそ、見られちゃいけないようなもん保存されてんじゃねぇの?」

 

 携帯にはパスワードを仕掛けているから、特に慌てる必要もない。仕返しのように訊ね返してやると、ユウキは極あっさりと、しかし結構意外な発言をした。

 

 木綿季「ないない。ボクはアナログだからね」

 

 歩夢「え、じゃあ探せばあるのか?」

 

 恥じらう様子さえも伺わせないユウキに、俺は思わず食い気味に訊ね返す。

 すると君は、また予想外なことを言う。

 

 木綿季「ううん、きっとアルファじゃ見つけられないよ」

 

 歩夢「?」

 

 …どういうことだ?漫画みたいに、ベッドの下とか本棚の裏に隠してあるってことじゃないのか…?

 ユウキの発言を解せなかった俺ではあったが、彼女は話は終わりだと言わんばかりに動き出したので、その疑問も放置しておくことにした。

 一人掛けソファやカーペット、調理器具などの役立ちそうな物は、後で来てくれる引っ越し業者の人に運んでもらうことにする。

 とそこでお昼を回ったので、この部屋で食べる最後のご飯を作り始めた。

 そうは言っても、簡単にきつねうどんを作るだけだ。すぐに出来上がったそれを、俺達は並んで座り、頂く。

 

 木綿季「これから一緒に住むことになるけどさ、そう言えば、ご飯とか洗濯とか、どうしよっか?」

 

 四角いお揚げさんをカプリと齧ったユウキは、それを飲み込んだ後に、ふとそう訊ねてきた。

 俺は麺を啜ると、サラリと答えた。

 

 歩夢「え?全部木綿季がやってくれよ」

 

 木綿季「ん、いいよ」

 

 俺が最低なことを言ってのけると、ユウキは表情を変えることもなく、それを了承した。そんな君の様子に、俺は思わず眉を顰めてしまう。

 だって、今はSAOの頃とは違うのだ。あの頃は、日々の食事を作れたのは、料理スキルを持っていたユウキだけだった。だから俺も、それに甘んじるより他なかった。

 でも今は違う。俺だって家事全般は問題なく熟せるのだ。一緒に生きていくなら二人で協力しないと、きっと亀裂が生まれてしまうだろう。

 俺はユウキに言い聞かせるように、言葉を返した。

 

 歩夢「…いや、そこは受け入れちゃダメだろ」

 

 木綿季「歩夢の為なら苦じゃないもん」

 

 するとユウキは、また当たり前のように言ってくる。それは嬉しい限りだが、ここで納得するわけにもいくまい。

 

 歩夢「多分あとから嫌になるぞ。まぁ、掃除は一緒にやるとしても…料理と洗濯は、お互いに日替わりとかじゃねぇの?」

 

 木綿季「えー、洗濯は交互でもいいけど、料理は一緒にしても良いんじゃない?今みたいにさ」

 

 歩夢「それもそうか」

 

 木綿季「あ、でも、朝はボクが作ってあげるよ。どうせ歩夢、起きられないでしょ?」

 

 歩夢「ぐ……じゃあ、洗濯物を干すのは俺が…」

 

 木綿季「ま、それは一緒に過ごしていく中でさ、順番に決めていこーよ」

 

 …頑張って平等な役割分担をしようとしているのに、どうしてもユウキに負担が偏りそうになってるんだが…このままだと、なんだかんだで全部自分でやるつもりなユウキに流される気がする…。

 ユウキを言い包めるどころか、逆に話の主導権を握られている気がしながらも、俺達は一旦その会話を切り上げた。

 

 昼食に使った食器を洗っていると、業者の人がやって来た。

 彼らに持って行って欲しいものを説明すると、せっせと荷物が運ばれ、どんどんと部屋の中が広くなっていく。

 そして終いには、部屋の中からは何もかもが消えてしまうのだ。

 こんなにも、この借り部屋は広かっただろうか。

 そのすっからかんな様子は、まるで俺がここに引っ越してきたばかりの頃のようだった。もうここで生活することはないのかと思うと、少しだけ寂しい思いを抱かないでもない。

 最後に簡単な清掃を済ませ、今日までの感謝を込めた後に、ガチャンと鍵を閉める。

 これでもう、本当にこのお家とはさようならだ。

 呼んでおいたタクシーに乗り込み、やがて新たな住居に辿り着いた。

 降り立った俺は、玄関前で佇むユウキに、そう言われた。

 

