~SAO with Yuuki~   作:うずつるぎ

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第192話 同棲生活n日目

 「じゃ、またね、木綿季~」

 

 木綿季「うん!また学校でね~!」

 

 「バイバイー!」

 

 三月中旬に差し掛かった週末、ボクは朝から、学校の友達と遊びに出掛けていた。

 今日は一日がすっごく楽しくて、あっという間に時間が過ぎ去っていた。もうお別れなのが名残惜しいぐらいだ。

 日も落ち始めたその頃に、帰路の分岐点となる駅でボクらは手を振り合うと、そこからは一人っきりだ。

 やってきた電車に乗り込み、最寄り駅で降りる。通り慣れた道筋を進んでいると、いつの間にか、辺りはかなり暗くなっていた。

 この調子だと、家に帰ったらすぐ晩御飯の準備をしないといけない。他にも、洗濯物を取り入れて、着ている服は洗濯に回して…そうだった、今日はトイレ掃除もやるんだった。

 この通り、やらなきゃいけないことは山積み──。

 

 ──だったのは、以前のボクだけに限られる。

 何故なら、今のボクには──。

 

 やっとのことでお家に辿り着くと、ボクは門扉を開けて玄関前にまで移動する。

 お財布から鍵を取り出し、それを差し込んだ。ガチャッと鍵を回す音を鳴らしながら、同時にドアノブを引く。玄関ドアを潜れば、そこは明るいライトで照らし出されていた。

 そしてボクが、大きな声を出そうとしたその時だ。

 ボクから見て左側にあるドアが、ゆっくりとスライドする。そこから現れた人影は、ボクのことを認識すると、和やかな笑顔でそう言ってくれた。

 

 歩夢「おかえり、木綿季」

 

 木綿季「ただいま、歩夢!」

 

 たったそれだけのことで、ボクの心にはポカポカが舞い込んでくるんだ。だからボクもついつい笑顔を綻ばせて、元気よく言葉を返しちゃう。

 君がボクをお出迎えしてくれること。それがボクにとってどれほどの喜びをもたらしているのか、実はボク自身でさえも、推し量れてなかったりするんだよね。

 

 歩夢「いまオムライス作ってるからさ、ご飯はもうちょっと待ってくれ」

 

 木綿季「ありがと、手洗ったら、ボクも手伝うからね」

 

 歩夢「じゃあ、適当にお吸い物を」

 

 木綿季「りょーかい」

 

 そう、今のボクには、隣で生活を支えてくれる君が居るんだ。

 アルファはボクの帰宅時間に合わせて、こうしてご飯作りに勤しんでくれている。今日はボクが遊びに行ってたから、家事全般は全て、彼に任せっきりの一日だった。

 だけども、ボクだって何もかもをアルファに押し付けるつもりなんてないんだ。オムライスに合うスープの作成をお願いされたボクは、手を綺麗にすると、嬉々と台所に向かっていった。

 

 アルファとの同棲生活を初めて、今日で大体一週間ぐらいだ。

 君との共生は、これでもかって言うぐらい順風満帆だった。

 ちょっとぐらい、お互いに譲れない所とかあるかなって思ってたんだけど…ボクらはお互いに、ピッタリ密着出来る形をしていた。

 これは多分、SAOの頃に二人で暮らしてたからなんだろうね。ボクらのありのままの生活が、一緒に生きるってことだったんだ。

 

 歩夢「あー、そこのケチャップ取ってくんね?」

 

 木綿季「んー、こっちは塩欲しいかなー」

 

 歩夢「ほい」

 

 こうやって一緒にキッチンに立っていると、まるでボクらはおしどり夫婦みたいに思える。

 …まぁ、実際のことを言うと、もうほとんどそんな感じだけどね。

 家に帰ってきたら、必ず君がお出迎えしてくれる。一緒にご飯を食べたり、お家でゆっくり過ごしたり、そして一緒にベッドで眠りについたり…これを夫婦だって言わずして、なんと言えるだろうか。

 別に結婚してるわけじゃないけど、実質的には結婚しているみたいなものなのかもしれないね。

 って言うか、絶対にそうだよ。元はと言えば、ボクらは付き合う前から同棲してたわけだし…周りの人達とは、ちょっぴり順序が違っているからさ。

 

 歩夢&木綿季「「いただきまーすっ!!」」

 

 二人で協力して作った夜ご飯は、食卓に隣り合わせに座って頂く。彼の作るオムライスは、ふわっふわで絶品だった。

 もしかしたら、アルファの料理って、ボクより上手なんじゃないかな…って思えてしまうのは、乙女なボクとしては、少しだけ悔しかったりする。

 だからこそボクは、名誉挽回の為に、そんな発言をしたのだ。

 

 木綿季「ね、明日ってさ、ホワイトデー前日じゃん」

 

 恐らく彼は、ボクが何かおねだりをするとでも思ったのだろう。ベラベラとその饒舌な口を動かし始めた。

 

 歩夢「そうだな。木綿季はなに欲しい?あ、別にチョコじゃなくても、なんでも良いんだぜ?例えばブランド物の──」

 

 とそこまで言わせたところで、ボクもすかさず口を挟ませてもらった。

 

 木綿季「それはダメに決まってるでしょ!第一、節約しなきゃって言ってたのは歩夢の方じゃん」

 

 歩夢「え、あぁ、まぁそうだけど…」

 

 ボクが若干睨み付けながらそう言ってやると、君は苦笑いを浮かべながら、それとなく誤魔化しを入れようとしていた。

 …全く、アルファは隙あらばボクにお金を使おうとするんだから…ちゃんとボクがストッパーになってあげないと、ちょっと不味いんだよね…。

 勿論、ボクに惜しげもなく捧げようとしてくれるアルファの心持ち自体は、本当に嬉しい。

 それだけ尽くしてくれるってことは、君もボクにベタ惚れなんだって、よく分かるからね。

 だけども、例えどれだけ君がお金持ちになったとしても、ボクは変わらず庶民的な感覚の持ち主なのだ。別に、ブランド物に拘るつもりなんて全くない。似合うなら普通ので充分なんだ。

