2700メートルを全力で走り、倒れこんだスペシャルウィークを助けに行ったトレーナーだが、その傍らに膝をついたきり動かなくなってしまった。すでにスペシャルウィークは回復して、立ち上がれるまでになっている。
その様子にいささか不安になったので自分もその場へ行ってみた。
「トレーナーさん?」
スペシャルウィークがその担当トレーナーの顔を覗き込んでいる。
「トレーナーさあん?」
顔の前で手をひらひら。トレーナーはどこか遠くをみているようだ。
ぽん、ぽん、と肩を叩いても彼女は帰ってこない。
どうしたものかとスペシャルウィークと途方に暮れていると、遠くで芝を踏む音がした。
「トレーナーさん。」
やたらと戻ってこないので不安になったのだろう。スズカがやってきた。
「これは―。何をしていたんですか?」
片膝をついたまま固まっているスペシャルウィークの―、自分の元担当トレーナーを見て、当然の疑問をそのまま口にする。
「それがよくわからないんですよね。私を助けに来てくれたかと思ったら固まっちゃって。」
そう―、とスズカは興味ありげにトレーナーの周りをまわりながら覗き込んでいる。こういうときでさえ左回りなのである。
しゃく、しゃくと芝を踏む心地よい音がする。その音に反応したのかわからないが、彼女は突然、ぶるるっと震えたかのようにしてこちらに帰ってきた。
「は―っ、私は何を…、いえ、それよりもスペシャルウィーク…。」
そのスペシャルウィークはもう元気いっぱいになっていた。
「あれ...?」
心配そうにその顔を覗き込むのはスペシャルウィークの他にもう一つ。それを見た途端、彼女ははじかれたように立ち上がった。
「ご、ご心配をおかけしました!どうにも体調がすぐれないようなので私はこれで失礼します。スペシャルウィーク、今日はこれでいいわよ。入念にストレッチしてから上がってね。―それじゃ、失礼します。」
いまだおぼつかない足取りで学園へ向かっていった。触れようと伸ばしかけた手の行方がなくなり、そのまま悲しそうな表情でスズカは彼女を見送った。
「あっあっあっ、待ってくださいよトレーナーさん!」
こちらに一礼だけして、スペシャルウィークもそれを追っていった。二人はなにやら喚き合いながら学園棟へ戻ってゆく。
それを眺めているスズカを、春の暖かい風が、ざああ―、とノイズととともに撫でていった。揺れる芝とともに揺らめく栗毛は今の心だろうか。
「寂しいか?」
遠ざかるスペシャルウィークとそのトレーナーを見つめるスズカに並んだ。押し合いへし合いしながら歩いているのを見ると、二人の間にできている絆めいたものを感じる。スズカは少し考えたのち、頭を振った。
「いいえ、そんなことはありません。ただ、やっぱり気になってしまうんですよね。」
スズカの担当があの人から変わった経緯については、当然ながら本人に説明してある。が、それはそれで良しとしないところがスズカにはあり、指示には従うが本人の口からきかない限り納得はしない、ということで話は進んだのだった。最初はこちらに対しても懐疑的な態度だったが、もう1年が経っている。一緒に先頭の景色を見ていくうちに、その信頼は少しずつ寄せられているように思っている。
「―私の、どこがだめだったのか。考えないようにしていても、あの人の顔を見る度に、どうしても頭をよぎってしまうんです。」
どちらからともなく、学園棟のほうへ向けて歩き出した。この話になるといつもスズカのメンタルは下降気味になってしまう。そのわりには饒舌になるけれど。
「怪我や事故は、そうなる危険があることをしている以上いつか遭うもんだ。今日スズカがそうじゃくても、他の誰かが怪我したかもしれないし、明日スズカが怪我をするかもしれない。そしてそれは大抵、俺たちの力ではどうすることもできない不可抗力の連鎖で起こる。明確に誰が悪いとかは無いんだ。怪我をしたほうも、させたほうも、それを見ていた、見ていなかった者たちも、なにも背負うことはない。起こったことは起こったこととして、それを繰り返さないように努力しなきゃな。―まあ、そんな話も、お前がまたこうやって走れるようになったから言えることなのかもしれないけど。」
こういった話は何度もしてきたが、おそらくあの二人には届くことはないだろう。それぞれが重く責任と後悔を背負っている。
手を引かれるのを待っているのではなく、それを拒んでいる。だから今のところは、こうした話を何度でも繰り返して、少しでも彼女の、彼女らの後悔を軽くさせてやることしかできない。
少しだけ強く吹いた風に下を向いていたスズカの髪が舞い上がる。爽やかな芝の香りを振り撒くそれから覗く瞳には、どんな言葉が書いてあるのか読み取ることは難しかった。
「まだ何も終わっちゃいないんだ。これまで通ってきた道を振り返るのは、それからでもいいんじゃないか。」
決戦の大日本ダービーまで時間があるわけではない。後ろを向いて過去を悔やんでいる場合ではないのだ。少しでも速く、少しでも強く。ほんの1歩でも先にすすまなければ、スペシャルウィークには勝てるはずもない。
「明日からまた頑張ろうな。」
それからは二人無言で学園棟へ戻り、別れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日もすっかり沈んだ頃、スズカのコンディションやスペシャルウィークの偵察の成果などの整理が一区切りつき、風呂にでも入ろうかと大浴場へ続く通路を進んでいると、恐らく湯上りであろう、シンボリルドルフがタオル片手にひとり外を眺めていた。
無敵の皇帝とはいえ、感傷にひたるときもあるだろう。その視界に入らないように通り抜けるつもりだったが、目には入らずとも耳には入ってしまったらしい。
「やあ、トレーナー君。」
邪魔しないつもりだったと軽く頭を下げて詫びる。
「ウマ娘の聴力をあまり無礼てもらっては困るね。―今夜はあまりにも月が綺麗だったから、思わず足を止めてしまっただけさ。」
窓を見ると、なるほど綺麗な三日月。ちょうど庭に生えている笹から空が見える位置に出ていた。
「子供のころを思い出すのさ。」
眺めていると、皇帝は話を続けた。
「私は子供のころ両親からは別の名前で呼ばれていてね。シンボリルドルフという名前は、私がこの世界を目指すと言ったときに貰ったのさ。―温かい家庭だった。厳しくも懐の深い父と、どこまでも慈愛に満ちた母に育てられ、私には何一つ不自由などなかった。だが、ひとつだけ手に入れられなかったのが、ウマ娘の本能である《走る》ことで最も優れることだった。どんなに頑張っても1人や2人、どうしても前に出れないウマ娘はいる。私にはそれが悔しくてならなかった。」
窓のヘリに腰を預けて皇帝は語り続ける。なんというか、彼女のそういう崩れた姿を見るのは初めてだった。
「そして私は、《一番》になりたくてこの学園の門を叩いたのだ。―何年かが経ち、結果は実った。気が付けば皇帝と呼ばれ、7つの冠を頂戴し、この学園の生徒会長という要職にも就いた。私の求めていた《一番》がそこにはあった。だがそこには《シンボリルドルフ》としての私しかおらず、本当の意味での《私》は居なかった。結局のところ、いつでもどこでも、私は《シンボリルドルフ》という仮面をつけなければならなくなった。」
三日月の明かりにぼうっと照らされる皇帝は、今までに見たことのない、まるで年相応の少女のような表情をしていた。
「たまに、その仮面を外したくなるときが来るものでね、今まさに外れていたところだ。お恥ずかしいところをお見せした。どうか忘れてくれたまえ。」
見られていることに気づくと、すぐいつもの凛とした表情になり、彼女は去っていった。