 木綿季「今日からここが、ボクらのお家だよ」

 

 微笑みと共に俺に瞳で訴えかけてきた君に、俺は確かに頷き返した。

 ここはもう、ユウキだけの家ではない。遂に俺は、現実世界においても、還るべき場所を創り出したのだろう。

 なんて思っていると、隣に立っていたユウキが、こつんと頭を寄せてきた。まだ外に居るって言うのに、そのまま身体の力を抜いて、俺に身を預けてくる。

 そんな君の表情は、見たことないぐらいに、頬が緩み切った笑顔だった。

 

 歩夢「そんなに嬉しそうな顔してどうしたんだよ」

 

 木綿季「えへへぇ~…きょうからずっと、あゆむといっしょぉー…」

 

 甘い声と言葉、そしてその純粋過ぎる笑顔は、これ以上になく俺の心を揺さぶってくれる。

 だから堪らず、俺は君の頭を撫でる…のではなく、触れれば溶けてしまいそうなほどにサラサラとした、その魅力的な黒髪を撫でてしまうのだ。

 

 歩夢「あぁ、そうだな…」

 

 彼女の言葉の真意を訊ね返す勇気は、まだ俺にはなかった。曖昧な返事をした俺は、暫くしてからお家に上がらせてもらった。

 すると、少し遅れてやってきたトラックから、俺の家の家具が運び込まれる。

 しかし彼らには定住先はなく、一旦はリビングに放置されることとなった。

 引っ越し業者さんが家から出ていくと、俺とユウキもパブリックモードを解除し、ふぅと息を吐き出した。

 

 …何気なくユウキの家に立ち入ったが、今日からはここが、本当に俺の住処になるのか。

 結構緊張すると思ってたんだけど、いざってなると…案外いつもと変わらないな。

 …多分、ユウキと一緒に居ることが、当たり前になってるんだろうな、俺の中では。

 

 なんて自己分析を行いつつも、俺はユウキに一つ訊ねた。

 

 歩夢「俺の家から持ってきた物、どうする?いつまでもここに置いてるわけにもいかないだろ?」

 

 俺の言葉に呼応するように、辺りに散在する家具を眺めた彼女は、こちらを見やることなく呟いた。

 

 木綿季「ん~、ボクの予定では、姉ちゃんの部屋を歩夢の部屋に変えようと思ってるんだけど…」

 

 歩夢「いや、それは悪いだろ」

 

 そして俺は、ユウキの言葉に反射的に言い返した。

 だって、ユウキにとって家族の部屋というものは、残された唯一の痕跡であるのだ。それをどうして、俺に塗り替えることが赦されようか。

 とそんな俺の内心を見抜いたのだろう。君は俺に視線を合わせると、穏やかな表情で答えた。

 

 木綿季「ううん、それで良いんだよ。きっと、いつまでもあの形で残してはいられないし…ボクはね、歩夢だから良いって思えるんだよ?」

 

 …俺だから、良い、か…。

 ユウキにそこまで嬉しいことを言われては、俺も拒否することなど出来なかった。俺は最大の感謝を込めて、彼女に言葉を返した。

 

 歩夢「…そっか、じゃあ、大切に使わせてもらうな」

 

 そうして俺達は、二人で協力しながら、お姉さんのお部屋を改造し始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 遂に今日から、アルファとの共同生活の始まりだ!

