サイレンススズカ、翠玉に疾う   作:橋本みちか

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憩い

走ること以外のトレーニングを積極的に取り入れているのは初めてかもしれない。プールで泳ぐことも、ウェイトトレーニングも、それもこれもすべてあのレースに勝つためだと思えばなんだって消化することができた。

私の距離ならスペちゃんに負けることはないけど、今回も勝負するのはスペちゃんの土俵。あの一瞬の末脚は昨日のこと―、ついさっき起こったことみたいに覚えている。これが精神力か―と、勝利への執念を肌ではじめて感じた瞬間。多分私が走り続ける限り忘れることはないだろう。

 

だから私は、どんなに垂れても垂れない心、折れても折れない精神が欲しい。身体の限界を超越して、さらなるスピードの扉を開きたい。そのために、今日も坂道をひた走っていた。

 

「おおいスズカ!ちょっとタイム落ちてるぞ!」

 

トレーナーさんが横で併走してくれている。上っては下り、上っては下りをひたすら繰り返す。その時出せる限りの速さで走る。何度も何度も止まってしまいたい欲求に駆られるけれど、それを振り払うたびに、またひとつ新しい扉が開かれていく気がした。

 

「頑張れ!あと3本だぞ!」

 

その、あと3本の壁がより高い。やめてしまいたい気持ちと、それを超えたい気持ちがギリギリのところで拮抗している。すでに脚は使えず、全身全霊を以て1本目を登りきった。

肩で大きく息をしながらスタート地点へ。もう頭に酸素が回っているかどうかもわからない。なんだかすごくふわふわする。こうやって戻ってきて、振り返ったときに見える坂の頂点は、毎回高くなっていくような気がしていた。

 

2本目。もうまっすぐ走れてるかどうかすら怪しい。けど、横のトレーナーさんの声と、やはり思い出されるあの時の光景が、私の背中を押してくれた。

 

さっきの倍くらいの疲労感が私を襲う。私にかかっている重力がより強くなっているみたいに、身体は思うように動かない。坂を下るときでさえ、その1歩1歩膝に圧し掛かる重みを激しく感じる。とうに限界なのはわかってる。わかってるけど、それでも進まないとダメなんだと自分を強く叱咤し意識を前に向ける。

 

最後の1本。今日50本目。トレーナーさんは頂上で待ってくれているみたい。

固まりかけて動かない腕を力の限り振り、芝に吸い付いて動かない脚を無理やり引きはがし、どうにかこうにか登り切ってトレーナーさんに抱き留められた後のことはよく覚えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―あ。」

 

スズカが目を開いた。トレーナー室のベッド。知らない天井―というわけではない。

デスクでスペシャルウィークのレースを見ている途中だった。

 

「起きたか。身体の具合はどうだ?」

 

ドリップマシンが鳴く。自分で飲もうと思って作ったコーヒーだったが、ちょうど淹れ終わったタイミングでスズカが目を覚ましたので、そのままくれてやる。

 

あたたかくて、すこしだけ甘いラテ。スズカは両手で少しだけ飲んだ。

 

「毎日倒れるまでっていうわけにもいかんな。明日は別のメニューだな。」

 

「今何時ですか?」

 

眠たそうな顔をしているが、見ている映像が気になるのかスズカが身を乗り出してくる。

映像はこの間のヴィットール杯のものだった。

 

腕時計を見る。

「今か?あーっと、18時半くらいかな。3時間くらいは寝てたぞ。」

 

よくよく考えると着ているものも練習用のウェアから大きめのパジャマ―これはトレーナーさんの?

 

「ああ、近くでスーパークリークに会ってな。時間があるようだったから少し世話を頼んだんだ。お前の部屋を知らなかったようだから、ここにある服でまかなったんだろう。」

 

ちょうどレース前で切羽詰まっていたところらしく、さんざんスズカを甘やかしてくれた。《いい癒しになりましたぁ~》なんて言っていた。

 

「―ほらスズカ。ここ見てみろ。」

 

「?」

 

ヴィットール杯ではスペシャルウィークがその差し脚で圧倒的な勝利をおさめたが、その差し脚が炸裂する瞬間。

 

「―沈んでますね。」

 

「だろ?」

 

スペシャルウィークが本気のスパートに入るとき、クラウチングスタートから立ち上がるときと同じような脚運びをしていた。多分ヒトのそれと同じように、地面を蹴る力がより前方によること、脚が地面に接している時間が長くなり、それに比例して蹴り上げる力が増幅されることから、瞬間的に爆発的な加速力を得ることができる。

そこからスピードを維持していくにはその後の姿勢が重要なのだが、おそらくスペシャルウィークはそれを完璧に会得しているのだろう。まさに国宝級の差し脚ということだ。

 

より脅威なのは。

 

それを2回使ってきたという事実があり、それを見せつけられていることだ。

 

「2400の距離ですらスパートにスパートを重ね掛けすることができる精神力。あれこそまさに肉体の限界を超えた《ゾーン》と呼べるべきものかもしれないな。」

 

心理学的にはフローという名前らしい。あらゆるスポーツにおいて、極端にそれに集中できる場面というのは、極めてきた者ならいち度くらいは経験したことがあるだろう。

それに完全に浸り、精神が研ぎ澄まされている状態。自らが挑戦するレベルが高く、また自らのレベルそのものも高いと発生しやすいといわれている。

自らの制御が完全かつ、自らが思っていた限界をひと回りもふた回りも上回ったパフォーマンスを発揮できる。その時点で至れる最高の境地といっても過言ではない。

 

「私も感じたことがあります。もっと速く、もっと速くという想いを走りながら強めていると、本来ならあり得ない距離をあり得ない速さで駆けていたりしますから。」

 

それはアドレナリンが過剰になってるだけだ。危ないからやめとこうな。

 

くう、とスズカの腹が鳴る。学園の食堂はすでに閉まっている。ここでしゃべりすぎた。

 

「―飯でも食いにいくか。」

 

ぱっ、とスズカの顔が上がる。晩飯にはちょうどいい時間だ。

 

「―で、でも、体重の管理は大事だから…。」

 

馬鹿野郎。俺たち動物の本能を忘れたか。食える時に食うんだよ。

 

半ば無理やりスズカをレストランに連れてきたが、ヒトが食うにはあまりにもデカすぎるにんじんハンバーグを幸せの絶頂という感じで平らげて、機嫌も上場なようだ。

 

 

 

翌日。坂道は無いと安心しきっていたスズカにひたすら止まることなく走れと指示し、非常に強張った顔でスズカはグラウンドに向かっていった。その後スズカが見たものは、地獄以外の何ものでもなかった。

 

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