 

 とここら辺で話を戻させてもらおう。

 本題はここだろう。

 大金を持て余していたアルファが、どうして節約しなければならないのか。

 それは、少し前に起きた殺人未遂事件が大きく関係しているのだ。

 あの日彼は、輸血が必要とまではいかずとも、血を多く流してしまった。

 そのせいで今の君は、これまで定期的に行っていた献血を一時中断しており、となると、エイズ特効薬も作れないわけで…現状、アルファにはお金が入ってこない。

 つまり、次に収入を得るまでの間は、ボクらは貯蓄だけでなんとかやっていかないとなんだ。

 

 木綿季(明後日もやしが特売なんだよね。一緒に買いに行かなきゃ…)

 

 歩夢(節約って言っても、前の旅行みたいに、高級旅館にはバンバン泊まれないってぐらいなんだけど…)

 

 この行き違いが解消されたのは、もうしばらく後のことだった。

 

 歩夢「…んで、ホワイトデー前日だからどうしたんだ?」

 

 少しばかり、節約術に頭を働かせていたボクは、アルファにそう言われて現実へと戻ってきた。

 そう言えば話の本筋はそっちだったと思い出したボクは、意気揚々とそれに答えた。

 

 木綿季「明日さ、ホワイトデーのお返しの代わりに、ボクとお菓子作りしようよ!」

 

 そう言われたアルファは、困ったように眉を顰めながら、煮え切らない答えを返してくる。

 

 歩夢「お菓子作り、なぁ…果たして俺に務まるかどうか…」

 

 そんなアルファの背中を、ボクはバシーンと叩いてあげた。

 ビックリして背筋を伸ばした君に、ボクは笑顔で言ってあげる。

 

 木綿季「だいじょぶだいじょぶー!ボクが色々サポートするからさ!」

 

 歩夢「…じゃあ、やってみるか、お菓子作り!」

 

 木綿季「いいね~、歩夢も乗ってきたね!」

 

 そうして、アルファも乗り気になってくれたことで、明日のボク達はお菓子作りをすることに決定したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして迎えたその次の日。

 三時のおやつの時間に間に合うよう、その少し前の時間帯に、ボクらはキッチンへと足を運んでいた。

 それまでのボクらはと言えば、アミュスフィアを使ってALOで遊んだり、或いは買い物に行ったりと、いつもと変わらない日々を過ごしていた。

 そして今日は、クリスマスにボクがプレゼントしたお揃いの部屋着を、ボクらは身に付けていたんだ。

 流石に外でペアルックをするのは恥ずかしいんだけど、お家なら何の問題もない。お揃いの特別感を存分に楽しめる。

 君から貰ったヘアバンドも、お家の中じゃしっかり付けてあげてるし、嫌とは言わせないよ。ま、アルファが嫌って言うわけないんだけど。

 

 歩夢「お菓子作りって言ったけど…一体なに作るつもりなんだ?」

 

 ボウルとか泡立て器とか、これから必要な物を、ボクが棚からあれこれと取り出していると、アルファがそう訊ねてくれる。

 今日はどんなお菓子を作るのか。ボクも色々考えてみたけど、やっぱりこれしかないと思ったんだよね。

 訊ねてくる君に対して、ボクは堂々と答えてあげた。

 

 木綿季「今日はね、クレープ作ろう!」

 

 ボクの一番好きなスイーツと言えば、昔から変わることなくクレープなんだ。

 今日のお菓子作りはホワイトデーのお返し代わりなんだから、ボクの好きなスイーツを作ることには、彼もなんの異論もないはずだろう。

 ボクの言葉を受けたアルファは、納得したような表情でこう言った。

 

 歩夢「やっぱな~、木綿季って、クレープめっちゃ好きだもんな」

 

 木綿季「まぁね~、じゃ、早速作ろっか」

 

 卵、牛乳、薄力粉と、まずは生地となる材料をボウルに投入し、泡立て器でしっかりかき混ぜる。

 それらを綺麗に混ぜ終え、黄色い液体に仕立てると、今度はそれをホットプレートの上に乗せる…とここまでは、アルファも普通にこなしていた。

 だけど、料理上手な彼の手が止まったのは、そこから先の工程だった。

 綺麗に焼けたクレープ生地をお皿に乗せ、イチゴやバナナ、チョコソースなんかのトッピングをしていく。

 アルファもボクと同じように、ホイップクリームを手に取って、それを生地の上に乗せようとしたんだけど…。

 

 木綿季「あ、違うよ、歩夢」

 

 歩夢「え?」

 

 木綿季「クレープは最後に巻くことになるから、クリームは中心じゃなくて端っこの方が良いんだ」

 

 歩夢「へぇ~…木綿季よく知ってんだな」

 

 木綿季「いやぁー、そんなことないよ~」

 

 ボクのアドバイスを受けた君は、生地の中心にクリームを山盛りにするのをやめ、外側に集中させていく。

 彼は本気で感心したようにボクを褒めてくれて、対するボクは謙遜を入れておいた。

 だけどまぁ、ボクがお菓子作りを提案したのは、アルファに褒められたかったって言うのもあるからね。内心は天狗も良いとこだよ。

 エイズが治った頃とは違って、今のボクは、ちゃんとアルファにお菓子作りを教えられている。ボクも成長しってことじゃないかな?

