闇夜に訪れた静寂──風静まり、辺りからは虫の声さえ聞こえない。足元に数々のアイテムが散らばっているが、俺はそれに目を向けることさえなく、未だに痛む身体を無視して動き出し、少し離れたところに投げ飛ばされていた解毒結晶を手に取った。
そのまま、麻痺状態で地に伏せたままのユウキの左腕に触れて、ヒール、と無機質に唱えた。俺の目に映るユウキは、無表情とはまた違った表情の無い顔をして、何処か虚空を眺めている。
俺には、彼女が今、何を思い、何を考えているのかは分からない。だが、掛けるべき言葉は見つけていた。
アルファ「──遅くなって、ごめん。もう、大丈夫だから──」
俺がユウキにそう伝えると、ユウキは、不意に俺を見つめ、ボロボロとその両目から涙を伝わせてから、俺の胸に飛び込んできた。俺はその勢いに揺らぎ、ふらりと後ろに倒れ込んで、ユウキに押し倒される。
ユウキ「………ひっぐ、うぐ……怖かった…怖かったよお…ごめん…ごめん…ありがとう…うぐっ…えぐ…」
アルファ「……ごめん…もう、大丈夫…もう大丈夫だ…」
ユウキは、俺の胸に顔を埋めながら、あらんばかりの力で俺の身体を抱き締めていた。ユウキが、涙ながらに俺に伝える言葉には、様々な感情が錯綜しているせいか、そのすべての意図を汲み取ることは出来ない。
いつもは、俺の前を歩いてどんな未来にも立ち向かっていく、そんな、いつだって俺を導いてくれる、自分よりも大きな存在なんだと、俺は無意識のうちにユウキをそう捉えていた。だけど、俺の身体に抱き着くユウキは、いつもよりも何回りも小さく見えた。
大声で泣き喚きながら、何かを求めるように俺の身体を強く抱き締めるユウキを見て俺は、──あぁ…ユウキも、俺と何にも変わらない人なんだ…強姦されそうになれば、それを恐怖と感じる普通の女の子なんだ…と心の何処かでユウキを神格化していた自分の愚かさに気が付く。
そして同時に、いつだって彼女が俺にしてくれたように、今は俺が彼女を支えてあげないといけないんだ、とそう強く感じた。俺にそうする資格はきっともう、失われてしまった。だけど、今だけは──
俺は震える腕で、ユウキが俺の身体を締め付けるのと同じように、ユウキの身体を抱き締めて、ただただユウキに優しい言葉を掛け続けた。
────────────────
「「…」」
長い間、ユウキは涙を流し続けていた。そして、ふと、泣くのを辞めたかと思うと、しばらく、ギューっと俺の身体を抱き締めていた。それからユウキは、俺の身体から離れ、思い出したように防具を装備し直してから立ち上がった。
…ありがと…と俺に短く呟いてからユウキはPK集団に投げ捨てられたアイテム類を一つ一つ拾い始める。だが、ユウキは何故か俺の右手を握ったまま、その行動を続けていた。
…やっぱり、まだ心が落ち着かないんだろうか。そう思った俺は、特段それを指摘することなく、ユウキの左手を握り続けた。その時不意に、自身の体力がレッドゾーンに突入していたことを思い出して、俺は回復結晶を使用しておく。身体の芯に残っていた痛みも、いつの間にか消え去っていた。
俺達のアイテムも、PK集団の遺品も回収出来るだけ回収し終えた俺達は、そのまま、無言で森を歩き始めた。空気を呼んでくれたのか、主街区に戻るまで一度もモンスター達とエンカウントすることはなく、安全圏へと辿り着く。
ユウキが、そのまま第十五層へと転移したことから、俺はタイラに納期に遅れることをメッセージで送信しておいた。ギルドホームへと帰って来ても、俺達はひたすら無言であったが、ユウキが、お風呂、先に入っていいよ?と遂に口を開いた。俺は、ユウキが先に入っていい、と出来るだけ優しく返事すると、ユウキは無言で浴室場へと向かって行った。
数十分後、お風呂場から出てきたユウキは、何を思ったのか俺の両手を強く掴んでから、お風呂空いたよ、と言う。俺は、了解、と短く言葉を返してから、お風呂で体を洗い、浴槽で身体を温め終えると、すぐに風呂場を出た。