 ボクは踊る心を抑え切れない中、まずは二人一緒に、姉ちゃんの部屋にある物を取り出したり、或いはアルファの持ってきた物を取り入れたりと、せっせせっせと行動し始めた。

 

 アルファがボクのお家に住んでくれる以上、何処かの部屋をアルファの部屋にしないといけない。

 それを考えた時、ボクは自分でも驚くぐらいに自然と、姉ちゃんの部屋を改造することを思い付いたんだ。

 だって、姉ちゃんの部屋が失われたとしても、心に残る思い出が消える訳じゃないからね。

 でもそれ以上に、ボクにとって、アルファはもう家族同然の人だ。だからこそボクは、それをすんなりと受け入れられたのだろう。

 だけど流石に、姉ちゃんの使っていた机とかは、まだ捨てる気にはなれないね。

 …も、もしかしたら…そ、そのうち、家族が増えるかもしれないし…その時の為に、取っておこうと思うんだ。

 その内心は、勿論言葉にすることはなく、二人で作業を続けていく。

 そんな中アルファが、ふとボクに問い掛けてきた。

 

 歩夢「なぁ、木綿季」

 

 木綿季「ん?」

 

 歩夢「木綿季ってさ、姉ちゃん姉ちゃんって言ってるけど…双子なんだろ?お腹から出てきた順番なのか?」

 

 アルファには度々、ボクの家族の話をすることがあるけど、まだそれは伝えていなかったらしい。その問い掛けに対して、ボクは誇らしげに答えた。

 

 木綿季「ううん、そーゆーわけじゃないよ。ただね、ボクは活発で、姉ちゃんはそんなボクを後ろから支えてくれたんだ。だから姉ちゃんは姉ちゃんなんだよ」

 

 歩夢「あー、確かに、御淑やかそうな見た目してるもんな」

 

 するとアルファも、頭の中で姉ちゃんの姿を思い浮かべたのか、納得したように頷いてくれた。

 とそんな君に向けて、ボクは朗らかに笑いながら、前々から思ってたことを言ってやったんだ。

 

 木綿季「多分ね、姉ちゃんが生きてたら、歩夢は浮気してると思うよー」

 

 歩夢「…どゆこと?」

 

 当然、アルファは不思議そうにこちらを見つめてくる。

 だけど、多分この予感は当たってると思うんだ。ボクはその理由の一端を、アルファに教えてあげた。

 

 木綿季「姉ちゃんはね、ボクよりなんでも出来たから、歩夢は姉ちゃんに惹かれちゃうんじゃないかな」

 

 歩夢「…まさか」

 

 木綿季「ほんとだよ~」

 

 アルファは引き攣った笑みでそれを否定しようとしていたけど、ボクはあくまで笑い飛ばしながらそれを肯定した。

 …言葉にした通り、姉ちゃんは運動でも勉強でも機転の良さでもなんだって、ボクよりも一段優れていたんだ。しかもべっぴんさんだし…となると、ボクが姉ちゃんに勝てる要素はない。

 加えてアルファの元の好みは、御淑やかな人なんだ。今は、ボクと一緒に居るうちに、変わっちゃったみたいだけどね。

 その二点を思うと、恐らく、アルファはボクのお家に遊びに来た時に、姉ちゃんと出会って一目惚れしちゃって…多分姉ちゃんは、「歩夢君はユウの恋人だからねぇ~」って感じで、ボクを想ってそれを断ろうとしてくれるんだろうけど…アルファはすっごく魅力的だ。姉ちゃんもそれに抗えないと思う。

 そうなったら、二人は相思相愛。ボクに隠れて愛を育んで、気が付けばボクは、アルファに振られる。うん、悲しいぐらいに、そんな未来が簡単に思い浮かぶよ!

 だけど、今ボクの目の前にいるアルファは、絶対にボクを選んでくれるはずだ。

 だって実際のところは、そうなっちゃうように、ボクはアルファの好みをボク自身に変えちゃったんだからね~。アルファ自身も気づいてないみたいだけど。

 

 そうこう話をしているうちにも、ちょっと女の子らしい様子から、シンプル過ぎる男の子っぽいデザインへと、お部屋の模様はどんどん移り変わっていった。

 最後に、二人で協力して一人掛けのソファを二階に持ってくると、アルファのプライベートな空間が完成だ。

 

 木綿季「改造かんりょー!」

 

 出来上がった部屋の前で、ボクは満足な気持ちのままに叫んだ。

 するとアルファは、同じように達成感の溢れた表情で、しかしボクとは違った言葉を掛けてくる。

 

 歩夢「ちょっと気が早いぜ。あとは布団さえ持って来たら、だろ?」

 

 そんなアルファの一言に、ボクはまた思ったままのことを伝えたんだ。

 

 木綿季「え?寝る場所は一緒だよ?」

 

