サイレンススズカ、翠玉に疾う   作:橋本みちか

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過去

平地のターフコース。空はカラっと晴れており、そよ風は心地よい春の香りを運んでくる。スタートの合図とともに、こちらはたったいち度風を捉えたウマ娘がひとり。グラウンドのコースを伸びてゆく。

 

「ペース落ちてるよ!あんた差しなんだからスパートの距離伸ばさないと到底あれには追い付けないでしょうが!」

 

はひぃ!と空気の抜ける返事をしながら、スペシャルウィークは少しでも伸びようとする。一杯に息を吸い込み、ひたすらに腕を振るけれど、それ以上は伸びてこない。それもそうだ。彼女はスタートから1800メートル以上、何も考えさせずにひたすら全力で駆けているのだから。

 

「ほら残り600!ここで伸びないウマ娘は勝てないよ!」

 

はあ、はあ、はあ、ともはや天を仰ぎつつあるスペシャルウィークだったが、それに反応して少しだけスパートを掛ける姿勢に入る。ほんの数歩だけ加速したが、そこから伸びてくることはなかった。

 

はあー、はあー、はあー!

 

ほぼほぼ限界ギリギリの出力で2400メートルを走りきり、それと同時にスペシャルウィークは芝に倒れ伏した。肩で大きく息をしている。

 

「うん、ちょっとだけ速くなってるよ。」

 

かけられた私の言葉に、死にそうになりながらも笑顔で返してくれた。

 

「けれど、残り600のタイムは今までで一番遅いかな。純粋に体力がついて巡航速度が上がったのかもしれないけど、それじゃダメだよね。」

 

きゅう、とスペシャルウィークの顔が歪み、あがった息は戻らずそれ以上は何も答えられないようだった。

 

ちなみに収穫はある。

J-CUPで見せてくれたスパートの先にあるスパート。当時は精神的に非常に整ったコンディション、状況であったからこその賜物だったが、これを少しずつ自分で制御できるようになっている。

2400を速く強く走りきる精神力は少しずつ備わってきているように感じた。あれとの決着―、大日本ダービーまでにひとつ走っておかなければ星が足りない。当初は大阪盃にその照準を合わせていたが、2000メートルはあれの脚が十分使える範囲であり、あれが走る確率も相応に高いと考え、春の天皇盃へそれをずらした。

 

昨年の秋はあれが獲っている。ライバル同士で同じ盃を分かつのも乙なのかもしれない。

3200というあまりにも過酷な距離。輝き始めた差し足をより眩い光とするには、スペシャルウィークが覚えなければならないことは、まだまだたくさんある。

 

「じゃあ、次は2700いこうか!無理に上げなくていいから、距離だけ掴んでくればいいから!」

 

ええーっ!とスペシャルウィークが抗議の声を上げる。

 

まずは3200走れるだけの体力をつけなければならない。勝負勘は最初から諦めている。とにかく走って、仕掛けられる距離、垂れない距離っていうのを自分で見つけてもらいたい。

 

「休んでからでいいから!今日はそれで終わりにしてもいいからとにかくよろしく!」

 

ぶはあーっ、と再び芝に倒れこむスペシャルウィーク。ほどなくして、よろよろと立ち上がり給水所へ向かっていった。

 

「追い込んでますねえ。」

 

突然の声にびっくりして振り返ると、あれのトレーナーが横に佇んでいた。

 

「お疲れ様です。―敵情視察ですか?」

 

そんな大層なもんじゃありませんよ、と彼は首を横に振った。

 

「なんとなく、晴れの日の芝を見ていると落ち着くような気がしましてね。」

 

どうやらあれにかなり影響されていると見た。まあたしかにその実績には目を見張るが、別に気にすることではない。

 

「―サイレンススズカは元気ですよ。」

 

へろへろになりながらコーナーを切るスペシャルウィークを見ながら、おもむろに彼は口を開いた。

 

「別に。あれの状態は私には関係ありませんから!」

 

そうか、そうですよね。彼は視線をスペシャルウィークから空へ移す。

けれど。二の句を継ぐその口を私には止められない。もう思い出したくもないのに。もう聞きたくもないのに。彼の口からはにべもなく、それが出てきた。

 

「元トレーナーなら、気にしてもいいように思えるんですけどね。」

 

この人のことだ、特に何も思うところなくこういうことを言っているに違いない。

 

なのに、

 

それを嫌味たらしく捉えてしまう私がいて。

 

どうにもならず、その場から逃げ出したくなった。

 

「今のあれの担当はあなたです。そういったことは、あなただけ判っていればいいのに…。」

 

ふっ、と彼は優しく笑ってスペシャルウィークを見守っている。

 

「スズカは、今でもあなたの話をします。確かに楽しい話ばかりではありませんが―。どれもスズカの中ではよい思い出となっているようです。ですから、たまには―。」

 

言いかけたところで、スペシャルウィークが2700を走りきって芝に倒れこんだ。顔が青ざめて、酸素を取り入れんと必死に胸を上下させている。ちょっと危なそうだ。

 

「私、行ってきます!」

 

さっきまでの話を振り払いたくて、私はスペシャルウィークのもとに駆け出していた。

 

今の私は、スペシャルウィークのトレーナーなのだから。

 

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