服を着替えて、リビングへ戻ると、ユウキがちょこんと安楽椅子に座らずに、その前に立っていた。再び、ユウキが俺の両手を掴んで、今から、ご飯作るから、と言う。俺は、あ、あぁ…としか返事が出来ないまま、ユウキが料理する様子を眺めることしかできなかった。
しばらくして、ユウキがサラダからメインディッシュまで、しっかりと美味しそうな料理を作ってくれて、俺は有難くそれを頂く。晩御飯を食べ終えて、温かいお茶を飲みながら、ゆっくりと時を過ごしていた。俺とユウキはどちらも何も話さない。
やがて、そろそろおやすみだね、とユウキが話したので、俺もまた明日、と言ってから、自室に入ってベッドに雪崩れ込む。何だか、上手く眠れなくて、何度も寝返りを繰り返していると、ガチャリ、とドアが開く音がした。
アルファ「……どうしたんだ?」
俺がそう訊ねると、ユウキは何も言わないまま、ドアをゆっくり閉じて、俺が横たわるベッドに入って来た。そして、すごく小さな声で、ようやく話し始める。
ユウキ「……その、今日は、一人は怖くてやだ…手、握ってて…?」
アルファ「……ん…」
俺は、そう短く返事をしてから、ユウキの伸ばしてきた右手をしっかりと握り締める。ユウキは、自分のベッドから持ってきたであろう枕に顔を埋めて、そのまま穏やかな表情でスピーっと寝息を立て始めた。そんな様子を眺めていると、俺も何だか途端に眠気が襲ってきて、そのまま夢の世界へと旅立っていった。
────────────────
生首が踊っている。俺の目の前には、三つの生首が踊っていた。三つの生首はその場を動く度に、ズチャリ、グチョリとその首の切断部分から赤黒い血液を滲み出させる。彼らの身体は、また別の場所で、頭の無い胴体を暴れさせながら、欠損部分から大量の血を吹き出させながら、踊り狂っていた。
俺は、それを目の前で眺めていたはずなのに、次の瞬間にはそれを上空から眺めていた。そこからは、彼らの血で描かれた文字が見える。
──殺人鬼、人殺し、レッドプレイヤー──
アルファ「……ぁ…」
それが、誰に向けられたものなのかは、直ぐに理解できた。
だって、目の前の鏡に映っている俺は、誰かの真っ赤な返り血を鮮明に浴びて、左手に持つ剣には彼らの赤黒い血がこびり付いている。足元には、彼らの身体の一部と思われる肉塊が、蠢いていた。そして何より、俺の瞳が、狂ったような鈍い赤鉄色の輝きを放っている。
アルファ「……これが、俺…?」
──違う。俺は心の奥底からそれを否定しようとするが、目の前に映し出された俺の姿こそが、紛れもないその証拠なのだ。俺はもう鏡は見たくない、と後ろを振り返るが、そこにはまた鏡がある。ならば、左を、左が駄目なら右へと、俺はそこから逃げ出そうとするけれど、その先に映るのはやっぱり、狂人だ。
俺はもう何も見たくなくて、左手に持つ剣でその目を抉り取ろうとしたけれど、直前で体は動かない。そんな俺の背後から、クヒャヒャヒャ、と奇怪な笑い声が聞こえてくる。俺は恐怖に駆られてそちらを振り向くが、そこには何もいない。
そして視線を前へと戻すと、そこには三つの生首がいた。
「おいおいおいおいおい──っ?な~に現実から目ェ逸らそうとしちゃってんの~?」
アルファ「く、来るなっ!」
三つの生首の真ん中が、何処か狂気じみた陽気さで俺に話し掛けてくる。俺は半ば恐慌状態に陥りながら、必死に後ろへ走り出そうとしたが、身体は石のように固まってしまった。
「お前が殺人鬼なのは──事実だよぉ?だって、二人を殺したのは、お前の我儘だもんねぇ~?」
アルファ「…ち、違う…」
──違わない。俺の口に出した言葉とは裏腹に、心の奥底では、生首の言うことを認めている。
