―J-CUP前夜。やることなすことすべて終え、あとは天命を待つのみだ。トレーナー室のテーブルに置いてある週刊トゥインクルに目をやる。でかでかと踊る《大本命》の文字と共に、オグリキャップの凛々しい走り姿が表紙を飾っていた。
出走するウマ娘たちの戦績や能力チャート、レース展望の予想など細かく特集されている。この雑誌のイチオシはやはりオグリキャップとのことだ。
同じ逃げの脚質を持つウマ娘として警戒しておかなければならないのはミホノブルボンか。シニア級の強者ぞろいの中でも抜きんでたスピードと、それを3000メートル維持できるスタミナは脅威だ。今の彼女の上位互換と云っても過言ではないかもしれない。もちろん後方からの差し―、オグリキャップやゴールドシチーにも充分警戒しなければならないだろう。
クラシック級からの出走ということでスペシャルウィーク、キングヘイローは別に紹介枠を設けられていたが、やはり身体的な未成熟さとレース経験の不足、その後伝説的な活躍をしたシンボリルドルフのレース成績から、スペシャルウィークの差し脚を差し引きしても、相対的な評価はかなり低めに書かれていて、我々が常日頃から懸念していた通りのことが並んでいた。
色々な対策や位置取りなど考えてみたが特段できることは無い。マイルが主戦場の彼女にとっては距離が長いというだけで不利だ。まして彼女はスタートからゴールまでただひた走っていただけだ。そのような頭の良いレースは難しいだろう。結局のところ、自分にできる走りを最初から最後まで貫けるかどうかが、レースを有利に進める鍵となるはずだ。
―いろいろなことが頭を巡って眠るに眠れない。散歩にでも出よう。
レースを明日に控えているというのに、柄にもなく私は眠れずにいた。どうにも堪らなくなり、少しだけ、という気持ちで、いつものように部屋を忍び出て、闇に落ちたグラウンドの芝を踏む。気温が下がり、少しだけ露に濡れた芝の感触が気持ちいい。
見上げた空は相変わらず星の海に満ちていて、微笑むように揺らぎながら輝いている。そんな星空の下を走れるということが、幸せのひとつのカタチ。いつものように加速する。雑音やノイズを抜き去り、少しずつ私の周りの音が消えていく。ついには足音も置き去りに、私はどこまでも速く、速くなっていく。誰でもいい。今私は無性に伝えたい。極限まで研ぎ澄まされたスピードの最後に訪れるもの。私以外存在しない、星の光に満ちた安らぎの闇。
この世界は、美しいの。
見て。
スピードを維持しながら学園側のレーンへと入ったところで、人影が見えた。その人影はまっすぐにこちらを見据えている。こんな時間に。こんなところで、私をじっと見ていられる人。
まさしく、私のトレーナーさんその人だった。
「座らないか。」
門限を破って全速力に近いスピードで走る私を咎めるでもなく、トレーナーさんは階段に腰を下ろした。私も倣って、その横に。
私の息が整うのを、トレーナーさんが待ってくれているように感じた。近すぎてその顔を直視できないけど、きっと優しい目で見てくれているんだろう。そんな時間に、私には走ることとは別の心地よさを感じていた。
―やがて息も整い、体力も戻ってきたところでトレーナーさんを見やると、彼は空を見ていた。
「星がきれいだな。」
私も一緒に、空を見上げる。
「はい、とっても。」
ふたりして、その景色に沈んでいく。様々なきらめきが、ひとつの芸術作品のように空を彩っている。
「―。私は、こんな星空の下を走るのが好きなんです。」
はは、そうだろうな―、とトレーナーさんは苦笑交じりに答えてくれた。
「眠れなくて。」
―ああ、俺もだ―
「…一緒ですね、私たち。」
―そうかもしれないな―
「勝手に走ってて、怒らないんですか?」
―まあ、今日は、しょうがないさ―
ひとこと、ひとこと。ふたりで言葉を紡いでいく。さっきと同じ、走りとはまた別の安らぎ、安心を、より強く感じた。どうしてだろう。
きっとそれは、トレーナーさんが横に居るから。
トレーナーさんが、私の凝り固まった心を柔らかくしてくれる。
トレーナーさんが、走ることしか考えられなかった私に、別の世界を教えてくれる。
トレーナーさんが、私を信じてくれている。
トレーナーさんがいてくれるから、私は私でいられるのかもしれない。
「トレーナーさん。」
ん?と、空ばかり見ていたトレーナーさんが、私を見てくれる。
「―ありがとうございました。」
今は、そのひとことが言いたかった。
「明日、私は勝ちます。トレーナーさんの想いに必ず応えて見せます。―なにより、私が、私のために勝ちたいから。」
―そうか―
じゃ、もう寝なきゃな―。トレーナーさんが腰を上げた。随分長い間座っていたからキていたのか、腰をトントンと叩くしぐさが妙にオヤジ臭い。それも含めて、私の信じられるトレーナーさんだった。
なんとなく向かったグラウンドに彼女の姿があったので、走るのを止めさせるのも兼ねてしばらく話し込んだ。
満天の星空を眺めながら彼女と交わした会話は非常にとりとめのないものだった。明日のためになんかなりゃしない。けれど、彼女との気持ちは、確かにつながった気がした。
流石にもう時間が時間なので、部屋へ向かうべく立ち上がる。お前も早く寝ろと別れを告げ、裏門へ向かおうとした。
「トレーナーさん。」
背中に彼女の声。背中を向けたまま、声だけ返事した。
「トレーナーさんって、私の名前、一度も呼んでくれたことありませんよね。」
確かにそうだ。去年出会ってから、ただの一度も彼女のことを名前で呼んだことは無い。あえて気にして呼ばなかったのではなく、自然とそうなってしまった―というのが事実だが、どうも彼女には思うところがあったらしい。
「明日私が勝ったら、考えておいてください。」
それだけ言い残して彼女は寮へ駆けて行った。
わかるさ。名前くらい知っている。他のだれよりも大切にしてきたウマ娘だ。歴史にその名を刻み、速さという指標においては群を抜いた輝きを放つ、翠玉色に疾する一陣の風。
―彼女の名前は、
サイレンススズカ。