 お互い好き好きにトッピングを完成させると、ボクはまた彼にやり方を説明しながら、手本のようにクレープを畳んでいく。

 一回生地を折って、あとは円錐状になるようにクルクル巻いたら──。

 

 木綿季「クレープ完成っ!」

 

 歩夢「おぉー、こうやって作られてたのか…」

 

 お店に売っていてもおかしくはないだろう。高クオリティのクレープを作り上げた君は、感動したようにそんなことを呟いていた。

 このままクレープをここで食べちゃうのも良いけど…今日はお日様が照っていて、気の早いウグイスが鳴き声の練習をするぐらいに好天気だった。

 ボクはお庭を指差しながら、彼に言うのだ。

 

 木綿季「歩夢、今日は暖かいし、ベンチで食べようよ!」

 

 歩夢「そうするか。冬は出番なかったしな」

 

 意見を一致させたボクらは、クレープ片手に窓際へと移動し、そこでお庭用のサンダルを履く。

 他の家に比べたら広いであろうお庭で数歩足を進めると、そこには木製のベンチとテーブルが設置されていた。

 あれは去年の夏手前、ボクとアルファが手掛けたDIYだ。

 ベンチって言っても、簡単に木板を組み合わせただけで、背もたれなんか付いていない。見た目は、公園のベンチの簡易版みたいな感じだね。

 でもアレを作るのにも相当苦労して…テーブルは既製品を購入しようって、二人で固く頷き合ったぐらいだよ。

 冬場は寒くて、お庭でゆっくりする気にはなれなかったけど、春先の今なら、丁度いい心地良さに違いない。

 並んでベンチに腰を下ろしたボクらは、実はちょっぴり、ベンチが壊れないか心配しつつも、クレープを食べ進めていく。

 

 木綿季「今日のは中々美味しかったよ~」

 

 歩夢「何番目ぐらいなんだ?」

 

 木綿季「ん~…二番目かな」

 

 アルファと一緒に作った愛情バッチリのクレープ。これが一番目じゃないなんて…自分でもビックリだ。

 それはアルファも同じなのか、若干驚いたように訊ね返してきた。

 

 歩夢「これで二番か。じゃあ一番は?」

 

 木綿季「ママが良く作ってくれたクレープだね。やっぱり飛び抜けて一番だよ。…ママの作るクレープはね、どんなものでも、すっごく美味しかったんだよ?歩夢にも食べさせてあげたかったよ~。ボクと姉ちゃんは、それが大好きでさ。だからボクは、クレープが一番好きなんだろうね~」

 

 ボクがそう呑気に言えば、君は僅かに視線を下向け、少しだけ言葉に詰まってしまった。

 きっとアルファは、その豊かな日々を思い返すことで、ボクの胸に走る悲しみをどうしてあげたらいいのか、考え込んでいるんだろう。

 でも、そんな必要はないんだよ。

 悲しい思いはしていないなんて嘘を言うつもりはないけど、アルファが隣に居てくれるから、ボクはとっても満たされてるんだよ。

 そんなボクの想いを伝えるように、君の手のひらに触れると、ボクは微笑んだ。

 するとアルファもまた、優し気な微笑みを浮かべてから、口を動かした。

 

 歩夢「…それを越えるのは、難しそうだな」

 

 木綿季「うん、でもいつかは上回ってみせるよ!」

 

 ボクが元気よく言葉を返すと、アルファは朗らかな笑顔を浮かべてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

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 目を閉ざしたその頃は、まだ辺りは暗がりに包まれていたはずだ。

 しかし今となっては、屋外からの輝きによって、瞼の裏は随分と白く照らし出されていた。あったかふわふわに包まれる中で、ふとそれに気付かされたのだ。

 

 だが、俺は認めない。

 固く閉ざされた瞼に一層力を入れて、俺は再び微睡へと落ちていく──はずだったのに、ガチャリとドアの開く音が聞こえてしまった。

 軽快な足音がこちらへと近づくにつれて、俺の心臓はその事実に鼓動を逸らせる。

 ピタリと足音が止まったかと思うと、空気が僅かに揺れ動いた。

 そして俺の耳元で、天使の囁きが呟かれるのだ。

 

 木綿季「歩夢…朝だよ」

 

 歩夢「……」

 

 しかし、愛の天使が告げるその内容は、俺にとっては地獄以上のものであった。

 故に俺が聞こえないふりをしておくと、君はまた言うのだ。

 

 木綿季「起きないと、遅刻しちゃうよ?」

 

 歩夢「……んー……」

 

 それは勿論、分かっている。だけど心は、まだここに居たいと願っているわけで…俺は目を瞑ったまま、君に曖昧な返事を返した。

 そして──唐突に、君が居るであろう方へと、己の両腕を伸ばしたのだ。

 予感は的中し、君をガッチリ捕まえてしまった俺は、そのままグイとこちらへ抱き寄せた。

 

 木綿季「ふぇっ!?」

 

 ユウキはされるがままに、寝そべる俺の身体の上に乗せられる。そして俺は一層、その抱き心地の良い身体を包み込み続けるのだ。

 …こうやってユウキを捕まえておけば、彼女も学校になんか行きたくはなくなるのではないだろうか。

 或いは、俺の身体に密着し、変な気分になってくれて、やっぱり、このままベッドの上でゆっくりと朝を過ごしてくれるのではないだろうか…。

 どうしても平日の早起きをしたくない俺は、そうして君を魔性へと取り込もうとするのだ。

 

 がしかし、彼女の意思は固かった。

 不意に、唇に柔らかいものが触れる。続いて、少しザラザラした温かくて湿った何かが、俺の口の中に入り込んできた。

 しかし、それはほんの一瞬のことだった。

 俺が思わず目を開けると、唇に手を添えたユウキが、火照った顔で俺を迎えてくれる。

 

 木綿季「…お、おはようのキスだよ…。時間がないから、今はこれで我慢してね…?」

 

 歩夢「生殺しなのか…おはよう、木綿季」

 

 木綿季「おはよう、歩夢。ご飯は作ってるから、早く朝の支度しないと」

 

 ベッドの上で軽く朝の挨拶を交わすのも束の間、ユウキは俺の身体から降りると、俺の手を引いて階下へと進み出そうとする。

 一度起き上がってしまえば、もう起きるのは辛くない。だが別の疼きが生じた俺は、また君に訊ねた。

 

 歩夢「このまま続行でお休みって言うのは…」

 

 木綿季「ダメだよ、学校行かなきゃ」

 

 歩夢「…はい」

 

