試験が終わってそれぞれの結果が帰ってきた日の放課後、俺は校舎裏に来ていた。呼び出した七咲は、まだ来ていないようだ。すっかり居心地が馴染んだこの場所に、俺はまた寝転がる。夕焼けに染まった空を眺めながらじっと待っていると、ゆっくりと人影が近づいてきた。
「あ……」
俺が待っていた相手は俺に気づいて立ち止まった。近づく事を躊躇う七咲に、俺は起き上がって近くまで歩いていく。七咲の前で立ち止まると、七咲は目を伏せてしまう。
「ノート、ちゃんと確認してくれたんだな」
「……はい」
試験の前の日、美也に頼まれたノートを郵便受けに入れた。俺はそのノートに『試験の後、校舎裏で話がしたい』と書いた紙を挟んでおいたのだ。七咲が受け取ってそのメッセージを見てくれるかが心配だったため、来てくれて安心した。
「テストは、受けたのか?」
「……はい」
まだ俺に申し訳なさを感じているのか、今も目線が合わない。さてどう話を切り出そうかと悩んでいると、七咲は少し震えた声で話し始めた。
「数学、追試になっちゃいました。水泳の練習時間も無くなっちゃって……これじゃあ、きっと……」
こんなにも弱気になっている七咲は初めて見た。スカートの裾を強く握りながら俯く姿に胸が痛くなる。七咲は目に涙を浮かべながら続ける。
「やりたい事ができないって、こんなに辛いんですね。諦めたくないのに……何もかもが邪魔してくるような気がするんです」
世の中の全てが自分を見放したかのようなあの孤独感。未来が閉ざされてどうしようも無くなったように感じてしまう。彼女には、こんな気持ちを知らずにいて欲しかった。
「なのに私……先輩にだらしない人、だなんて……」
「そんなの気にしないでくれ。自分でもわかってることだからさ」
「でも……それじゃあ私の気が済みませんよ」
ほんの軽口のつもりだっただろうし、言われたときの俺もそう捕らえていた。問題は無いのだが七咲自身に罪悪感が残ってしまっているのである。俺は七咲がこれ以上苦しんでしまわないように説得を続ける。
「本当にいいんだよ。……それにさ、最近はそんなに嫌なことばかりじゃなくなってきたんだ」
「……?」
「お前と一緒にいる間、嫌な気持ちを忘れられてるんだよ」
「え……」
これは俺が部活に熱心な七咲と一緒に過ごせる理由、もとい一緒にいたいと思う理由だ。七咲と一緒に過ごすことは、俺にとって安らぎの時間になっていたのである。
「お前が水泳部に入ってるって聞いたけど、あんまりそんな感じがしなくてさ」
「そう……でしたか?」
「俺にとっては、だけどな」
これまで話している時は部活の話をあまりしてこなかった。加えて練習をしている姿を一度も見ていないのもあるだろう。
「だから話してても大丈夫なのかと思ってた。……けど、今思えばそれだけじゃなかったんだよ」
俺にとってはもっと大事で、明確な理由があったことに気づいた。
「俺が不良だって聞いても、お前は俺から離れたり嫌ったりしなかっただろ?」
「それは……話すうちに悪い人じゃないってわかったから……」
「大抵のやつはさ、そこまで知る前に離れていくんだよ」
「あ……」
高校に入ってからずっと不良と呼ばれてあまり人が近寄らなくなっていた。そんな中で俺と話してくれる相手は数えるほどしかいない。
「お前は評判に関係なく俺と居てくれた、だから俺も部活動がどうとか関係なく接したいと思えたんだ」
自分の中にある嫌な記憶を遠ざけたくて、部活動に関わる物や人を避けてきた。けどそれは、不良だからと自分が遠ざけられる事と変わらないんじゃないかと気づいたのだ。七咲と居る事は好きなのに部活動に入っているから嫌う、なんておかしな話だ。そんな俺の心変わりがあったから、今はこうして七咲のためにと動けた。俺の本心を打ち明けてみたが七咲の表情は暗いまま、まだ俺と目を合わせてはくれなさそうだった。もう一押し足りないようだが、備えはしてきた。
「でも、私は先輩に……」
「……七咲、これを見てくれないか」
「……?」
俺はズボンのポケットに入れていた一枚の紙を七咲に手渡した。七咲は受け取って目を通す。
「これは……」
「俺の試験の結果だ」
「……! 先輩が、赤点無し……?」
俺の試験結果……全教科赤点を回避することに成功したという証拠だった。本当にギリギリだったけど、目標のラインを突破できていたのである。三人の手助けが無かったら、絶対に成し得なかった結果だ。
「全然威張れるような点数じゃないけどさ、俺なりに頑張ってみたんだ」
「どうして……ですか?」
今までの俺だったら、絶対に出来なかったしやろうとも思わなかった。けど、今この時のためならと頑張ることができたのだ。