 歩夢「え?」

 

 木綿季「え?」

 

 歩夢「……」

 

 ボクの言葉を受けたアルファは、大きく固まり、短い疑問を発した。

 だからボクも同じように疑問を返してあげる。

 そうなるとアルファは、そのまま黙り込んじゃった。

 「え?」合戦は、ボクの勝ちってことだね。

 だけど往生際の悪いアルファは、まだ微かな抵抗を続けようとするのだ。

 

 歩夢「で、でもさ…一緒に寝れる場所なんて──」

 

 木綿季「パパとママのダブルベッドがあるから、その心配はないよ!」

 

 歩夢「……」

 

 これで退路は完全に封じ込めてしまった。ボクの魔の手にがんじがらめになったアルファは、何処か焦りを募らせたような表情を作っている。

 仮想世界じゃ一緒に寝てるし、リアルでも何回か隣に並んで寝てるのに、何を今更躊躇することがあるんだろ…ボクには良く分からない。取り敢えず、沈黙は了承と見なしておくことにしよう。

 それに、ボクらのお家に来てからのアルファ、ずっとニコニコしてるからね。笑顔が零れ過ぎて心配になるくらいだ。

 今もちょっぴり焦った表情してるけど、その半分以上はニコニコで覆われている。彼もボクと同じで、今日から一緒に住めることが嬉しいのかな?そうだったら、ボクもすっごく嬉しいな…。

 

 お部屋の模様替えを終えたボクらは、リビングに戻ってソファに腰掛けた。

 ボーっとテレビを眺めながら適当な会話を弾ませていると、もう晩御飯時だ。今日は二人で一緒に、牛丼を作ることにした。二人で料理するのは初めてじゃないけど、ちょっぴり新鮮な気もしたんだ。

 とここまでの流れは、別にいつもと変わりない。アルファがボクのお家に来てくれた時の、よくあるパターンだと思う。

 だけど、今のアルファは、夜が更けたからってお家に帰っちゃうことはないんだ。少し寂しい思いをしながら、夜空の元の玄関前で、君にバイバイって手を振ることだってない。

 だって、ここが君にとっての、還ってくる場所になったから。

 今日からずっと、君と一緒。やっぱりそれが、堪らなく嬉しい。

 思わず鼻歌を交えながら、食器洗いを済ませてしまう。ボクの洗った食器は、隣に居るアルファが受け取ってくれて、それを綺麗に拭きあげると、食器棚に戻してくれた。

 

 木綿季「お風呂、先に入ってくれていいよ」

 

 歩夢「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうかな」

 

 残りの家事を二人でテキパキと済ませたその後に、ボクは君にそう言った。

 ここで譲り合ってもボクが折れないことを理解しているのか、アルファは素直に厚意を受け取ってくれた。

 だけどそこで、ボクはふと思ったんだ。

 

 木綿季「あ、待って…そう言えばだけどさ、身体に巻き付けてる包帯、どうするの?」

 

 今のアルファは、切り傷の保護を目的として、お腹や足に包帯をグルグルしている。

 でもお風呂に入るとなれば、包帯が濡れないよう気を付けないといけないし、もしかすれば、また新しいものを巻かないといけないのかもしれない。

 そこら辺が良く分かってなかったボクは、それを訊ねたのだ。

 対するアルファは、そのことを忘れていたのだろうか。ハッと気が付いたように口を開け、しかしすぐにその口を閉ざす。

 そんな彼は困ったように、ボクに答えてくれた。

 

 歩夢「考えてなかったな…肩は濡れないように気を付けて、左手は…まぁ無理に動かさなきゃ大丈夫だろうけど…お腹と太腿はなぁ…ビニールで覆うのも難しいし…」

 

 なるほど、話を聞く限り、包帯はまだ外しちゃダメらしい。

 確かに、肩は注意できる範囲だし、左手は問題ないとしても、お腹と脚はどうにもならないよね…でも、お風呂入らないわけにもいかないだろうし…とボクらは、意外なところで初の困難にぶつかった。

 だけど、その解決方法は、すぐに見つかったんだ。

 ボクはポンと手を叩くと、アルファにその名案を伝えた。

 