 そりゃユウキの言う通りだ。

 大人しく学校での楽しい時間を過ごすことにした俺は、ユウキが用意してくれた簡単な朝食を頂き、その代わりに、片付けや朝の洗濯なんかは全て俺がやっていく。

 歯磨き、寝ぐせ直し、お着替え…色々やっているうちに、身体の動きに相反して、時間だけが早送りのように過ぎ去っていく。

 俺達はドタバタと一階と二階を奔走しながら、ひーひー声を上げるのだ。

 

 木綿季「歩夢!もう出発五分前だよ!」

 

 歩夢「あー…これだから平日の朝は…」

 

 木綿季「朝からあんなことするからじゃん!もうちょっと早く起きてみたら?」

 

 歩夢「それはユウキと別れるぐらいに無理な話だ!ってことは絶対無理だ!」

 

 木綿季「変なところで点数稼ぎしなくていいのっ!」

 

 とこんな調子で、いつもこの時間帯は、家中が大騒ぎだ。

 結局、時間ギリギリに準備を完了させた俺達は、仲良く玄関ドアから飛び出す。

 振り返って鍵を閉めると、ユウキが言ってくれた。

 

 木綿季「お返しはちゃんと持ってる?」

 

 歩夢「おう、雨戸閉めたよな?」

 

 木綿季「うん、勿論だよ」

 

 歩夢「じゃあ行こうぜ」

 

 そうして俺達は、学校へと足を進めていくのだ。

 朝からユウキに揺り起こされ、一緒に朝の慌ただしい時間を過ごして、同じ家を出る。そして同じ家に帰ってくる。

 同棲生活を始めて以来、毎日こんな生活を続けている訳だが…俺にとってはこの瞬間が、ほんとにユウキと一緒に暮らしてるんだなって意識出来て、結構楽しいものだったりする。

 

 電車を乗り継いでやらなんやらしていると、俺達は帰還者学校に辿り着いた。

 まだ禿げたままの広葉樹の並木道を通り抜けながら、校門近くで立っている先生たちに挨拶を交わしていく。

 そして、お互いの教室へ移動するために、校舎の階段前でユウキと一旦バイバイすると、そこからは大忙しだ。

 家を出る際にユウキから確認されたように、本日リュックの中には、沢山のお菓子が詰まっている。

 自分の教室に辿り着くと、既に登校していたクラスメイトに朝の挨拶をしながら、まずは最初に発見した彼女に──。

 

 歩夢「よっ、アスナ」

 

 アスナ「あ、おはよう、アルファ君」

 

 歩夢「これ、バレンタインデーのお返しに」

 

 アスナ「ん、ありがとう。因みにユウキには…?」

 

 歩夢「まだあげてないな。ギリギリまで焦らしたいからさ」

 

 アスナ「わっ、アルファ君も酷いことするね~」

 

 ──お返しのクッキーを渡した。

 形式的な会話だけでは終わらず、アスナと少々の雑談を繰り広げていると、今度はリズベットが眠たげに登校してくる。そんな彼女にもクッキーを渡してやって…俺は今日、これをあと何十回やればいいのか。

 まさか、バレンタインデーにチョコを沢山貰えると、今度はお返しが大変になるなんてな…もうちょっと、貰えるチョコの数は少なくならないだろうか…。

 

 などと、数年前からは考えられないような贅沢な悩みを抱えつつも、俺は一日掛けて、お返し大作戦を遂行したのだ。

 今年のバレンタインデー。俺が調子に乗ったせいで、精神状態がかなりヤバいことになってたユウキも、お返しには寛容だった。

 特に嫉妬する様子もなく、俺は無事に、皆にお返しを届けられたのだった、と言うにはまだ早い。

 朝から放課後に至るまでに、ほとんどお返しは済ませられたとは言え、まだな人達もいるわけだ。

 

 放課を迎えた今、俺はユウキの教室へ向かい、そして昇降口でキリト達とも落ち合い…皆で下校する。

 だが、そんな大人数が集うとなると、勿論、真っすぐ家に帰ることはないのである。

 電車に揺られて御徒町へと移動し、我らが溜まり場になってしまっているカフェに押しかけてやった。

 すると店内には、四名の女学生たちが仲良く輪になっているのだ。

 その四人とは当然ながら、アルゴ、ミト、シノン、そして直葉ちゃんの、帰還者学校以外に通っている仲間たちであった。

 

 歩夢「直葉ちゃん、これ、バレンタインデーのお返しな」

 

 直葉「ありがとうございます、アルファさん!」

 

 キリト「シノン、俺もお返しだ」

 

 シノン「…ありがと。でも、激辛クッキーとかだったら許さないわよ」

 

 キリト「ま、まさか…」

 

 ノーチラス「これは僕からだ」

 

 アルゴ「わざわざ悪いネ~」

 

 歩夢「いつもお世話になってるからな、エギルにもクッキーやるよ」

 

 エギル「お、気が利くな」

 

 ここに集まってもらった彼女らは、それぞれ別な高校、或いは大学に通っている。

 それ故に、一人一人訪ねるとなると、それはかなり大変なのだ。

 なのでこうして、エギルの店を借りることで、その手間を省いたという訳である。

 

 ミト「そう言えばアルファ、ユウキの家に寄生したのよね?」

 

 歩夢「寄生言うな。同棲って言え」

 

 アルゴ「ならこれからは、ユーちゃんのお家でお泊りは出来なくなっちまったナー」

 

 木綿季「え?全然気にしなくていいよ~」

 

 歩夢「そうそう、なんならそう言う日は…ノーチラスの家にでも泊まりに行っとくから」

 

 ユナ「エー君はまだ一人暮らしだからねぇ、ちょっと寂しそうにしてるし、私も歓迎だよ!」

 

 ノーチラス「変なこと言わないでくれよ…」

 