…その通りなのだ。俺は、自分の激情を支配できなかったが故に、一時の感情に従って、彼らを殺した。後ろに控えていた二つの生首は、俺に憎しみ、悲しみ、恐怖とあらゆる負の感情を詰め込んだような顔で、言葉を放つ。
「俺は、死にたくなかった…何で俺達を殺したんだよ?」
「殺さなくても、何とかなったよなぁ?」
「俺達はお前に、意味もなく命を奪われたんだ…なぁ?返してくれよ俺の命」
アルファ「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ」
俺は、それ以上現実を直視したくなくて、生首の言葉を聞きたくなくて、己の耳を引きちぎって、目を潰して、何も見えないよう、聞こえないようにした。なのに、彼らはまるで自分の中に住んでいるように、心の内側から声が聞こえくる。
──お前は立派な殺人鬼だ──
────────────────
アルファ「はぁ…はぁ…はぁ…ッ!」
ベッドから飛び跳ねた俺は、右手で強く心臓を握りながら、悪夢から目覚めた。さっきまで見ていた悪夢の内容が、鮮明に思い出される。だが、朝日を反射する窓から見えた、俺の姿はこれまで通りの何ら変わらない普段の装いだった。
全身が汗でぐっしょりと濡れ、速まる鼓動と共に、俺は自然とユウキの手を掴んでいる左手の力を強めてしまう。少し騒がし過ぎたのか、ユウキが顔を顰めながら、瞼を動かす。
ユウキ「…んん…」
アルファ「……ごめん、起こしちゃったか」
俺は、取り繕うように顔に笑顔を張り付けて、ユウキにそう問い掛ける。すると、ユウキは随分と幸せそうな顔で、瞼を開いた。
ユウキ「……おはよ…う…」
アルファ「あぁ、おはよう」
ユウキは、まだ身体が眠っているのか、むにゃむにゃと口をゆっくり動かす。やがて、身体が覚醒し始めたのか、ユウキはベッドの上に座って、自然な笑顔を浮かべた。
ユウキ「…アルファの方が先に目が覚めるなんて、珍しいね…」
アルファ「…たまには、そういう日があってもいいだろ?」
俺が、そうやって言葉を返すと、ユウキはようやく、俺の左手から手を離した。
ユウキ「……昨日は、ありがとう…すごく、安心した…」
アルファ「そいつは良かった…さ、飯でも食いに行こうぜ?」
ユウキ「そうだね…タイラに素材渡さないといけないしね」
俺達は、第十五層にある行きつけの食事処で、軽く朝食を済ませてから、朝一番でタイラの店に向かった。
俺は、至っていつも通りタイラと下らない会話をしながら、それでいて手短に事を済ませて、再び転移門へと向かって行く。タイラも、朝早くだというのに既に店内は客で溢れていたため、それに追われて俺達とゆっくり会話している暇はなさそうだった。
ユウキが意外にも、レベリングしに行こっか?と提案してきた。俺はユウキを心配したのだが、ユウキは虚勢なのか本心なのか、もう大丈夫だよ!と気丈に振舞う。俺は、レベリングがユウキにとって何かの気分転換にはなるかもしれない、と思ってその提案を吞み込んだ。
それから、お昼頃までは、延々とレベリングを続けた。ユウキも俺も、普段と変わらない巧みなコンビネーションでモンスター達を葬り去っていく。ユウキに至っては寧ろ、普段よりも好調にも見えた。しかし、俺はただひたすらに無心で狩りを続けていた。
そして、お昼になったことに気が付いた俺達は、早足に主街区へ引き返し、二人で適当な店を選んで昼食を済ませた。お昼からは、今受諾している連続クエストを終わらせることに決定する。俺達が攻略している連続クエストはある晩に領主の館から何者かが家宝を奪い取って行ったので、ぜひそれを取り返してきてくれ、という王道系のクエストだ。
俺達は既に、家宝を盗み出した怪盗が、お宝コレクターにそれを売り払ったのだが、それを更に盗賊団が奪い去り、今は彼らのアジトにてお宝が眠っている、という最終段階までクエストを進めていた。