 木綿季「じゃあ、ボクが身体洗ってあげるよ!シャワー以外は足湯ぐらいしか出来ないだろうけど…もう暫くは我慢するしかないよね。うん、そうしよう!」

 

 それは、どこまでも簡単なことだった。

 今のボクらは一緒に暮らしてるんだから、二人で協力すればいいだけのことなんだ。

 ボクは意気揚々と、このナイスアイデアを彼に説明してあげた。

 一方アルファは、別の意味で勢いを付けて、猛烈に言い返してきた。

 

 歩夢「待て待て待て待て待て待て!!なんでそんなぶっ飛んだこと思い付けるんださっきから!?」

 

 木綿季「でもそうでもしないと、歩夢お風呂入れないよ?」

 

 尋常じゃない焦燥に駆られるアルファに、ボクはド正論をぶつけてあげると、彼は納得せざるを得ないようだった。苦しい表情で、悩ましそうに言葉を返してくる。

 

 歩夢「それは……確かに、そうなのか……」

 

 木綿季「どうする?」

 

 歩夢「……よろしく頼む」

 

 結局、ボクがお風呂のサポートをしてあげることに決まって、ボクらはお風呂の準備をし始めたんだ。

 どうせお風呂に入ったら裸を見られることになるのに、アルファは断固として脱衣所にボクを入れてくれなかった。

 ボクより女の子してるじゃんと思いつつも、服を脱ぎ終えたアルファが声を掛けてくれたので、ボクは脱衣所に踏み入った。

 アルファは既に、お風呂場で待機してくれているみたいだ。ボクは迷うことなく服を脱いでしまう。勿論下着もだよ?

 ボクはアルファと同じ生まれたままの姿で、お風呂のドアを豪快にスライドさせた。

 

 木綿季「じゃ、ちゃんと綺麗にしよっか?」

 

 歩夢「」

 

 …あーあ、またアルファが固まっちゃったよ…まぁ、狙ってやったんだけどねっ。

 ボクのあられもない姿を拝んだ彼は、時が止まったかのように動きを止めていた。だけど眼球の動きだけは止まることなく、ボクの身体のあちらこちらを眺めてくる。

 そしてその末に、彼は動揺を隠せない声色で、ボクにそう言ったんだ。

 

 歩夢「…な、なんで…木綿季も裸なんだ…?」

 

 木綿季「ん~…どうせなら、洗い合いっこした方が楽しいかなって…ね?」

 

 アルファの問い掛けに対して、ボクは裸の身体ごと君に迫ると、耳元に息を吹きかけながら、そう呟いたんだ。

 するとアルファは、音が聞こえるぐらいに大きく息を吞んだ。

 そしてボクは、タオルでボディーソープを泡立てて、君の逞しい身体にそっと、触れた。

 それからどうなったのかは…みんなの想像に任せることにするよ。

 

 顔を真っ赤にして、のぼせたボクらがリビングに戻ってきたのは、暫くしてからのことだった。

 呷るように水を喉に流し込み、二人でソファにどしっと腰を下ろす。

 背景音楽として液晶に映像を流しながら、ボクらは心地良い沈黙に満たされていた。

 いつもはまだまだ起きている時間だったけど、ちょっと長風呂したせいか、ボクの身体中は、一日の疲れをどっと圧し掛からせていた。ボクは大きな欠伸をした後に、アルファへと視線をやる。

 

 木綿季「ボク…もう眠くなっちゃった…早いけど、一緒に寝ない…?」

 

 歩夢「そう、だな…俺も流石に、ちょっと疲れた…」

 

 意見を綺麗に一致させたボクらは、リビングを真っ暗にする。

 ねむねむに包まれる中でアルファの手を引き、ボクらの寝室へと案内する。アルファはもう抵抗することはなく、大人しくボクについてきてくれた。

 部屋を薄暗く照らし、ボクはふかふかのベッドに潜り込んだ。

 アルファも同じように、ボクの隣に入り込み、暗色に染まった天井を眺めていた。

 さっきまではあんなに眠たかったのに、ベッドに入ると何故か少しだけ目の冴えたボクは、淡いオレンジの光を見つめながら、君と少しお話しすることにしたのだ。

 