 と今日は悠那ちゃんと鋭二君が加わったイツメンで、俺達は久々の大集合をしていたのだ。

 売れっ子歌手なユナは、多忙な中、偶々お休み、ノーチラスは無事に大学受験を突破し、来年からは晴れて新大学生だ。二人とも、実に順調な人生を歩んでいる。

 となると、後はクラインさえ揃えば、ALOにおけるキリト一行SAO攻略団(仮称)が全員集合なのだが…残念ながら、時間帯的にも、彼はせっせとお仕事中だ。

 適当にグループでメッセージを送りつけてみたら、「オレにもクッキーくれるよなぁ?」との懇願のボイスメッセージと共に、悲しみスタンプで反応してくれた。

 ここにいる女性陣はそれを見て、クスっと小さな笑い声を洩らしていた。良かったな、クライン。

 

 結局、いつものようにその場でドリンクと軽食を注文し、他愛もない話に花を咲かせると…もうこんな時間か、というやつだ。

 まだまだ遊んでいたいところではあるが、明日も学校が待っている。店主とはその場で、他の皆とは駅前、若しくは電車内でバイバイだ。

 そして俺はいつも通り、最寄り駅で下車し、ユウキを家まで送り届けた。

 

 歩夢「じゃ、また明日な」

 

 そうして全てのミッションを済ませた俺は、普段通りユウキにも手を振り、その場を後にしようと、彼女に背を向けて一歩踏み出した。

 とそこで、俺が大切なことを思い出すのと同時に、君が力強い動作で、俺の腕を掴んだ。

 振り返りユウキの顔を見やると、彼女は少し不機嫌そうだった。

 

 木綿季「ここがボクらのお家だよ!まだ定着してないの?」

 

 歩夢「ごめんごめん、つい癖でな…」

 

 木綿季「もう、しっかりしてよね…」

 

 彼女の一言には、俺は平謝りすることが出来ず、苦笑いしながらペコペコするより他なかった。

 ユウキはそのまま俺の腕を引っ張り、つかつかと玄関へ向かって行く。

 一緒に住んでることを俺に忘れられて、ちょっと拗ねちゃってるユウキマジで可愛い…などと命知らずなことを思わざるは得ないぐらい、ユウキは本当に可愛い女の子なんだ。

 玄関で靴を脱いで手を洗って、それでもまだその表情を少しプクーっと膨れさせている君に、これしかないかと、俺はこう言ったのだ。

 

 歩夢「じゃあ…怒らせちゃった代わりにさ、今日の晩御飯は、木綿季の食べたいものを作ろうぜ」

 

 木綿季「ホント!?」

 

 すると君はそれだけで、その表情を満開の笑顔んい戻してくれるのだ。

 単純なユウキマジで可愛い…何がどう転んでも、どのみちユウキは可愛い。うん、キュートだから可愛いんだ。

 君の魅力にあてられ、ちょっとばかり脳内語彙力を失っている俺のことなど露知らずだ。食べたいものが沢山あるのか、一生懸命悩んでいた彼女は、その末に答えを出してくれた。

 

 木綿季「うーん…じゃあ今日は……唐揚げが食べたいな!」

 

 歩夢「おっし、今から頑張ろうぜ!」

 

 そうして俺達は、いつも通り共同作業に取り掛かったのだった。

 

 

 

 

 

 

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 学校で授業を受けて、休み時間には友達とお喋りして、それで放課後はエギルのお店に寄り道して…今日もしっかりと、充実した一日だった。

 だけど、今のボクは、そこでお楽しみが途切れることはない。

 だって、家に帰ってもアルファと一緒なんだ。

 毎日が楽しいって言うのは、まさしくこういうことなんだと思うな。

 

 仲良くお家に帰ってきたボクらは、取り敢えず洗濯ものを取り込んで、晩御飯を作って…という普段通りの家事を済ませた。

 そしてそれからは、二人一緒に学校の課題に取り掛かるのだ。

 夫婦みたいな生活しているとは言え、ボクらはまだ学生身分だ。当然、学校から出された宿題には取り組まなきゃいけない。

 アルファが難しい顔して考えている問題を、ボクは時々サポートしてあげるんだけど…年下に教えられるって、どんな気持ちなんだろうね?

 それを揶揄うように訊ねてみたら、「木綿季は実質、俺より年上みたいなとこあるだろ」と、彼に真顔で良く分からないことを言われた。

 …あれなのかな?アルファが可愛く見える時もあれば、カッコよく見える時もあるみたいに、アルファもボクが頼れるお姉さんに見える瞬間と、可愛い後輩ちゃんに見える瞬間があるのかな?だとすると、今回はお姉さんになっちゃったみたいだね。

 そんな下らないことを頭の片隅で考えつつも、ボクはさらさらっと課題を済ませてしまった。

 

 となると、お次は順番にお風呂の時間だ。

 彼が包帯を外せるのは、あと一週間ぐらいあとらしいけど、ボクの手を借りないでもお風呂に入れるよう、君はもう色々と必要な物を揃えちゃっている。

 ボクとしては、アルファとのお風呂はかなり楽しかった。だからこれからも一緒に入りたいと思ってたんだけど…一人で入れるようになっちゃったなら、毎回って訳にはいかないよね…。

 ボクは欲望にかなり忠実だから、少しぐらいはコントロールする努力をしないといけないんだ。

 なんてことを思いながらスマホを弄っていると、風呂の準備完了を知らせるメロディーが鳴り響いた。

 今日はボクが一番風呂の日だ。ボクが準備のために、リビングから移動を開始しようとしたその時だ。

 

 歩夢「木綿季、ちょっといいか?」

 

 木綿季「なに?」

 

 ふいと、ボクはアルファに呼び止められた。

 顔を見て尋ね返すと、「ちょっと待っててくれ」と言って、彼は二階へ向かったようだ。

 なんだろうと思いつつも、ボクは言われた通りその場で突っ立っている。そのうちに階段を下りる足音が聞こえてきて、彼は再びリビングへと戻ってきた。

 そんなアルファは、一目でわかるぐらいに、左手をしっかり背中の後ろに隠していたんだ。

 となると、彼はボクに何かプレゼントしてくれるんだろうけど…う~ん、心当たりはないね。

 