俺達は昼下がりから、砂嵐が吹き荒れる荒野で、盗賊団のアジトを捜索する。そして約一時間ほどアジトの捜索を続けていると、ようやく、岩肌を削って作ったであろう盗賊団の根城を見つけた。アジトに潜入するための裏口などは用意されておらず、如何やら真っ正面から彼らに対決を挑むしかないらしい。
ユウキ「よしっ!頑張ろうか!」
アルファ「おう!」
俺とユウキは、ステータスの暴力で瞬く間にアジトに突撃し、例のお宝をストレージに仕舞いこんでから、その場からの逃走を図る。だが、追っ手の追跡スキルの熟練度は高いらしく、四人の盗賊団員が俺達を逃がすまいと迫ってくる。
ユウキ「アルファは二人お願い!」
アルファ「了解!」
俺達は、盗賊団員から逃れることは出来ないと判断して、その場で迎撃するという作戦に移行した。ユウキが、短剣使いと曲刀使いを同時に相手取る。俺は残った長槍使いと片手剣使い相手に臨戦態勢を取った。
片手剣使いが振り下ろしてくる剣を躱して、その隙間から突き出される長槍は両手剣でその軌道を逸らす。片手剣使いが再び剣を斬り上げてくるが、俺はそれを喰らう前に、長槍のかえしの部分に両手剣を引っ掛けて、長槍使いを無理矢理こちら側に引きずり出し、片手剣使いの攻撃を妨害させる。二人が混乱している隙に、俺は横一閃に彼らの身体を切り裂いた。
片手剣使いが、なにくそ!とこちらに突っ込んでくるが、俺は二度もそれを躱してから、体術スキルの足技<爆脚>を叩き込んだ。俺に向けて突き出そうとしていた長槍が吹き飛んだ片手剣使いの身体を見事に貫く。身動きの取れない片手剣使いと長槍使いに、俺は止めを刺すべくソードスキルを発動させた。
だが、二人の怯えるような瞳を見た瞬間
──お前は、立派な殺人鬼だ──
と脳裏にその言葉が蘇り、俺は僅かに怯む。紛れもなく、死を恐れている彼らを、迷いなく殺そうとしていた俺は…やっぱり殺人鬼なのだ…そんな、俺の恐怖が、発動しようとしていたソードスキルを失敗させた。
ソードスキルは、決められたモーションから逸脱した動きを描こうとすると、失敗判定となりその場で強制的に技後硬直よりも重い硬直が強いられる。その隙を、盗賊団員が逃すわけもなく、彼らはそれぞれが俺の代わりに、ソードスキルを発動させた。
それを直撃した俺は、無防備状態でのノックバック効果により、そのまま地に転がり、スタン状態に陥った。俺はなんとかスタン状態から復帰して、彼らの攻撃をギリギリで回避し、再び止めの一撃を加えようとした。
しかし、どうしても俺は彼らに剣を振り下ろすことが出来ず、その場で固まる。それでも、あらん限りの気概で意を決して剣を振り下ろすが、軌道は彼らの身体から大きくズレた。再び、彼らから攻撃を喰らう。
ユウキ「アルファ!大丈夫!?」
盗賊団員を倒し終えたユウキが、俺を援護するように二人を相手取った。そして、鮮やかな剣技で瞬く間に彼らを葬る。そして、直ぐに俺のことを覗き込むように眺め、俺の身体を心配してくれた。俺は、心の中では激しく動揺しつつも、何とかそれを表に出さないように抑え込んで、ユウキに言葉を返す。
アルファ「……ちょっと疲れてるだけだ…サッサとお宝返しに行こうぜ…?」
ユウキ「……そっか…それじゃあ、早めに街に戻ろうね」
アルファ「あ、あぁ…」
…無事に、誤魔化しきれたか。俺は、心の内で未だに響き続ける<殺人鬼>という言葉を、否定することさえ出来ないまま、全身から汗を吹き出させて、ただ放っておくことしかできなかった。
────────────────
ユウキ「ご飯美味しかったね!」
アルファ「…」
ユウキ「…アルファ?」
アルファ「…悪い、今日は先に風呂入らせてもらってもいいか?もう眠くて仕方が無いんだ」
ユウキ「う、うん…」
領主に家宝を返還したことで連続クエストをとうとうクリアし終えた俺達は、夜になるまでの時間を再び、レベリングに費やし、二人そろってレベルを1上げたところで晩御飯を食べに向かった。
