東京競バ場の選手控室はバラバラに設置されており、指定された道順どおりに進めば、ターフへと至る地下通路に入るまではほかのどの出走ウマ娘とも出くわさないような通路のつくりになっている。そしてその道順というのは人間にとっては非常にややこしいものだった。比べて、ウマ娘はそのあたりの認知能力に長けているのか、すいすいと通路を進んでいく。
「ここのようですね。」
もうどこを通ってきたかもわからないが、目的の部屋には着いたようだ。辟易としながらその扉を開く。なんてことはない、ホテルの一室のような控室だった。この部屋までウマ娘を送り届けるのが、トレーナーとしての役目でもある。
「―まったく、東京競バ場はこれだから困る。」
鞄を放り投げ、靴を脱いでベッドに横になった。普通に最短距離を通れば5分とかからない道を、なぜこうも遠回りしていかなければならないのだろうか。
「でも、おかげで、誰とも会わずに済みました。」
腰元の空いているスペースにスズカも腰掛ける。きし、と僅かだけベッドの歪む音。その重みがじんわりと優しく広がっていく。美しい栗毛と優しく微笑む翠玉の双眸に、なんともいえない多幸感を覚えた。ああ、このまま眠ってしまう―、
わけにもいかんと、体を起こす。
「作戦会議だ。」
さくせん。とスズカがこちらに向き直ってきた。
「もしかして作戦って言いました?珍しいですね、トレーナーさんが。」
馬鹿野郎、勝ちたいんだろうが―、とデコピンを食らわせてやる。
「いいか、お前と同じく逃げをうってくるウマ娘もいるんだ。その中でどうやって先頭に躍り出るかが今日のカギだ。わかるな?」
今回逃げをうってきそうなウマ娘はミホノブルボン、ツインターボ、マヤノトップガン。メジロマックイーンもちょっと怪しい。スズカも含めると逃げウマ娘は五人になる。こうなると抜け出すには余程速いかきれいなコース取りで周回するしかない。そういう話をすればスタート位置が内側のツインターボがやや有利ではある。
「それで、私はどう走ればいいんですか?」
スズカにとって逃げのイメージとは何だろうか。
「先頭をひた走ることです。」
じゃあ、ほかの逃げのウマ娘たちがスタート直後どう動くか、わかるか?
「先頭を目指して加速します。」
それがわかってりゃ上出来だ。
「俺としてはお前には少し後に陣取ってもらいたい。―先行しろと言ってるんじゃない。ちゃんと逃げていい。だが、他の四人がどんなペースで逃げるのか見極める時間が必要だ。
スタートしてから400メートルは張り合っていい。それで戦えるなら逃げてもいい。ただし、少しでもスタミナに不安を感じたり脚に重みを感じたら大人しく下がれ。集団の中にいれば5番手でも全然問題はない。」
そのあとはスズカの走りやすいようにしてくれていいだろう。早い段階で下がった分、先行にはけん制ができるし、後半伸びてくる差しや追い込みにも対応できるはずだ。
並んだところで、最終直線でどれだけ踏ん張れるかの勝負になる。どんな小賢しい手段を使ったところで最後はスピードとそれを維持できるスタミナ、根性だ。ただ走ってたら一着が付いてきたスズカにどの程度根性があるのか未知数だが、最悪の場合はその能力でどうにかしてもらいたい。
「―といったところか。何か質問はあるか?」
話している間にだんだんと視線は下がってきていたが、ここで完全にスズカは俯いてしまった。こころなしか震えているように思える。
「今になって、わかったんです。私が今、このレースに懸かっているものの重さに。」
レースに勝ち負けがあるなんてどうでもよかった。
ただ走りたいように走れればそれでよかった。結果は勝手に付いてきた。
そして世の中にはその結果に拘る人たちが大多数を占めるのだということもわかった。
それでも、拘らずに走り続けてきた。なおも勝手に結果は付いてきた。
「私にはわからなかったんです。《この一本》に総てを懸ける気持ちが。」
はじめて《勝ちたい》と思ったレース。
その《一本》に懸かっているものの多さ。知らず知らずに、背負って、背負わせてしまったものの重さ。
ほんとは少しずつ理屈としては理解していたけれど、今日、今この瞬間になって、それが感情の波として現れた。
「トレーナーさん。私、怖くなってきちゃいました。レースなんて来なければいい。逃げ出してしまいたい。―こんな気持ちになったのははじめてで、私、どうしたらいいか―。」
そうか―。やっとお前も、戦うウマ娘の気持ちがわかったか。
「敗けることが許されないレースを走るのは初めてで、そのプレッシャーに押しつぶされてしまいそうです。」
震えるスズカの両肩にそっと手をそえて落ち着かせる。
「みんな同じだ。特に今日のレースは中距離帯のタイトルマッチに等しい。今日ここで勝ったウマ娘が、すなわち今年一番速かったと言われるようになる。そんなデカいレースの直前なんだ。逃げ出したくなったっておかしかない。誰だって同じようにプレッシャーを感じているんだ。
ここだけじゃない。《今一番速いウマ娘》そう言われたいが為だけに、闘争心むき出しで、その総てを懸けて今日もみんな芝を走るんだ。―好き勝手に走ったらなんかトロフィーがいっぱいになってた、なんていうお前に足りなかったのはそこだ。勝ちたいという気持ちと同時に《負けたくない》という想いがウマ娘を突き動かす。お前もいつかそうなる。そして俺はそれを今日この一本だと思っている。
正直この一本に懸かっているものは余りにも重い。ほかのウマ娘以上に背負っているものは大きく重いはずだ。だが考えてみろ。それと同じくらい大きい応援ももらっただろうが。その応援に応えて―、いや、誰かの期待のために走るんじゃないな。お前が勝ちたいから走るんだろ?勝って、留学の切符も落とさずに、期待や応援にもしっかり応えようじゃないか。な?」
はい。と小さく啼くスズカだったが、震えはきもち治まっているようだ。
「―俺も一緒に戦ってるから。一緒に勝とうぜ、サイレンススズカ。」
はっ、と視線を上げた彼女から手を放し、控室を出て関係者席へ逃げた。