 木綿季「どうしたの?」

 

 それ故にボクは、彼に疑問を呈してみたのだ。

 するとアルファは、その表情に笑顔を浮かべながら、左手をボクの前に持ってくる。

 それを見て驚いているボクに、彼は言った。

 

 歩夢「いつもありがとうな、木綿季。これ、俺からのお返し」

 

 アルファが左手に握っていたものは、リボン付きの青い色をした長方形の箱だった。

 君はそう言って差し出してくるものだから、ボクも自然と受け取ってしまう。

 

 木綿季「お返しって…それはクレープ作りで良いって言ったじゃん…」

 

 確かこの箱は、結構お高いチョコブランドのものだったはずだ。突発的に高価な贈り物を受け取ったボクは、思わずそんな言葉を返してしまう。

 対するアルファは、やっぱり笑顔の表情のままで、ボクに更に言ってくれるのだ。

 

 歩夢「まぁそうだけどさ、やっぱ、ちゃんとそれらしいお返しがしたかったから」

 

 木綿季「…ありがとね、歩夢」

 

 そう言われてしまうと、ボクとしても受け取らないわけにはいかない。アルファからのお返しを手にしたボクは、同じように笑顔を浮かべ、お礼の言葉を贈った。

 このチョコは…そうだね、明日から少しずつ、アルファと分け分けしながら食べようかな。

 そう決めたボクは、チョコが溶けないように、一応冷蔵庫に入れておこうと思ったんだ。

 でも、ボクが動き出す前に、アルファはその笑顔を少しニヤニヤしたものに変化させると、こう言ってきたんだよね。

 

 歩夢「どうせなら、こっちでもチョコキスしてみるか?」

 

 その発言にボクは、思わず頭の中で色々なことを考えてしまった。

 …それは…仮想世界でも充分にすごいキスの仕方なのに、感じるものが多いリアルでしちゃったら…ボクは一体、どうなっちゃうんだろ…。

 でも結局、ボクは好奇心に勝てないんだ。

 君とのチョコキスに手を出すことにしたボクは、しかしその前に、ちゃんとお口の中を綺麗にしないとだって思って…タジタジになりながら返事をするのだ。

 

 木綿季「そ、それは……お風呂のあと、でね…?」

 

 こくりと嬉しそうに頷いたアルファの様子を見てから、ボクは急いでお風呂場へと飛び込んだ。

 タオルでゴシゴシと身体を洗って、だから汚れは落ちているはずなのに、この後のことを考えると、悶々とした気持ちは一向に消えてくれない。

 結局、身体が温まるとすぐに、ボクはお風呂場を出てしまう。

 脱衣所で色々済ませると、リビングに居るアルファに声を掛けた、つもりだったんだけど、彼はリビングにはいなかった。

 だから、二階に向けて声掛けをすると、君からの返事が返ってきたんだ。

 

 それからのボクは、リビングで髪を乾かして…その最中に、自分の部屋に用事があったことを思い出す。一度ドライヤーを切り上げ、ボクは二階へと足を運んだ。

 とそこでボクは、アルファの部屋が電気点けっぱなしで、ドアが大きく開け放たれていることに気が付いたんだ。

 消し忘れなんて珍しいなと思いつつも、ボクは明かりを落そうと、彼の部屋に踏み入る。

 

 するとだ。

 部屋の中心に、アルファが今日着ていた灰色の部屋着が、そのまま放置されているのを見つけたんだ。

 「これはあとで注意しなきゃだね」とママみたいなことを思いながら、ボクはその服を手に取った、瞬間だった。脳裏に、一つの悪魔的な囁きが過ったのは。

 続いて、ボクの中の天使がそれを引き留めようとするけれど…その比重は、圧倒的に前者へ傾いていた。

 

 …アルファは今、お風呂に入っている。

 そしてボクの手には、脱ぎたてのアルファの部屋着が…。

 ば、バレないよね…?ちょっと…ホントにちょっとだけだから…。

 やはり己の欲望には勝てなかったボクは、ドキドキと胸を激しく鼓動させながら、静かに座り込んだ。

 そして…両手に握る彼の服を、これでもかと鼻に押し当てる。

 

 木綿季「……」スー…ハー

 

 そしてボクは、一心不乱に、君の香りを吸い込み始めるのだ。

 …しゅ、しゅごい…脱ぎたての服…優しい匂いで溢れてりゅぅ…。

 君の服の下に隠れているボクの表情は、きっと他人には見せられないほどに緩みきっているのだろう。

 もうずっと以前から、君の匂いにドハマりしてしまっていたボクは、君がこの場に居ないことを良い事に、己の衝動を堂々と解消していたのだ。

 周りなんて見えてない。ただひたすら夢中になって、鼻から、或いは口からその香りに満たされようとするんだ。

 だからこそ、ボクはすぐに気が付けなかった。この部屋を目指してどんどんと近づいてくる、その足音に。

 

 木綿季「……」

 

 ふと、ボクは君の足音に気が付く。そしてそれは、ここからかなり近いように思えた。

 もうお風呂からあがってくるなんて…これ以上はそれを味わえないことに大きな落胆感を覚えつつも、ボクはこの行為をやめようとしていた。

 でも、やめようやめようって思ったって、身体は中々言うことを聞いてくれない。なので仕方なく、アルファがここにやって来るギリギリまで、君の服をくんかくんかするのを続けようと思ったのだ。

 彼の足が見えたタイミングですぐに服を顔から引き離せるよう、警戒を怠らずに、ドアの方へと身体を向けておk──。

 

 木綿季「……」スー…ハー

 

 歩夢「……」

 

 ──遅かった。

 

 何もかもが、全て手遅れだった。

 

 どういうわけか、右手から姿を現したのは、お風呂に入った痕跡が全くない君だった。

 まさか、お風呂の前にトイレに行ってたのだろうか。だったら、電気点けっぱなしだったのも、服を脱ぎ捨てたままだったのも、全て合点がいく…なんてことは、どうでもいいんだ。今はとにかく──。