今日の晩御飯は普段通りフィーリングで選んだレストランに入店した。そこで食べられた料理は、中にカレーが詰まっていたり、肉が詰まっていたり、はたまたシチューが詰まっていたリするパン生地で包まれたチーズブルーみたいなパン類が売りの店であった。
ユウキはそれを片っ端から頼んで大量に食べていたが、俺はいつもの二分の一ぐらいの量しか食べれなかった。食事中もユウキが楽しそうに話し掛けてきてくれた気がしたが、俺は多分、あんまりノリが良くなかったと思う。
せっかくユウキが話してくれているのに、俺はユウキの話を右から左へ流しながら、適当に返事をしていた。
そして今この瞬間も、俺はユウキの声を聞いていなかった。ユウキが、怪訝そうに俺を覗き込んだことで、ようやくそれに気が付き、言葉を返す。それからも俺は心ここにあらずのまま、ユウキと共にギルドホームへと帰宅した。約束通り、形式的にユウキに一声かけてから、俺は早速風呂場に向かう。
アルファ「…」
脱衣所でコートやブーツ、インナーを解除する時間も惜しく、そのまま風呂場に直行し、風呂場の中で装備を解除した。それと同時に、シャワーから噴き出したぬるま湯を急いで全身で浴びた。
──どれだけ、お湯でその身を洗い流しても、ソレは取れない。
手が、汚れている。赤黒い血が、へばりついているんだ。左腕に付着する、赤いソレを落とそうと、俺は無心で左腕を擦り続けるけれど、俺の腕を経由したお湯は、赤く濁り、腕の色は消えることの無い血色だ。
アルファ「……消えない…消えない…消えない…消えない…消えない…消えない…」
俺はしゃがれた声で呪詛のように言葉を唱えながら、腕が、削れてなくなりそうなほど、俺は右手で血濡れの左腕を右手の爪で搔っ切る。…いや、いっそ削れてなくなってしまえば、俺の身体からは、血色は消えてなくなるんだ。
ふと、浴室に設置されている大鏡を、俺は見つめてしまった。そこには、左腕だけじゃなくて、その全身を真っ赤に染めている誰かが居る。そして、その者の瞳は、夢で見たのと同じように、狂った赤鉄色を輝かせていた。また、言葉が甦る。
──お前は、立派な殺人鬼だ──
アルファ「……うぷっ…おぇ…ゲェッ…あぐ……ぇ…」
ソレ、が自分であるのだと認知した瞬間、俺は、途方もない吐き気に襲われて、シャワーを垂れ流したまま、その場にうずくまった。この世界では、ゲロなんて吐くことは出来ない。だから、代わりに俺は、口の中から、胃の中から、濁った空気と唾液を吐き出した。出てくる唾液の量の少なさに反比例して、吐き気はドンドンと高まっていく。俺は、それが収まるまで、両手で身体を強く締め付けて、その場にくずおれることしかできなかった。
────────────────
アルファ「…上がったぞ…」
ユウキ「…随分と早かったね…」
もうこれ以上現実を直視していたくなくて、早々に風呂場から撤収してきた俺は、まだ胸がむかむかとした感覚に襲われながらも、ユウキに風呂が空いたことを伝えた。不意に、ユウキを見やると、その顔には何だか、涙を流した後のような表情の赤さが残っていた。だけど、今の俺には彼女の身を案じる余裕などなくて、早足にその場を後にしようとする。
アルファ「俺はもう寝る──」
ユウキ「ちょっと、一緒に行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
去り際にそう言い残そうとした俺に、ユウキが俺の左腕を掴んで、そう問い掛けてくる。俺は慌てて、そっちの腕は掴んではいけないのだと、ユウキの手を払いのけた。するとユウキは、驚いたように、傷ついたように声を上げた。
ユウキ「…あ……」
アルファ「わ、悪い…どこ行くんだ?」
ユウキ「…付いてきて」