 木綿季「今はママとパパのお下がりだけど、また今度、ボクらのベッドを買いに行かないとだね」

 

 もしかしたら、疲れて寝ちゃってるかな?って思ったけど、君は仰向けたまま、返事をしてくれた。

 

 歩夢「どうせなら、キングベッドぐらいゆったりしたサイズにするか」

 

 木綿季「それはまだ早いよ~、今はクイーンぐらいで充分じゃない?」

 

 歩夢「そんじゃあクイーンにしとくか…って言うか、別にこのままのベッドでも良いんじゃね?折角使えるのに、勿体ないだろ?」

 

 木綿季「…それもそうだね。じゃ、このままにしよっか」

 

 そこでボクらは、自然と会話を途切れさせた。

 あとはもう、段々と落ちていく瞼に身を任せて、君の温もりを手のひらに感じながら、意識を手放してしまえばいい。そう思っていたボクは、ゆっくりと闇に落ちようとしていた。

 その時だった、仰向けになっていた君が、ゆっくりとこちらに身体を向けたのは。

 ほとんど閉ざされていた瞼を今一度開いて、ボクは同じように身体を向かい合わせる。

 君はボクの瞳を覗き込むように見つめながら、その口をゆっくり動かした。

 

 歩夢「なぁ、木綿季…」

 

 木綿季「どーしたの?」

 

 ボクの名前を呼んでくれた君に、優しく訊ね返す。

 すると君は、暗い部屋の中で微笑みの形を作りながら、ボクにそう言った。

 

 歩夢「あの日…俺のこと止めてくれて、ありがとう…まだ、お礼言ってなかったから…」

 

 木綿季「ん、いいよ。そんなこと、気にしなくても良いのに」

 

 歩夢「そんなことじゃない。あの夜に木綿季が止めてくれなかったら、俺は今頃、こうやって一緒の家で暮らしたり出来てなかっただろうからさ…」

 

 君の言うあの日って言うのは、ボクらが襲われたその日のことなのだろう。

 あの時アルファを止めてあげるのは、ボクにとってはもう当然のことだった。だからボクは気にしないでと言ったけれど、アルファは重ね重ねにボクに感謝を示してくれる。

 そして君は、その微笑みの中に僅かな暗がりを作ると、独り言みたいに言葉を続けた。

 

 歩夢「あの時の俺は…いや、俺って人間は、きっと、狂ってるんだ…」

 

 歩夢「ナイフを握った俺は、あの男を殺すことに、なんの躊躇も抱かなかった。死んで当然の奴なんだから、殺してやるべきだってさえ思ってた…」

 

 歩夢「俺は木綿季の為だったら、人を殺しても良いって思ってるような異常者なんだ…木綿季が居てくれなきゃ、俺はただの狂人なんだ。……ごめんな、俺、こんな奴で…」

 

 初めて聞かされた君の本音は、今すぐにでも折れてしまいそうな程に、細々とした声で紡がれた。君の手のひらを包む強さが、僅かに強まってしまう。

 

 アルファは異常者なんかじゃない。

 無責任にそう言ってあげたかったけど、確かにあの時の君の様子は、少しおかしかった。今はいつも通りの優しい瞳をしているアルファだけど、あの時ばかりの君は、その瞳を狂熱で染め上げていた。少し怖いぐらいだった。

 だからもしかしたら、君は何処か狂気じみた一面を持っているのかもしれない。だけど──。

 心に新たな迷いを生じさせた君に、ボクはあの時の気持ちをありのままに、伝えたんだ。

 

 木綿季「ボク…嬉しかったよ。歩夢がボクの為に、必死になってくれたこと…」

 

 歩夢「……」

 

 でもそれだけじゃ、君の瞳の中に滲んだ暗がりは、消え去ってくれなかった。

 だからボクは、あの日君に伝えなかったそのことを、遂に話すことにした。

 

 木綿季「『お前なんて生きてる価値ない』ボクはあの日、あの男にそう言われたんだ。でね、その時ボクは…確かにそうだなぁって、思っちゃった…」

 

 木綿季「ボクが生まれてこなきゃ、姉ちゃんもママもパパも、ずっと楽しく暮らしていけたんだなって、ボクが生まれたばっかりに、みんな不幸になったんだって…」

 