「俺はさ、バスケが出来なくなった時に何もかも諦めちまったんだ」
「諦め……けど! 先輩は怪我のせいで!」
「バスケだけじゃない。その時の友達も学校も勉強も……親父との関係も、全部投げ出した」
目に写る全ての色が抜け落ち、光を失ってしまったようだった。これまで自分が積み重ねてきた事も、見れば見るほど嫌悪感が込み上げてしまうほどだった。そんな話に七咲は重く頷いた。
「……よく、わかります。私も出来るなら全部投げ出したいって……」
「いや、お前は俺と同じ事はしない」
「っ! ……どうして、そんな事が言えるんですか!」
七咲が今感じている辛さは、かつての俺の気持ちと同じかもしれない。けれど、七咲は俺と決定的に違うところがある。
「さっき『諦めたくない』って言ってたよな。『諦める』じゃなくてさ」
「っ!」
本当に諦めてしまっていたならとっくに投げ出していていただろう。これほどまでに悲しむことも、今ここに来ることだって無かったはずだ。
「ここまでずっとやりたいことのために頑張ってきたんだろ」
水泳や家の事をしている姿を直接見たわけじゃ無い。けど俺は、こいつがどれだけ頑張っていたのかを知っている。
「頑張るために静かな場所で休んだりしてさ」
偶然だけど、それで俺たちは出会えたんだ。
「落ち込んじまったお前のことを見てたら、何か助けになりたいって思ったんだ。俺もちょっとずつ頑張るから……これからも一緒にいさせてくれ」
七咲の手を握りながら、俺から距離を置かないよう頼んだ。差し伸べた手は、ゆっくりと彼女の両手に包まれた。
「……もう、なんですかそれ……」
ようやく笑みを浮かべた七咲は、ゆっくりと俺の胸元に身体を寄せてきた。俺はそんな七咲を迷いなく受け入れる。俺の両肩に手を置きながら、七咲は俺とようやく目を合わせてくれた。まだ少しだけ震えた声で俺に尋ねてくる。
「私の事、許してくれますか?」
「当たり前だろ」
「……よかった」
これでようやく緊張が解けたのか、俺に体重を預けてきた。俺の胸に顔を埋めたまま、七咲が落ち着くまでそのままの体勢でジッと待った。数分経った頃に、顔は見えないままだがいつもの調子に戻った声色が聞こえてきた。
「先輩。お願いがあります」
顔を上げて、俺と鼻先がくっつきそうな近さで話を続ける。
「やっぱりもっと、先輩の事を知りたいです」
「知るって、今よりもか?」
「はい。……先輩と後輩以上の関係になりたい」
「それって……」
俺の首に手を回したかと思えば、左頬に軽く唇を押し当ててきた。一瞬だったが、俺の心臓が跳ね上がったような衝撃に駆られた。目を丸くしていると、七咲は頬を紅く染めて微笑んでいた。
「先輩……好きです」
俺の目を真っ直ぐに捕らえながら、そう宣言した。
「っ……、そりゃずるいだろ……」
「ふふっ……今日は先輩に言われっぱなしでしたから、お返しです」
小悪魔の様な笑みを浮かべる七咲の表情からは、もう遠慮は感じられない。彼女がいつもの調子に戻った事への安心を感じつつも、この距離はちょっと心臓に悪いなと思った。
「全く、結局振り回されちまうのかよ……」
「……今のは冗談じゃありませんから、ね」
「ああ、わかってるよ。俺も……」
俺たちは、更に距離を縮めた。
その日、俺と七咲の関係は恋人同士になった。今まで以上に、一緒にいる時間は長くなっていた。今日も放課後の部活開始前、校舎裏で会って、部活に向かう彼女を俺が見送る形を取っている。
「……それじゃあ先輩、部活に行ってきます」
「ああ。今日のタイムでメンバーになれるかが決まるんだよな?」
「はい、とても緊張してます」
「だ、だよな……」
「ぷっ……先輩の方が緊張してどうするんですか」
「……全くだ」
人の部活の話なのに俺がここまで動揺する日が来るなんて思ってもいなかった。きっと俺と一緒に笑ってくれる彼女のお陰なのだろう。
「本当に、しょうがない人ですね。……それじゃあ、行ってきます……朋也先輩!」
「ああ、頑張ってこいよ……逢」
例え結果がどうであっても、俺たちの関係はもう壊れたりしない。俺は七咲が戻ってくるのを待つだけだ。ずっと空虚だった俺の心は、いつのまにか満たされていた。走っていく七咲の背中の先に、一粒の光が舞っているような気がした。
原作では七咲は選抜メンバーになれませんでしたが、
この世界ではあるいは・・・?
ということで七咲編終了です。
原作よりもかなり落ち込ませちゃいましたがその分岡崎に頑張ってもらいました。
赤点回避・・・ぐらいだったらありえなくはない、はず。
次の桜井編でメインヒロインは最後ですね。
幼馴染みじゃなくなっているから展開がまたかなり変わりそうです。