 

 ボクは彼を認識するや否や、バッとその服を顔から引き剥がした。

 …アルファは何も見ていない。そうに決まっている。

 例え君がそこに立っていたとしても、驚きで固まったままボクの方を凝視していようとも、アルファは何も──。

 

 歩夢「……ゆ、木綿季……?……な、なにして……!?!?」

 

 木綿季「」

 

 君は相当動揺した様子で、ボクになんとか訊ね掛けてきたんだ。

 だけどもボクは、それに答えることさえ出来なかった。これ以上にないほどに頭の中がぐるぐるしていて、上手く口が動かなかったんだ。

 これほどの思考停止を強いられるのは、正直なところ初めてだ。それは、これまでのどんな危機よりも凄まじいものだったからね。

 だけどもボクは、このどうしようもない現実へと、すぐに戻ってくる。

 ドッと汗の噴き出す感覚を味わいながらも、ボクは必死の形相を浮かべるのだ。

 

 木綿季「ち、ちがっ…歩夢!ち、違うの!!ぼ、ボクは……違うんだ!!」

 

 頭の働かないボクでは、意味不明な言い訳をすることぐらいしか出来なかった。両手をブンブンと振って弁解を試みるけれど、アルファは放心したように、頻りに瞬きを重ねていた。

 そしてその末に──彼はその顔になんとも言えない表情を作る。

 そんなアルファは、まるで腫れ物に触れるみたいに言葉を選びながら、ボクに恐る恐る言ったんだ。

 

 歩夢「……えぇと……その……なんか、ごめんな…?じゃ、邪魔しちゃったみたいで……」

 

 木綿季「ち、違う!!違うよ!?違うってば!!ぼ、ボクはっ、そんな意図を持ってたわけじゃなくてっ…!!……えっと、そのっ……ただ、匂いチェックを…そうだよ!ちゃんと洗濯の香りするか確かめてただけなんだ!!だから──」

 

 歩夢「あ、うん、大丈夫、分かってるから。俺、お風呂行ってくるな。……き、気が済んだら、洗濯籠に入れといてくれ」

 

 木綿季「」

 

 ボクの杜撰な弁解に対して、アルファは完全に引き攣った笑顔を浮かべていた。

 そんな君は、絶対に納得していない様子で、寧ろ納得するどころか、ボクに諦念似た何かを見ていた。ぶっきらぼうに言葉を放ってしまうと、いそいそとボクの前から姿を消していく。

 もう挽回のしようがないことを悟ったボクは、去り行く君に右手を伸ばしたまま、石像と化してしまった。

 

 …お、終わった…同棲生活一週間ぐらいで、これまで数年も掛けて頑張って積み上げてきた君との関係が…だ、だだ崩れになっちゃった…。

 自分の服を恍惚とした表情でスンスンしてる人が居たら…そりゃぁ引くに決まってるよ…。こんなド変態な彼女なんて、そんなの絶対嫌に決まってるじゃん…。

 

 何故こんなことをしてしまったのか、今更ながらに尋常でない後悔が頭をよぎったけれど、もう後の祭りだった。

 この後のチョコキスのことなんて、もう頭の中からは綺麗さっぱり忘れ去られていた。

 この先ずっと、アルファに見下すような視線を向けられるのだと思うと、純粋に心が辛かった。

 それでも服の匂いを嗅ぐことをやめられないボクは、多分どうしようもない人なんだと思う。

 

 一時の衝動を解消したボクは、彼に言われた通り、気が済んだわけだ。

 洗濯籠に服を入れてからは、何をどうしても逆転することがないであろうボク評価を、それでもなんとか好転させようとして、色々と頭を働かせていた。

 でも、やっぱりマイナスポイントが大き過ぎて、良いアイデアは何も思いつかないんだ。

 

 そうこうしているうちに、アルファはお風呂から上がってくる。

 ボクに二度、三度チラチラと視線を向けることはあれど、それ以上彼からのアクションはなかった。

 今のアルファは、何を思っているのだろうか。それは想像に容易い。きっと、ボクを軽蔑してるに違いない。だけどそれは、仕方のないことなんだよね…。

 遂に、ボクはこの無言の時間に堪えられなくなった。いつもと違って、少し間を置いて隣に座っているアルファに、ボクは早口に伝えた。

 

 木綿季「ぼ、ボク、もう寝るね。おやすみっ!」

 

 すくっと立ち上がったボクは、彼を視界の外に追いやって、逃げるように寝室へと向かっていった。

 ドタドタと二階に駆け込み、ガチャッと寝室のドアを開けた。バタンと荒い動作でドアを閉めてしまうと、ボフンと勢いよくベッドに飛び込む。

 枕に顔を埋め、うつ伏せになってジタバタと身体を動かしながら、今日はこのまま何も考えずに、眠りに落ちてしまおう。そう思ってたのに──。

 

 カチャッ。

 さっきとは違って控えめな音が響くと、寝床に廊下の明かりが差し込んできた。

 振り向くと、床には一つのシルエットが浮かんでいる。

 顔を上げれば、読めない表情をした君がそこに居た。

 ベッドで泳いでいたボクの近くに、君は腰を下ろす。

 さっきのアレを追及されるのが嫌だったボクは、今度はリビングへと避難しようとしたんだ。

 でも、身体はうんともすんとも動かなかった。

 

 歩夢「…木綿季…」

 

 木綿季「…ん…?」

 

 突如として、君がボクの身体の上に覆い被さってきたからだ。

 ボクは放心状態のままに、でも条件反射的に、君の身体に身を預けてしまう。背中から抱き締められていたはずのボクは、いつの間にかアルファに身体を回され、顔と顔を見合わせる状態となった。

 そして君は、少しだけ気まずそうな表情で、遂にそれを訊ねてしまったんだ。

 

 歩夢「その…木綿季って…もしかして、匂いフェチ…だったりするのか?」

 

