その約束を果たすには、あまりにも時間が足りなかった。
約束
歓声が谺響する、ターフの景趣。そのあまりにも圧倒的な“疾走り”を前にして、観客席が揺れている。紅に染まる木々に秋の深まりを感じる東京競バ場。そのスタートから2000メートルの間、彼女はその最初から最後まで、残りの17人を引き連れ、―置き去りにして、御上の栄誉たる盾を頂戴した。
第2コーナーを抜けた時点で勝負は既に決していた。向正面を加速度的に伸びていく緑色の風を、ほかの差しや追い込みのウマ娘たちはもちろん、先行や同じく逃げをとっていたウマ娘らも捕まえることは叶わない。その後第4コーナーを回りゴールゲートを通過するまで、二番手との差は開く一方だった。大差、の表示だけでは到底表すことのできない圧倒的なまでの実力差。グレードG1の最上級レースでありながら、まるでオープンクラスを走るように、あまりにも簡単に、一着を攫っていった。
「トレーナーさん。」
学園に戻り今日のレースを見返していたところで、部屋の扉が開く。視線を向けずとも、誰が来たかなどすぐにわかった。
「―門限はとうに過ぎてんだろ。…珍しいな。」
飲みかけの発泡酒―学園内では禁じられているが―、をテーブルに置き、彼女に向き直る。栗色の長い髪が月に照らされ、その決して派手とは言えない印象が夜の静寂を際立てていた。どこまでもまっすぐなエメラルドの双眩に捉えられ、いつものことながら、目を逸らすことができない。
「お願いがあって。」
この後彼女が何を言うかなど百も承知だ。ただなんとなく、それを引き延ばしにしたくて、卓上の電子タバコに手を伸ばす。よくここに来るウマ娘の為に、実害のある煙草を止めんとしたが、やはり一度染まってしまったものを完全に漂白するのは難しく、害のない水蒸気を吸い吐きして、そんな気になっていた。肺一杯に吸引し、それを吐き出す。煙―ではなく、それによく似た水蒸気が舞い、消えていく。この煙もどきと一緒に、葛藤も吐き出したい気分だ。
「私を、来月のJ-CUPに出してください。」
そんな気持ちを知ってか知らずか、かまわず彼女は続けた。視線は、交わったままだ。
「トレーナーさんも、私の考えがわかっているんでしょう?」
わかっているさ。既に彼女の疾さは日本という極東の島国に収まるレベルではない。それは彼女自身が一番よくわかっているだろう。だからこそ、来年からの海外留学を決めたのだから。
「ああ。だが―。」
既に受け入れ先は決まっている。彼の国でもトップレベルの施設だ。ここに収まれば彼女の更なる飛躍は約束されたも同然だ。しかし、それには『一定以上勝利し、無敗のままこちらに来る』という条件があった。その一定の勝利ラインはとうの昔に越えているが、敗けるという結果がいつなんどきやってくるかはわからない。一度も来ないかもしれないし、次のレースかもしれない。そういったことで彼女を説得しなければならない後ろめたさに、彼は視線を再びレースのビデオに移った。
「なあ、もう一度考えてくれ。お前はもう十分走った。お前の適正範囲ではもう日本でやることはない。それは俺が保証する。お前の将来のこともある。だから―。」
わかっています、と彼女は遮った。
「トレーナーさんが何を言いたいのかはわかります。ですが、結果どうなろうと、あの娘との約束を果たさないわけにはいきません。」
あの娘。と濁されたが、それが指す娘というのはよくわかっていた。スペシャルウィーク。このウマ娘と出会い、互いの心を融かし開かせ、走る意味を与えた。双方にとって、もはや切っても切れない関係となっている。そんな2人がいつの日か交わした約束。一緒に走ること。有マ記念に出走が叶わなかったスペシャルウィークにとっては、一月後のJ-CUPが、その最後の機会。スペシャルウィークはJ-CUPに向けて―、彼女との約束へ向かってトレーニングを重ねている。お互いに大切なレースという位置づけになることは間違いなかった。
「―負けたら、留学の未来も失くなるぞ。」
無敗でシーズンを終えることが留学の条件だ。
「結構です。」
結果は気にしないという意思表示だろうか。
「なあ、どうしてそこまで、お前の将来を賭けられるほど、この約束に拘るんだ?」
それを聞いた彼女は薄く微笑んだ。
「未来は、その時になってみなければわかりません。留学という話も、今この瞬間の私には関係ありません。私が大切にしたいのは手の届かない不確定な未来の話ではなく、手を伸ばせば届く位置にある今なんです。」
そうか。と答えることしかできなかった。今の彼女は止まらない。止められない。決意が固い、というやつだ。
「―では、もう一度確認するが。」
J-CUP。東京競バ場所、芝、2400メートル。カテゴリにおいては芝中距離に属するが、2400メートルという距離はその《中距離》というカテゴリで最も長い距離だ。スペシャルウィークは主に長距離を主戦場とし春の天皇賞や菊花賞といたレースに出場しているため、距離的にはむしろ楽な部類に入りスタミナに余裕ができる。スタミナに余裕があるということはより速いペースで駆けられるということであり、それが結果としてタイムを縮めることになる。一方目の前の彼女はマイルが主戦場。今回の2000メートルも、彼女にしてはかなり長い距離だったはず。それより更に400メートルも長い距離。さらにその距離を逃げ続けなければならいことによるスタミナ消費やメンタル面を考えると、明らかに大は小を兼ねているスペシャルウィークが有利だ。
「というところだが、本当に出るんだな?本当にいいんだな?」
はい、と彼女は小さく頷いた。これはもう、説得も反論も徒労に終わってしまうだろう。何も言わずに、もういちどだけ水蒸気を吐き出す。それを見た彼女は、ありがとうございます、という言葉を残して、部屋を出ていった。爽やかな芝のような残り香が、翌日の朝になってなお漂っていた。