俺は、ユウキに導かれるがままに、ギルドホームの外へ出て、夜の街へと繰り出した。だが、もう夜の帳も深い。多くの店は明かりを消して、行き交うプレイヤーなどほとんどおらず、閑散とした辺りに見かけるのは、今日と言う日を飲み明かそうとしているプレイヤー達か、深夜に出現するNPCだけだ。
ユウキは、それらを特段気にすることも無く、そのまま転移門まで向かって行った。ユウキが第二十二層に転移したのに合わせて、俺も同じく転移する。二十二層は、本当に文字通り誰一人おらず、辺りの民家から漏れる暖かな光がなければ、ゴーストタウンを思わせる雰囲気を漂わせていた。
ユウキは、俺を誘導して、適当なベンチに俺を座らせた。ユウキは、隣に腰掛けることも無く、俺の前に突っ立っている。しばらく、ユウキは迷うように何も言葉を発しなかったが、遂に、口を開いた。
ユウキ「…アルファ…まずは、昨日はボクのことを助けてくれて、本当にありがとう…」
ユウキは、俺を見てそう言うと、次の瞬間には頭を下げる。
ユウキ「…そして、ごめんなさい…アルファに、人の命を奪わせて、本当にごめんなさい…」
アルファ「……」
──いや、いいんだよ。気にすんな。ユウキが謝る必要なんてないんだ。ひたすら、頭を下げて謝り続けるユウキに対して、俺が掛けた言葉は、そんな彼女を心配するための言葉ではなくて、どうしようもない程に、しわがれた声で呟いた己の脆弱なる本音であった。
アルファ「……俺は、殺人鬼、なんだろうな…」
俺が、誰に言ったのでもなく、ただ自分にそう言い聞かせるように呟いた言葉に、ユウキはこれまでに一度も見たことの無い表情で、俺を見つめる。それから彼女は、俺に問い掛けた。
ユウキ「……アルファは、本当に自分が、殺人鬼だと思ってるの…?」
そんな、分かり切ったことを何を今更。俺は、ユウキの純粋なる問いかけに対して、噓偽りなく自嘲気味に答える。
アルファ「……そりゃそうだろ…俺は、殺さなくてもいい奴らを殺したんだ…そんな自分の欲求に従って他人を殺すような奴を、どうして殺人鬼でないと言える…」
ユウキ「……それは、違うよ…アルファは、殺人鬼なんかじゃない!」
ユウキは、少し感情を爆発させながら、俺に強くそう言った。俺はその意味が分からず、彼女に言い返す。
アルファ「そんなわけないだろ…俺は、レッドプレイヤーと何ら変わりないんだ…」
ユウキ「……そっか…分かったよ…アルファは、見失っちゃったんだね…」
今度は、少し悲しそうに、痛そうに俺にそう呟いた。そして──
ユウキ「──だったら、ボクが、思い出させてあげるから…!」
ユウキは、そう独りでに意気込むと、右指を素早く動かして、一瞬何かに手間取った。俺の目の前には、デュエル申請のお知らせが表示された。
アルファ「デュ、デュエル!?何でだよ!?」
俺がユウキの取ってきた突拍子もない行動に、慌てて訊ね返すと、ユウキは、真剣な眼差しで俺に答えて見せる。
ユウキ「きっと、ぶつからなきゃ、伝わらないことだってあると思うんだ。例えば──ボクが剣を持つ意味、とかね」
アルファ「だとしても!何で完全決着モードなんだよ!?」
そう、ユウキが俺に申請してきたデュエル内容は、いつもの初撃決着モードではなく、完全決着モードだったのだ。
完全決着モードとは、相手が降参するか、その命を潰えるその瞬間まで、デュエルが続くタイプのデュエル内容のことである。そんな性質上、誤って相手を殺しかねないことから、このデスゲームと化したSAOにおいて、完全決着モードを使うことは、暗黙の了解で禁止されている。
なのに、ユウキは俺に、完全決着モードを申請してきたのだ。
ユウキ「…ボクは、真剣だからね…もし、アルファが拒否したとしても、ボクはアルファに斬りかかるよ」
アルファ「…分かった…」
ユウキは、相変わらず本気の表情だ。これは受けねば本当にユウキが俺にデュエル外で俺に攻撃を仕掛けてくる可能性が大きいと踏んだ俺は、仕方なくユウキの申請を受け入れる。