 ボクがそれを伝えると、君はボクの手をぎゅっと強く包み込みながら、一生懸命言ってくれるんだ。

 

 歩夢「あんな奴の言葉、間に受けなくたっていい…!木綿季は…木綿季が生きてくれてるから、俺は生きる意味が見出せるんだ。木綿季が俺の生きる意味になってくれてるんだ!!だから、木綿季は生きてる甲斐がない人間なんかじゃない!!絶対にだ!!」

 

 その言葉に心を温めたボクは、微笑みを向けると、更に続ける。

 

 木綿季「うん…ありがと…。あの日ボクはね、どうしてもそう思っちゃったんだ…。でも、それだけじゃないんだよ?歩夢が…あの日間違いを犯そうとしたその時に、ボクは…ボクが歩夢を助けないといけないんだって、そう強く思えたんだ…。だからね、歩夢がボクに生きる意味を見つけてくれたのと同じで、ボクも歩夢に、生きる意味を見つけられたんだよ…」

 

 木綿季「これまでもそう思ってたけど、それは…自分の価値から目を逸らすためだったのかもしれない。でもね、今のボクは、ホントに心からそう思えるんだよ?…けど、最近ボクは、思うんだ。生きてるだけでこんなにも満たされているボクらが、生きる意味を見つける必要なんて、あるのかなって…」

 

 歩夢「……」

 

 木綿季「もしかしたら、意味なんてなくても良いのかもしれない。でも…ボクは歩夢の為に生きてるんだ。歩夢がボクの生きる意味になってくれたんだ」

 

 木綿季「だからね、ボクはこれからもずっと、歩夢の為に生きていくんだよ…もしまた歩夢が道を踏み外しそうになったら、ボクが隣で包み込んであげる。ボクの一部が歩夢になったみたいに、歩夢の一部にボクが根付いているなら、ボクがずっと一緒に居てあげるからね…」

 

 そこまで、ただ口を閉ざしてボクの言葉に耳を傾けていた君は、しかしそこで耐え切れず、震えた声を発した。

 

 歩夢「ずっとって…そんなの…まだ…」

 

 木綿季「…ううん、もう、決めてるんだよ。ボクは歩夢だけって、ずっと前から…。きっとボクは、歩夢に生きるために命を宿したんだ。歩夢に全てを捧げるために、この世界に生まれてきたんだ。だからね、ボクはこれからずっと、何があっても、歩夢の傍で支えてあげるよ…」

 

 そんな君に対して、ボクはもう僅かながらの揺らぎのない心で、その気持ちを囁いた。

 君は言葉で応えてはくれなかったけれど、ボクを強く抱き寄せながら、ありがとう、ありがとうと、何度も呟いてくれた。  

 今のボクは、それで充分だった。

 君の愛に包まれる中で、やがてボクは、微睡に意識を遠のかせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨戸の端から漏れ出す白い光が、彼方へと浮遊していた意識を掴んだ。

 目覚めの余韻に浸りながら、ボクは左手を上掛けからモゾモゾと引き抜くと、朧気ながらに目をゴシゴシと擦る。

 ぼんやりとした視界の中で、隣の上掛けが大きく上下していることに、ボクは気が付いた。

 ふと隣を見やると、君はすーすーと寝息を立てながら、穏やかな表情で目を閉ざしている。

 そんな君を見たボクは、思わず一人、呟いてしまうのだ。

 

 木綿季「寝る場所が変わったら、安眠出来ないって言ってた癖に…」

 

 いつもとは寝る場所が違っているはずなのに、隣で眠る君は、随分と熟睡しているようだった。まるでボクの右手をお守りみたいにキュッと握りながら、今日もしっかりお寝坊さんだ。

 これから毎日、君の寝顔を現実世界でも拝める。その事実に、どうしようもなく笑みが零れてしまう。

 そしてボクは、空いている左手を君の頬にあてがい、優しく優しく、撫でてあげるのだ。

 君が目覚める前の数分間、愛くるしい貴方への愛を、ボクは左手を介して伝え続けた。

 

 

 

 

 

 

 




 3

 次回の投稿日は、六月二十日の月曜日となります。

 では、また第192話でお会いしましょう!
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