 もう隠し通すことは出来ない。既に核心的な答えに迫っている君を目の当たりにして、とうとうボクは白旗を上げる。

 おずおずと、ボクはアルファの問い掛けに答えた。

 

 木綿季「そ、そうだよ…ボクは、歩夢の匂いが好きなんだ…あんなことしちゃうほどに、どうしよもないぐらい…」

 

 そうハッキリと告げられ、ボクに潜んでいる変態的一面を知った今、彼の心中は如何なる模様なのだろうか。

 これからアルファに拒絶されるのが怖くて、ボクは君から目を逸らした。

 途端に、ボクの視界は黒に覆われた。

 頭は温かい何かに支えられ、肌には柔らかい布地が押し当てられる。鼻の奥には、大好きな香りが漂ってくる。

 ボクはアルファの胸の中に、ぎゅっと抱き寄せられていたんだ。

 そんな中君は、ボクにそう言った。

 

 歩夢「匂いフェチってさ…使用済みの服、限定なのか…?」

 

 木綿季「…どういうこと…?」

 

 アルファの放った言葉の意味は、ボクには良く分からないものだった。

 だからそのままの状態で訊ね返すと、君はトンデモナイことを言ってのけたのだ。

 

 歩夢「えっと、だから、今の状態で堪能するって言うのは…」

 

 木綿季「い、いいの…っ!?!?」

 

 アルファがどうしてそんなことを言ったのか、その理由は見えてこないけど、そんなことがどうでも良くなるぐらいに、その一言には全てを持っていかれたのだ。

 君の胸の中で驚きを言葉にしたボクは、しかし彼から二度目の承諾を受け取る前に、思いっ切り吸い込み始めるのだ。

 スーハーと君を味わっている最中、アルファはボクに言葉を続けてくれた。

 

 歩夢「うん…その、さっきはいきなり現場を目撃したばっかだったから、ちょっと俺もビックリしたんだけどさ。別に俺も、嫌な訳じゃ…というか、普通に嬉しいと言うか…」

 

 木綿季「じゃ、じゃあ…これからは…」

 

 歩夢「いいぞ。寧ろ俺の胸の中でどんどんしてくれ」

 

 と君にそこまで言われてしまうと、ボクはどうにも自分に歯止めが効かなくなった。君の背中に力強く腕を回し、胸に顔を埋め、ひたすらに息を荒げ、クンクンし続ける。

 ボクの余りのがっつきように、君は少し面喰ってるみたいだったけど、ボクは構わず君を堪能し続けた。

 こんなにも堂々とアルファの匂いを吸い込むことは、これまでには一回もなかったんだ。

 でもずっと、ボクはこうしていたかったのかもしれない。

 数年に渡って蓄積し続けていた欲求を解消するのには、かなりの時を有したんだ。

 その間アルファは、ずっとボクのことを抱き締め続けてくれていた。

 そこには軽蔑や嫌悪の不快感なんて微塵も感じられなくて、ただただ、ボクへの変わらない愛情が示されていた。

 

 そんな感じでボクはこの日、自分の中に潜む曲がり気味なボクを、君にしっかりと受け止めてもらえたのだった。

 

 

 

 

 

───────────────

 

 

 

 

 

 近くの木々に遊びに来たのだろうか、小鳥たちの囀りが、俺の聴覚をはたと刺激した。

 

 …まだ…もう少しだけ…。

 

 天然の目覚ましによって、自然と意識を取り戻した俺ではあったが、そこはいつもと変わらない。身体中に纏わりつくふわふわとした感覚に身を預け、再び深い闇へと意識を沈めようとするのだ。

 その時だった。寝そべる俺の隣で、何かがもぞもぞと動いたのは。

 瞬間、固く閉ざされたはずの瞼を、俺はバッチリと上げた。モヤモヤしている頭と、眠気の募った身体を無理に動かしてまで、俺はベッドの上で身体を起したのだ。

 

 雨戸から差し込む光の量は、まだそんなに多くはない。

 それでも、薄い朝日のお陰で、君の可愛らしい寝顔はキッチリと拝めた。それだけで、朝早起きしたことに意味があると思えるんだよな、これが。

 朝に弱い俺では、こうしてユウキの寝顔を眺められることが少ない。

 だからこそ、チャンスが訪れたその時に、こうして自分に鞭打ってまで、俺は起き上がってしまうのだ。

 

 …しかし、昨日のアレには驚かされたな…。まさか、ユウキが俺の服に顔を押し付けながら、あんなに蕩けた表情を浮かべてるなんて…。

 あの瞬間は、俺も頭が真っ白に染まってしまった。

 だが時間が経過するにつれて、俺の頭にも正常な思考が舞い戻ってきて…いや、俺にだって色々と癖があるんだ。ユウキだって一つぐらい、特殊なものを持っててもおかしくないだろう。と言う結論に至ったのだ。

 と言うか、俺自身、あのユウキをもっと見ていたかったのだ。そう言うところが、俺の癖の一つなんだろうな。

 

 木綿季「……」スー…スー…

 

 だけど、今ここで目を瞑っているユウキには、そんな様子は微塵も感じられない。ただ可愛らしい女の子が、俺の隣で小さな寝息を立てているだけなのだ。

 こういう純粋なユウキも、昨日みたいな暴走気味なユウキも、或いは獰猛になっちゃうユウキだって…俺はどんなユウキでも、変わらず大好きなんだ。

 

 …いつもは朝ご飯を任せっきりなんだ。偶には早起きした俺が、代わりにやらないとだよな。

 階下へと向かうことに決めた俺は、だが最後に、君の頬へと手を伸ばした。ぷにぷにと柔らかくて温かいその頬っぺたは、いつ触っても心地良いものだ。

 俺は嘆息を洩らすと、もう暫くだけこの時間を独占することにして、右手をあてがいながら、愛おしい貴女への愛を伝えたのだった。

 

 

 

 

 




 2
 
 次回の投稿日は、六月二十二日の水曜日となります。

 では、また第193話でお会いしましょう!
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