カウントダウンが始まるが、両者全く動きを見せない。…と言うよりも、ユウキは文字通り動きを見せていないだけだが、俺は、ユウキに、誰かに剣を向けることを恐れ、剣を構えることが出来ないだけだ。
…また、左手から、闇夜の中でもはっきりと見えるほど、鮮やかな赤黒い鮮血が身体中にこびり付き始める。それを見ていると、自然と呼気が乱れ、全身から嫌な汗が滝のように溢れ出し、ますますデュエルどころではなくなってきた。
そして、今日何度目かのあの声が聞こえてくる気がした。
──お前は、さ──
ユウキ「…アルファ、ボクを、自分を信じて…」
ふと、内に潜む狂気に支配されかけていた俺を、救い上げてくれたのは目の前で剣を構える彼女だった。気が付けば、既にカウントはゼロ、ユウキが俺に向かって飛び出してくる。ユウキが振り抜いてきた片手剣を、俺は反射的に自身の片手剣で受け止め、その勢いで反撃する。
アルファ「うおおお──ッ!」
身体が石化したように凝り固まり、反撃することを拒む身体に鞭打って、俺はユウキに剣を向けた。
…いつもよりも、身体が重い。思い通りに動かない。それでも、俺はユウキの剣速に必死に喰らい付いていく。ユウキが、俺に振り下ろしてくる剣から、ユウキの剣と俺の剣がぶつかり合う中、俺の心には、ユウキが剣を持つ意味が痛いほど伝わって来ていた。
俺はもう迷うことはなく、それに応えるように、一歩引いたユウキに対して、積極的な一手を加えようと、片手剣を突き出す。だが、ユウキは、以前サツキが俺達相手にそうしたように、片手剣で俺の突きの軌道を逸らして、足を綺麗に運び、完璧なる剣技を披露した。
そして、ガラ空きとなった俺の身体を、体術スキルで地に堕とし、降り下ろした剣を、俺の顔の真横に突き刺した。
ユウキ「アイ、リザイン」
ユウキが、そう宣言したことで、完全決着モードのデュエルは終わりを迎えた。ユウキの体力は六割ほどだが、俺の体力はイエローゾーンにまで落ち込んでいる。普段のデュエルでは絶対に見られない光景なのだろう。
ユウキは、俺の顔もとに刺した剣を引き抜くと、地に仰向けの俺に手を差し伸べて、笑顔で訊ねる。
ユウキ「…どうかな?アルファはどうして剣を持つのか、思い出せた?ボクが剣を持つ意味、伝わった?」
アルファ「…あぁ、ビシバシ伝わってきたぜ……そうだ…俺は殺人鬼なんかじゃなかったんだな…」
…確かに、俺のやりようがもっと上手ければ、彼らは死ぬ必要はなかったのかもしれない。
だけど、俺が彼らを殺したのは、レッドプレイヤー達のような私利私欲の為ではなく、守るために、ユウキを守るために、剣を取ったのだ。俺の刃は、誰かを傷つけるためにあるのではなくて、誰かを守るためにある。
そして、ユウキの剣も、決して人を殺めるために振るう剣ではないことを彼女との剣戟の中で理解させられた。
…俺はこれまで、この世界で無念にも消え去って行ったプレイヤー達の為に、オウガとサツキの遺志を継ぐために、剣を持ち、闘い続けているのだと思っていた。だけど、今日、俺は確信してしまった。俺が剣を持つ理由は、勿論、オウガとサツキの為に、ユウキを守りきるためなのだ。
しかし、それ以上に、俺が、紛れもなく俺自身が、心の底から、ユウキを守りたいのだと、ユウキには笑顔でいてほしいのだと、いつだって笑っていてほしいのだと、悲しい顔をしてほしくないのだと、そう欲している自分がいることに気が付いた。だからこそ、俺は迷いの森で、ユウキの怯える姿を目の当たりにして、激情したのだ。
そんな俺は、きっと──
俺は、夜空に輝く月を掴むようにして、笑顔で差し伸べられた彼女の手を、取ったのだった。
さぁ、これはアルファ君に何やら、変化があったのかもしれないですねぇ…。ユウキの名言は、ここで使わせていただきました。
では、また第63話でお会いしましょう!